慶應義塾

【特集:英語教育を考える】座談会:AI時代こそ大切になる"ことば"の学びとは

登場者プロフィール

  • 阿部 公彦(あべ まさひこ)

    東京大学大学院人文社会研究科教授

    1989年東京大学文学部卒業、97年英国ケンブリッジ大学博士号取得(Ph.D.)。専門は英米・英語圏文学、英米詩研究。英語教育政策についての発言多数。著書に『理想のリスニング』『ことばは「形」から読む』等。

    阿部 公彦(あべ まさひこ)

    東京大学大学院人文社会研究科教授

    1989年東京大学文学部卒業、97年英国ケンブリッジ大学博士号取得(Ph.D.)。専門は英米・英語圏文学、英米詩研究。英語教育政策についての発言多数。著書に『理想のリスニング』『ことばは「形」から読む』等。

  • 瀧野 みゆき(たきの みゆき)

    経営管理研究科 講師(非常勤)その他 : 社会言語学者

    塾員(1983文)。2016年英国サウサンプトン大学応用言語学博士課程修了(Ph.D.)。16年間英国に在住し、英語教授法等を学び、現在社会や仕事で「使うための英語」を教える。著書に『使うための英語』。

    瀧野 みゆき(たきの みゆき)

    経営管理研究科 講師(非常勤)その他 : 社会言語学者

    塾員(1983文)。2016年英国サウサンプトン大学応用言語学博士課程修了(Ph.D.)。16年間英国に在住し、英語教授法等を学び、現在社会や仕事で「使うための英語」を教える。著書に『使うための英語』。

  • アダム・コミサロフ(Adam Komisarof)

    文学部 教授

    1990年ブラウン大学教育学部卒業。2008年国際基督教大学大学院行政学研究科博士課程修了(Ph.D.)。16年より現職。専門は異文化間コミュニケーション。著書にThe SAGE Handbook of Intercultural Communication等。International Academy for Intercultural Research 元会長。

    アダム・コミサロフ(Adam Komisarof)

    文学部 教授

    1990年ブラウン大学教育学部卒業。2008年国際基督教大学大学院行政学研究科博士課程修了(Ph.D.)。16年より現職。専門は異文化間コミュニケーション。著書にThe SAGE Handbook of Intercultural Communication等。International Academy for Intercultural Research 元会長。

  • 山本 富夫(やまもと とみお)

    一貫教育校 ニューヨーク学院高等部教諭、同校主事

    塾員(2007文)。幼少期より英語圏で育つ。大学卒業後、私立高校英語科勤務を経て、2011年慶應義塾湘南藤沢中・高等部教諭。12年~21年慶應義塾高等学校教諭を経て、21年より現職。

    山本 富夫(やまもと とみお)

    一貫教育校 ニューヨーク学院高等部教諭、同校主事

    塾員(2007文)。幼少期より英語圏で育つ。大学卒業後、私立高校英語科勤務を経て、2011年慶應義塾湘南藤沢中・高等部教諭。12年~21年慶應義塾高等学校教諭を経て、21年より現職。

  • 原田 範行(司会)(はらだ のりゆき)

    文学部 教授文学研究科 委員長

    塾員(1988文、94文博)。博士(文学)。杏林大学教授、東京女子大学現代教養学部教授、同学部長を経て2019年より現職。専門は近現代英文学、比較文学、出版文化史。日本学術会議会員(言語・文学分野委員長)。

    原田 範行(司会)(はらだ のりゆき)

    文学部 教授文学研究科 委員長

    塾員(1988文、94文博)。博士(文学)。杏林大学教授、東京女子大学現代教養学部教授、同学部長を経て2019年より現職。専門は近現代英文学、比較文学、出版文化史。日本学術会議会員(言語・文学分野委員長)。

2025/05/11

150年以上続く英語教育の議論

原田

今日は「英語教育を考える」をテーマとして皆さんとお話ししたいと思います。

日本では150年以上にわたって、英語教育に関して実に様々な議論がありました。英語教育は、一義的には言語教育ですが、世界における日本の役割や立場、あるいは政治経済、文化や科学技術のあり方にも深くかかわってきます。さらに、海外の情報を得たり、文化について考えるような場面で英語を使うこともあれば、実際に英語を使って交渉し、議論するという場合もあって、英語教育の目的も、英語を使う環境も、実に多岐にわたっています。

日本語という環境の中で生きている以上、すべての国民が、毎日英語を使って仕事をしたり、生活を営んだりするわけではありません。しかし、日本語だけでグローバル化、国際化する現代社会に対応できるかというと、決してそんなことはない。これは、福澤諭吉が、オランダ語では通じないからということで、慶應義塾を英学塾にした当時から変わらない状況だと思います。

英語はまた、日本のみならず、大学の入学試験で極めて重要な科目になっていますが、受験科目としての英語の学習が、実際の「英語力」とあまり結びついていないという指摘もあります。

英語学習は現在、小学校から始まっていますが、どのような展開が望まれるのか。特に高校から大学というところでは、様々な高大接続の可能性が探求されている中、具体的にどのようなプリンシプルや実践が考えられるのか。そしてまた、急速に利用が広まっているAIが人間の言語環境に大きな影響をもたらしている中で、英語教育をどのように考えていけばいいのか。

皆さんはこれまで英語教育、英語教育政策、あるいは日本人にとっての英語、異文化理解などについて、様々なご経験をお持ちだと思います。自己紹介を兼ねてまずお話しいただければと思います。

瀧野

私は大昔に慶應の東洋史で中国語と中国史を勉強し、その後、回り回って、今は慶應のビジネススクールでビジネスコミュニケーションとしての英語を教えています。

今までビジネスの中で英語を使ってきましたが、アメリカに留学して、自分の考えを英語で上手く伝えられず、苦労しました。どうして今まで学んだ英語教育が役に立たないんだろうとも考えました。一方で、イギリスに16年ほどいて、子どもがイギリスの学校で学ぶ中で、英語というものが、すごく豊かで面白く、また、日本の英語教育とは全く違う学び方があることも知りました。

日本人が、英語を使って世界に語りかけることをもっとできるようになってほしい。それを手伝うような教え方ができないだろうかと考え、その1つの選択として、English as a lingua franca、つまり、ネイティブ英語を規範にするより、世界中の人にわかりやすいということを重視する、「共通語としての英語」の考えを取り入れて教えています。

山本

私は4歳から7歳までイギリス、7歳から17歳までニューヨークで過ごしました。現在、教えている慶應義塾ニューヨーク学院の卒業生です。

このようなバックグラウンドですので、英語学習は逆算しているイメージです。つまり、冠詞や比較級や、関係代名詞等の文法事項は、使える状態から、逆に理屈を学んで生徒たちに教えていたので特殊な形だと思います。

授業において常に意識しているのは authenticity で、生徒には本物に触れてもらいたいと思っています。できるだけ原典を読んでもらうことを、特に慶應義塾高校(塾高)で教えている時は意識していました。

コミサロフ

私は、慶應の文学部で英語と異文化間コミュニケーションを教えています。それ以外にも慶應ビジネススクールや通信教育課程、経済学部CEMSプログラムなどで、英語の聞き取り練習やアカデミックライティング、異文化間コミュニケーションなどを教えています。出身は米国ですが、日本に住んで27年になります。

私は英語を教える際に、異文化間コミュニケーションとリベラルアーツとの相乗効果が出るようなアプローチをしています。

阿部

私は英語体験としては、たぶん幼少期が一番英語ができました(笑)。1歳頃から3年ほど北米にいて、保育園と幼稚園までは英語圏だったんです。ただ、日本に帰ってからはあっという間に英語を失いまして、失ったものをいかに回復するかで苦労してきました。

その後、海外に住んだのはずっと後で、博士論文を書くためにイギリスに行って、3年半ほど勉強しました。その後はずっと日本です。ですから、英語との出会いは非常に中途半端という感じです。

その後も境界上の模索は続いて、留学先は英国ですが、博論は米詩人 Wallace Stevens だったり、20世紀詩が専門と言いいながら、実際には小説や日本文学のこともやっています。ただ、言葉についてはずっと関心があり、言語学にも興味があるので、今でも言語と文学のつなぎ目みたいなところでいろいろ仕事を試みています。

「しゃべりたいけど、しゃべれない」

原田

よく出てくる身近なテーマに、「しゃべりたいけど、しゃべれない」ということがありますね。このあたり、瀧野さん、いかがでしょうか。

瀧野

「しゃべりたいけど、しゃべれない」ということは多くの人が感じることだと思いますが、それは当たり前のことではないかとも思います。

つまり、英語で話したり聞く練習をしないで急に話そうとしても、すぐにはできないわけです。今まで自分が学校教育などで学んできたものを、今度は使うために訓練する場がどうしても必要だと思います。学校で学んだから「さあ、ペラペラになるだろう」という期待値そのものが大きすぎるというのが1つあります。

では、その訓練をする場が英語教育のどこにあるのがいいのだろうということです。私は英語を使いたい学生たちが自分の興味にあわせて英語を「使う練習」をする場は、大学が担うべきなのではないかと考え、そういう授業をしています。

今まで学んできた学校英語にダメ出しするのではなく、それをいかに上手く使って、自分が表現したいことに結びつけていくか、学校で学ぶ英語と実社会で使う英語の橋渡しをするということです。多くの日本人は海外で英語がどのような場でどう使われているか、どんなスキルが必要か、知らないことが多い。だから、「こういう場面があるんだよ」などと教えて訓練していけば、日本で英語を勉強してきた学生たちも英語を使えるようになると思います。

ただ、英語で何もかもできるようになるのも難しく、言葉というのはなかなか手ごわいものです。ですから、まずはそれぞれの学部によって英語の使い方が違うのだとしたら、その学部に合った使い道を意識しながら訓練していくことが、大学でやるべきことではないかと私は考えています。

原田

なるほど。山本さんは、塾高などでのご経験をお持ちですが、この問題をどうお感じになりますか。

山本

塾高も含めて義塾の一貫教育校は様々な工夫をしています。ただし、どうしても物理的、時間的な制限があります。例えば塾高ですと標準クラスと上級クラスの2つに分けます。上級のクラスは20人ぐらいで収まりますが、標準クラスですとどうしても35人くらいになってしまいます。その人数で50分の授業を週数回行う中で、リスニング、スピーキングなどの練習時間が確保できるかというと、なかなか難しいところがあります。

逆に皆様にお伺いしたいのですが、大学や大学院で教えていらっしゃる中で、高校のうちにこれはやっておいてほしいというのはどういう部分でしょうか。

瀧野

1つは、「聞く力」を鍛えておいていただきたいと思います。聞く力はすべての基礎になる部分ではないかと私は思っています。「読む」ことについては辞書で調べながらでもできますが、「聞く」のは調べながらできないので、その時の自分の持っている力がそのまま反映されます。

英語の音に耳を慣らすには時間がかかるので、リスニング力がないと大学の授業で追いつくのが大変です。私はディスカッションをよく教えますが、そこでたとえ意見を表明することができるようになっても、グループの中での話のやり取りにはどうしても聞き取る力が必要なので、ぜひ高校レベルまでにある程度聞く力を育てていただきたいなと思います。

山本

確かにそうですね。

日本語話者の環境と英語学習

原田

阿部さんは東京大学で教えておられていかがですか。

阿部

瀧野さんがおっしゃったことはその通りだと思います。つまり、やっていないのにできるわけがない。しかし、TOEFLを受験科目にすれば朝起きたらいきなりしゃべれるようになるのではないかと、何か魔法の薬みたいに話す人もいてびっくりします。

ここで大事なのは、しゃべれないから日本の英語教育はダメなんだ、みたいに全否定になりがちですが、まず日本語の問題と日本語話者の環境の問題を思い出さなければいけません。日本にいたら普段英語に触れる機会がとても少ないわけですから、日常的に他の言語にモードを切り替えるスイッチがそもそもないとも言えます。

例えばヨーロッパに住み、日常的に3つ4つの言葉に触れている人は、自然と言語間のスイッチを変換する準備ができていて、他言語のモードにあまり抵抗がない。日本語話者の場合、その抵抗感がすごく強いわけです。

それから日本語と英語を比べると、日本語のほうが音の種類が少なく、英語で使われる音のほうが細分化されて感じられるので、発音は当然難しいわけです。だから、日本語話者が他の言語の話者に比べて英語の発音で苦労し、なかなか上達しないのは仕方がない。変にコンプレックスを抱く必要もないし、英語教育が悪いわけでもない。

一番はリズムの問題で、英語のストレスアクセントが日本語のリズムと全く違うので、そこがネックとなっています。しかもそのことに気がついていない人が多い。単に「聞き取れない!」「発音が上手くいかない!」と思っている。なので、意識的にストレスアクセントに慣れるようにすると大きく前進すると思います。

ただ、山本さんがおっしゃったことにつながるんですが、高校の授業でひたすらリスニングをやればいいかというと、それはなかなか難しいと思うのです。リスニングは大量に時間を使わないとできるようになりません。英語を第2言語として学ぶ人はどうしても文法の知識が必要になるので、学校では文法や基礎的な語彙といった、オーソドックスなところを押さえてもらう必要がある。リスニングは上手く家庭学習や端末の活用などを考えてもらうのもよいかと思うのです。

ですので、スピーキングやリスニングに特化することより、基礎体力、英語の体幹を身に付けてもらいたいというのが、大学教員の立場からの私の意見です。特にこの10年、20年はこれができていない子が多い。知性のレベルは高いのに、もったいないなと思う例がしばしばあります。

「読み書き」vs.「聞く話す」

原田

なかなか面白い議論ですが、「読み書き」と「聞く話す」の教育どちらかを優先させるのかという議論も英語教育でよく話が出ます。このあたりはどうでしょうか。

山本

「読み書き」というのは教えやすく、特に「読み」は評価もしやすいので、量をさばくという意味でも比較的容易な「読み書き」過多になってしまう部分はあるのかと思います。

ただし、生徒が身に付けたい力は「聞く話す」力であることが多く、「読み書き」の力を軽視しているところがあり、常に葛藤があります。

ニューヨーク学院が恵まれているのは、日本語(国語)と日本史以外の授業はすべて英語で行っているので、英語での「読み書き」や「聞く話す」教育が、横ぐしで、他教科でできるという部分です。この環境をフルに生かせる生徒は英語力が伸びています。それを日本の学校でどこまでできるかは全く別の問題だと思いますが。

阿部

おっしゃる通り、われわれが今考えなければいけないのは、日本語を第1言語とする人が、日本に住んでいてどう英語を学ぶかということです。つまり、英語圏に住んで、英語ですべての授業を受けつつ、英語について学ぶというのは、要するに英語環境で育つアメリカ人と一緒です。

では、文部科学省の方針に従う日本の学校はと言うと、例の悪名高い「英語の授業は英語でやりましょう」という縛りがありますが、これはニューヨーク校で英語の授業を英語でやるのとは全然違います。日本では学校の先生も英語で話すことに慣れていない場合が多く、生徒も「先生の英語こそわからん」となったりする。そんな状況で行う英語の授業に、どれほど意味があるのか。

他方で、最近心配しているのが、日本の中高校生の知的レベルは高く、日本語であればかなり程度の高いものが読めるのに、英語のコミュニケーションの教科書の内容が極めて貧弱で、生徒が途端に興味をなくすことです。

会話の授業になると、どうしても内容が薄くなるのが残念です。オーラルを実践的にやろうという試みを全否定するつもりはありませんが、もう少し生徒の知性を上手く刺激するような形で英語と出会わせてあげたい。そうすれば、英語で何かを読もうとか、英語を勉強しながら世界と出会っていこうという気がより強く起きるでしょう。これはオーラル中心でもできると思います。

また、日本語で育った子どもたちが英語と出会った時、多少、「わからない」という体験をすることは意外と大事なことだと思うんですね。

つまり、外国語というものはわからないものであるという体験を、ある程度はしてほしい。「理解するのではなく慣れていく」という方法が今は主流かもしれませんが、わからないものを「なんでこんなふうに言うんだろう」とか、「どういう仕組みでこういう言い方や考え方が可能なんだろう」と考えることも大切です。そうした視点が今、失われつつあるのではないか。

山本

今、おっしゃったことは全くその通りだと思います。私の娘たちは現地校に通っていますが、最初はほとんど何もわからず荒波に揉まれていました。

日本の英語教育を見ていると、プールの中で泳いでいるような感じがします。しかし、実際に言語を学ぶというのは、海に出て裸で泳ぐような感じに近いと思います。だから最初はつらいですし、言葉を学ぶというのはすごく時間のかかる作業ですが、そのほうがダイナミックで面白いことにも出会うし、知的好奇心も増すので、より続くのかなとも思います。

瀧野

私も大学で教えていて、すべての単語を調べて細部まで理解しないと、聞いたこと、読んだことにならないという感覚を持っている学生が多いのに驚きます。細部まで理解することは重要ですが、わからない部分がある中で大筋を理解する力も重要です。

どんなに英語が上手くなっても聞き取れない部分はあるし、わからない部分もある。その中で、こういう意味だろうか、と模索していくことが外国語では不可欠だと、学生に感じてほしいです。今おっしゃったように、守られた環境の中の学びに加え、わからないこともある中で試行錯誤をしながら英語力を伸ばしていく学び方ももっと取り入れていいと、私も思います。

異文化間コミュニケーションという視点

原田

今までの議論を聞いてコミサロフさんはどう思われますか?

コミサロフ

英語教育において「読み書き」と「聞く話す」を2つの別々のアプローチとして議論されることも多いのですが、私は「読む」「書く」「話す」「聞く」の4つのスキルのすべてにアプローチすることも重要だと考えています。

私が慶應で行っている授業では、授業で扱うトピックについて事前に学生に読んできてもらいます。学生はテキストに取り組み、そのトピックに関連する自分の考えを短いエッセイにして書かなければなりません。これにより、学生は読み書きのスキルを練習することができます。この方法で、学生は授業で出てくる語彙の一部に慣れ、議論するアイデアについて自分の意見を述べる機会を得ます。

そして、授業では、スピーキングの練習、ミニ講義、小グループやクラス全体でのディスカッションをよく行います。これらは、学生が話す力と聞く力を伸ばすのに役立ちます。時には、フォローアップとして、授業の後に同じトピックについてさらにライティングの練習をして、その問題についての考えを発展させます。

また、英語教育では、学生の異文化理解を深めることを助けることが重要です。これを説明するには、まず異文化間コミュニケーションとは何かを定義する必要があります。

例えば、私の友人の息子は4年間大学で異文化間コミュニケーションを専攻していました。その4年間、彼は主にフランス語、フランスの歴史、フランスに関する芸術や有名なランドマークなどについて学びました。しかしもし、彼が学んだのが歴史や芸術だけだとすると、それだけでフランス人と効果的なコミュニケーションをするには足りないかもしれません。

異文化間コミュニケーションにおいて非常に重要な区別は、五感ですぐに知覚できる文化と、五感では知覚できない目に見えない抽象的な文化の違いです。

前者のタイプの文化は、例えば食べ物や音楽です。食べ物の違いはすぐに味わえますし、音楽の違いはすぐに聞き取ることができます。

しかし、五感ですぐに知覚できない目に見えない文化の側面もたくさんあります。例えば「価値観」や「常識」は味わえませんし、触ることも聞くこともできません。文化背景が異なる人々と上手くコミュニケーションをとるためには、文化のこうした目に見えない側面を理解することが非常に重要です。

これは、日本の英語教育でもっと認識され、教えられてほしいと思う分野です。なぜなら、簡単には認識できない文化の目に見えない側面は、通常、異文化間コミュニケーションにおいて最も誤解を招く原因となるからです。人々はそこに違いがあることにすら気付いていないことが多いです。

もう1つの非常に重要な区別は、文化一般の知識と文化特有の知識です。例えば、フランスの1つの文化について学ぶことは素晴らしいことですが、それだけでは様々な文化を持つ人々を理解するための枠組みは得られません。

文化を超えてコミュニケーションスタイルをより広く見ることもできます。つまり、1つの文化を超えて様々なタイプのコミュニケーションスタイルを説明する概念があります。日本の教育では、そこで学ぶ特定の文化だけではなく、世界中の人々を理解できるように、文化の目に見えない側面や文化の一般的な枠組みにもっと注意を払うことが重要です。

阿部

今、コミサロフさんが言った2つのカルチャーのうち、教室で教えやすいのは、システムとして完結している世界だと思うんですね。例えばラグビーのルールを英語で理解しましょうとか、医学について理解しましょうというのは机上で完結するので、抽象的であったとしても、意外と教室でやるのに適している。

他方で、五感を使った英語、つまり身体が巻き込まれる英語は、実際にそこに巻き込まれないと学べない。日本の学校でそれをやるのは非常に難しいわけです。いくら人工的に場面を設定してもリアリティーがなく身に付かない。「ディズニーランドでチケットを買いましょう」「レストランの場所を探しましょう」と教室でやっても、モチベーションがわきにくいです。

今は身体英語のほうに重心が行き過ぎていると思います。学校でせっかく学ぶのであれば、抽象的なことを理解する力も鍛えたい。身体英語は別の場でやることも考えていいのかなと思います。

原田

五感で知覚できる文化と、そうではない文化──重要ですね。五感で感じられるはずのものが、擬似的になってしまっていることもありますね。

コミサロフ

具体的な経験から始め、それをより抽象的な概念に結び付けることが重要だと思います。これはコルブの成人学習サイクルのプロセスの1つです。

ディズニーランドを例に挙げましょう。例えば、パリのディズニーランドには日本のようなファストパスシステムがありますが、その仕組みはとても違います。私が行った時は、パリのそのシステムは混乱していて、上手く機能していませんでした。しかし実際のところ、ファストパスの発券機が壊れていても誰も気にしていませんでした。日本では違うでしょうね。

このように、パリと東京のディズニーランドでの具体的な体験を見ることで、学生たちがより深いレベルで遭遇した、文化における抽象的で非常に重要な価値観や常識と結び付けることができるようになるのです。

このように、学生たちの興味に応じて、具体的な体験から始め、より抽象的な違いや概念に結び付け、学生たちが文化の違いについてより一般的な考えを持てるようにします。

抽象的な概念に結び付けられる具体的な経験から始めれば、それらの概念が異文化体験を理解するのにどのように役立つかを学生に考えさせることができ、将来の予期せぬ新しい状況でどのように行動するかについてのスキルを教えることができます。

「英語力」は測れるのか?

原田

さて、英語教育にはどうしても学力測定がかかわってくると思います。つまり評価ですね。それが学ぶ側のモチベーションにもつながる。そのあたり、山本さん、いかがでしょうか。

山本

難しいですよね。また同じ言い訳になりますが、学校現場ではある程度の人数を一度に見なければいけないという制限があります。

私が英語を教え始めた頃の経験を思い起こすと、言語というのは減点方式で教えるものだ、ということにまず驚きました。この文法事項が違う、冠詞が抜けている、このスペルが違うとやっていくと、それがある種のフェアネスみたいなものになります。

義塾の一貫校では、少し緩いと言いますか、大目に見て褒めてあげるところが多く、測定する範囲が広いと感じました。大学受験に縛られていないこともあり、すごくいいことだと思っています。

ただし、こればかりですと、正確性みたいなところが抜けていくので、そのバランスをどう取るかは、常に教員間で話されています。「やっぱりこれは大事でしょう」「でも通じるからよくない?」という話です。このバランスをどこまで高校段階で行うべきかが、結局、英語力の測定にかかわる大きな課題なのかなと感じています。

阿部

非常に重要な問題ですね。要するに、何をもって、ある言語が習得できているとするかという問題です。これは今、私が喫緊で直面している、文系の人の学力をどうやって測るかということにつながります。

理系の学力はある程度、数学と物理で測れるとも言えるでしょう。一方、文系は、今までは大体国語と英語によって学力を測れると信じられてきました。そして、国語は差が付きにくい一方、英語は結構差が付くので便利であると、入試科目として重宝されてきました。

しかし、現在、海外から英語を第1言語とする人や、バイリンガルで、インターナショナルスクールを出た人が受験した時に、その人たちと同じ英語の試験をして、比べるのはどうなんだろうという問題が生じてきている。

例えば今の東大の入試は、英文和訳もあるので、案外バイリンガルの人でも難儀するかもしれない。一方、TOEFLなどは明らかにネイティブスピーカーに近い人のほうが楽々と点を取れるわけです。でも、TOEFLなどは、英語を通して思考する力を見るというよりは、範囲を絞って運用能力を点検するわけです。基礎的な運用力を測るにはいいでしょうが、大学に入って勉強を続けるための、思考する力と直結した言語能力の芯の部分までは見られないでしょう。

そもそも言語能力というのは、特定の言語の習得だけを目指せばいいのかということですね。数学の場合と同じように、基底となる言語能力というものがあると思うんです。それは特定言語の習得具合、例えば漢字をたくさん知っているかどうかということでは測れない。いわゆる英語にも国語にも回収されない言語がらみの力を測る指標が必要なのではと思います。

それは、何か1つのシステムの構造を別のシステムに言い換えるとか、1つの複雑な事象を明晰に説明できるといった、情報の読解力なのかもしれません。個別言語を超えた抽象化・具象化の能力みたいなものです。文系と言えるような能力を測るためにはそこを見極める必要があると思います。今後はそのように言語系統の試験は変わっていく、もしくは変わっていくべきではないでしょうか。

瀧野

私も今、阿部さんがおっしゃったことを毎日、ひしひしと感じています。特にディスカッションなどを教えていると、「点数での評価なんてできっこない」と強く思います。例えば、英語を間違わずに流暢に話す力だけでなく、話す内容や話し方の構成も、評価に入れる必要性を感じます。

正直言って、少なくとも大学からはそもそも語学の能力を1つの基準で測ろうとすること自体に無理があると思います。つまり、言葉というのは、元来とても測りにくいもので、どんな目的で英語を使っているか、何が優先順位が高いかで評価基準は違います。美しい言葉が話せる人と、わかりやすい言葉を話せる人、どちらを高く評価するかとか、言いだしたら切りがないくらい評価軸がある。

だから、点数を付けるのではなく、もう少し柔軟に「こういう方向でできていますね」といった質的評価が、少なくとも大学レベルではあってもいいのではないかなと思います。

私はイギリスでIELTSの評価のコースを受けたのですが、いつもイギリス人の先生とけんかになっていました。イギリスの人はイギリス英語の規範に沿っているかを重視し、私は内容や構成の優れたプレゼンを積極的に評価し、点数が大きく違いました(笑)。

私は日本人は中身を重視する英語のコミュニケーション力をぜひ伸ばしていってほしいと思います。より的確に自分の考えを伝えようとすると、英語も日本語も、コミュニケーション力としては多くの課題が共通していると思います。

コミサロフ

慶應文学部では、毎年度初めに英語のプレースメントテストを使用して1年生と2年生全員を評価します。学生は、このテストの成績に基づいてそれぞれのクラスに分けられます。

テスト自体は、伝統的に読解、理解、文法、語彙のセクションで構成されていました。しかし、最近、文学部独自に開発したリスニングテストを使い始めました。学生はリスニング能力が評価されていることを知ると、リスニング力をつける必要性を感じているようです。

また、私が1990年に日本の高校で教えていた時から今でも行っているのは、面接テストです。たとえ3、4分であっても、学生と会い、彼らのスピーキング能力を評価します。その際、事前に、私は学生たちに何を勉強する必要があるかを伝えます。それは学期を通して私たちが取り組んできた様々なトピックです。私は学生たちに質問し、学生たちは私が教えた文法構造と語彙を使ってそれらのトピックについて上手に議論できることを私に示さなければなりません。

このようにスピーキングやリスニングなど、従来はあまりテストされないスキルも含め、英語の4つの異なるスキルをテストする様々な方法を行っています。

原田

英語力の測定というのは、なるほど1つの側面を切り出してみると数値化できる面がありますが、しかしそれと同時に、学生の動機や可能性、あるいはどこのどういう場面での英語力を測るのかによって、視点や尺度もかなり違ってきますね。入試なのか、普段の力なのか、学部によって違うのか、などの事情も関係してくるでしょう。

自律的に学ぶ意欲を支援する

原田

ここで、英語教育の将来構想について考えてみたいと思います。皆さんがお考えになる英語教育の将来像についてお話しいただきましょう。

山本

すでに感じていることですが、もう英語教育というのは教室の中だけのものではまったくないと思っています。アプリなどいろいろなツールがあり、発音も、リスニングも、文法なども教室外で学べることがすごく多くなっています。それらを学校ではファシリテートしていくような方向に持っていくべきではないかと思っています。

これは慶應義塾の一貫校のように、ある程度自由度を高く教育実践できる環境があるところで率先してやっていくべきではないかと思っています。

伸びる子はどんどん伸びていける環境で、教員の限界と教室の時間の限界を飛び越えるようなテクノロジーがたくさんあります。それをいかに生かしていくかという方向がよいのではと思っています。

原田

例えば塾高などでは高校時代の留学なども制度的にありますが、そのあたりについてはいかがですか。

山本

塾高や一貫校では、短期の英語圏留学でも、開眼して戻ってくる子たちがいます。「英語が通じなかった、よしやってやろう」といういい意味でプライドの高い生徒がいるので、それはもっと全塾的に増やしたほうがいいと思います。慶應義塾の全一貫校で行っている派遣留学には私も携わっていますが、派遣される生徒は大きく成長します。

瀧野

山本さんがおっしゃったことは、大学ではさらにそうだと思っています。つまり、大学の授業でできる英語教育や英語でのコミュニケーション練習は限りがあり、本当に小さな部分でしかなくて、学生が自律的に多様な練習を、長い時間をかけて続けていくことが必要です。

興味がある分野、あるいは自分と英語のかかわり方について考えることが動機に結び付きます。私はビジネススクールという非常に目標が明確化されている教室にいますので、仕事の課題を英語を使って解決する実践的な練習をして、英語への興味を育てようとしています。

やる気になれば、本当に無尽蔵に方法はあるし、動画で英語を聞く材料なんて無限にありますので、学生たちが英語に興味を持ち、自分との接点を見つけ、自分の興味がある分野を英語で深く掘り下げるのは面白いと、発見してくれることが大事だと考えています。

コミュニケーションの喜び

原田

本当におっしゃる通りですよね。コミサロフさん、いかがですか。

コミサロフ

私は、学生が上手くできた点をポジティブにフィードバックすることが重要だと考えており、まだやるべきことがたくさんあると思っています。

私自身の外国語学習の経験から例を挙げると、高校で一番嫌いな科目はフランス語でした。その理由は、小テストを受けるたびに、間違いだらけで赤字で直されて返ってきたからです。

そのため、1990年に初めて日本に来た時、フランス語での経験を繰り返したくなかったので、日本語を学びたくありませんでした。しかし、現地の言語を学ばなければ多くの人々と深くコミュニケーションをとることはできないとわかり、日本語を勉強し始めました。

英語のどの単語とも音の面ではまったく違う「よろしくお願いします」のような単語や表現を学び、しかもそれを言うと人々は理解してくれたことがとても嬉しかったです。外国語の音を使って自分を表現できたことに喜びを感じました。そして、人々が私に話しかけてきた時、彼らが言っていることを理解できることが時々あることにもとても喜びを感じ、私はすぐに日本語を学ぶことに熱中するようになりました。

この経験のおかげで、私は最終的にフランス語に対する考えを変え、フランス語を学ぶことが大好きになり、今日まで勉強を続けています。

このことはすべて、自分の言葉が通じ、他の人が言っていること、読んでいること、書いていることを理解すると、外国語でコミュニケーションをとることがいかに楽しいかを実感したことから生まれました。

言語教育においてこの「喜び」に焦点を当てることは非常に重要です。これは、リベラルアーツ教育が学ぶことの喜び、つまり問題やアイデアを探求することの喜びを見つけることに焦点を当てている点と似ています。

英語は文法のルールを学ぶことや語彙を暗記することだけではありません。私たちが育む必要があるのは、コミュニケーションの喜びです。その喜びを学生と共有できれば、英語教育は成功だと思います。それは簡単なことではありませんが。

AIとの共存から考える英語教育

阿部

皆さんのおっしゃることに私も全く同感です。われわれが最初に言語で感じるのは、たぶん外国語の音だと思うんですね。つまり、読めないものを読んで感動することはあり得ないけれど、音は全く意味がわからなくても聞こえるので、何かきれいに聞こえたり、違和感があることで興味が湧いたりする。だから、音を通してまず言葉に出会うことが大事かと思います。その後、いろいろな方法で好きになったり、あるいは興味を持ってその言語と一体化し、どんどんその言語に入って身に付けるというプロセスになる。

一方、今後を考えると、われわれの基本的な語学との向き合い方は変わってくるかもしれません。英語への一体化の部分をAIが代わりにやりつつあるからです。一切その言語に興味を持たずにその言語を使うことができるようになるかもしれません。

すると、今後、むしろ言語とどのように距離を取るかも大事になってくると思うんですね。機械を媒介にして言語と付き合わざるをえない時代が訪れると、AIが果たして機能しているかを判断する、一種の管理者のような視点から言語と付き合うモードも身に付ける必要が出てくる。

そこで言語ごとのメディア性の違いということも生じます。例えば今日の座談会の日本語の文字起こしをすると、相当直さないと読むものにならないと思うんです。でも、コミサロフさんの英語はたぶんそのまま意味が通ります。

つまり、日本語は相手と上手く呼吸を合わせてしゃべろうとする傾向があり、そうするとわざと崩してしゃべりがちになる。立て板に水はむしろ変に聞こえる。一方、英語はちゃんとした構文でしゃべらないとむしろ変です。英語は「言」と「文」が近いのです。書き言葉と話し言葉のレトリックに乖離が少ない。ところが日本語は、しゃべることに関して、フォーマルな約束が未だに十分に定着していない。すると話し言葉と書き言葉にギャップが生まれる。そういう環境の違いは重要です。

こうした状況を俯瞰できる視点というのは、言語と距離を持たないととれないと思うんです。そういう意味では、第3言語をやるのはすごく面白い。別に習得できなくても触りだけ、音を聞くだけでも中学生、高校生にやらせてみると「距離をとる」という姿勢ができるのではないか。

すべてをAIに任せてしまったら人間は退化するだけだし、思わぬミスが生ずるかもしれない。それを人間が上手にコントロールするという向き合い方は必ず必要になります。すると、言語に対する俯瞰的な視点が今よりも大事になるので、今後はそういう能力を鍛えることになる気がします。

原田

英語教育の将来構想を、今急速に利活用が進んでいるAIの話と、阿部さんが結び付けてくださいました。

そのAIとの共存をもう少し考えてみたいと思います。これはプラクティカルなレベルから、それこそAIと人間の言語的創造性まで及ぶと思いますが、いかがでしょうか。

瀧野

私はビジネス英語を専門にしていますが、ビジネスにおいてはAIを使うことが当たり前になってきています。それゆえ英語に関してはもう求められる期待値が変わってきている。つまり、スペルや文法を間違えると、以前は「母語じゃないから」で済まされましたが、今は「どうしてスペルチェッカーを使わないのか、粗雑な仕事だな」となりつつある。ですから、AIを使いながら英語力を伸ばしていくことはもう必須だと考えています。

2つ目に、阿部さんがおっしゃったように、これからは管理者というか、AIが作ってきた英語のアウトプットをいかに利用するか、あるいはAIにどういうプロンプトを出すかという力が求められます。しかしAIが出してきた英語を評価するのはかなりの英語力が必要です。だからある意味では求められる英語力がさらに高くなっていく可能性が大きい。

すると、AIを使いこなせるレベルまで英語を学ぶ人と、そこまで英語を学びたくない、必要ならAIに任せればいい、と考える人に分かれると思います。私はそれでもいいと思うんですね。今、英語は皆がやらなければいけない苦行のようになっている部分もあるので、AIを前提に好きな外国語を選んで学べる時代が来るかもしれないと思います。

もう1つ、私自身もそうですが、今までは時間をかけて推敲して、ネイティブの方にチェックしてもらわないと出せなかったような完成度の英文が、AIと相談することによって10分でできたりする。ですので、これはある意味では母語ではなく英語を使っている人たちが自立していくツールとして価値があると考えています。

このような変化の中で、今までとは違うタイプの英語の訓練を模索する時代になってきたと思っています。

山本

今の話はすごく面白いと思う反面、ズルさというか、近道を探すことを定着化させてしまうこともあるのかな、というのが高校以下の教員の感覚としてあります。逆に、世界の変化のスピードがものすごく速くなっていく中、そんなことは言っていられない、とも思うのです。

英語を初めて学ぶ子が、いつもGood ばかり言っているからもう少し違う単語が使いたいな、という時にAIを使うのが悪いかと言われると悪くはないですが、線引きが難しいので、悩ましく思っているところです。

AIを使わないという選択

コミサロフ

英語教育の一環としてAIを使用するという考え方と使用しないという考え方の間には緊張関係があります。AIを使って、例えば学生は特定のトピックに関するテキストを生成し、それを読んで練習することができます。AIはまた、ロールプレイの練習を行うための会話のパートナーとして使用できます。

米国の教師がよく使用する、AIを使った便利な教育用ライティングツールも多数あります。これは学生にライティングを3つの段階、事前ライティング、エッセイの執筆、編集に分けさせます。多くの教師は、学生が書くアイデアをブレインストーミングする際、事前ライティングでAIを使用することを許可しているようです。

しかし、エッセイ執筆の中心となる、学生が実際に自分の考えをまとめて発展させ、表現する段階では、ほとんどの教師は学生に自力で行うよう求めています。そうでなければ、それは不正行為とみなされます。これは、英語教育におけるAIの構築についての1つの方法です。

ただし、私は別のアプローチをとっています。学生にAIの使用を許可していません。学生には、間違いをしてそこから学んでほしいと伝えています。学生が間違いをしたら、それについて話し合い、正しい文法とそれが使われる理由を特定するようにします。学生は、特定の文脈によりよく適合する同義語を特定することで、より適切な語彙の選択を学ぶこともできます。

そうすることで、学生はAIにすべてを任せるのではなく、自分の英語を修正する方法を学び、優れた書き手になることができます。これは重要なことです。なぜなら、人間は最終的にAIが生成したものをチェックし、その内容が本当に適切で正しいかどうかを確認しなければならないからです。

今朝ペンシルベニア大学の学生新聞で見つけた、短い逸話を1つ紹介します。ある学生が、自分のクラスではAIに頼りすぎているために学生が考える能力を失っているという意見記事を書きました。例えば、授業中に教師が質問をすると、学生は教師に答える前にその質問をAIにかけます。しかし、そのことによって学生は自分のアイデアを生み出し、それについて率直に議論する機会を失っているのです。

これらの理由で、私は個人的には授業で学生にAIを使わせていません。

阿部

おそらく成長段階みたいなものでの線引きが大事だということかと思います。つまり、飲酒や喫煙と一緒で、ある程度のラインというのがあり、あまり若年のうちにAI依存が高まると問題が生じがちであると。ただし、実際の社会ではAIを使わざるを得ないので、逆にAI音痴では困る。そのバランスをどこでとるかということかと思います。

私はモチベーションが結局は大事になるのかと思うのです。われわれは「わざわざ」言葉を使う。自動車ができたからといってわれわれは走ることをやめたわけではないですよね。それと一緒で、われわれはおそらくAIがあるにもかかわらず、わざわざ自分で書いたりしゃべったりし続けると思うんです。

その時に、わざわざしゃべることの喜び、というか、わざわざ文章を書いたり、本を出したり、しゃべったりする時の、わざわざするという気持ちを知ってほしい。私も古いタイプなのかもしれませんけれど、これが授業で私が教える時のモチベーションになっている気がします。

変わっていく英語教育

原田

この間オクスフォードから帰ってきた研究者と話をしていたら、日本語も結構、危機的な状況にあるのではないかという話題になりました。いろいろな分野で、外来語がカタカナとなって使われていますが、日本人があまり理解しないまま、場合によっては英語のカタカナ発音のまま日本語に登場してきたりする。例えばコンプライアンスとか頻出しますね。

これは、例えば「Society」が果たして日本語の「社会」と同一なのかとか、「Individual」を「個人」と訳して、その概念が本当に把握できているのかというような、翻訳語の問題、あるいは、もっと根源的な言語による概念規定の問題にもかかわってきます。福澤は、「Individual」もしくは「Individuality」を、「人各々」とか「一人の民」とか「独一個人の気象」といった具合に、いささかもどかしそうに訳語をあてていましたね。

慶應における英語の問題には、こんなことも含まれてくるでしょう。そういう中で、慶應は、小学校から大学、大学院に至るまで、包括的な教育を担えるという強味があります。そんなことを考えつつ、慶應義塾と今後の英語教育について、いかがでしょうか。

山本

私は慶應義塾の強みというのは高大というよりは小中高大の仕組みだと思っています。小学校が2つ、中学校が3つ、高校が5つある中で、縦と横がつながっていくと、もっと立体的なものになるのではないかと思っています。

それが今は上手くいくところといかないところがあります。一貫校全体では多くの英語科の教員がいますが、やはり、慶應義塾の英語教育というのはもっと連携してやっていけるのではないかなと思います。

一貫校の教員のゴールの1つはやはり大学につなげていくことだと思います。瀧野さんがおっしゃった学部による必要な英語の違いというのはまさにその通りで、理工学部が必要な英語と、文学部、経済学部で必要な英語は違うけれど、実はそこをあまり意識せず大学に出してしまっています。

これからは一貫校の立場からも慶應義塾の英語教育に、より貢献していきたいと思っています。

原田

瀧野さん、ビジネスイングリッシュと約40万人塾員へのメッセージ、ということでいかがですか。

瀧野

まず、英語が今はとても変わってきていると伝えたいと思います。世界での英語の使われ方自体が変わっているというのもあるし、英語を学ぶ環境も変わっているし、学びを助けるツールも大きく変わっている。

そういう中で、もし卒業してしばらくたった方がもう一度英語をやろうかなと思われたら、大学時代に学んだのとはまた違う学習方法があるということを、少し視野を広くして、探していただければと思います。

今は実際に日本の外で話されている英語を直に聞く機会がたくさんあるので、こういう世界で英語を使いたいとか、こういう英語を使ってみたいとか、自分が使うイメージを具体的に持って興味のあることを英語で表現すると、楽しく英語を勉強できると思います。

仕事でこういうことに使いたいなど目的がはっきりとわかっていらっしゃる方には、一直線に勉強できるような方法もあるので、ぜひ、いろいろと試し、自分に合った学び方を見つけていただきたいなと思います。

コミサロフ

慶應義塾大学で提供している英語教育には、全般的に非常に満足しています。非常に幅広いコースを提供しているので、私が知っているほとんどすべての学部で、学生は自分の興味に合った授業を受けることができます。

慶應の学部には、異文化間コミュニケーションを学んだ教師が多く、英語コースに異文化間コミュニケーション研究を取り入れて教えていています。一方、大学院レベルでは、異文化間コミュニケーション専攻のプログラムはありません。

ですから、私は異文化間コミュニケーションの研究機関、異文化間コミュニケーションの大学院プログラム、または少なくとも修士および博士レベルで提供される個別の授業をぜひ実現してほしいと思います。

言葉の使い方が重要となる時代

原田

よくわかります。Cross-cultural Communication は、大学院の全研究科で共通の制度として確立していきたいですね。

阿部さんは東京大学の中でもいろいろとご苦労がおありかと思いますけれど。

阿部

これからは大学ももっと稼げと言われて、文系が稼ぐかどうかは別として研究力を上げなければいけないというプレッシャーがすごく強いわけです。その時、どのように言語にかかわる専門家が頑張っていくかです。実際、私や原田さんは文学言語にかかわりますが、やはりちょっと劣勢なわけです。果たしてわれわれがどれぐらい社会の役に立っているのか、周りの人がなかなか納得してくれないところがある。

ただ、考えてみると、今ほど言語が社会の中で大きな存在感を持っている時代はない。例えば世界のあちこちで戦争が起きていますが、明らかに言葉が大きな武器になっているわけです。これは「ペンは剣よりも強し」という話ではなく、言語そのものが武器になり戦争がより激しくなったり、経済を動かすのも誰かの発言だったりする。あるいは身の回りでも、ちょっとした言葉の使い方で、ひどい心理的なダメージを負ってしまう人もいたりする。

いかに言葉というものが、役に立つけれど恐ろしいものであるか。今ほど痛感する時代はないと思います。そのことを、言語を中心に研究している人間が考えなければいけない。

その時に頭に入れておかなければいけないのは、言語は常にメディアとともに変化してきたということです。まず言語が登場し、それを何か木に刻んだり石に刻んだりし、印刷術が普及したのはほんの最近のことです。それがあっという間にデジタル化し、さらにAIの時代になっている。どういう媒体でわれわれが言語と接するかということが、時代によって全然違い、それによってわれわれの言語との付き合い方も変わってくるわけです。

それを整理し、可能であれば、言語にかかわる人間が、社会における言語の暴走みたいなものを上手く食い止める方向性を提示できるというのが、望ましい姿かなという気がしています。

原田

あっという間に時間がたってしまいましたが、非常に実り多い、またこれからの展開につながるような重要な芽をたくさんいただいたかと思います。

英語教育のこと、そして言語の問題は、身近な、例えば空気のようなところがあって、普段はあまり気にしなかったり、あるいはごく簡単に解決できるように考えたりする風潮があるように思います。実際、英語も日本語も、言語はしなやかで柔軟性があり、捕捉するのは難しいかもしれないけれども、そう簡単になくなったりはしない。しかし、そんな空気のような存在も、ひとたび致命的な形で汚染されれば、それは人間社会にとって取り返しのつかない問題になります。

そのことについて、まずは私たち一人一人がしっかりとした意識をもって臨むことが必要になりますね。読者の方々の多くが、英語に、そして言語の問題に関心を持っていただければと願っています。

今日はどうも有り難うございました。

(2025年3月19日、オンラインにて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。