登場者プロフィール
四元 弘子(よつもと ひろこ)
弁護士森・濱田松本法律事務所所属。1991年東京大学法学部卒業。91年~99年、科学技術庁(現文部科学省)勤務。2001年弁護士登録。宇宙、原子力、エネルギー、医療、防災等の国の開発プロジェクトに数多く関与。
四元 弘子(よつもと ひろこ)
弁護士森・濱田松本法律事務所所属。1991年東京大学法学部卒業。91年~99年、科学技術庁(現文部科学省)勤務。2001年弁護士登録。宇宙、原子力、エネルギー、医療、防災等の国の開発プロジェクトに数多く関与。
八代 嘉美(やしろ よしみ)
その他 : 藤田医科大学橋渡し研究支援人材統合教育・育成センター教授研究所・センター 殿町先端研究教育連携スクエア再生医療リサーチセンター特任教授2009年東京大学大学院医学系研究科病因・病理学専攻修了。博士(医学)。専門は幹細胞生物学・科学技術社会論。SF等サブカルチャーの研究も行う。
八代 嘉美(やしろ よしみ)
その他 : 藤田医科大学橋渡し研究支援人材統合教育・育成センター教授研究所・センター 殿町先端研究教育連携スクエア再生医療リサーチセンター特任教授2009年東京大学大学院医学系研究科病因・病理学専攻修了。博士(医学)。専門は幹細胞生物学・科学技術社会論。SF等サブカルチャーの研究も行う。
小久保 智淳(こくぼ まさとし)
その他 : 東京大学大学院情報学環助教法学部 卒業法学研究科 卒業理工学研究科 卒業塾員(2018法、20法修、21理工修)。専門は神経法学。慶應義塾大学大学院法学研究科研究員を経て2024年より現職。IoB-S(“Internet of Brains”-Society)リサーチャー。
小久保 智淳(こくぼ まさとし)
その他 : 東京大学大学院情報学環助教法学部 卒業法学研究科 卒業理工学研究科 卒業塾員(2018法、20法修、21理工修)。専門は神経法学。慶應義塾大学大学院法学研究科研究員を経て2024年より現職。IoB-S(“Internet of Brains”-Society)リサーチャー。
牛場 潤一(うしば じゅんいち)
理工学部 生命情報学科教授塾員(2001理工、02理工修、04理工博)。博士(工学)。専門は神経科学、ブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)。慶應義塾大学関連スタートアップ 株式会社LIFESCAPES代表取締役。
牛場 潤一(うしば じゅんいち)
理工学部 生命情報学科教授塾員(2001理工、02理工修、04理工博)。博士(工学)。専門は神経科学、ブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)。慶應義塾大学関連スタートアップ 株式会社LIFESCAPES代表取締役。
駒村 圭吾(司会)(こまむら けいご)
法学部 教授塾員(1984法、86法修、89法博)。博士(法学)。2005年より現職。2013年~21年慶應義塾常任理事。専門は憲法、人権基礎論。IoB-S(“Internet of Brains”-Society)代表。
駒村 圭吾(司会)(こまむら けいご)
法学部 教授塾員(1984法、86法修、89法博)。博士(法学)。2005年より現職。2013年~21年慶應義塾常任理事。専門は憲法、人権基礎論。IoB-S(“Internet of Brains”-Society)代表。
2024/08/05
加速化する科学技術の進展
本日は「科学技術と社会的課題」について討議したいと思います。
科学技術は人類の生活を豊かにし、文明全体に大きく裨益してきたことは間違いないと思います。しかし、近年、技術の進展が加速度的に進み、社会がそれを受け入れようとする前にどんどん新しい技術が登場し、制度的な対応が追いつかない現状です。
その中で昨今、いわゆるELSI(Ethical, Legal and Social Issues、倫理的・法的・社会的課題)と言われる、主に人文社会的な知の側面から科学技術を分析・統制するアプローチが広がってきました。
近年ですと、例えばメタバースの狂騒や、生成系AIの登場による人間の知的営みの根本的変化の予兆がリアルなものとして迫ってきています。また、人工知能だけではなく、人工身体や人工生命なども現実化しつつあり、ゲノム編集や再生医療、生殖医療技術、ブレインテックなどが次々と未知の分野を開拓しています。
また、フィンテックやリーガルテックと言われる社会的サービスの分野でも、科学技術のプレゼンスがどんどん大きくなってきています。
他方で、そうは言っても自然の脅威には勝てない現実もある。津波や地震による原発の事故では、科学が生み出した核技術によってしっぺ返しを受けている状況になっているし、能登半島の地震も半年経ちますが、依然として復旧のめどが立たない。あるいはドローンを軍事攻撃に使ったり、核攻撃の可能性を公然と口にするような政治リーダーが現れてきている。
われわれの知的資源をどこに投下するかということが大きな問題になっており、華やかな技術の進展の一方で、それが悪用、濫用され、人類の自殺行為に等しいような利用をされる懸念もある。
このような背景的事情のもとで、現状を押さえた上で、未来の展望を語っていただきたいと思いますが、初めに、自己紹介を兼ね、ご自分の専門、立場と社会的課題についての関係についてお話しいただけますか。
私の専門は神経科学で、脳に関する基礎研究をやっています。脳はいろいろな経験を通じて機能も構造も変わっていきますが、その「可塑性」といわれる性質を上手く引き出すような研究開発をしてきました。
具体的には、ウェアラブル脳波計を使い、脳卒中などで脳が傷ついている患者さんの脳活動を脳波として読み出すことをしています。脳波をAI処理して、脳の中にまだ残っている神経が適切に活動していると推定されたタイミングで、麻痺した手に取り付けているロボットを駆動させ、手の動きをサポートします。そうすることで生身の状態で再び手が使えるようになっていくという機能回復、治療技術としてのAI研究をやっています。
20数年前の学生の時、そういうことがやりたいと医学部に行くと「難しいんじゃない」と臨床の人に言われました。しかし、不可能だと思ったことが可能だということがわかると、周りの人の態度が急に変わっていく瞬間も何度か経験しています。
科学の常識や世の中の常識というものは不確実で未来の当たり前ではなく、科学技術によって新しいニュースタンダードをつくることができるんだ、という希望を感じてきた一方、世の中の科学技術に対する認識は、「意外といいかげんで現金だな」と思うこともあります。科学技術と社会の付きあい方には希望を持っていますが、大丈夫かなと思うようなこともあります。
これから、さらに「ブレインテック(ニューロテクノロジー)」というものが実現していく中で、ユネスコなどでも、どのようにそれをルールメークし、倫理的課題に取り組んでいくかというムーブメントが立ち上がったと聞いています。
私も学生の時から研究を始めて教授になり、いよいよフロントエンドで責任ある科学技術の担い手の中核にならなければいけないと感じています。
幹細胞研究から科学技術社会論へ
では八代さん、お願いします。
私の専門は、幹細胞研究という生物学がもともとのディシプリンです。幹細胞は、いわゆる再生医療、再生医学の基盤となる細胞ですが、私が学部に入った時、ES細胞がヒトで樹立をされた直後でした。これは人の胚を破壊してつくられる多能性幹細胞ですが、注目されつつも胚を使うということで生命倫理的な課題の面から社会的批判を受けていました。
そこで、大学院で胚を壊さずに、そうしたものをつくりたいと思い、造血幹細胞というものを題材にした研究をやっていた時、ちょうど山中伸弥先生のiPS細胞が登場します。iPS細胞は生命倫理的な懸念を払拭する細胞ということで、再生医療がものすごく注目をされるようになりました。
一般社会の方々からの期待は大きい反面、違和感や不安感というものも小さくなく、それは必ずしもサイエンスに結びついた知識を土台にしたものではありませんでした。そこで、社会的な価値観と生命科学の現場の価値観、両方を結びつける人材が必要ではないかと思い、慶應の生理学の岡野栄之先生(現名誉教授)のところでポスドクになるのを機に、科学技術社会論と言われている領域の研究にも着手するようになりました。
大学院生の頃、再生医療は「未来の医療」と言われていましたが、再生医療等安全性確保法が2014年に施行され、薬事承認されて保険医療対象になったのが20品目、また、自由診療と呼ばれているものは6000件近くに達していて、もはや未来の医療ではなくなっています。
しかし、科学的な根拠に基づいたものと、そうではないものが出てきていて、期待を逆手に取った搾取のような構造が実体化してきている状況もあります。
また「ドラッグラグ・ドラッグロス」と言われるように、世界で新薬として申請されているものの6割が日本で申請されない状況です。そのような中、これまで日本の国民、社会が期待してきた再生医療がこのままでいいのかということも考えるようになりました。
再生医療の実用化をすすめるために生命科学の内側にだけ都合のいいような形で研究を進めていくのはまずいということから、現在は科学的根拠の確立する再生医療の拠点構築と並行して、社会からのコンセンサス構築を行い、再生医療の社会実装の加速のプラットフォームづくりに携わっています。
法学から科学技術に向きあう
次に小久保さん、どうぞ。
私は憲法学と神経科学を学び、法学と理学の修士を双方取得した後に、法学研究科の博士課程に進学しました。この4月からは、東京大学の情報学環において助教をしています。
専門は神経法学(ニューロ・ロー)という、法学と神経科学の融合領域的な研究をしています。
法学と言うと、往々にして「何かをしてはいけない」という規制の話のように思われがちですが、必ずしもそうではありません。神経科学や認知科学が、人間それ自体や、意識、意思、感情、学習などをどのように解明しつつあるのかという知見を使い、法学の理論や概念をより現代的にアップデートすることを目指して研究しています。
ある意味では、自然科学や科学技術と社会との接点に直接つながる研究とも言えます。その中で、世間一般に言われる懸念や期待が正当なものなのかを考えることもあります。いたずらに新規技術を危険視、あるいは不当に称揚してはいないか。そうした社会受容の在り方についても、ELSIやRRI(Responsible Research & Innovation :責任ある研究・イノベーション)のチームの中で、文理双方の知識を活かしながら考えています。
では、四元さん、お願いします。
私は弁護士として企業法務やM&Aといったことを中心にやっていますが、その傍らで科学技術に関する業務がかなり多いのが多少風変わりな特徴かと思います。
私は前職が国家公務員で、科学技術に関する仕事をしておりました。科学技術政策の立案や宇宙開発、また原子力の分野で核不拡散、核セキュリティなどにも関与しました。平成8年の第1期科学技術基本計画の立案にはまだほんの若輩として参加しました。
その後、弁護士に転じたのですが、科学技術はとても好きなので、弁護士としても科学技術に接する機会を多くいただいてこられたのは幸いでした。
弁護士ですので、基本は依頼者からの相談に対応するのが業務ですが、社会的課題との関係について考えてみますと、例えば、AIを用いた研究の中で個人情報の取扱いに関する相談を受けたり、コロナの次のパンデミックへ備え、企業にインセンティブを持って長期にわたるワクチン開発をしてもらう仕組みを考えたり、あと昨今安全保障環境が厳しくなり、研究開発と国際関係の問題には割とよく直面します。
また、日々の弁護士業務を少し離れ、東日本大震災の福島の事故を契機にエネルギー問題にもわずかですが関与しています。今の電力自由化、世界的な脱炭素の流れ、そしてウクライナ問題などがある中で、原子力の取扱いも含めて、何が日本のエネルギー利用のありかたの最適解かということがありますが、社会課題が多過ぎ、かつ重過ぎて、全知全能の神様でも答えを見つけられないのではないかと思うほどです。
流動と根源という2つの層
次に、今後どのような技術がどういう社会的問題をもたらすのか、最も気になるものをご自分の専門でも専門外でも、挙げていただけませんか。
1つは自分の研究の中心である神経科学がAIと結びつくことにより生まれてきたブレインテックやニューロテクノロジー、ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)についてですが、脳の状態を知るということは、昔から人間の根源的な興味の1つだったと思います。古代ギリシャの時代から、「心とは何か、感情とは何だろう」ということが哲学の視点から論じられてきたわけです。
だから、脳と機械、AIが融合して、治らなかった病気が治ったり、心のトラブルがテクノロジーで解決するかもしれないという新しい医療への期待は、一方でそれを追究していくと、われわれの心とは何か、感情とは何か、意思の発露とは何かを考えることになる。つまりどこまでその人自身が自律的にやっていることなのか、ということを考えることにつながると思うのです。科学技術が進展すればするほど、そういったアルカイックで根源的な興味に立ち返るような、大きなダイナミズムも感じています。
現在、AIの計算が飛躍的に速くなり、技術革新のスピードは上がり、それを社会実装させるためのスタートアップも、5年でエグジットしましょうというスピード感です。このように科学技術の分野はどんどんスピードアップを促される側面があります。
しかしその一方で、人類は「人とは何か?」という古典的な問題を、昔からずっと手を替え品を替え考えているのかなと感じるのです。何かものすごいスピードで動いているものと、まったく動いていないようなものが共存している不思議さを感じています。
もう1つ、さらなる興味としては、自分の研究の中核を担っているAIそのものにあります。AIは計算が爆発的に速く、物をつくるところでも活躍し、国をまたいで人がコミュニケーションする言語の壁など、ありとあらゆるキャズム(溝)を超える。
しかし、そういう便利さの裏側で、計算のために大量にエネルギーを使い、CO₂も含めて環境に多大な負荷をかけることになる。これをどうするのかという問題には割と蓋をされているのが現状です。四元さんがおっしゃった原子力や脱炭素の問題とAIの話は、とても関連があるのにあまり語られない。
こういう問題をどのように俎上に上げ、解決や緩和に至る総合知をどうつくっていけばいいのか。対話をして合意形成の仕方を構築しないと、内容が複雑過ぎ、多面的(キメラ的)過ぎて、技術発展のスピードに全然追いついていかない。そこをどうしていくかということはものすごく重要なフェーズだと思います。
今の話で重要だと思ったのが、「流動する部分」と「根源的な部分」という2つの層です。われわれが直面する社会的課題を検討する際に、これら2つの層をどのように位置づけるかが大事になると思われます。
とにかく流動に追いつかなければいけない。セキュリティの確保や市場の整備といったリアルな観点から社会や政府は対応しようとするわけです。他方で、ご指摘にあったような古代ギリシャからの古典的な哲学的・思想的問い、つまり根源的な問いが再問される。社会の知的資源が、流動に追いつくことに集中投下され、根源的な問いはややこしいから確認されるだけにとどまるところがある。
つまり、流動的課題と根源的問いの循環的な動態のどこに今我々がいるのか、流動と根源をどうやって結びつけていくかということは、学知のあり方として文系・理系を超えた共通の課題になるのではないか。
再生医療をめぐる諸課題
自分の専門領域のところの社会的課題として言うと、まず、高額な医療の問題があります。再生医療というとイメージとしては臓器の再建などが強いかと思いますが、法律の範疇としては、細胞を使った医薬、最近だと「CAR-T」と言われる血液系のがんを治療する細胞を使って攻撃する療法があります。あれは3300万円ぐらいします。また遺伝子治療薬「ゾルゲンスマ」は1億円を超えます。
ただし、ゾルゲンスマを1回投与することで、今までであれば乳幼児期に運動機能を喪失してしまう患者さんが、大きくなってもちゃんと活動することができる。そう考えると、収支は成り立つのではないかという話にはなります。
ただ、CAR-Tなどで、三千数百万でアウトカムが見合うとしても、では、そうした新しい高額な医療を投入し続けることを、どこまで公的保険で費用負担すべきなのかという話があります。それは命の選別につながるのではないかという、牛場さんがおっしゃった古典的な問いにもつながってくるところでもあります。
そのように、まっとうにやっていても生じてくる問題と同時に、自由診療では科学的根拠がないような診療もはびこってしまっていて、これへの対応もなかなか難しい。
高額とわかっていて、最後の手段としてわらにもすがるつもりで受ける方もいるし、最近ではセレブリティのような人がブログなどでお金をもらいつつ宣伝するようなこともたくさん起きている。すると、それに引っ張られてやる人も出てきてしまう。
さらに、広い話で言うと、最近のインターネットやSNSを見ると、何らかの質的な担保がされているわけではない人たちが医学的な知識の普及を、YouTubeなどでやっている。そういう形である種の知の民主化のように見えても、医学的な質の担保がされていない、という問題があります。
誰もが情報発信できる状況になると、パンデミックや、あるいは原発事故後の状況下においては、非常に混乱した状況が起こります。科学だけでは決めきれない、ワインバーグが言うようなトランス・サイエンス的な、政治的なことが絡む状況がどんどん出てくる。トランス・サイエンスの中でも「専門知識を持つ者(専門家)と持たない者(非専門家)の境界をどう扱うか、決定の正統性をどう考えるか」というような話をする人もすごく出てきている。
しかし、科学的な知識を持てば、皆が話せるようになるわけではなく、それぞれの立場や経験の融和的な議論が必要であることを、科学技術社会論学者のコリンズは説いているのですが、「科学的知識がないやつはダメだ」「知識による抑圧だ」という他責の応酬による無限の循環状態に陥ってしまい、なかなかブレークスルー(突破口)が得られない。このことが原発事故、それからパンデミックを経て、個人的には閉塞感として感じています。
情報技術の課題
私はあえて自分の専門ではないところで話したいと思います。
1つ、情報技術といかに向きあうべきかという課題は、未解決であると思います。つまり、広く社会に浸透し、上手く使いこなしているように見えても、実は、様々な問題を取り残してきてはいないか。
偽・誤情報や、炎上といった情報技術のもたらした病に、投稿の削除という対処療法で対応し、事態が沈静化すれば忘れ去ってしまうことを繰り返している。その結果、情報技術が社会にもたらす根本的な課題は何なのか、それはなぜ引き起こされているのか、という本質的な問いには、いまだ上手くアプローチができないまま今日に至っているように思います。
また昨今、人の集中力の持続時間が短くなったと言われます。昔はYouTubeで10分しか持たなくなったと言われましたが、今はTikTokで10秒になったと。IT企業の主導する、テクノロジーの浸透を所与として社会が進んでしまい、その在り様を問わないまま、いつの間にか無批判に適応してはいないか。
何のためにその技術を社会に実装するのかを顧みないまま、次々と生み出される技術を、社会がただ漫然と受容しているように思えます。
情報技術は人間や社会の何を変え得るもので、それに対して何を変えるべきではないものとして守るのか。これは文理を超えて挑むべき課題の1つだろうと思っています。
もう1つ、少し総論的な話になりますが、様々な生命科学の技術を見ていると、技術の関心が測定から操作へと移ってきたという印象があります。典型的にはヒトゲノムの配列が全て解読されたのが2000年。そこから、CRISPR-Cas9(ゲノム編集ツール)によって、遺伝子編集ができるようになってきた。つまり人間についても「知ってよいのか」を超え、「変えてよいのか」を真剣に問う必要が出てきたことで、技術を巡る問題が一段深化したと思います。
最後に3点目。人間を「治す」ということから、「増強(エンハンス)する」ことに関心が移ってきたように感じます。ケガや病気から回復させるだけではなく、どこまで、人間の性能限界に迫れるのかというような話が次々と出てくる。その中で、経済力のある人だけがどんどん自分をエンハンスして、経済的格差が能力や学力の格差を再生産してしまうことにならないかという点も、社会課題としては見ておかなければいけないと思っています。
政策形成への懸念
四元さんはいかがですか。
自分が研究をしているわけではないので、この分野というのが特にあるわけではないですが、自分が社会人の第一歩を公務員の末端から始めたので、つい、社会課題への国の対応は大丈夫かという視点で眺めてしまいます。
一例として先ほど申し上げたエネルギー問題について言えば、脱炭素などはグローバルに人類として考えるべき課題ですが、エネルギーの安定供給は国民生活に直結し国の安全保障に関わる問題でもあります。時に両立し難い社会課題に目を配りながら世界情勢、社会情勢、政治情勢も見つつ適切な政策判断をしていくことは至難で、私も他人事でなく悩ましく思っています。
また別の例ですが、昨今スタートアップ育成が大事となると、ワーッと皆がスタートアップ支援策に走る、GXが大事となると、GXというキーワードのもとに巨額予算が付くといったことが見られます。肝腎なのは中味で、中味あっての予算のはずですが、どうも最近政策形成がいささか乱暴ではないかと思われることがあります。
社会課題に関しては、しっかり課題を把握し、地に足をつけて丁寧に対応していかないと、今の政策が、10年、20年、もっと先の日本をつくっていくことになるので、日本の将来を過つことにもなりかねません。将来に対する責任を今の私たちが負っているという責任感も大事ではないかと思います。
皆さんのお話を伺っていると、科学技術が社会や人間に危機をもたらすというより、むしろ社会のほうが病んでいるといいますか、そのことを科学技術の進展が暴露しているような気がします。
「知の民主化」という話がありましたが、民主主義は結局、大衆支配であり、大衆支配は衆愚だというのは、アテネの昔からある自明の真理です(笑)。小久保さんも問題提起されていましたが、情報技術がゆがんだ形で使われているのは、使い手である人間の原罪のようなものを暴露していくような側面がある。そうなると、「人間とはいかなる存在か、何のために存在するのか」という哲学的問題に収斂していくのは、宿命的なことですらあると思います。
他方で、四元さんが提起された、制度や行政の問題ですが、流動にいかについていくかを考えるのに精一杯で、しかも効果や帰結をフォローアップすることもないという、日本の官僚行政一般の問題が技術政策の領域でも表れているということかと思います。
拡大するELSI
ここで視点を少し変えますが、冒頭で触れたように近時、日本だけではなく、世界的にELSIという営みが盛んになっています。科学技術を、ある種の社会的統制の下に置こうという発想です。
最近ではRRI(責任ある研究・イノベーション)というものもありますが、このような試みが進み、私も小久保さんも、JST(科学技術振興機構)から助成をいただき、脳科学技術に対するELSI活動をしています。ELSIが最近強調されてきた背景について、四元さんいかがでしょうか。
一般にELSIは1990年のヒトゲノム計画の際にアメリカで始まったと言われますが、日本ではどうかと言いますと、5年ごとに出される科学技術基本計画が今、第6期まで来ています。平成8(1996)年の第1期科学技術基本計画は、今振り返ると実に素朴でコンパクトなものでしたが、そこでもすでにELSIの考えの片鱗のようなものは窺われ、第2期からは確実にその考えが計画の中に位置づけられています。
ただ、E、L、S( 倫理的、法的、社会的)という言葉が明確に出てくるのは第3期の科学技術基本計画(2006年)からです。新たな科学技術についての社会的な影響を科学者の目だけではなく、E、L、Sに象徴される人文科学や社会科学により、多角的・多面的に見ていこうということだと思います。
ただ、その概念がどうも最近無暗に広がっているようで気になります。特に最新の第6期科学技術・イノベーション基本計画(2021年)は盛り込み過ぎで、なかなか理解が追いつきません。
読み解きますと、科学技術は誰もが幸福な社会の実現に役立つものでなければならない。そのために研究は将来の姿をちゃんと見据え、初期段階からELSI対応が求められる。それには総合知の活用が必要で、そうした人材が参画する体制の構築が必要、といった理解でいいでしょうか。最近はそのためのELSI人材の育成の必要性なども言われているようです。
ELSIは極めて大事な概念ですが、ELSIという言葉は、私はあくまで基本はまず技術とか研究と近いところで考えていくべきで、言葉があまり独り歩きし、肥大化するのは少し違うのではないかという気はします。
私も全く同感です。最近ELSIのEなどに3乗(E³)をつけるのですね。つまりethics だけではなく、経済(economy)、環境(environment)も含める。このようにカテゴリーがどんどん増え拡張している。
ELSIで科学技術を統制するというけれど、法学、倫理学、社会学、経済学に環境学、これらはそれぞれ固有のディシプリンを持つわけです。技術を分析統制するはずのELSIの視点を整理すること自体が困難なのです。簡単に一括りにはできない。一体、人社系は何をすればいいのか、初動に難問がある。「総合知」なんて簡単に言えることではない。
本当にそうですね。
だから科学技術の側と文理融合の対話をする前に、ELSIの内部で文系的知の総合化自体を議論しなければいけない。
ですので、融合人材が絶対に必要です。それなしに、ELSIという言葉を振りかざすだけですと、ELSI運動は納税者の不安や要求を代弁するだけのものになりかねない。納税者の貴重なお金を科学技術に割り当てているのだからと。人文社会的学知がまとまっていようがいまいが、納税者の意見、「素人」の意見を科学者にぶつける役割を果たせばそれでいいと。
つまり、資金元である国民一般から「そんな研究は受け入れられない」「国民の理解が得られない」という声を技術の側に伝えるチャネルとしてELSIはあることになる。それはそれで意義の全くないことでありません。むしろ、加速度的に流動する科学技術の波を制度的対応に乗せるには必要な回路かもしれません。
だからといってやめよう、という話をしているわけではなく、むしろ逆で、これを「大きな挑戦」としてとらえるべきでしょう。人文社会的学知にとって、ある種の停滞や割拠的膠着状況を乗り越えるチャレンジになると思います。
社会にバランスさせるためのELSI
言われるように批判的な側面もあるとは思いますが、科学技術に携わる当事者として自己批判も含めて考えると、多様な社会の要請を考えなくてはいけない論点がこんなにたくさんあり、「おまえたち、ちゃんと考えながら科学技術と毎日向き合っているのか」と言われること自体は、1つのくさびになってよいのではないかと、ポジティブに捉えています。
科学技術はAIが象徴的ですが、スピードはどんどん上がっていく。それをつくっている研究者も大学や研究所で昇格して、テニュアを取ってという競走がどんどん激しくなり、すごいスピードで業績を出さなければいけない構造になっている。
例えばBMIは、本当は多様で、生物学、哲学、AI、ロボットなど、いろいろな学知の中でバランスや調和を考えていくべき分野ですが、なかなか一言で専門が言えないので、「何かよくわからない」と、バサッと切られてしまうこともある。スピード競争になればなるほど、白か黒かで決着をつけさせられてしまう面もあるわけです。
しかし社会は徒競走ではなく1つのシステムです。ビオトープとして生態圏として生きていくために、このモザイク状態をどうバランスさせ、システムをキチンと機能させるかが重要です。だから、ELSIのような考え方で、自分は何でこの科学技術をやっているのだろうと時々思わされ、くさびが打たれることは、僕はすごく大切なことだと思っています。
ますます大変になりませんか。
大変です。でも、淘汰されてそういうことが理解できる、良識のある人が残ることがいいのでしょう。そのたがが外れてしまうと、スピードの中での近視眼的キャリアアップしか考えない人が増えてしまうのではないかという怖さがあります。
それこそノーベル賞で脚光が当たるような本当にピュアなベーシックサイエンスの先生などは、ユートピア的な大学の価値の最後の砦は絶対守りたいというようなことはおっしゃいます。完全に外界から隔絶された中で思考を深める中から出てくるアイデアというのは自然科学ではあるので、そこは大切にしたいと思う部分は僕もあります。
ただ、それを言い訳にしている部分もないとは言えないと思う。ELSIとかRRIのようなフィルターというかけん制、ハードルがあることにより浄化されていくということは、多くの研究者の社会との接点を考える上では一定程度機能していると感じます。
リスクのガバナンスとしての機能
八代さんはいかがでしょうか。
今、牛場さんがおっしゃったように、基本的に研究というものの野放図さをハンドリングする意味でのELSIの重要さということは同感です。
先ほど駒村さん、四元さんからELSIが拡散していることへの懸念がありましたが、僕は本来、ELSIは基本的にリスクのガバナンスであり、何でもかんでもやることではないと思うのですよね。
しかし、それが、自己目的化し、ELSIが学術領域になってしまい、「論文を書くためにいろいろなことを言っているだけ」というようなものも少なからずあると思います。むしろ、RRIのほうが今日の科学観という様相から言えば、社会全体で責任を負いましょう、という話なので、そちらのほうに任せるべきです。
ELSIはヒトゲノム計画から始まったとされていますが、源流をさかのぼると、それはアシロマ会議(1975年)の遺伝子組み換えの話に立ち戻ります。
あれは結局のところ、研究者自身の好奇心だけで遺伝子組み換え実験を行うと何が起こるのかという懸念から出てきたものです。自分の研究によって社会に何が起こるかという内面にある客観的な視点は、研究者自身も持つべきであろうと僕は思います。
そういう意味において、ELSIの研究者はすべての専門家である必要性はもちろんないけれど、ある程度、社会科学的な知識と学際融合的なセンスを持つべきだと思うし、それをリードできる人たちもいてほしいと思います。
例えば生成AIの話と再生医療では、応用倫理的な部分は、必ずしも同じではないと思います。再生医療や生命科学の倫理は、どちらかというと基礎的、古典的な応用哲学などの話に根差している部分が大きい。しかしAIの話というのは概念について考えるだけではなく、基本的にどう応用して対応していくかということになるので、法学なり、法哲学なりをベースにしたガバナンスの議論をするべきですよね。
だから、再生医療の倫理からAIの倫理を見ると、すごくプラグマティックに見える時もあるし、議論のスピード感がすごく速く感じる時もあります。
また、再生医療については、だいぶ皆で議論してきましたので、お互いの話は通じるようになったと思いますが、いまだに「生命倫理の人は基本、ブレーキをかけるのだろう」というイメージを持っていることが多い。
しかし、これもきちんと見ていくと、生命倫理の中でも、「このようなことをやると社会の役に立つのだから、ちゃんとルールをつくって進めよう」と言っている人たちもたくさんいたのです。古典的なドイツ哲学から、アングロサクソン的な功利主義的な哲学に移行する中で、少なくとも日本ではシフトしていたように思います。そのような背景と文脈が理解できるような理系の研究者も、もう少し増えてくるといいなと思っています。
ELSIが担うもの
おっしゃる通り、ELSIが、議論のための議論になってしまってはいけません。一方、自分がELSIをやる中で、お互いに専門分野が全く違う科学技術系の若手の方と話していると、思わぬ学びがあり、研究が進む面があります。
そういう分野を超えた対話をすること自体が貴重で、お互いに未知との遭遇をしながらコミュニケーションを取ろうと苦闘すること自体から生まれてくる何かが確かにそこにあると思います。
それとは別に示唆的なのは、映画「オッペンハイマー」で彼が被爆地の写真を見たシーンだと思います。政治や社会的な圧力、資金獲得競争に晒されて加速度的に研究成果を出すことが求められる科学の世界においても、ふと立ち止まって自らの生み出すものが社会全体に及ぼす影響を考える瞬間が存在することも必要だと思うのです。
しかし、その重荷を科学者のみに背負わせることが適切なのか。それを本来担うべきなのは、人文・社会科学の学知なのではないか。ELSIに携わる者はそれを念頭に置きながら、抑制的に、しかし、相手の分野に飛び込んで対話を続けていくことが重要ではないかと思います。
もう1点、日本の教育では高校の時から文系を選択すると、「おまえは物理・化学をやらなくていい」と言われるような学問の学び方をしてくるわけです。しかし、世の中に出た時に文系の人間が物理・化学の分野に全く触れないかというとそんなことはあり得ないわけですよね。
メーカーに営業職で勤務しても将来は量子コンピューターを売ることになるかもしれないし、弁護士になっても、化学の薬品の話を取り扱ったりするかもしれない。ELSIというものが発展していくことにより、文系の人材が科学に対する触れ方、話し方を学んでいくことも重要かなと思います。
理工学研究科で学んだ中で、非常に面白かったのは、法学と科学では言葉の遣い方が全く違うことで、留学さながらの体験でした。例えば、「意思(志)」という言葉1つとっても、その意味が全く違うわけです。
社会に出た時に、当然、理系の人も文系の人もいる。協力してプロジェクトを一緒にやっていこうという中で、不幸なミスコミュニケーションが起こらないためにも、ELSIというものが文理を超えた対話や異文化コミュニケーションの仕方を発展させると、社会もよりよい方向に向かっていくのではないかと思います。
八代さんがおっしゃったリスクのガバナンスとしてELSIはある、という話はその通りだと私も思っています。ELSIは統制のモーメントを持っているわけで、それに特化したほうがいいと思います。
よくELSIは技術の生産性向上に役立つような議論をしてくださいとか、国力を増進させ、夢のある技術をと言われますが、そこまで広げるのではなく、技術の持っている潜在的なリスクについて、技術の側にいない勢力が検証するものだと思います。
だとすると、ELSIのやることは、まず第1に、セキュリティ、安全の視点からの検証です。
第2に、尊厳(dignity)という視点です。目に見える危機ではないけれど、潜在的に人間の尊厳が侵食されないようにするということです。
そして第3に、先ほど言及があった、分断や格差の問題ですね。お金を持っている人だけが科学技術の恩恵を受けるのでは社会を歪めてしまいかねません。また、ある種の技術が高度化することにより、社会の特定の人たちだけに犠牲を強いるような恐れもあります。
先ほど述べたように、ELSIの重要性は、人文社会系にとって、あるいは理系にとっても、自らのディシプリンのあり方を再編成する機会になる。ELSIの意義は、リスクガバナンスとしての「統制モーメント」と、自分の学知を再編成する「創造的モーメント」の2つがあると思います。
社会と科学技術を結ぶ場としての大学
最後の議論になりますが、「よりよい社会」を目指す上で、社会と先端科学技術を結ぶ場としての大学の役割、人文知の役割は何か。大学だけではなく、行政、法曹も含めてよいかと思いますが、いかがでしょうか。
大学、特に総合大学は非常に貴重な空間です。慶應の場合、理系と文系はキャンパスがわかれてしまっていますが、日吉に視点を移すと、「文系だ、理系だ」と自己規定してきた学生たちが、サークルなど勉強以外の場で文理関係なく1つの目標に向かって協力する空間があります。これは非常に重要なプラットフォームとなり得る力を秘めているのではないかと思います。
研究という観点から見ても、情報工学をやっている隣りの教室では法学のゼミをやっていたり、ということもある。本来なら出会う機会もない人と雑談や研究の話をしてみたりできる。実は、そういう地道な対話の積み重ねこそが、総合知と呼ばれている概念を育て、涵養していくのではないか。こうした可能性を潜在させていることが、総合大学という「場」の非常に重要なところだと思います。
慶應には、こと私を育てていただいた、リーディングプログラムという制度がありました。これはMMD(修士号を2つ、博士号を1つ)を取ろうという文理融合のプロジェクトです。
私は、3年間、三田の法学研究科と矢上の理工学研究科に通い、法学の修士論文を書いた後に理工学の研究を終え、理学修士を取りました。ある種、「ある程度の文理の学知を修め、両方の分野の言葉で語れる人間」を鍛えて、それを修士号という形で証明する制度だったのかと思います。
また、リーディングでは、文系、理系の学生や、その指導教授が一堂に会し、「日本の少子高齢化はどうする」というような問題を、分野の垣根を越えて議論しました。そうした非常に稀有な空間で学ぶことができたお蔭で、今、「私は神経法学が専門です」と自信を持って自称できていると思いますし、そうした文理融合の研究が評価され、日本学術振興会育志賞をいただくことができました。
たしかに、ELSIは、プロジェクトごとにチームが結成され、そしてプロジェクトが終わると解散して消えていくわけです。
それではELSIをやった人材の再生産が上手く起こらないし、経験知が蓄積される場所もほとんどない。でも大学は、その空間になり得ると思います。例えば教員はそこに残るので、人材の再生産ということも担えるのではないでしょうか。
若い学生の挑戦する気持ちを、大人たちの側が受けとめなければ、それこそ人材育成の継承ができないわけですよね。
そうですね。学部生に話を聞くと、文理融合をやりたいという人は実はたくさんいるので、想いが届くと良いなと思います。
SF的想像力から考えられること
今回、僕は堅苦しい話ばかりしていましたが、最後にSFの話をしたいと思います。
今日的な話題で考えるのであれば、最近、同性婚という話が活発ですが、同性カップルが子供を持とうと思うと、今は代理母(サロゲートマザー)を使うしかないわけですよね。
その文脈で言うと、1980年代のSF作家でジェイムズ・ティプトリー・ジュニアという人がいて、その人が書いた作品に「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」という短編があります。
宇宙飛行士が事故でタイムスリップしてしまう。タイムスリップした先が、かなり未来の地球圏で、助けてもらうとそこには女性しかいない。男性が感染症により生殖能力を失ってしまい、女性だけが生き残ってしまうという世界になっています。
今の時代、女性の場合、クローン技術を使い、それこそiPS細胞から生殖細胞をつくり、もう単純な遺伝子のコピーではなく、遺伝子の組み換えも起こるような別個体をつくることもできる状況になっている。そうであれば「女性だけでもいいよね」という話も当然出てくるし、逆に人工子宮が実現すれば、「男だって別に女性を苦しめずに同性同士で子どもをつくれる」という話も出てくる。
そこには生命倫理の問題もあれば、人口学や、経済学的な社会科学の問題や社会の持続性という問題も出てきます。
そういう話をトピックにして、ELSI的な話を展開しながら、それぞれの専門の領域から知恵を出し合い、「こういうことやったらできるんじゃない?」「いや、でも、それは許されることではないだろう」というような議論が闊達にできるような場所が慶應にあってほしいとも思います。
かつて福澤先生が実学という言葉を残されていますが、空想ではあるけれど、それが実際の社会に使われるような事象を生んでいくような場所でもありたいと思ったりします。
スタートアップは私もやっていますが、社会の実装面において、科学技術を経済的に持続可能な形で流通させようとすると、いろいろなフリクションが起きる。皆が違う価値観で動いていて、脱炭素、エネルギーの問題とか、経済安全保障の問題で、様々なステークホルダーが議論し解決しなければならない問題がたくさん出てくる。
流動がそういう問題をどんどん生み出しているからこそ、全然違う立場の人の「あの人、何でああいう主張しているのだろう」ということに、共感や理解ができる懐がないと、流動層における制度の設計や実装はできなくなるのです。
だから、表面的な実装のところで言葉になっていない、背後に持っている本人の価値観をわかる力が一層求められるのではないかと思います。
大学においても、相手の懐に飛び込み、相手の言葉がどんな体験から来た結果なのかを学ぶことが、いつの時代も、あるいはこれからの時代はなおさら求められてくるかと思います。
今までも皆わかっていて、リーディング大学院もつくり、留学制度もつくり、2年生の時に別の学部にまたぐ制度も慶應にもありますし、いろいろ違うところから物事を俯瞰で見たり、自分の中に内在化できるチャンスを制度としてつくっていると思います。しかし、リーディング大学院がなくなってしまったように上手くそれを運用しきれない難しさがあると思います。
昔からずっと大学はユニバーシティで、共同体としてのモザイク模様、万華鏡であることで人を豊かにする理念は今も息づいていると思います。しかし、われわれ自身が、制度としてどう設計し、評価するかという価値観をそこに組み込まないと、わかりやすい軸での評価に押し負けてしまう。
これからの大学を担う人たちは、その評価の軸を、どう良識的に設定するかが問われているとも思います。
文理融合の契機として
ELSIに端を発した議論ですが、私は、これからは、小久保さんのような文理の垣根を越えた有為な人材がどんどん出てきて未来を担ってくれることが何より重要だと思っています。そして、そのために大事なことは教育ではないかと思っています。
政府が盛んに文理融合とか総合知を推奨していて、私もそれ自体は良いことを言っているなあ、と思いましたが、中味がよく見えてこない。会議に文理両方の専門家を入れるだけでは従来と変わりません。真の文理融合を図るとしたら、教育を変えていくしかないのではと思いますが、どうでしょう。
皆さまおっしゃるように、文理が教育の早い段階から分離していて、私もこれが問題ではないかと思っています。わが身を振り返っても、恥ずかしながら、理科や数学は高校3年時点の思考力を、それ以後超えられません。
法律業務をやっていると、例えば、技術に関する紛争にいくらでも遭遇します。わが身の科学リテラシーの低さを嘆きつつ歯を食いしばって取り組みますが、本当に科学技術への理解力はあらゆる職業で必要になります。
高度に専門化していく社会では、誰もが専門領域を持っているべきではありますが、一方で、文理の壁の前に思考停止するのではなく、その垣根を軽々と乗り越え、相手の言っていることをわかりあえるくらいの理解力は持てたらいいと思います。
牛場さんのご研究によれば人の脳には高い可塑性があるということですので、人間が持つ知の可能性も信じたいと思います。
人間の知を文理で分けてしまってはもったいない。誰もが文理両方の知を追い求められる。慶應義塾大学のような総合大学は、まさにそういうものを提供できる場ではないかなと思います。
大学は、先ほどの流動と根源の例で言いますと、学生に対し、知の根源を考えさせる仕組みとしてあると思います。
大学は、そういう根源的知を流動する世界からの挑戦に晒し、根源を問い直す契機を学生に与える。こういう循環が必要なのだと思います。しかし、最近、どうもそういう循環がない。ただ学生を固定化されたディシプリンに囲い込んでいる気がします。もう少し学生を少々危なくても流動の層に連れていく必要があろうかと思います。
粗っぽい比較になりますが、理科系の人たちもいろいろなディシプリンを持っていると思いますが、解決すべき問題が共有されれば、ディシプリンに関係なく技術を持ち寄って解決するという風土があるように感じます。他方で、人文・社会科学では、そもそも問題の切り取り方自体が分野によって多種多様です。
このような差異がもしあるのであれば、理系・文系の双方にとって学ぶところは大きいのではないでしょうか。理科系の人にとっては自然という対象そのものは単一であるかもしれないけれど、それから発生する問題には、いろいろな切り取り方があるということがわかるし、文系の人たちは、方法論は異なるとしても、問題をどうにかして共有し、1つの課題としてこれを設定して、解決のために人文社会系の知を結集・総合する構えをとらなければならない。
恐らく、そのような知的冒険やディシプリンの再編を可能にしてくれる1つの契機になるのが科学技術なのだと思います。
本日はお忙しいところ活発な議論を有り難うございました。
(2024年6月27日、三田キャンパスにて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。