慶應義塾

都倉 武之:メディアとしての建築──慶應義塾の建築が語るもの、そして神宮球場

公開日:2026.05.07

執筆者プロフィール

  • 都倉 武之(とくら たけゆき)

    研究所・センター 福澤研究センター教授

    都倉 武之(とくら たけゆき)

    研究所・センター 福澤研究センター教授

画像:竣工時の慶應義塾図書館(慶應義塾福澤研究センター蔵)

空間の記憶

学校の思い出は空間の記憶である。卒業生たちは、空間の記憶を共にする、ゆるやかな共同体ともいえる。机を並べた仲間でなくても同窓に親しみを抱くのは、同じ空間をともにした同志意識からであろう。キャンパスごと移転したり、同じ土地でも建物がピカピカに一新されたら、同じ看板が掛かっていても、途端に遠いものになってしまう。その意味で、学校の建物は、単に今いる学生生徒への教育のためだけでなく、そこに身を置いたことがある人々を世代を超えてつなぐ空間としてあり続けたときに、さらなる教育的広がりを生む。慶應義塾は、(経済的事情も大きいとはいえ)比較的に、建物を愛おしみ、大切にしてきた歴史を有するといえるであろう。

それでも建物と別れなければならないこともある。筆者においては、学生時代に歴史研究に踏み込んだ現場である三田キャンパスの旧南校舎が2009年に取り壊されたとき、深い喪失感に包まれた。すり減った木の手すり。鈍く光るドアノブ。木タイルのワックスのニオイ。廊下の灰皿。無用になって久しい帽子掛け。ガタガタと音を立てて開く窓。様々な音やニオイも伴った情景が建物とともに想起され、そこに先生や仲間とともに、かつての自分がいる。それが学校の記憶というものだ。部室であれ、グラウンドであれ。

建築の何を語るか

2024年に相次いで他界された慶應義塾出身の世界的建築家、槇文彦と谷口吉生。モダンデザインへの関心の高まりから再注目される谷口吉郎とイサム・ノグチ。戦前日本における最大最良と呼ばれた建築事務所、曾禰中條建築事務所が慶應義塾に残した建築群。そして福澤諭吉の時代から残る唯一の建築、三田演説館。慶應義塾は、明治、大正、昭和、平成、令和の建築が折り重なってキャンパスを成し、実に話題が多く、それらが多面的に語られている。

「建築から、ひとを感じる、まちを知る。」を理念として2024年に始まった、建築を「体験」する大規模なイベント「東京建築祭」には、昨年から三田演説館が特別公開、慶應義塾図書館旧館が特別展示の形で加わり、1日で3000名近い来場者を得て、建築に対する関心の高まりには、大変驚かされた。

この建築ツーリズムとも呼ばれるブームの背景には、建物の外観やその素材、空間などを思い思いに気軽に撮影し、SNSで共有するなど、「映(ば)え」を追求する若者を中心としたライフスタイルの広がりがまずあるであろう。さらには、建築様式や建築家、その芸術性などの見所に対する豊かな知識が教養として広く親しまれるようになり、さらにそれを観光資源として再発見して自治体などが活用するようになってきたことが下支えしている。

しかしそういったなかで、建築の歴史的文脈や思想的背景への関心は、まだ薄いようにも感じられるのが正直なところである。それを建てた人や使ってきた人たちの息吹とでもいうべきであろうか。

例えば三田演説館の開放に、多くの人が詰めかけ、特徴的な四半目地(しはんめじ)のなまこ壁や玄関のポーチ、迫り出さない軒や上げ下げ窓など、この建物の擬洋風建築としての特徴を深い関心を持って観察してくれることは大変うれしいことである。ただ、この建物が持つ近代史上の意味、つまり江戸時代まで自分の意見を口にすることなど許されないと思っていた日本人が、他者の前に立って、自らの意見を述べるという新しい習慣としての「演説」を創り出そうとした営為の場であることを感じ、深める、という機会になるところまでは至っていないかもしれないと感じた。福澤諭吉やその門下生たちの、この空間での模索は、日本におけるデモクラシー誕生の産みの苦しみと呼んでも良いものだったはずであり、来場者には、そのことも、建物の面白さとともに想起してもらえるようにしたいものだという、若干の歯がゆさのようなものを感じたのである。

慶應義塾図書館旧館においてもそうである。尖頭アーチやバットレスといった外観、クローバー、フルール・ド・リス(百合の紋章)などゴシックのデザインをつぶさに観察して明治最末期から、震災、戦災を越えて受け継がれてきた西洋建築としての真価を楽しむことだけで十分時間を過ごせる、誇るべき建築である。そこを1歩進めて、なぜこの建物が、この姿で慶應義塾に建っているのか、なぜ曾禰中條建築事務所が手がけたのか、といった意味を、今一歩踏み込んで考え、書いてみよう。

福澤諭吉と建築

これは昨年刊行した拙著『メディアとしての福沢諭吉』(慶應義塾大学出版会刊)になぞらえれば、「メディアとしての建築」とでもいえる視点であろうか。建築がそこにある、ということを、慶應義塾史や近代史上の文脈で考えることが、もっとできるのではないかということなのである。

まず、福澤諭吉から考えてみたい。実は福澤の周辺には建築にかかわる工学技術者が極めて多い。筆頭にあげるべきは、福澤の従兄の子、藤本寿吉(じゅきち)(1855-1890)である。福澤の世話で中津から東京に出て慶應義塾に学び、その後工部大学校造家学科(現東大工学部建築学科)で、ジョサイア・コンドルの2期生として建築家となった人物だ。建築家を含む近代の工学技術者たちを養成した工部大学校の初代校長は、福澤の適塾時代の同窓で、箱館まで新政府に抵抗した大鳥圭介だ。彼は福澤の後を承けて交詢社の2代目の常議員長にもなった。蘭学修業時代からの福澤の生涯の大親友宇都宮三郎は、国産セメントや耐火煉瓦の開発と工業化に成功した工部省の科学技術者であった。そしてその弟子が福澤の長女さとの夫、中村貞吉で、彼は工学技術者を養成する私立工手学校(現工学院大学)の初代校長である。福澤の長男一太郎の妻は、建築家大澤三之助の妹(ちなみに姉は宇都宮三郎の妻)であるし、福澤の次男捨次郎はアメリカで土木工学を学んだ…といった案配だ。

福澤の幕末の著作『西洋事情』初編(1866年)の扉絵には、蒸気機関の発明がもたらす、革命とも呼ぶべき世界の大変化の潮流が、印象的なイラストで示されており、そこには人間の活動領域の拡大を象徴するものとして蒸気船、蒸気機関車、熱気球とともに高いビルが描かれている。福澤は産業革命がもたらす人間社会の変化の1つとして、建築技術の進歩も明確に見ていたのであり、周囲の人々のつながりもまた、福澤の関心を示している。

藤本寿吉は、日本人建築家のさきがけのひとりとして、文部省庁舎(1881年)や箱根離宮(1886)などを設計した後、三菱で設計に従事する。そのかたわら、1887年に三田キャンパスに最初に建った煉瓦造の慶應義塾本館(旧塾監局、関東大震災で損傷し取り壊し)などの校舎の設計者となった。しかし残念ながら若くして病没してしまう。慶應義塾の建築は、その後、福澤お気に入りの千住の大工棟梁金杉大五郎の時代を経て、曾禰中條建築事務所の登場を迎えていく。

佐幕派の生き残り曾禰達蔵、米沢出身の中條精一郎

曾禰中條建築事務所は、1908年、曾禰達蔵(そねたつぞう)(1853-1937)と中條精一郎(ちゅうじょうせいいちろう)(1868-1936)によって開設された。まずこの曾禰という人が面白い。彼は江戸詰めの唐津藩士の家に生まれた。1868年、上野の山で新政府軍と旧幕府軍が衝突した時、彼は唐津藩の佐幕派として彰義隊に加勢しその後会津に敗走した1人であった。つまり「菊」ではなく「葵」の御紋と1度は心中しかけた人なのだ。彼は歴史家になりたかったが、没落士族が生き残る糧を得るために建築の道に進み、ジョサイア・コンドルの1期生となった。同期には、東京駅の辰野金吾や迎賓館の片山東熊がいることからわかるように、彼は明治政府の建築家としての道を歩めば、国家的建築を担当する将来があったはずだ。しかし彼は官界での冷遇と、そしておそらくは元佐幕派としてのわだかまりもあって官を辞す。民間に転じ、恩師であるコンドルが顧問として勤務していた三菱に、ちょうど病没した藤本の穴を埋める形で入社する。そして丸の内のビジネス街──いわゆる一丁倫敦(いっちょうろんどん)──の建設に加わるのである。

ここで出会うのが三菱の重鎮だった荘田平五郎阿部泰蔵(明治生命創立者)という2人の福澤門下生であった。慶應義塾評議員会の長を務めた荘田と阿部が、校舎建設を曾禰に依頼することを端緒として、慶應義塾との縁が開けていくのである。

中條精一郎は曾禰よりも15歳若いが、やはり「こっち」の人だ。彼の出身は、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主だった米沢藩である。父親の代からの親交を結んでいたのが池田成彬、慶應義塾出身で後の日銀総裁、そして慶應義塾評議員会議長となった人である。

図書館建設と「葵」のカゲ

曾禰達蔵と中條精一郎が、民間への最新の良質な建築の普及に踏み出した建築事務所開設から間もない作品が慶應義塾図書館旧館だ。この建築は、巍々たるレンガ建築が立ち並ぶ官立大学に比して、ほとんどが木造校舎だった貧弱な私立学校としての慶應義塾が、創立50年記念で集めた渾身の寄付金で作り上げた血の出る思いの建築であった。それをおくびにも出さない軽やかで華麗な美しさが特徴である。それは明治政府の機関ではない私立としての矜持を内に秘めているのである。

その設計は、1906年に竣工した上野の帝国図書館(現国立国会図書館国際子ども図書館)への対抗も意識され、防火性と機能性を徹底的に研究し、さらに入館料を払えば誰でも利用できる画期的な公共図書館として計画された。

1912年5月18日、慶應義塾図書館の落成式が大閲覧室で行われた。そのときの来賓は、日本図書館協会長のほかは、なんと徳川家第16代当主徳川家達(いえさと)(ただし当日皇室関連の急用で欠席)と、紀州徳川家当主の徳川頼倫(よりみち)である。そして初代図書館監督(館長)田中一貞は、奥羽越列藩同盟中でも最強を誇った庄内藩出身! 図書館員は庄内出身者が占めて庄内閥と言われた。

開館式で演壇に立った塾長の鎌田栄吉は言った。

「学校教職員は無論の事、学校生徒は無論の事、学校に関係のある人も塾員の人々も、皆心を一にして、さうして此学校を維持して行かう、此学校を発展せしめて行かうと云ふ、此熱誠の凝固(こりかたま)ったものが即ち学校の生存となって居るのである。……同志の刻苦より出来て居ると云ふ此感覚が、毎日毎日諸君の頭の中に何等かのインスピレーションを与へて居ると云ふことは、どうしても立派な人物を生まざるを得ない、呆(ぼんや)りしては居られないと云ふことになるのである。」(「私学の発展」、『慶應義塾学報』1912年6月)

このように見ると、慶應義塾図書館は、慶應義塾の私立としての闘争の塊であり、その開館は45年後の官軍vs旧幕府軍の戦いにさえ見立てることができる。

信濃町も日吉も

その後の慶應義塾の建築も「戦い」の連続だ。1919年開設の信濃町キャンパス(当時の呼称は四谷校舎)は、福澤の助力なくして日本で研究を継続できなかった北里柴三郎を医学部長・病院長として迎え、彼を日本の医学界から締め出そうとした東京帝国大学医学部の権威主義への対抗心に溢れている。北里四天王の1人に数えられる北島多一(後の2代目学部長・病院長)は、設計の趣味があり、自ら参加して工夫を凝らした病院は、①患者が入りやすい、②診療各科間の連絡が良い、③各教室内に良好な関係が作りやすい、④基礎医学と臨床医学の連携を図りやすいといったことを意識的に心がけて設計された。すなわち帝大病院の逆張りである。そして医院建築に精通した曾禰中條建築事務所の高松政雄が担当し、セセッション様式やフランク・L・ライトの影響も受けた、垢抜けたハイカラな病院となった。残念ながらこの病院は、空襲で焼失し正門の欠片が残るだけで、ほかに同事務所の建築としては1929年の予防医学校舎を残すだけである。

では1934年に誕生した日吉キャンパスはどうか。三田の機能を分散させるために、郊外に理想的学園の建設を夢見た慶應義塾において、このキャンパスを担当した常任理事は槇智雄。そう、槇文彦の伯父である。そして槇家はすでに2代前から慶應義塾に学んだ長岡藩士の家系であり、その親族には戊辰戦争で片目を失い明治初期の慶應義塾で隻眼の塾監(舎監)として恐れられた渡部(槇)久馬八といった猛者もいた。

曾禰中條建築事務所は、日吉の設計を駆け出しの建築家網戸武夫(あみとたけお)に担当させた。彼は、本郷や駒場で重厚な「内田ゴシック」が続々と建設される中にあって、また、かたや建築界ではモダニズムの潮流が沸き起こり、平滑で装飾のないシンプルなデザインが流行しつつある中で、歴史のロマンと、若々しく明るい青春の満ちた空間の創出を夢見て、伝統に則った古典主義でも、合理性と機能性に徹したモダニズムでもない、コンクリートの白亜の建築群を提示していく。それが現在の第1校舎(慶應義塾高校校舎)や第2校舎である。

この、ある意味で挑発的な建築に、義塾の反応は必ずしも芳しいものではなく、校舎建築の機能美を追求していた気鋭のモダニズム建築家谷口吉郎に目をとめた。そして彼と事務所の協同設計によって、1937年に幼稚舎本館を生み出したところで、中條と曾禰の相次ぐ死を迎えて、曾禰中條建築事務所と慶應義塾の30年近いランデブーは終幕する。

少なくとも戦前の慶應義塾の建築には、こういった闘争性が秘められた物語を描き出すことができる。──このように慶應義塾の建築を見てみるのは、いかがであろうか。谷口吉郎とイサム・ノグチ、そして盟友槇文彦と谷口吉生(吉郎の子)による、戦後の慶應義塾の建築をめぐる物語は、これに続くものとして紡がれていくのだ。

神宮球場建て替え計画に想う

空間の記憶は、時にキャンパスを飛び出す。慶應義塾に、あるいは早稲田大学に通った者にとって、神宮球場もまた校舎同然の歴史を有するといえるかもしれない。同じ空間をともにした記憶が蓄積され、それぞれの学校の文化が紡がれてきた。神宮球場なくして今日の慶應義塾の学風はない。その球場は数年後に解体され、異なる場所に同じ名前の別の球場ができる。

この点、1924年竣工の甲子園球場の改修が想起される。甲子園ではドーム球場化構想を軌道修正し、「歴史と伝統の継承」を掲げて、2006年から2010年にかけて段階的に改修工事を実施。座席の拡幅や通路の増設、内部施設の拡充などが図られた。

いまの甲子園球場のどれほどが、戦前からのオリジナルであるか。そこにある、物質としての建築の真正性を突き詰めれば、竣工時からの同一性はかなりフィクションと言えるかもしれない。しかし100年にわたって、同じ場、同じ空間で紡がれた歴史を繋がっているものとして引き継ごうと志して計画され、実際我々はそれを同一のものと認めている。神宮球場において、空間という意味において、その継承が試みられなかったのは、非常に残念に思われるのだ。1933年のリンゴ事件の現場となった水原茂の守っていた3塁は、今の神宮球場の3塁である。早慶六連戦で初めてチアリーダーが登場した3塁側応援席は、今の3塁側応援席である。しかし新球場において、それは明らかに別の3塁であり、別の応援席だ。東京六大学野球の100年に及ぶ歴史のほぼ全ての舞台であった空間は、失われてしまうのだ。それは秩父宮ラグビー場についても同じである。

建築は、いま生きる我々に資するものであるとともに、過去から未来へと記憶を繋ぐ空間でもある。過去から未来へと人を繋ぐ教育機関において、建築をどのように継承していくかは、単に合理性や機能性の指標だけではなく、この歴史観を持つことが重要だ、考えさせられるのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。