登場者プロフィール
後藤 治(ごとう おさむ)
尾谷&パートナーズ顧問、元工学院大学総合研究所教授1984年東京大学工学部建築学科卒業。1988年東京大学大学院工学系研究科博士課程中退後、文化庁入庁。99年工学院大学工学部助教授、2005年同教授、2018~26年同総合研究所教授。26年より現職。専門は歴史的建築物の保存活用。
後藤 治(ごとう おさむ)
尾谷&パートナーズ顧問、元工学院大学総合研究所教授1984年東京大学工学部建築学科卒業。1988年東京大学大学院工学系研究科博士課程中退後、文化庁入庁。99年工学院大学工学部助教授、2005年同教授、2018~26年同総合研究所教授。26年より現職。専門は歴史的建築物の保存活用。
白井 良邦(しらい よしくに)
神原・ツネイシ文化財団理事、ひろしま国際建築祭総合ディレクター1993年、株式会社マガジンハウス入社。98年より雑誌『Casa BRUTUS』創刊準備に携わり、同誌副編集長を務める。2017年せとうちクリエイティブ&トラベル(現せとうちクルーズ)代表取締役を経て、24年より現職。元慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授。
白井 良邦(しらい よしくに)
神原・ツネイシ文化財団理事、ひろしま国際建築祭総合ディレクター1993年、株式会社マガジンハウス入社。98年より雑誌『Casa BRUTUS』創刊準備に携わり、同誌副編集長を務める。2017年せとうちクリエイティブ&トラベル(現せとうちクルーズ)代表取締役を経て、24年より現職。元慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授。
藤本 貴子(ふじもと たかこ)
その他 : 法政大学デザイン工学部建築学科専任講師総合政策学部 卒業塾員(2003総)。国立近現代建築資料館建築資料調査官等を経て、2024年東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究専攻博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。25年より現職。近現代建築アーカイブズの理論・手法・実践に関する研究を行う。
藤本 貴子(ふじもと たかこ)
その他 : 法政大学デザイン工学部建築学科専任講師総合政策学部 卒業塾員(2003総)。国立近現代建築資料館建築資料調査官等を経て、2024年東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究専攻博士後期課程単位取得満期退学。博士(文学)。25年より現職。近現代建築アーカイブズの理論・手法・実践に関する研究を行う。
渡部 葉子(司会)(わたなべ ようこ)
研究所・センター アート・センター教授ミュージアム 慶應義塾ミュージアム・コモンズ副機構長塾員(1985文、88文修)。東京都美術館、東京都現代美術館学芸員を経て2006年より慶應義塾大学アート・センター勤務。10年より同教授。同センターで展覧会企画やアーカイブに関わるプロジェクトを展開。専門は近現代美術。
渡部 葉子(司会)(わたなべ ようこ)
研究所・センター アート・センター教授ミュージアム 慶應義塾ミュージアム・コモンズ副機構長塾員(1985文、88文修)。東京都美術館、東京都現代美術館学芸員を経て2006年より慶應義塾大学アート・センター勤務。10年より同教授。同センターで展覧会企画やアーカイブに関わるプロジェクトを展開。専門は近現代美術。
画像:《全日本海員組合本部会館》ホール、設計:大髙正人、改修工事設計:野沢正光建築工房、撮影:中川周
建築人気の背景とは
今日は「歴史的建築」とはどういうものか、ということをめぐって皆様と討議していきたいと思います。
慶應義塾が創立150年を迎えた2008年から、慶應義塾大学アート・センターでは「慶應義塾の建築」というプロジェクトを続けています。「ユーザー・マインドの建築アーカイブ」というテーマの下、"学校における建築"の視点で記録化したり、アーカイブの公開を通して建築リテラシーを高めてもらう活動に取り組んできました。
毎年秋には建築の見学日を設け、《旧ノグチ・ルーム》等を公開していますが、最近、参加者の中に学生などの若い世代の姿が多く見られようになってきました。世の中で建築に対する興味が拡がっているのを感じます。現在の建築人気について、これはどのようにして起きているのか。後藤さんからお考えをお聞かせいただけますか。
普段あまり考えることのない話題ですが、若い人の間で建築人気が拡がっている理由を自分なりに考えてみると2つあるように思います。1つは、友人たちと家ではなくカフェなどで交流する文化が拡がっていること。私はすでに学生の指導から離れていますが、かつての研究室メンバーにも"カフェめぐりが好き"という学生が結構いました。自分の感性に響く身近な空間を求め、それが高じて建築が好きになるのかもしれません。
もう1つはヨーロッパなどと違い、「芸術」と呼ぶものの中に建築が含まれずにきた日本の事情があるように思います。今は建築家の展覧会も増えましたが、昔は芸術的な観点で親しめる機会は限られていました。その中で最近はSNSの影響もあって、若い人の間で建物やインテリアが絵画や彫刻、音楽と同じようにも受け入れられているように思います。
今の建築人気の背景には、そうした変化があるように思いました。
有り難うございます。白井さんはいかがでしょうか。
私は編集者としてライフデザイン誌の『Casa BRUTUS』に創刊から関わってきましたが、大学で建築を学んだわけではありません。仕事をきっかけに、本格的に建築に関わることとなりました。
『Casa BRUTUS』創刊以前、私がもともといた『BRUTUS』の編集部では年に3、4回の頻度で建築やデザインの特集を企画していました。インターネットが普及し始める1995~98年頃、建築雑誌はまだ、専門書の売り場に行かなければ手に入らないものでしたが、『BRUTUS』の建築特集は他の号に比べてとても売行きがよかったのです。当時の編集長だった私の上司がここに潜在的なニーズを見出して創刊したのが『Casa BRUTUS』です。
その後、四半世紀の間に、一般の人が建築を見に行ったり、レストランやホテルにもデザイン性を求めるようになりました。「衣食住」の中の「衣=ファッション」と「食=レストラン」はバブル経済によって日本にも一流の物が入ってきました。しかし、「住」にあたる建築やデザインは一般の人の憧れを満たすほどではなく、それを『BRUTUS』や『Casa BRUTUS』が引き受け、興味を誘発したのではないか、というのが当時の編集長の分析でした。
建築人気の背景がとてもよくわかるお話です。藤本さんはいかがでしょうか?
私も学生時代に建築を学んだわけでないのですが、以前、建築家の秘書を務めていた時に建築の資料に関心を持ち、現在、設計図などの建築資料のアーカイブズを専門に研究しています。『Casa BRUTUS』が創刊されたのは、私が湘南藤沢キャンパス(SFC)の学生だった頃です。メディアの影響は大きく、当時、SFCの学生の間でも「建築は格好いい」というイメージがありました。
建築の資料は活用する人が限られますが、これまでは建築史研究者の問題意識や必要性から保存されてきた経緯があります。その中で私は最近、資料の"活用"の部分でいかに建築物に関わる人々を巻き込めるかを考えています。建築人気とともに建築アーカイブズへの関心の高まりも実感されますが、資料と建物を相補的に扱うことで建物にさらに興味を持ってもらえるのではないかと期待しています。
学生たちの建築への関心
慶應の学生の中でも、最近は建築に対する関心が見られるようになりましたね。15年ほど前は建築に興味がある学生と言えば、"かなり興味がある"人たちに限られていました。でも最近は「《三田演説館》の建物が特別に見られるよ」と言うと気軽にやってきます。
三田キャンパスの図書館は、曾禰中條建築事務所が設計した《旧館》(1912年、重要文化財)と槇文彦さんが設計した《新館》(1981年)がありますが、三田の学生たちの間でもキャンパスの建築を設計した建築家の名前が知られるようになっています。建築が鑑賞の対象にもなっているのは、「単なる学校の施設」と思われていた時代と比べると大きな変化です。後藤さんがおっしゃるように、SNSなどを通して建築が身近になる動きは文化財的な関心にもつながっていったりするのでしょうか。
文化財に関心を持つようになるのは専門的な勉強に入ってからの話ですね。今はむしろ、インテリア用品やDIYパーツの店が増えており、そういうものから興味を持ち始めるようです。私が指導した学生の中でも比較的最近の世代になるほど、こうしたことにこだわって、自分の部屋をコーディネートすることに関心を持つ学生が増えています。
そういうことへの興味が高じると、将来的に「こだわりのある施主」になってくれそうだという期待も出てくる。それは建築業界にとってハッピーなことだと思うんです。建物に関心を持つ層が増えることは建築の質を高めることにもつながるからです。
その一番わかりやすい例が茶室かもしれません。近世の武将たちは建築に非常な興味を持ち、こだわりの茶室を作らせました。口うるさい施主だったと思いますが、こうした自分好みの空間を見てもらいたいという思いがいずれ現代に復活するかもしれません。
藤本さんは建築学科で教えているので学生の関心を肌で感じるところもあると思いますが、いかがですか。
後藤さんがおっしゃるように、今はかつて「大文字の建築」と言われたような理念的な建築観ではなく、もっと個人的な思いや身近な問題意識からアプローチする学生が多いように思います。それと同時に、建築を学んだとしても皆が著名な建築家になれるわけではないので、建築に理解のある1人の人間として社会に関わってもらうという方向性も重要なのかと思います。
白井さんは長い間『Casa BRUTUS』の編集を手がけてこられましたが、やはり読者の関心の変化を感じてこられましたか。
そうですね。私は2021~25年度にSFCの特別招聘教授として、「建築メディア論」という講義を担当していました。編集の仕事で得た知識を通して建築の魅力を知ってもらおうと、毎週1コマ、テーマを変えて建築についてお話ししました。私自身も著名な建築が壊されることに危機感を抱いていたこともあり、モダニズム建築の保存の問題も具体的な例とともに話しました。
どのような学生が受講していたのでしょうか?
約150人が受講した中で、将来建築の仕事に携わりたいという学生は20人ほどでした。授業への感想には、自分が何に関心を持ち、大学でどんなことに取り組んでいるのかを書いてもらいましたが、建築志望ではない学生がほとんどでした。
ただ、印象的だったのは町おこしや地域再生、町並みづくり等に関わりたいという学生が多かったことです。そうした仕事においても建築は大きな役割を果たすので、建築の歴史を知ることは大切です。私の講義では法律や経済の仕組みの側面からも話して、考えてもらうきっかけを作りました。
建築への共感はいかに生まれるか
日本では建築が芸術に含まれないというご指摘がありましたが、絵画や彫刻と違い建物には機能があります。すると、たとえ名建築でも性能の劣化による解体の危機とは常に隣り合わせだと思います。文化財としての建築は後藤さんのご専門ですが、このことはどのように考えればよいでしょうか。
「物理的に寿命がある物をなぜ残すのか」という質問を学生からよく受けます。その時に言うのは、建築の長い歴史の中で"壊す選択"が自然だと思うのは、20世紀以降の人だけだということです。それ以前の時代は壊して造るほうがよほど大変で、使い続けるのが自然な考え方でした。逆に今、建て替えるのが自然と考えるようになったのは政策的な動機付けが入っているからですが、こういう時代だからこそ、反対方向の力として文化財保存制度が必要だと思うのです。
傾向としては、多くの人の共感を得て価値を認められた建物ほど、どう手を入れていいかが難しい。かわりに税金を使って残してもOKとなりやすい。逆に共感を得られにくい建物は、いくら制度が整っていても保存の方向に向かいません。
建築が残されるかどうかは、共感度が大きなファクターになるということですね。
そのとおりです。あるいは、大学のキャンパスのようにマスタープランを作成する大規模な計画では、最初に「これは大事な建物」と印を付けると、その後大切に扱われるようになります。多くの人に共通認識を持ってもらう仕組みづくりはとても大切です。
20世紀以降、建替えなどによる機能の更新を経済的にも応援する仕組みが生まれました。そうした中で文化財保護の制度を機能させるためには、まず立ち止まって考えてみることがとても大事だと思います。
確かに、立ち止まるとか保留しておくことが難しいのが現実ですよね。
建物に"印を付ける"例は、三田キャンパスで言えば明治期に建てられた《三田演説館》(1875年)や《図書館旧館》などが当てはまると思います。その一方で、戦後すぐに建てられた谷口吉郎による多くの建築は、1つも残っていません。一般に20世紀前半のモダニズム建築や1950年代の建築は価値の見きわめが難しいという問題もあります。文化財的価値をどこに見出すかというところでそれ以前の時代の建築とも違いがあり、共感できるポイントも変わるように思います。
建築アーカイブズが共感を引き出す
近年は比較的新しい建築が重要文化財になるなど保存の対象になる例が増えていますが、藤本さんは、建築の保存におけるアーカイブの役割をどう捉えていますか?
建築の資料や記録は、共感のもととなる建物への関心を支えるものだと思います。その例として、最近、港区の《全日本海員組合本部会館》(1964年)が保存されることになりましたが、きっかけとなったのは、設計者の大髙正人のアーカイブ資料を展示する企画でした。私は資料整理に携わり、その過程でこの建物が現存していることを知ったんですね。
所有者の全日本海員組合にお願いして建物を見せていただいたところ、今も丁寧に使われていることがわかりました。そこで、この建物を展覧会開催に合わせた見学会・シンポジウム会場として利用させていただきたいと持ちかけると、解体が検討されていたことも明らかになりました。シンポジウムでは、大髙の初期の作品としてこれが重要な建物であり、管理状態の良さを評価する声が建築業界から多く寄せられました。これにより海員組合の中で「残すことができるなら残そう」という方向に転じ、展覧会に関わった大髙の弟子筋に当たる建築家とマッチングさせることができました。そうして、オリジナルを尊重しながら基本性能を高める改修が実現しました。
過去の資料と専門家の声が所有者の共感を呼んだのですね。
そのとおりです。改修計画においては資料がとても役立ちました。
海員組合とは海事関連産業で働く人々の労働組合で、もともと神戸にあった100年以上の歴史を持つ組織です。戦後、東京に移転することとなりましたが、大髙が設計を担当することになりましたが、改修の過程では、建物の来歴を過去の資料からたどり直すこととなりました。それにより、所有者がこの建物を使い続ける意義や、自分たちのアイデンティティに直結するものであることを改めて実感してもらうことができました。
新築時の施主や建築家の熱い思いは、時間が経ち、使いづらさが感じられると途切れてしまうことがあります。そうした時に資料や歴史的な視点、専門家の知見が加わることによって、建物と人々の間に再び共感を取り戻すことができるというのが、このプロジェクトで学んだことです。建物を残すために、使い手や持ち主の共感を支えることはとても重要です。
大変面白い視点を投げかけていただきました。建築的に重要だから、という理由だけでは残らないのですね。白井さんはいかがでしょうか。
モダニズム建築は装飾がなく、すっきりした印象があることで文化財として認められにくい側面はあると思います。その意味で対照的なのは丸の内エリアに立つ《明治生命館》(1934年)と《東京中央郵便局》(1931年)です。歴史様式の《明治生命館》は重要文化財になっていますが、完成したのは《東京中央郵便局》よりも後です。モダニズム建築の《東京中央郵便局》は2013年に外壁とその内側の一部がかろうじて保存されましたが、全部壊してしまうという話が出ていたわけです。
《東京中央郵便局》は旧逓信省の建物として日本の近代化に大きな役割を果たしました。時代の要となった建築に解体の危機が訪れたのは郵政民営化にともなう財政的な事情もあったと思いますが、あの建物が部分保存に留まったことは一般の人の共感を十分に得られなかったこともあるのではないかと思います。
モダニズム建築が共感を得るには
『Casa BRUTUS』ではモダニズム建築に関する特集を組んでいますね。
DOCOMOMO Japan(ドコモモジャパン)(モダニズム建築の記録と保存に関する国際組織の日本支部)が国内の主要作品100選を定めた2004年の9月号で、「世界に自慢したい!ニッポンのモダニズム建築100」という特集を組みました。
2015年1月号でも「ニッポンが誇る名作モダニズム建築全リスト」と題した特集を組みましたが、こちらは1964年の東京オリンピックの頃に完成した《ホテルオークラ》が、2020年のオリンピックを前に解体の危機に直面していた時期に企画したものです。これらの特集は月刊誌としての販売が終了した後もムックとして再刊し、この他にも保存や解体問題の記事を継続的に扱ってきました。
《全日本海員組合本部会館》の例を見ても、建築を残すための議論は大きく変わってきているのを感じます。かつては建築家の知名度が重要な要素として受けとめられていましたが、今はむしろ、建築そのものの生い立ちや建築が辿った歴史が共感を生むことに寄与しているように思います。
その点で、《東京中央郵便局》も東京駅丸の内口という立地によって、上京した人たちにとっても、丸の内界隈で働く人たちにとってもランドマークとして印象づけられていたはずです。
その後の建築の命運を分けるという意味では、社会的存在として建築が認識されているという要素は大きいように思いますが、後藤さんいかがでしょうか。
そうですね。《東京駅丸の内駅舎》(1914年、復原2012年)が残ったのも、思い出を持っている人たちが多かったからだと思います。保存運動に関わった人たちは私よりも年長の世代ですが、共感を呼んだのは辰野金吾の作品だからとか、意匠が優れているといったことよりも、「地方から出てきた時にこの建物を見て東京を感じた」という人が圧倒的に多かったからでしょう。
ところが、私の世代やそれよりも若い世代の中には「東京駅の歴史は戦災を受けてからのほうが長かったのだから、ドームを復原するのはナンセンスだ」と言った人も多くいました。そういう人たちには保存運動に取り組んだ人たちのことが見えていないようにも思えます。駅舎の保存を支えたのは、戦前の東京駅に熱い思いがある人たちであり、その人たちのことを考えると、今の姿に再生されたのはとてもよかったと思います。
歴史的文脈から建築の価値を問う
建物の価値を個人史と結びつける見方が生まれているのですね。
そうですね。文化財的な価値は必ずしも建築的価値と同じではありません。建築保存の文化財特定に「Architectural(建築的)」と「Historical(歴史的)」の2つのカテゴリーがあり、「Historical」のほうが重要とされていますが、日本ではそちらはあまり強調されません。
文化財保護法の観点でいうと、「Architectural」は「重要文化財建造物」の分野、「歴史的」は「史跡」の分野になっています。海外では「Historical」の最も顕著な評価基準は人物や事件で、著名な人が使った場所や、歴史的な事件が起こった場所がとても大事にされます。ところが、第2次世界大戦で敗戦した日本では「史跡」の比重が考古学の領域に移ってしまいました。
史跡の指定に近代史の評価軸を取り入れることにはまだ難しい面があります。ですが、そろそろ第2次世界大戦の敗戦や戦後復興も歴史として記憶に残す方向に転じれば、評価の仕方はもう少し変わるように思います。
外国ではかつて著名な人が住んでいた家などにプレートが掲げられていますね。建築的に優れた建物でなくとも、著名な作家がこの部屋で小説を書いたという事実の前で、窓1つにも意味が生じることはありそうです。
建築史家の藤森照信さんは「動物のうち、昔を懐かしむのは人間だけなのだから、歴史は大事にしないといけない」とおっしゃっています。とても面白い視点だと思います。
人間を人間たらしめている所以ということですね。SFCの学生が町並みや景観といったことに関心を寄せているのは、単体の建築よりも大きなレンジで物事に関わることで、「Architectural」よりも「Historical」のほうに関わりたいという思いの現れかも知れません。
SFCでモダニズム建築の保存について講義をする時には、まずクイズを出すようにしています。帝国ホテルの隣りが、ある建物の跡地であることを写真で示し、「昔ここに立っていた建物は何でしょう」と尋ねるのです。
その答えは《鹿鳴館》(1883年)で、近代日本の外交の舞台となった建物ですが、《鹿鳴館》は英国人建築家のジョサイア・コンドルが設計し、太平洋戦争直前に取り壊されます。このことを嘆いた谷口吉郎が新聞に寄稿し、《博物館明治村》誕生のきっかけにもなったわけです。
今の時代からリベラルに考えれば、建物を残しておいたほうが日本の近代史にとってよかったと思うんです。フランク・ロイド・ライトの《帝国ホテル(第2代)》(1923年)もその後壊されてしまいました。《帝国ホテル》の解体が始まった1967年頃、日本は沖縄返還を控えていましたが、当時の佐藤栄作首相が訪米の際、「なぜ帝国ホテルを壊すのか」と現地の記者から予想もしなかった質問が飛び出しました。
こうした温度差には建築文化に対する姿勢の違いもあると思いますが、歴史的文脈の中で建築の価値を考える意義はもっと見直されてもよいと思います。
そうですね。それもまた「Historical」な価値だと思います。
《東京中央郵便局》もそうですが、こうした建築は日本人が近代国家を頑張ってつくってきた歴史の現れなので、写真などではなくて実際に体感できる場所があってもよいはずです。
建物への愛着を継承すること
若い人が町おこしや町並みづくりに関心を持っているというお話は示唆的ですが、町に関わろうとすると、どうしても地域の歴史と向き合うことになりますよね。
"歴史的建築"の視点から町並みづくりに関わる時に、2つの重要な視点があります。1つは、町並みにはさまざまな時代が重なっているという視点です。これからの時代も町の歴史の1ページになるので、ある時代を切り取った姿を復原することが果たして正しいのかどうか……。
もう1つの視点は、ハードだけを保存整備してもそこに営みがなければ魅力は生まれないということです。営みには商売や産業だけでなくさまざまな種類があり、そこで行われるイベントも含めてソフトとハードの相乗効果が魅力を生み出します。魂が入らないと映画のセットのようになってしまいます。
営みを共有するということについて、建築アーカイブの視点ではどのように捉えられるでしょうか。
実は、建築アーカイブズはこれまで建築史の研究者が建築家研究に力を入れてきたことから意匠設計者の資料に偏っている側面があります。建築家の意匠設計図が重要視され、構造・設備図などは処分されてしまったり、整理が後回しになるといったこともありました。
ただ、建築の使い手にとって建物の始まりは竣工してからなので、それ以降の資料は使い手の下に残っていることもあります。どこにフォーカスして資料を残すのかというのは、建築アーカイブズの今後の課題です。
建築史研究者目線のアーカイブ保存は"作品としての建築"に重点が置かれてきたのですね。そうした考え方は大事ですし、それによって日本の建築家が高い評価を得てきた面はあると思いますが、その一方で、建物が残る最終的な決め手となる「共感」は、その後の建築物の使われ方によって決まるところが大きい。所有者や管理者が持っている資料が建築に対する"共感"の部分にフィードバックされるのではということですね。
谷口吉郎は慶應の建築を数多く手がけた建築家ですが、中でも1937年に造られた幼稚舎の《本館》は今も現役で使われており、先生や児童たちにものすごく愛されています。
私も拝見しましたが、とても良い建築です。
記録のために撮影しに行くと、多くの先生方が口々にお気に入りのディテールを教えてくれます。毎日使っている人にこれほど愛されているなら、建て替えられる心配はないと感じます。共感は建築の使われ方にも現れると思いました。
《全日本海員組合本部会館》の建物もとても丁寧に使われていたというお話でしたが、そのあたりのことをもう少し聞かせていただけますか。
船乗りにとって船の維持管理・清掃は生命に関わることなので必須です。船乗りの労働組合の本部である建築がきれいに保たれてきたのも同じことだ、という話を組合の方から聞き、得心しました。一方、この建築の地下には見事な大会議室があるのですが、実は採光のためのサンクンガーデンに(地下に掘られた屋外空間)は完成してから十数年後に増築がされてしまっていたのです。それによって採光が遮られてしまい、利用する人たちには薄暗くて怖い会議室というイメージを持たれていました。そこで竣工当時の資料をお見せしたところ、「こんなふうに見事な空間に戻せるなら改修をしてもいい」と言ってもらうことができました。オリジナルの意図を理解してもらい、メンテナンスし続けてもらうのは難しい問題です。
日本人は建物に興味がある人が少ないせいか、使うのが上手ではないように思います。大事なところに室外機を置いたりして空間の良さを損ない、結果として愛着を持てなくなることがあります。改修が必要な時にはオリジナルの意図を理解する専門家を頼ることができる社会にならないと、無残な状態で壊されてしまう例は今後ますます増えそうです。
明るく気持ちの良い空間は使う人にとって大切な要素ですよね。機能的には手狭だから増築しようといった時に、そうした気持ち良さは残したいという判断ができるかどうかは重要です。建物の仕組みを熟知しているということとは別種の建築リテラシーが必要なのかもしれません。
記憶のスイッチとしての学校建築
幼稚舎の例が出ましたが、実は、学校建築の更新は難しく、同時に面白いテーマでもあります。建物の保存は普通、陳腐化した性能を上げなければならないため、新しく手を加える部分が多く出てきます。例えば空調設備を最新のものにしたりです。
更新が難しい理由は、手を加える中で先生や卒業生の思いが損なわれる可能性があるからです。例えば「ここは大先輩の○○さんが学んだ場所なのに、どうしていじったのか」という話が出てくる。まさに「Historical」な部分が詰まっているというわけですが、学校建築は良い意味で「こだわる施主」が多く、そのため、壊してしまう判断には至らず、比較的残りやすいタイプの建物であるとも言えます。
学校はある一定の期間に同年代の大量の人が共通の体験をするという意味でも特殊なタイプの建築ですね。教室はさまざまな記憶のスイッチになっており、1歩入るといろいろなことを思い出す場所でもあります。建築的にはありふれた1枚の扉も、個人の記憶と直結する重要な要素だったりします。
そういう空間に置かれている机や椅子といった家具が、実は自分たちの先輩でもある槇文彦さんの関わったデザインだった、ということがわかると、学生たちもそれらが使い続けられている理由がわかるし、家具と建築が調和していることに目が留まることもある。
その一方で、こうした家具は備品でもあるので、使いづらいといった声が増えるといつの間にかすべて入れ替えられてしまい、オリジナルにアクセスできなくなる怖さもあります。後藤さんの言うように、一度立ち止まって考えてもらうことができれば、壊すか、残すかという二者択一ではない対応もあり得ると思います。
いつの間にかなくなっていた、という例を聞くと、儒教的な考え方のようですが、先人を敬うことを忘れているのではないかと思います。日本は戦後、高度経済成長を経験したことでスクラップアンドビルドを繰り返すことを肯定的に捉える傾向が強く、先祖が残してくれた貴重な物を大事にする文化を取り戻さないとさすがにまずいのではないかと思います。
最近、幼稚舎の講堂として使われている谷口吉郎設計の《自尊館》(1964年)を壊すかどうかの議論があったことを聞きました。建物に思い入れがある卒業生は保存に賛成なのですが、建物が建つ以前のことを知っている世代も健在で、その方々にとっては建物が建つ以前の雑木林の状態が原風景になっているそうです。当時に戻してほしいという声も挙がったと聞きます。
後藤さんにお訊きしたいのですが、Historical なものを評価する時に、いろいろな記憶が重なる中で何を選ぶかという議論は、建造物を残す時にしばしば起こるものなのでしょうか。
私はあまり経験したことがないですが、確かに起こり得る話ですね。
アーカイブズを公共的な遺産として扱う場合も、誰の記録が正しいか、誰の記憶を表象している記録なのかといったことはしばしば議論になります。そういう視点からも《自尊館》の議論は興味深く思いました。
また、これに近い例を、三田の聖坂にある《普連土学園》でも聞きました。私は、この学校を設計した大江宏のアーカイブの整理・運用を行っていますが、大江が設計した現在の中学校舎は1968年に完成したので、それ以前のことをご存じの方も健在です。建設以前の様子を知るご婦人が今の姿を見に来られ、「自分の知っている校舎がない」と嘆息していたそうです。
過去の"A地点"と"B地点"の思い出のどちらが大事か、という議論は出口がなく、あまり好ましくないと思うんです。大事なのは、どちらを選べば今のユーザーが愛着を持てるのかという視点。どちらかを選ぶにしても学校の歴史に1ページを加える行為に変わりはないので、現代の観点を加えて話したほうがおそらく生産的です。
世代間論争になってしまうのでしょうね。とくに学校建築は誰もが濃密な関わりを持つので、象徴的な建築の群は世代ごとに違います。おそらく多くの人の中に建築をめぐるとても豊かなアーカイブがある。
何かを復原する時に、最終的にある時代を切り取るという決断をするにしても、そこに至るまでの議論の豊かさを丸ごとアーカイブできたらいいのにと思います。そうすれば、2026年の時点では結果的にこう選択したけれど、100年後に同じ課題に直面した時にはかつての議論を踏まえて物事を考えることができる。「アーカイブ」は古いものを整理する活動だと思われがちですが、現在や将来の議論にも生かされるものですよね。
そうですね。建築アーカイブズをそのようなものとして受けとめられる社会になってほしいです。
建物に対する思い出の深さは人それぞれですが、これこそが他の芸術にはない建築の面白さだと思います。もちろん絵画や彫刻でも近いことはあると思いますが、記憶が対象の本質と深く結び付くのは、建築だからこそなのではないでしょうか。
大規模都市開発をどう捉えるか
都市部で進む大規模開発の問題も皆さんとお話ししたいテーマです。町並みは歴史や時間の連なりと向き合わざるを得ないものですが、都市開発は「Historical」の部分を根こそぎキャンセルするような活動です。文化財として、あるいは社会的な存在としての建築を考えると、絶望的な気持ちになってしまいますが、後藤さんはどのように捉えていますか?
現在の都市開発はいまだ20世紀のスキームを脱していないと思っています。個人的に良い兆しだと感じられるのは、中野サンプラザの再整備計画が白紙になったことで建替えや高度利用では経済が回らないことが明らかになったことです。土地を高度利用することで経済的に豊かになるという、人口が増えていた時代の20世紀的な考え方からは早く逃れなくてはならないと思います。
他方で今、経済優先型の人たちが開発の方便にするのは「防災」です。道路を拡張すれば安全な市街地になると言われますが、密集地で火災が起きて人が亡くなる確率と、拡張した道路で交通事故が起きて人が亡くなる確率を比較する必要もあるのではないでしょうか。
私は今、町並み保存地区に指定されている鞆(とも)の浦の木造密集市街地で火災対策にも関わっていますが、そこでは道を広げるのとはまったく違う前提で防災を考えています。皆が知恵を出し合い、道路を拡張するような大変な手間をかけずとも地域が安全で魅力的になるやり方を実践しています。大規模開発の理由を1つひとつつぶすように、町づくりの根本的な考え方を少しずつ変えていこうとしているところです。
広島県が鞆の浦に橋を架ける計画を中止し、昨年町を迂回するトンネルも開通しましたよね。行政が町並みや景観を守るほうに動いたのは大変な英断です。
地形まで変えてしまう大規模開発がいたるところで行われている東京に比べ、地方都市は町並みや景観のほうに立ち返るフェーズに移行しているのですね。
個人史とつながる建築の記憶
話は尽きませんが、「"歴史的建築"とは何か」というテーマに戻って考えたいと思います。"歴史的"とは何かという時に「Historical」は重要なキーワードになりそうですが、「史跡」のカテゴリーにおいても、明治期から戦後あたりまでの評価をどのように考えていくかが重要な時期にきているのではないかと思います。
地方都市の町並み保存に関わる中で私が地域の皆さんに言うのは、「おじいさんやおばあさんの世代がやってきた努力を見直しましょう」ということです。比較的近い時代の先祖が残してくれた家や風景を大切にし、新しく町をつくる時にはそのベースとなる部分を尊重することも強調します。というのも、規模が大きくなるほど「あの建物は○○さんのご先祖が寄付してできたものだよね」といった身近な話がどんどん出てくるからです。
実は、深い共感が生まれるのはそういう話からです。モノだけを見ていると、一番立派な蔵だけ残せばあとは壊してもよい、といった考え方が出てきますが、町並みを構成しているのはそうした蔵だけではありません。大小さまざまな蔵がある中で、自分の先祖が建てた蔵だと意識された途端にまったく違う物に見えてくることがある。
そういう個人に結び付く歴史や生活のあり方が町並みを大事にする気持ちにつながっていくのかなと思います。
重要文化財の制度は建物の場合、完成してから50年という規定がありますが、もともとあった「指定」だけでは追いつかないため、後から「登録」が設けられました。『Casa BRUTUS』で最初にモダニズム建築特集を組んだのは20年以上前ですが、当時は良い建築がどんどん壊されていく状況でした。最近、その意識の変化を感じるのは、重要文化財に指定される戦後の建物が増えていることです。
昨年はなんと岡本太郎の《太陽の塔》(1970年)が重要文化財に指定され話題になりました。こういうニュースを聞いて感じるのは、文化財制度で定められた50年はちょうどよいスパンではないかということです。50年というのはおそらく、おじいさんやおばあさんがリアルタイムで経験したことが孫の代の私たちまで共有できる範囲です。100年スパンになると、その間に壊されてしまうものがたくさん出てきそうですし、かといって30年は短すぎる。
ちなみに、なぜ50年になったのでしょうか。
それは建築に最大50年、土木構造物では60年の減価償却期間が定められている関係です。減価償却が終わり、財産価値が消滅するタイミングで、文化財としての価値が付くという考え方です。諸外国でも50年を基本としている国が多く、こうしたことを加味して現行制度は定められました。
《太陽の塔》は「建築物」として重要文化財に指定されましたが、この時に美術館界で衝撃が走りました。というのも、美術の分野では戦後の美術品はまだ1点も指定されていないからです。文化財に指定されるタイムラインが機能している建築に比べ、美術品は大きく遅れています。
美術専門家の間で心配されているのは、時間の経過とともに作品としての実感が薄くなることです。いよいよ文化財に指定されたとしても、作品が成立した時の実感や文化財的価値が形成された過程を知る人がもういない、ということが起こると、重要文化財は美術館にとって縁遠いものになってしまう。
重要文化財に指定された最近の美術品は何ですか?
年代の新しめのものとしては、2023年に指定された鏑木清方(かぶらききよかた)の《築地明石町》他3部作で、1927~30年の作品です。重要文化財は制度上、建造物と美術工芸品に大別されていますが、後者には考古資料等も含まれています。そして、現行のシステムは近代以降の美術に対応しているとは言いがたく、それを見直さないかぎり直近の指定が150年前のものだった、ということにもなりかねません。
アーキビストは未来を見ている
世界的に見ると、美術品保存の目的の1つは海外流出を止めるためです。建築は開発等による取り壊しのリスクを回避するために文化財制度の整備が行われました。
ちょうど先週、DOCOMOMOの国際会議に出席して驚いたのは、米国では2001年に完成した建物の保存活動が議論されていたことです。建築を保護するための年限の設定は、諸外国でも戦略的な意図が込められていると思いますが、それとはまた違う観点からの議論もされているのだと思いました。
アーカイブと文化財指定は過去の物に価値を見出すという意味で性格が近いですが、アーカイブは現代の価値づけのために必要とされる、もっと未来志向の物であるようにも思います。藤本さん、いかがでしょうか。
そのとおりです。建築史の研究者は、時代が近いと歴史的な評価ができないからアーカイブズとして残すべきか判断できないと言います。でもそれは歴史の研究者の見方で、アーキビストにとっては今つくられている建築資料も同じように重要です。資料の評価はそれを使う人によって大きく変わります。
アーキビストは単に歴史的なものを分類整理して公開するのではなく、今起こっていることを現在進行形でキャッチする存在でもあるわけですね。資料の蓄積が文化財指定の後ろ盾にもなるので、アーキビストには先取りできる能力も重要だろうと思います。建物が持っていた営みを資料から受けとれるかどうかが建築の将来的な価値づけのためには重要なので、アーカイブは決して残された人たちの仕事ではないですよね。
そうですね。最近は現役の建築家から資料整理の相談を受けることがあります。アーカイブズには歴史的な意義だけではない多層的な価値があります。
アーカイブから離れてしまうかもしれませんが、建築業界では現在、BIM(Building Information Modeling)が普及していますね。建物に関するデータベース的な役割を果たすシステムですが、国内ではまだ新築のためのツールのように思われているところがあります。ですが、欧米ではBIMは建築の管理用ツールとして活用されており、竣工後の建築の変遷も追跡できるようになっています。
日本の文化庁にあたる英国のHistoric England では、歴史的建造物のBIM化のスタンダードを示しており、今後、日本でも建物管理の主流になるかもしれません。アーカイブとは異なる世界の話ですが、建築の履歴がクラウドに保存される状況も生まれつつあります。
"歴史的建築"が新しい価値を作る
ここまでの議論を振り返ると、それぞれの人が持つ建物への共感が、最近の建築人気にもつながっているように思いました。保存をめぐる状況も、現在は個人の記憶や営みへの理解が重要視されています。こうした考え方は、後藤さんが文化財に関わり始めた頃と大きく変わってきているのでしょうか。
私は学生時代にお寺の研究をしていたこともあり、大学院を中退して文化庁に入庁しましたが、その頃はお寺の文化財指定がほぼ終わりかけていました。これからは近代(の指定)や国際協力と言われていました。
ところが、現在は少子高齢化の影響で氏子も檀家も減っており、寺社を今後、文化財としてどのように残し伝えていけるかという課題が浮上しています。お寺や神社が新しい価値を創造していかなければいけないというのは、私が文化財に関わり始めた頃の状況がひと回りしたような印象もあります。
藤本さんはいかがでしょう。
《全日本海員組合本部会館》の建物は六本木のど真ん中にあるため、かつて再開発の誘いがあったと聞きました。その話に乗らなかったのは、この場所こそが自分たちの拠点であるという自負が強く働いたからだそうです。アイデンティティと建物の個性が結び付くクライアントの存在には、大規模開発に対抗できる可能性を感じます。
建物が残ることで周りの建物の価値が増す可能性もありますよね。歴史ある建物や先祖の物を大事にすることが地域の豊かさにつながっていくということは、私たちが普段地方の人たちに伝えていることでもあります。
歴史的な建築が新しい価値が生まれる核みたいなものになるということですよね。白井さんはいかがですか。
実は、先ほど紹介した『Casa BRUTUS』のモダニズム建築の特集は、「保存は売れない」という理由で編集部から猛反対に遭ったのです。出版においてもこうした経済論理の壁があり、もちろん都市開発だって多額のお金が関わることで儲かる人は大勢いますが、皆が満足する保存を実現するにはこの考え方を変えないといけないのではないかと思います。
そう思う時に私がいつも反芻するのは、ベネッセホールディングス名誉顧問の福武總一郎さんの「経済は文化のしもべ」という言葉です。私はこの言葉に強く共感しながら町おこしや建築祭の活動に取り組んでいますが、重要なのは共感や関心を呼んで仲間を集めることであり、地道な活動をやめてはいけないと思うんです。
私たちも2008年以来、「慶應義塾の建築プロジェクト」の活動として記録やツアーの開催等を地道に行ってきました。ユーザー・マインドの建築の人生は竣工から始まります。皆さんのお話によって、私たちのこれまでの取り組みにも意味があったことを改めて実感できました。
本日は有り難うございました。
(2026年3月26日、三田キャンパスにて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。