登場者プロフィール
大南 信也(おおみなみ しんや)
O法人グリーンバレー理事NPスタンフォード大学大学院修了。建設業を営みつつ、1990年代から、「創造的過疎」を持論に、多様な人が集う徳島・神山町の町づくりを展開。神山まるごと高専設立準備財団代表理事。
大南 信也(おおみなみ しんや)
O法人グリーンバレー理事NPスタンフォード大学大学院修了。建設業を営みつつ、1990年代から、「創造的過疎」を持論に、多様な人が集う徳島・神山町の町づくりを展開。神山まるごと高専設立準備財団代表理事。
ERI(大津 愛梨)(おおつ えり)
その他 : O2Farm、NPO法人田舎のヒロインズ理事長環境情報学部 卒業塾員(1998環)。熊本・南阿蘇村にて農業を営む。2017年、国連食糧農業機関(FAO)アジア・太平洋地域事務所より「模範農業者賞」を受賞。SFC上席研究員(長谷部葉子研究会)。3男1女の母。
ERI(大津 愛梨)(おおつ えり)
その他 : O2Farm、NPO法人田舎のヒロインズ理事長環境情報学部 卒業塾員(1998環)。熊本・南阿蘇村にて農業を営む。2017年、国連食糧農業機関(FAO)アジア・太平洋地域事務所より「模範農業者賞」を受賞。SFC上席研究員(長谷部葉子研究会)。3男1女の母。
中村 駿介(なかむら しゅんすけ)
その他 : 株式会社リクルート ヒトラボ エグゼクティブ環境情報学部 卒業塾員(2006環)。株式会社リクルート人事戦略部部長を経て現職。2020年4月、地域おこし企業人として長崎県壱岐市に移住。株式会社Colere共同代表。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科在学中。
中村 駿介(なかむら しゅんすけ)
その他 : 株式会社リクルート ヒトラボ エグゼクティブ環境情報学部 卒業塾員(2006環)。株式会社リクルート人事戦略部部長を経て現職。2020年4月、地域おこし企業人として長崎県壱岐市に移住。株式会社Colere共同代表。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科在学中。
山中 大介(やまなか だいすけ)
その他 : ヤマガタデザイン株式会社代表取締役環境情報学部 卒業塾員(2008環)。三井不動産勤務を経て、2014年、山形・鶴岡市にヤマガタデザイン株式会社を設立。ホテル「スイデンテラス」、教育施設「キッズドーム・ソライ」等の街づくり事業を手掛ける。
山中 大介(やまなか だいすけ)
その他 : ヤマガタデザイン株式会社代表取締役環境情報学部 卒業塾員(2008環)。三井不動産勤務を経て、2014年、山形・鶴岡市にヤマガタデザイン株式会社を設立。ホテル「スイデンテラス」、教育施設「キッズドーム・ソライ」等の街づくり事業を手掛ける。
玉村 雅敏 (司会)(たまむら まさとし)
総合政策学部 教授研究所・センター SFC研究所所長塾員(1996総、2002政・メ博)。千葉商科大学助教授等を経て現職。博士(政策・メディア)。専門は公共経営、ソーシャルマーケティング等。地域活性化伝道師(内閣府)。地域力創造アドバイザー(総務省)。
玉村 雅敏 (司会)(たまむら まさとし)
総合政策学部 教授研究所・センター SFC研究所所長塾員(1996総、2002政・メ博)。千葉商科大学助教授等を経て現職。博士(政策・メディア)。専門は公共経営、ソーシャルマーケティング等。地域活性化伝道師(内閣府)。地域力創造アドバイザー(総務省)。
2021/07/05
画像:徳島県神山町の風景
「可能性の感じられる町」に
今日は「地方移住の現在形」をテーマに皆さんと話し合っていきたいと思います。移住と言うと、移るというイメージが強いかもしれませんが、住むということが大きなテーマでもあります。「住む」というのはその土地に暮らし、生業(なりわい)を営むということですね。自分らしくあるために移り住むこともあるのではないかと思っています。
そうはいっても、どこかで何か生業を営み「住む」ということになると、実はそんな簡単なことでもなく、かなり大変です。皆様が現場で挑戦をしてきたからこそ見えてきたことがたくさんあると思っています。今日は、まさしく現場で試行錯誤しながら未来をつくっていくことに携わっている皆さんにお集まりいただきました。
今回のテーマのもう1つは「現在形」なわけです。現場で起きていることに常に本質はあると思いますし、未来のことというのは、今どこかで必ず起きているわけです。未来に向けて、今、見るべき本質ということを今日はぜひ聞いていきたいと思います。
最初に皆さんから自己紹介を兼ねて、自分の経験とそこから少し俯瞰的に地方移住について見えてきたものなどをお話しいただければと思いますが、まずは大南さん、お願いいたします。
私は1953年生まれ、先月68歳になったところです。神山町に来られる若い人からは「お年を取られて、こんなことをやられているんですか」みたいな感じで聞かれますが、若い頃からゆるゆると、まちづくりに関わってきました。
徳島県の神山生まれ、神山育ちです。家業が建設業なので、公共工事で生計を立ててきたんですね。一方で、私は公共工事に頼らないような町のあり方があるんじゃないかなと思い、自己矛盾を抱えながらずっとやってきました。ここ数年は仕事5%で、自分のやりたい地域づくりに95%を時間的には割いているような感じです。
1977年から2年間、シリコンバレーで暮らしたことがあります。当時、自動車産業が非常に好調で日本のほうが優位と言われていた時代でしたが、その時期に、今のコンピュータ時代の下地が広がっていたんですね。そういうこれから何か起こりそうな雰囲気に触れたことは自分自身にとって大きかったかなと思います。
未来を予感させる感じですね。
そして、そこから戻ると神山で自分の家業の傍ら、商工会青年部などで地域づくりに関わっていきました。アーティストが常に町の中にいるような場をつくりたいと考え、1999年にアートプログラムを始めます。そうしてアーティストの移住者が町に生まれ始めました。
すると、今度はアーティストだけではなくてクリエーターなどの、多様な人たちが町に来るようになりました。それで、一連のアートプログラムなどを紹介するために、2008年に「イン神山」というウェブサイトを、総務省の補助金で制作しました。
神山はもともとそんなに仕事のある場所ではないです。NPOグリーンバレーは民間で動いているから、予算を使って仕事をつくることができません。でも、「ワーク・イン・レジデンス」という、仕事を持った人に移住してきてもらうためのプログラムを始めると、小さな起業者が集まり始めたんです。
そのうち、Sansanの寺田親弘さん(塾員)などが2010年9月から町を訪れ始め、面白そうだからこの町にオフィスを構えようと、サテライトオフィス設置の動きが始まり、デザイナーやクリエーター、起業家が行き交う場所になっていったのです。
そうした中、これから町の将来を組み立てていく上で「可能性の感じられる町」であり続けることが不可欠ではないかと、いろいろ議論を重ねながら神山町地方創生総合戦略がまとめられた。さらに2019年6月からは、寺田社長をはじめとした有志の起業家が、中心となって、次世代型高専(高等専門学校)をつくろうと、今、苦労しながら準備を進めているところです。
高専の話は後程じっくり伺いたいです。
そうですね。神山は、「創造的過疎」を移住政策のテーマに据えています。2008年以降、日本の総人口が減少するわけだから、これまでずっと人口が流出してきた神山のような場所で人口減少をストップするのは無理だろう。そうだとすれば、数を追いかけるのではなく、人口の中身を変えていこうという考え方です。
それが少しずつ効果を発揮し、2019、20年と連続して、神山町の人口は社会増になりました。依然として人口は減っていますが、社会増を達成したということは、結果、若い人たちの比率が高まっているということです。
神山を1つのフィールドにして、新しいことが次々と起こっていくことで、この場所だったら自分の思いを成し遂げられるかもしれないという可能性を感じ、また人が集まってくる。それを繰り返すことによって、人口は数だけじゃないんだ、ということを見せることができれば、様々な場所での可能性にもつながってくるかなと思い、日々活動を続けています。
過疎化の村に来て
おそらくいろいろな紆余曲折がおありだったのだと思います。続いて、大津さんお願いします。
私は大南さんとは全く逆で、縁もゆかりもなかった土地に、嫁という立場で来たわけです。
酸いも甘いもいろいろあった19年間でしたが、過疎化している村にお嫁さんとして来て、子どもを4人産んで、少子化防止には貢献しているし、実は塾員である父も移住してきて、村の人口を増やしたことについては胸を張って威張れます。家族だけではなく、この18年間で17組が、私たちを頼って阿蘇に移住してきました。その人たちが結婚・出産して、全員合わせると35人にもなっているんです。
でもそれが目的なのではなく、「農業を続けることで農村風景を守る」ことが私たち夫婦のライフワークです。だからいろいろなことをやっているように見えますが、ベースは常に農業。SFC同期の夫と、先祖代々受け継いでいる田んぼで無農薬と減農薬で有機栽培し、産直で全国の皆さんにお届けすることで専業農家として暮らしています。
私にとって、移住のきっかけはすごく簡単で、学生時代に一目惚れした相手がここ出身の人でしたと(笑)。そしてその人が郷里にいつかは帰ると言うから、年取ってから行くよりは若いうちのほうがいいし、自然豊かな中で子育てをしたいからと、好きな人の生まれ故郷に来たというだけの理由です。
農業はもちろんラクではありません。でも、私は農業を選んで良かったと思っています。農業をベースにすると、やれることは本当にいっぱいあって、それを思いつくまま次々とやりました。都市農村交流や加工品のチャレンジ、国際交流など。失敗も沢山しました。斬新なことをしようとして、地方の閉塞感に悩んだこともありました。
状況が大きく変わったのが、世界農業遺産を目指す活動に参画した時からです。知事らと一緒になって阿蘇をアピールし、見事に認定されました。
「世界から認められた阿蘇の価値を守りたい」という思いがさらに強くなり、生物多様性とか景観保全、持続可能な社会における農業などをテーマとした発信に力が入りました。メディア露出も増え、ちょっとした「出る杭」になると、変な噂を流されたり足を引っ張られたりして、プチ人間不信になったことも。でも、農作業に没頭していたら、農の癒し力に救われました。
その後、気持ちと発想を切り替えて、農村社会全体に一石を投じるというよりは、自分たちの農場でやれるだけのことをやってみようと動き出したのが令和元年。結婚20周年の年でした。日本の原風景といわれる田畑や森林、いわゆる「里山」を守りながら、再生可能エネルギー100%を目指し、農業・農村の新たな価値や存在意義を創造することに取り組み始めています。
会社員として壱岐に赴任
次は中村さん、お願いします。
僕は2006年にリクルートという会社に新卒で入り、一貫して会社の中で組織変革を仕掛けていくことに取り組んできました。大体3、4年周期で自分で組織や仕事を創り出しながら、挑戦を重ねてきています。
長崎・壱岐への移住のきっかけというのは、3年ほど前、新しい仕事のテーマを探していたときに、半分仕事で訪れた長崎県壱岐市が、ちょうどSDGs未来都市の認定を受けて様々な実証実験に乗り出していたところでした。
こんな自治体があるんだと思って感動したのと、実は僕は釣りが趣味なのですが、釣り好きにとって壱岐というのは聖地みたいな場所なので、ここに住めたら最高だなと思いました(笑)。そして市の未来や課題について話を進めていく中で、市の人口が2万6千人ということにピンと来ました。実は当時、僕がエンゲージメントを核とした組織開発の対象と捉えていたリクルートの国内事業の社員数が同じ2万6千人だったんです。ということは、市民を一つの組織と思えば、市民のエンゲージメントを開発していくこともできるのではと思ったのが、移住と仕事を結びつけて考えた最初でした。
そこから準備期間を経て、仕事の母体になる新しい組織を人事組織の中に立ちあげ、リクルートの仕事として長崎県壱岐市に行くことになりました。そこで玉村先生にご相談に行った際に、「地域おこし企業人制度(地域活性化起業人制度)がある」ということを教えていただき、その枠組みを活用して壱岐市役所職員の肩書もいただきつつ、リクルート社員としても働いています。
さらに、壱岐市に納税しつつ、自分が持っている組織開発の知見を社会に還元したいと考え、壱岐に友人と株式会社Colere(コレル)という会社を立ち上げています。そちらは今、副業やプロボノとして20名ほどの方々に関わっていただいていますが、全世界5つのタイムゾーンから、全員がフルリモートで参画しており、ほとんどの人が1度もリアルでは会ったことがないという不思議な形でコンサルティング事業をやっています。
さらに今、玉村先生の下で大学院生にならないかという話もいただき、気軽に入ったんですけど、忙し過ぎて大変な思いをしています(笑)。そういう形で今、長崎県壱岐市を舞台にいろいろとわらじを履かせていただいているという感じです。
鶴岡で起業する
お待たせしました、山中さん、お願いします。
僕は2008年にSFCを出た後、三井不動産に入社しました。デベロッパーをずっとやっていて、ショッピングセンターの開発に携わり全国を飛び回っていたんですが、ある時、もうこれ以上日本にショッピングセンターは要らないんじゃないか、と思ってしまったんですね。
とはいえアジアにショッピングセンターをつくることには興味が持てない。それで、課題先進国の日本から次の社会像を示せるような事業に携わること、自分自身が生める最大限の価値を社会に創出したいと思い、三井不動産を辞めて転職活動をしていた時に、冨田勝教授のご縁で、スパイバーという鶴岡で人工的にクモの糸を作る会社を紹介してもらったんです。
何も知らずに、初めて山形・庄内に来た時、もう空気がきれい過ぎて、これだと思った(笑)。スパイバーが何をやっている会社か深く理解しないまま直感で移住したのですが、冨田さんも、スパイバー社長の関山和秀さんも地方から世界水準のイノベーションを生み出すことに尽力されており、その行動力に刺激を受け、自分もこの場所であればゼロから挑戦できると感じ、移住したのが始まりです。
スパイバーに所属したのは2カ月だけで、いきなりヤマガタデザインという会社を立ち上げることになりました。慶應の先端研(先端生命科学研究所)は「鶴岡サイエンスパーク」というところの田んぼの中にあるんですが、行政財源が縮小する中、なかなか手を付けられなかった未整備地を民間主導で開発することから始めました。
今、私の会社は、地域のまちづくり会社として課題を解決する事業をデザインすることによって次世代がワクワクする未来をつくることを目指しています。グループ全体でエクイティ資金を34億円調達しており、地域のお金半分、外からのお金半分といったハイブリッド資金で、観光・教育・人材・農業の4つのカテゴリーで8つの事業に取り組んでいます。
NHKの全国ニュースでも取り上げていただきましたが、直近では、ぜひ大津さんにも使っていただきたい農業用の田んぼの自動抑草ロボットの開発を推進していたり、農業に関する事業ではその他、生産や人材開発にも取り組んでいます。
当社事業で一番有名なのは「スイデンテラス」というホテルですが、私自身はホテル屋さんになりたいとはまったく思っていなくて、事業を通じて課題を解決したい意欲が強いんですね。自分の親世代で、日本の未来が暗いと言っているコメンテータに一泡吹かせてやりたいと思いながら、いろいろな事業を楽しくやっています。
皆さんのお話しにあったように、地方には「つまらない未来」があるのではなくて、「ワクワクする未来のキザシ」がたくさんあると思います。また、課題というのは挑戦できるもので、挑戦してこそ面白いことができる。そこにエネルギーが出てくる、その楽しさがあるからそこにいるんですよね。それを実感しないと、地方というのは何か大変な世界だと思ってしまう。今日の前提はちょっと違うんだ、ということを改めて思いました。
地方のコミュニティの難しさ
山中さんのところは育児支援もやっているんですよね。若い人が来て子どもを産むわけですから、子育てというものに目を付けられたところはすごく大きいと思うんですね。
地域の株主さんの理解もあって、「キッズドーム・ソライ」という子どもの教育施設をつくったんです。ここには児童館と学童保育と保育園の機能があり、学童では、鶴岡市内の15の小学校のうち12校から児童が通ってきます。
私が常々思うのは、本来、行政は若い世代にお金を使うべきなんですが、今、行政の財源は硬直化していて、目先の医療や福祉系にお金を出さないといけないので、若い世代にまわるお金は削減される傾向にあります。若い世代にとっての魅力あるまちづくりといった時に、行政機能の限界があると思うので、そこを代替する民間のサブシステムとして、教育に対してお金を回せないかと思っています。
児童館の運営、学童の運営、保育園に加え、「ソライでんき」という電気事業を立ち上げ、地域の企業の電気の契約を全部、地域の教育に充てるようなプロジェクトもやっています。どうしても子どもの数が多い都市部のほうが教育環境がいいというところがありますが、地方においても、教育環境の充実に民間がかかわることはすごく重要な課題だと思っています。
課題にアプローチするだけでなく、そこで得てきたお金をさらに地域の課題に使っていくような仕組みまで整えていこうというところが面白いですね。
そういったことは、おそらく住まわれてきたからこそ見えてくる地域の課題やそこの人の関係性があって、その中でこの仕組みを整えてみると、実はこんなふうに変わるんじゃないかといった実感を得ることもできているのではないかと思います。
実はこちらにきて一番びっくりしたのは、地域同士って仲が悪いですよねということ(笑)。何でこんなに分裂しているんだろうと。
だから地方都市に住んでよくわかったのは、コミュニティの良さもあれば難しさもあるというところです。だからこそ、今、大南さんがやられているようなことや、大津さんや中村さんがやられているイノベーションを起こすことが、地方全体ではやりづらい環境にあるんだと思います。
逆にイノベーションが地域側で生まれるようなコミュニティの整理が必要なのかなと思うんですね。そのリーダーシップを取るのが行政なのか、大南さんがやられているような地域に根づいたNPOなのか、いろいろあると思うんですけど、これができるだけでもっと若者の移住は進むだろうなと思うのです。
僕は今、「ショウナイズカン」という人材紹介、Uターン、Iターンのサイトもやっているんですけど、Uターンの人は、親とか先生といった世代の大人と相談するんです。でも、親は地域の悪口を言う(笑)。だから自分の育った地域に対して不信感を持っている若い世代も結構多いんですね。
それで戻ってくると、さらにコミュニティの渦に巻き込まれて失望していくようなことを見ているので、そういうのはすごく不毛だなと思っています。人はどんどん減っているんだから、もっと外を前を未来を見たほうがいいんじゃないかなと思っているんです。
わかります。ある自治体との共同研究では、子どもが戻ってくるかは親が影響しているということがありました。地域に可能性を感じない、と親が感じていると子どもに影響してくる。従来とは違う、地域の未来に可能性を実感できるかどうかが重要ですね。
「田舎の枠」を広げる
私自身、これまで神山で何をやってきたのかを考えると、たぶん、田舎の枠とか地域の枠をなくすのは非常に難しいから、それらを少し広げるような動きだったのではと思います。
どういうことかというと、普通は田舎ではあり得ないようなことを見せていくんです。例えば、車で15分走ったら3カ所もゴルフ場があるのに、わざわざバッグを抱えて、飛行機に乗って、2週間、アメリカのカリフォルニアにゴルフ旅行に行く。地域の人たちは、最初は「あいつらはばかか」と言っていた。
それは、田舎の枠だと思うんですよね。移住者だけでなく、もともと生まれ育った土地の者に対しても、この地域で暮らす人間はこうあるべきといった枠があるわけです。僕自身は、20代の半ばにカリフォルニアで暮らしたら、すごく空気が気持ちいいし、爽快だと知っているわけです。人間関係もすごくドライです。
そこから一転、梅雨の真っ最中みたいな神山の地域社会に戻ってくると、すごく窮屈です。地元の人間である自分自身がそのように感じるのだから、よそからやって来た人たちにはなおさらだろうと感じました。だから、その「田舎の枠」を広げることを始めたわけです。
田舎ではこんなことをやったら駄目と言われるようなことをやるわけです。地域の人たちは、最初はばからしいことという捉え方をするのだけれど、連続的に展開されていくと、それがあまり変わったことだと思われなくなる。そういう状況をつくり出していくと、結果的に、田舎の枠が広がってくるんですね。
すると何が起こるかというと、もともと生まれ育った人間も地域の中で手足を伸ばせるような空間が生まれる。余白が生まれるわけです。そういう余白の生まれた田舎というのは、田舎独特のある程度密接な関係があるとともに、ある程度の自由度があるという、いいとこ取りができるんだと思います。
結果的にそれが外から移り住んできた人にも、ちょっとここは普通の田舎と違って、自由度が高く、フラット、さらにオープンだよね、となるのかなと思います。
今のお話はすごく納得です。この間、地域の企業の社長さんから「君たちが来て、僕の常識が完全にマヒした」と言われたんですね。だから地域の常識をいい意味でマヒさせていくということが重要なのかなと思っていますし、大南さんがやられてきたことも、まさにその先進事業だと思います。
大津さんが自然にやってきたことも地域の常識をどんどんと変えてきたのでしょうね。常識って、あると言えばあるけれど、枠を広げることはできるのですね。
そうですね。最初に集落の人に驚かれたのが、街灯をつけるという話が持ち上がった時、「夜が暗いのが魅力。街灯を付けたら星が見えなくなってしまう」と私が言ったらしいんです。そのときに周りの人に「え?」という顔をされて。価値観の違いですね。
あと、三男坊が不登校になった時です。小さい頃から、「この先、誰も経験したことない状況や社会になっていくのだから、自分の頭で考えなさい」と育てているのに、学校に入ったらこれをやりなさい、あれをやりなさいと言われたので、いつ不登校になってもおかしくないと覚悟はしていました。だから、「お母さん、学校、行きたくない」と言い出した時、やっぱりね、という気持ちで「行かないのはいいけど、家にいるなら農業を手伝ってよ」と容認したので、学校は行かせるべき、という常識を持つ周囲からは結構引かれてしまいました。
話を移住に戻すと、移住に対してあまり構えすぎないのがいいんだと思うんです。正直、日本でも海外でも、ローカルに行けば行くほど保守的な空気やしがらみがあるのは同じだと思うんですけど、「しっくりいかないならまた別の場所に行けばいい」というぐらいの気軽さが重要かなと思うんですね。
ライフセキュリティを考えたら、タワマンに住んでいる友達に「そこにいて大丈夫?」って聞きたくなってしまう。何かあったらどうするの?って。そういう意味では、農村の常識を変えるのではなく、逆に都会の常識を覆すというか、「生きる」ことを意識して、住む場所を考えるべき時が来ているのではないでしょうか。田舎に移住したら収入は減るかもしれないけど、プライスレスな暮らしが待ってるかもしれないよ、という投げかけをしています。どちらが正解と言うのはもちろんありません。でも、都会にしか「良い暮らし」がない、という時代ではもうありませんよね。二拠点という選択肢もありますし。
自分にとって自然なこと
なるほど。確かに構えるといろいろなことを考えてしまいますし、結局、常識というのは皆がそれぞれ持っていて、それぞれ違うものなんですよね。中村さんは今、リクルート本社の人事や組織開発の仕事をしながら、壱岐に住んで、さらに、漁協の準組合員や地域の一員としてまちづくり協議会の活動もされていると聞きました。そういったことを、なぜ自然にされているのが気になるところです。
そうですね、確かに、あまり自分が常識的な人間だとは思わないですが、自分がなぜ移住しているのか、その選択がなぜ自分の中で自然だなと思ったのかと言えば、社会人9年目の頃に改めて気がついた、自分が求める「あり方」にシンプルに従っているからと言えると思います。
それは何かと言うと、1つ目は「自由」であること。2つ目は常に「新しいこと」をやること、3つ目はそれを「自分でやる」こと、この3つ以外に自分が大切にしたいことはない、ということに気がつきました。今はその3つを自分の本能と捉えていて、それを満たせるか満たせないかだけで自分が何をするかを判断しています。
仕事もすべてそれで決めてきた中で、自然と湧いてきた選択肢が移住であって、「何で移住したんですか」と言われると、そういう自分の本能にただ従って、流れた先がたまたま壱岐でした、というだけの話だなというところがあります。
後づけで、なぜ壱岐だったのかとか、そこでどんなチャレンジに価値を感じているのかを語ることはもちろんできますが、正直に言えば、自分が生きたいように生きています、ということかなと思うので、僕の中の常識がそうだったということになります。
そうすると、「移住した」ということは、壱岐の人からも多くの会社員の方からも、非常識に映るかもしれない。移住というものをどの立場からどう評価するのかという視点もあるのだと思います。
すごく率直な思いですよね。「自分であり続ける」「自然である」ということ、それは結構大変なことです。だけど、その場所を選んで、そこにいることで「自分らしくあり続けること」、そして、自分勝手にではなく周囲と影響し合って、無理なく「自然であり続けようとすること」が、その地域の可能性や枠も広げていくことになるのだと思います。
地域に来る人に何を期待するか
大南さんに質問していいですか。私はアラフィフで気分的にはもう次は孫が欲しいぐらいですが(笑)、地方でも都会でも、今、昔の常識が通じなくなっています。それは人口が減っていて、その傾向が地方、農村部では特に激しいですから、今まで皆でやってきた常識というものがこのままでは継承できないという状況もあるわけですね。
そういうことに対して、今、中村さんが言った通り、「自然に行くよ」といった価値観は、若い世代の人は持っている気がするんですけど、年配の世代の方は違うと思うんです。
今のこの景観を守り続けてきたという価値はすごく大きいと思うんですけど、一方で、今までの常識がもう通じないという状況の中で、大南さんの同世代、またさらに上の世代の方の受け止め方というのはどういう感じなのでしょうか。
私自身は、続いていかないことは無理して続ける必要はないという考え方で常に動いています。例えば、村祭りの参加者が減って成り立たないから神輿の担ぎ手が必要だ、若い人来てちょうだい、みたいな感じがありますよね。
若い人に来てもらうということに対して地域側の要望というのは、まず労力が足りないから手伝って、みたいなことが結構多く、これは若い人たちの能力の点で評価したら、非常に過小な評価になります。そうではなくて、この人たちが何ができるのかに焦点を当てた形で「手伝って」と言うほうがいいと思うんですね。
中村さんがおっしゃったように、「自然に」というのが一番いいと思います。僕らにできることは、とにかくまっさらな目で、田舎を見つめられる人をとにかくつないでいって、ありのままを見せる中で、ある人たちに気づきを持ってもらうことです。
人間に一番大事なのは気づきだと思っています。この気づきが難しいのは、気づきというのは本人の内側に湧き出てくるものなので教えられない。だから、できるだけ多くの人たちに、町の状況を見てもらう中で、これは自分が行動しなかったら、将来的になくなる可能性もあるな、と気づいた人たちに集まってもらって、その輪を広げていくという方法が大事だと思います。
「担ぎ手が足りないから集まって」みたいなことはモチベーションとして定着しないから、絶対長続きしない。地域全体を見て、「ここの町にはこういうことが足りないように思うから、そこを埋められるのは自分じゃないか」といった形で人が集まってくるイメージで捉えたほうがいいですね。
移住の問題に対する行政の向き合い方も、今はだいぶ変わってきています。以前は、とにかく定住者を増やそう、要は人口に応じて配分される地方交付税をより多く獲得したい、そうすればいろいろな事業ができるという発想でした。
そうではなく、結果的に、風のように吹き抜けて行くような人たちも、いろいろな機能を果たしているわけですね。神山はアーティスト・イン・レジデンスをはじめ、それがワークになり、クリエーターになり、トレーニーになり、今だったらスタートアップもあります。ホース・イン・レジデンス、馬のレジデンスまでできています(笑)。
レジデンスというのは、定住するわけではないのです。例えば1カ月から6カ月間ぐらい試しに神山に住み、いろいろなことをやってみる。その中から移住者が生まれていくという形なので、定着率が全体に高いのかなと思います。
結果的に、そうやって、いろいろなジャンルの人たちが町に集まり、それが関係人口をつくって、次なる変化をその人たちと一緒に住民が起こしていく1つの原動力になっているという気はしますね。
いいですね。守り続けると何もしなくなる。常に「気づき」をいろいろな人たちが持ち続けるということがないと、実は守り続けられないんだということがあります。
地方創生イコール人口問題として、人の数が注目される。それもそうですが、人が減ってしまうとなかなか気づきが得にくくなる。人が減ることで、共に行うことや人が出会う機会が減ってくる。いろいろな人たちが来て影響を与えることがないと、その地域が多様性もなく、可能性を感じなくなってしまうことが多いわけですね。
過疎地域に高専をつくる
今日お話しをさせていただいている皆さんは共通して、地域で暮らしながらも、学問の場を身近に持ち合わせていますよね。中村さんは今、SFCの大学院で学ばれていますし、大津さんのまわりには塾生が滞在しながら遠隔授業を受けているようですし、大津さん自身もSFC研究所の上席所員をされています。山中さんも学びの場を創られています。大南さんは神山町に高専を立ち上げようとしています。
福澤諭吉先生は、1858年に慶應義塾をつくりました。時代の転換期に、これから未来をどうするかという時に、学びの場をつくりました。『学問のすゝめ』も書き、それぞれの人が学問を通じて、1人ひとりができることや見えることを広げていき、独立自尊を通じて未来をつくっていくという発想でした。
さて、世の中、過疎地域ではだんだん高校がなくなっていく中で、神山町では、どうして新たに高専を立ち上げようとしているのでしょうか。
きっかけをつくったのは、2010年10月、神山にサテライトオフィスを置いたSFC出身のSansanの寺田社長です。寺田さんから10年以内の株式上場を果たし、上場後は、2つの事業、1つはエネルギー関係の事業、もう1つは教育に関する事業をやりたいと聞きました。
当時は若い起業家の夢なのだろうと受け止めていたのですが、2015年末、東京で一緒に食事をした時、昼間は金沢国際高専を訪れていたという話を聞かされ、その時、これは本気なんだと思いました。
なぜ高専なのかと言うと、今、全国的に見て、特色のある私立の小中一貫校や中高一貫校がたくさん生まれています。一方で神山は、公立の小学校、中学校は一学年20人余りです。地域側の視点に立つと、神山にそうした一貫校ができ、仮に1学年で2人が入学しただけでも全体の1割に相当するわけで、公立の教育が成り立ちにくくなります。これは町民の賛同も得られないだろうと。そこでいろいろ探る中で高専がいいなと思い始めたのです。
神山の中学校を卒業した子たちは、8、9割が徳島市内の普通高校に進学し、町を出て行くわけです。そうだとすれば、そこに新しい高専という選択肢を提示することは、神山の子どもたちの進路を広げるということですから、町の賛同が得られやすいし、町民からのサポートも得られやすい。
一方、高専というのは今から60年ぐらい前に出来上がり、高度成長の時代、製造業を強くしようということで、工場長や、製造業の重要なポジションをその出身者たちが担いながら、日本が発展してきた。ところが、その製造業が中国や東南アジアに工場を移してしまった結果、新しいITの産業やAIというところの人材は手薄になっているんですが、高専がこれまで積み上げてきた多くの実績や成功体験が逆に足かせとなり、急に新しい方向に転換することも容易ではありません。
だから私立という、ある意味、軽いフットワークの中で新しい高専が出来上がったら、これは日本の教育システム自体にもインパクトを与え得ると考えたのです。5年間、間に入試もなく、入学時点で理系も文系もない。工業系大学と美大とMBAが一緒になったような高専です。2023年4月開校予定で、1学年40名全学年5学年集めても200名の小さな学校です。
そこから、出口として大学へ行くこともできるし、自ら起業する人も生まれるかもしれないし、企業に就職する人もいるでしょう。これまで人口5千人程度の小さな町に高等教育機関がつくられた例はありません。このプロジェクトを成功に導くことによって、日本ばかりでなく、世界の辺境にある小さな町や村に大きな夢や希望が届けられると確信し、今、奮闘を続けています。
「神山まるごと高専」(仮)といって、神山をまるごと学びの場として捉えて、テクノロジー、デザイン、さらに起業家育成という発想でやっていこうという学校ですよね。学生がまさしくイン・レジデンスするわけです。そういった仕組みを持つことが実は、地域の皆さんの様々な「気づき」や可能性を広げていくことにもなっていくのだと思います。
現場で実践しながらの学び
何かを現場で実践しようとする時はやはり学びながらというか、自分が見えることを広げていくとか、感じていることを客観視していくといったことが重要だと思います。大学院で学んでいる中村さんいかがですか。
僕は移住して1年間、大学院に入るまでの期間があったんですが、それは僕がリクルートという会社の中で培ってきたことをアウトプットする時間だったかなと思っています。
一方で、僕は大学院生になってまだ2カ月ほどですが、新たな学びを通して急速に自分がいる場所の見方が変わってきています。例えば、政府、市場、コミュニティといった社会を構成する3つの要素の関係性が歴史的にどう変わってきて、今後どうなっていくのかといった見方を得ていくにつれ、この1年間、見てきた地域が、また違う活躍、違う挑戦のフィールドのように見えたりします。
僕はもともと市場原理の中の私企業の人間として組織開発をやっていたのですが、現在はそれに加えて、大学院生、公務員、そして地域コミュニティの一員という4つの人格や立場を持って生活しています。
今まで分かれていたものが融合していくということが、僕の場合、実際に自分の中で起きているわけで、何か今までと違う個人のあり方や働き方、そして地域のあり方やその変え方のパラダイムチェンジが学びによってもたらされるのではないかと思っています。
今の時代、大学院などでは、大学での学びと、現地に住み込み、現場の実感が目の前にありながら研究や挑戦をし続けることの相乗効果を得ることもできます。SFCだと「地域おこし研究員」という枠組みで、連携自治体に任用されて住み込み、政策・メディア研究科で学ぶ制度もあります。
変わる企業のあり方
今、リクルートの社員も地方や郊外に移住している人が増えているんじゃないでしょうか。企業から見ると、社員が地方に住み始めることはどう見えていますか。
短期的には、労務からコミュニケーションまで新たなマネジメント課題がたくさん生まれてくる話なので、止められないなと思いつつも難しい状況だなとは捉えていると思います。
ただ、長期的に見ると、会社が労働市場から、なぜその会社が存在すべきかと評価される点において、今までのような「お国のため」ではなく、これからはローカルのために、もしくはローカルの集合としての「お国のため」に自分たちは存在しているんだということになると思います。個々人とローカルの接点というものの意味が企業にとっては大きくなり、存在意義を立脚させてくれる接点になっていくのではないかとは思っています。
大都市の会社に勤めながらも地方に住むというキザシもある。それはコロナだからということだけではなく、そもそも企業のあり方を考えるタイミングになってきているのかなとも思います。山中さんはいかがでしょうか。
僕自身、何で地方に移住して、起業して、まちづくりに取り組んでいるんだろうと思うと、自分が幸せだから今やっているんですね。
僕の思う幸せな人生って、人生は自分のためにあるということと、何かのために生きるということの両立で、自分のためであるということの究極形は何かのためだと思うんですね。このパラドクスに気づくと、すごく人生幸せです。「神山まるごと高専」の「利己的に学び、利他的に実現する」という言葉はまさにこの考え方で素晴らしいなと思います。
僕たちが今やっているソライ教育では「主役は自分、戦略は使命」と言っていますが、「戦術は狂気」ということを付け加えています。この言葉は、人生においては夢中になることが大切だということを伝えています。
「キッズドームソライ」は個性教育をしていますが、そのフックになるのは夢中体験を徹底して積ませることです。「これは自分がやるんだ」と思ったら、とにかくそれをやると思い込む。これが人生を幸せに生きるにはすごく必要なことだと思っています。
夢中になれることの重要性ということですね。結局、生きることの意味もそうかもしれませんが、本当に自分が夢中になれるか。逆にそうじゃないと面白くないということはたくさんあると思います。
「地方に住んだ」ことの価値
多様な視点ということを考え、私が母であり、この中では唯一女性という視点から言いたいと思います。
今後、大人も学び続けるということが非常に重要になると思います。誰も経験したことのない社会に直面していますから、大学の時に学んだことが通用し続けるはずはなく、大人も学び続けなければいけないですよね。
私もSFC研究所の上席所員になり、来年4月には博士課程の入学を目指しています。私の目標は50歳までに博士論文を書くこと。私も主人もランドスケープ(景観)の勉強をしてきており、土地利用型(田んぼや畑)の農業を通じて、学んだことを実践しています。生き物調査や景観調査も継続してやってきているので、就農20年を区切りに論文にしたいのです。
持続可能な社会におけるヒントは、結局、自然界にしかないと思っています。もちろん技術革新とかイノベーションもあるのでしょうけれど、島国である日本で自然と共存しながら、国土や暮らしを守るためには今後どんな選択肢を取ることが必要で、どうやって再生産して次世代につなげていくのかというヒントは自然界にあるのでは、と。
農村部に限らず、何ができるかにチャレンジするには大人も学び続けなければいけないし、その姿を見た子どもたちに「こんないい所を出て行くの?」と言い切れるぐらいの立場でいたいなと母としては思います。
家庭教育というのは学校教育では絶対に補えない部分があり、家庭教育の大きな部分を担っているのがやはり母親です。その母親が偏差値に左右される価値観ではなくて、子どもたちに「生き延びられる力をつけさせる」という価値観のもと、子どもが小さいうちだけでも農村部にいられる社会があったらいいなと思います。
私は、「子どもが小さいうちは自然の中」という、理想的な環境で子育てをさせていただいていて、たとえ都会にいる時の収入の半分でもやっていける自信もあるんですが、やはり子どもが成長するに従って、お金がかかるという現実もあります。
そこで、「地方に住んだ」ということが、キャリアパスになってほしいと思っているんです。つまり、地方に移って、そこの地域のリソースに目を付けて、工夫をしながら地域の人とやっていく暮らしを10年も続けていれば、相当なマネジメント能力といろいろなアイディアを得ているはずなのです。
田舎暮らしの経験を買われてヘッドハントされて、子どもにお金や選択肢が必要な時期になったら、単身赴任ではなく家族ごと都会に戻れるようになれば面白くないですか。地方で見つけたヒントを活かしたビジネスや学びができるような社会がいいなと思っています。
おっしゃる通りですね。SFCの学生を見ていると、地方で主体的に現場で活動し、地域の人とちゃんとやってきた人は本物で、大学でもまわりと影響し合って自然と成果も出していく。AO入試などでも、地域の現場で自ら情熱を持ち、本気で取り組み、人も巻きこみ、豊かな経験を育んできたことは評価される時代と思います。
本質的なことをちゃんとやり抜くということは意味がある。それは「地方だから」に限らないですが、まさしく神山のような、いい地域はいろいろな人が影響し合って、人の気づきをたくさん増やせるわけですから、その中で人が育ってきたということはすごく価値があると思います。
地域の人と移住者がつくる新しい社会
行政の移住支援に際して必ずと言っていいほど聞こえてくるのが、地域側からの、「なぜ移住者だけが優遇されるのか」という声です。自分たちは対象とならない補助金等に対する不満があるわけですね。
例えば神山の私の世代、70歳前後の人間は、親世代から、段々と過疎化が進んできているけれど、長男1人であれば生計が成り立つだろうから、帰ってこいと言われ、少なくとも長男は帰ってきたわけです。
ところが、私より15歳ぐらい下の50歳前後の人材は、今、地方では希薄となっています。親の世代が高長の中で、もう帰ってきても田舎には希望がない、いい大学を出て、都会で新しい可能性を見つけなさいとUターンの選択肢を外した時代なんですね。
現在、30代、40代は移住や交流人口という形で町に入ってくる。そして、町の多くの人たちが、この町には可能性がないと思っていたところに、可能性をいろいろと掘り起こしてくれているのです。最終的にこれらの動きが町内出身者にも波及し、新たな可能性を見つけた人たちがUターンしてくると思うんです。ところが、こうした大きな循環の中で、お金や資金を移住者に集中的に投資をするという一部分だけが切り取られ、自分たちには何もないのに移住者を優遇する、という話になってしまっている気がします。
一方で70代後半の方から「最近神山は変化してきたが、この先どう変わっていくのかが楽しみだ。もし自分にできることがあれば何でも言ってほしい」という、気づきを得た人が出てきているんですね。30年間近く活動してきてこういう人たちを目にするのは、この4、5年が初めてです。
やはり田舎は田舎の人間だけで守るという、これまでの考え方に固執することなく、関心のある人たちも一緒になってやればいい。その1つの形が移住なのかなと。こうして住民と移住者の歩み寄りによって、柔軟に変化していく社会を一緒になって築いていくという方向が重要なのではないかという気がしています。
今日の話は、移住って別にしなければいけないものじゃない、好きでやっていますというのが最大公約数かと思いました。「移住ってどうですか」とか「向こうへ行ってどんな生活があるんですか」という質問は日々たくさんあるんですが、そういう質問が重なるほど僕の胸の中に高まるのは、自分で自分の人生をデザインするとか、自分の人生を生きるということに素直になった結果、単に移住していたのではないかということです。
別にそれは都市で生きていてもいいのですが、自分がそうありたいように生きるというか、その大切さを考え直すきっかけの1つが移住かもね、ぐらいの感じが僕はいいんじゃないかなと皆さんの話を聞いて感じました。
前職で働いていた時に、これは自分らしい人生なのかというところがずっと引っかかっていました。当時、長女が生まれていたのですが、自分の子どもに自分の人生を胸を張って語れるようになりたいと思ったのが移住の決め手だったんですね。
そう言えるためには、やはり幸せの価値基準は自分が決めるということがすごく大事で、自分らしく生きようとわがままに考えた時に、地方の豊かな自然環境の中で、家族や友人との時間を大切にしながら、エキサイティングな仕事をしていければと思いました。地方は、そういったわがままをかなえてくれる可能性があるということが今は分かります。
今の生活を変えて大丈夫なのかと思っている人は結構いると思いますが、飛び込んでみると大したことはなかったりします。自分がどうありたいか、わがままに決めたらいいんじゃないかと思います。地方に移住すれば、必ず新しい道は開けると本当に思います。僕らの議論がそういった方の背中を押すことにつながれば嬉しいですね。
皆さま有り難うございます。お蔭さまで示唆に富む座談会となりました。人口減少社会というと、人の数の話になりがちですが、「可能性を感じにくい」「気づきが減少」といったことが起きやすい。そこに、自分の基準を持ちながら地域に住み、営みをもつ移住は意味を持つと思います。
「ソサエティ」という言葉を福澤諭吉先生は「人間交際(じんかんこうさい)」と訳しました。社会の本質は、人と人との間のつながり・やりとりです。
地域社会ほど人のつながりが濃く、動きにくいと考えがちですが、地域の人々も移住者も、濃いつながりの中で影響し合うことで、様々な気づきや可能性を増やしていける。そこで暮らすことで自然と気づくし、自分の可能性もどんどん見えてくる。そして、さらに影響し合う。そういった好循環がある社会はさらに人々を惹きつける。人々が影響し合う、つながりの連鎖がある社会の大切さを改めて思いました。
今日は有り難うございました。
(2021年6月1日、オンラインにより収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。