慶應義塾

【特集:3. 11から10年】座談会:震災復興から考えるレジリエントな社会

登場者プロフィール

  • 菅原 昭彦(すがわら あきひこ)

    気仙沼市住みよさ創造機構理事長、気仙沼商工会議所会頭

    1985年成蹊大学卒業。株式会社男山本店代表取締役社長。スローフード気仙沼理事長。震災後は本社と倉庫を全壊流失した会社の復旧を行いながら気仙沼市震災復興会議委員として、市域の復旧・復興に取り組む。

    菅原 昭彦(すがわら あきひこ)

    気仙沼市住みよさ創造機構理事長、気仙沼商工会議所会頭

    1985年成蹊大学卒業。株式会社男山本店代表取締役社長。スローフード気仙沼理事長。震災後は本社と倉庫を全壊流失した会社の復旧を行いながら気仙沼市震災復興会議委員として、市域の復旧・復興に取り組む。

  • 福迫 昌之(ふくさく まさゆき)

    その他 : 東日本国際大学経済経営学部教授・同大学副学長商学部 卒業社会学研究科 卒業

    塾員(1991商、93社修)。シンクタンク等を経て1997年東日本国際大学専任講師。2007年より同教授。震災以降、いわき市の復興に携わる。「東日本大震災復興の事例収集・調査分析事業」有識者会議委員。

    福迫 昌之(ふくさく まさゆき)

    その他 : 東日本国際大学経済経営学部教授・同大学副学長商学部 卒業社会学研究科 卒業

    塾員(1991商、93社修)。シンクタンク等を経て1997年東日本国際大学専任講師。2007年より同教授。震災以降、いわき市の復興に携わる。「東日本大震災復興の事例収集・調査分析事業」有識者会議委員。

  • 紙田 和代(かみた かずよ)

    その他 : ランドブレイン株式会社取締役理工学部 非常勤講師

    2006年東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻後期博士課程修了。博士(工学)。東日本大震災直後から岩手県宮古市の復興計画~復興事業に携わり、宮古市田老では被災者が集まるコミュニティ・カフェを運営。

    紙田 和代(かみた かずよ)

    その他 : ランドブレイン株式会社取締役理工学部 非常勤講師

    2006年東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻後期博士課程修了。博士(工学)。東日本大震災直後から岩手県宮古市の復興計画~復興事業に携わり、宮古市田老では被災者が集まるコミュニティ・カフェを運営。

  • 小檜山 雅之(こひやま まさゆき)

    理工学部 システムデザイン工学科教授

    1995年京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了。博士(情報学)。理化学研究所地震防災フロンティア研究センター研究員等を経て現職。専門は構造工学、防災学等。日本地震工学会理事など歴任。

    小檜山 雅之(こひやま まさゆき)

    理工学部 システムデザイン工学科教授

    1995年京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了。博士(情報学)。理化学研究所地震防災フロンティア研究センター研究員等を経て現職。専門は構造工学、防災学等。日本地震工学会理事など歴任。

  • 厳 網林YAN,Wanglin(司会)(ゲン モウリン)

    環境情報学部 教授

    慶應義塾大学環境情報学部教授 1982年中国武漢測絵科技大学卒業。92年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。博士(工学)。2007年より現職。専門は地理情報科学等。気仙沼市住みよさ創造機構副理事長として震災復興に携わる。

    厳 網林YAN,Wanglin(司会)(ゲン モウリン)

    環境情報学部 教授

    慶應義塾大学環境情報学部教授 1982年中国武漢測絵科技大学卒業。92年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。博士(工学)。2007年より現職。専門は地理情報科学等。気仙沼市住みよさ創造機構副理事長として震災復興に携わる。

2021/03/05

震災復興とのかかわり

本日は、お集まりいただき有り難うございます。この3月で東日本大震災から10年を迎えることになります。私は、震災の年はちょうど海外留学をしており、カナダからテレビ越しに被災の様子を見ていました。すぐに大学に連絡したんですが、2日たっても誰からも返事をもらえませんでした。

夏に日本に帰ってきて、すぐに復興に関わりたいと思い、当時、福島の原発事故のこともありましたので、再生可能エネルギーから関われないかと思い、気仙沼に飛び込んでいきました。この10年、いろいろなことで気仙沼とのお付き合いを続け、菅原さんには大変お世話になっております。

まずは自己紹介も兼ねて、復興にどのような形で関わってきたのか、簡単にご紹介いただければと思います。

菅原

私は、本業は宮城県気仙沼で男山本店という造り酒屋の社長をやっておりまして、震災前から気仙沼のスローフード運動などを進めていました。震災の時は商工会議所副会頭という立場でしたので、気仙沼市の復興計画の委員になりました。6月から会議が始まって、9月には復興計画を作るという荒業を市長さんたちと一緒にやってきました。

その後も復興の中で、気仙沼市の内湾地区という、港の一番奥で、目の前が海というエリアの復興まちづくりに関わり、そこの代表も務めました。平成25年から商工会議所会頭になりましたので、現在は地域の産業振興にも携わっています。最近はコロナ禍の経済対策のことで手いっぱいになってきているのですが。

厳先生との関わりは、「気仙沼市住みよさ創造機構」という組織をつくり、そこの代表者も務めさせていただいているところから始まります。

福迫さん、お願いできますか。

福迫

私は福島県のいわき市にある、東日本国際大学に勤務しています。慶應で社会学の修士を終えた後、縁あって出身地であるいわき市の大学に勤めることになりました。地元ということもあり、この20年来ずっと、いわき市および福島県のまちづくりや地域活性化に携わり、自治体や商工会議所等の団体と活動してきました。

10年前の3. 11は大学のキャンパスの中で経験したわけですが、そこからは地域活性化の延長で地元の復興に関わっています。昨年度と今年度の2カ年にわたって、復興庁の東日本大震災の事例収集・調査分析事業の有識者会議に福島県の担当としても、参加させていただいています。

私はあるエネルギー活動団体のつながりで、福島の南相馬の太田というところの復興計画の活動にも参加していたことがあります。

次は、紙田さんお願いできますか。

紙田

私は今、都市計画のコンサルタントとして働いているのですが、小檜山先生にお声掛けいただき、4年前から慶應の理工学部システムデザイン工学科で「都市・建築のレジリエンス」という授業を受け持っております。

建築学科卒業後に建築設計の仕事に従事したのち、都市計画のコンサルタントに転職し、阪神・淡路大震災の復興住宅のあり方の検討や密集市街地を災害に強いまちにするという仕事に携わり、その後も震災、大火、豪雨災害等の災害復旧、復興の仕事に携わってきました。

東日本大震災では、国土交通省から委託された復興パターン概略検討調査を岩手県宮古市に単身赴任で約6年間行っていました。宮古市の被災33地区全体の復興支援を行ったのですが、そのうち「万里の長城」と呼ばれる巨大防潮堤で有名な田老地区で、被災された方々が設立した復興まちづくり協議会の事務局として、継続して深く関わっています。

田老地区復興まちづくり協議会では、震災後8年目までは「田老地区復興まちづくり計画」というものを策定し復興に向けた取り組みをしていたのですが、その後、もう「復興」の文字は取ろうということで「田老地区まちづくり計画」と、より将来に向かった計画の策定をして活動を続けています。

最後に、小檜山さんお願いします。

小檜山

私の専門は建築構造と地震工学で、防災住まいづくり・まちづくりなどの研究を幅広く行っています。

研究室では、以前いわき市の復興まちづくりに関する研究に取り組んだことがあり、市役所・自治会・商工会議所のご協力も得ながら聞き取り調査などを行いました。

阪神・淡路大震災の時に、災害公営住宅で独居老人の方々が孤独死をするという問題がありました。いわき市で、この問題の解決のため研究に取り組んでいたこともあります。3. 11の日がめぐるたびに、新聞報道などで孤独死の問題が報じられ、コロナ禍がさらに拍車をかけてしまうのではないかと心配しているところです。

紙田さんからもご紹介がありましたが、2017年度から3年間、東京都都市づくり公社のご支援を受け、理工学部に寄附講座を開設し、学部と大学院の防災まちづくり・建築デザインの授業を行ったり、一般市民向けに防災まちづくりのシンポジウムを開催したりしてきました。

学会活動としては、日本建築学会で私の兄弟子にあたる京都大学の竹脇出先生が今、会長を務めており、レジリエント建築という、災害が起こっても素早く復旧できるような建築の普及を目指すことにも携わっています。

まだら模様の「復興」

皆さん多様な活動をされていて、福島、宮城、岩手の3県、それぞれ詳しい方が揃っています。

早速「レジリエンス」というキーワードが出てきました。この言葉は3. 11の前は、日本ではあまり聞かれなかったような気がします。「レジリエンス」という言葉は日本語に訳すと大変難しい。抵抗力、復元力など、場面に応じて理解が様々です。

日本では、まず「復興」がピタリとはまる言葉として広く使われるようになり、定着しているように思います。どれだけ復元、復興できているのかという意味合いではかられているように感じます。

まず、この10年間で、果たしてどこまで復興、または復元できているのでしょうか。

福迫

被災3県の中でも、やはり福島県は特別だと言われます。言うまでもなく原発事故によるものですが、ただし、どのように特別なのかということも、また難しい問題かと思います。

そもそも「復興とは何ぞや」、「どこまで行けば復興が終わったと言えるか」ということもありますが、福島県では、元に戻す「復旧」ではなくて、震災前より輝く「復興」を目指そう、といった趣旨のスローガンが至るところで掲げられ、これが呪縛になっているような気もしています。

特に太平洋沿岸の浜通り地域ですね。いわき市は浜通り地域の一番南端で、北には南相馬市や相馬市、そしてその間の双葉地区に原発が立地しているという状況です。浜通りをこの3つに分けると、極端にまだらな状況です。双葉地区では、いまだに住民がほとんど帰還できないところもある。

一方いわき市は、一時期「復興バブル」と言われたような状況があり、地価の上昇率が全国一で、経済的には非常に潤ったと言われる。このまだら模様というのが復興の難しいところで、さらに細かく見れば、例えば経済的にも豊かになった人や企業と、完全に取り残されている部分があるのです。

先ほどお話があった災害公営住宅など、まだ震災の爪痕は確実に残っています。だから、震災から10年で復興が進んだとか、進まないとは一概に言えない。進んでいることは進んでいますが、その先の絵ということで言えば、福島県に関しては正直描かれていない。

進んではいるけれど、どこに向かって進んでいるのかが不明確なまま、とにかく元に戻す以上の活性化を、ということで、過剰投資の問題もあります。これは多くの地方で抱える問題と共通するところがあると思います。

客観的なところで、「分析・事例収集事業」の観点から言いますと、今後に活かせる事例として取り上げられるのは、宮城、岩手と比べ、どうしても福島は数が少ない。まだ福島の場合、緒に就いた事業が多く、なかなか難しい状況かと考えています。

宮城の気仙沼はどうでしょうか。

菅原

たぶん震災被害と、そこからの復興に関しては、それぞれの土地で被害の受け方も違いますから、今、お話があったように、各地域で全然状況が違うんだろうと思います。

気仙沼の場合、海のそば近くまで山が迫っていますから、浸水面積は意外と少なかったんですね。全体の5.6パーセントぐらいで、なおかつそこに産業が集積していたのです。

商工会議所の事業者の方は80パーセントの方が浸水の被害を受けている。それに対して家屋は41パーセントぐらいです。それでも9千世帯ぐらいあるのですが、平らなところに産業集積があり、そこが今回の津波で一番被害が大きかった。同じ地域の中でも、津波の被害に遭ったところと残ったところが混在しているのが、気仙沼の特徴かと思います。

陸前高田や南三陸などは津波でごそっと町ごとやられてしまった。これに対して気仙沼の場合、残ったエリアのほうが圧倒的に多い。このことが一気にいろいろなことをやろうとしても、なかなかすぐに進まない状況を生んだということがあります。

10年経つとハード面でのいわゆる復旧工事と言われるものは、ほぼ最終盤に来ており、本当に見たこともないようなまちができ上がってきているんです。

全部ピカピカですね。

菅原

新しい道路や橋・建物ができ、ある意味、素敵と言えば素敵ですが、何か今までのまちとは全然違うものになっているのを、われわれの中でも感じることがあります。

今、残っている工事は防潮堤で、これはもう数年かかるのではないかなと思います。ハード面については本当に今までにないぐらいのものができているので、それが過剰投資になるかどうかは、これからわれわれ暮らす側の力量にかかってくるのかなと。

一方で、よく言われるソフトの部分、社会的な面では多くの課題がまだ残っていると思います。そもそも震災の前からあった課題が、震災で顕著になって、さらに復旧、復興の間に課題が加わっていくという繰り返しです。これはどこまで行っても、たぶん終わらないという気がしています。復旧、復興がそのまま地方創生の流れに入っていったり、今で言うとコロナ対応に入っていったり、エンドレスになってしまっているような感じなのです。

例えば産業面で言えば、水産加工品などの販路の問題を何とか克服しようと、皆さん知恵を出し合い、新しい売り方を開発しながら進んできました。人手不足も深刻でしたが、いろいろなところからアイデアを集めて、何とか復興しようとやってきました。

そういう意味では、スピードが早かったか遅かったかは別にして、ソフトの部分も少しずつですが着実に進んできてはいる。だけど次々に課題が出てくるので、それにその都度対応していく必要が生じるのです。

厳先生と一緒にやっている、「気仙沼市住みよさ創造機構」は1つのモデルだと思っています。震災の直後から、いろいろな企業等の方々が「お手伝いします」と来てくれたのですが、震災後の3、4年は忙しくて受け付けられなかった。それをしっかりと受け止め、これからの新しい、持続可能なまちづくりに生かしていこうということでこの組織をつくってきました。

今そこに、いろいろな企業や、学者の方などの知見を集めながら、住みよいまちをつくっていこうという流れができています。今まで培ってきた経験、ノウハウ、育成してきた人材などをそこに集めていって、新しいまちづくりができると面白いと思っています。

「レジリエンス」の意味

レジリエンスの中には、フィジカル・レジリエンスとソーシャル・レジリエンスという2つの捉え方があります。フィジカルというのは、まずは土地の条件です。そこの土地の地理条件が脆弱で損害を受けやすいかどうか。

例えば気仙沼で言うと、昔の人は高いところに住んで、災害に備えていたのだと思いますが、開発が進むと、便利なところに産業が集積し、そこがやられてしまうという脆弱な一面もあったのかと思います。これは港町なら全国どこでも同じなのだろうと思います。

一方、ソフト、つまりソーシャルな面で言うと、当然、短期間で変えられるものではありませんので、必ず遅れてついてくるところがあります。つまり、復興ではハード先行とよく批判されますが、ある意味、しょうがない部分もあります。

小檜山先生は、非常に知見があると思いますが、いかがでしょうか。

小檜山

レジリエンスという言葉が東日本大震災後に聞かれるようになったというお話がありましたが、これはもともと材料力学の用語で、19世紀から使われている非常に古い言葉です。

意味合いとしては、棒みたいなものに力を加えた時に、どれぐらいまで、ひずみが残らずに元に戻れるような形でエネルギーを蓄えることができるかを表していて、日本語だと「しなやかさ」というのが、割としっくり対応するのかなと思います。

これが心理学であるとか、あるいは私が取り組んでいる防災学であるとか、いろいろな分野で比喩的に「元の形に回復、復旧、復興する」という意味で使われるようになってきました。

地震工学の分野では、2000年代の初頭にレジリエンスという概念を耐震設計に取り入れようという提案がされました。レジリエンスを高める手段に、Robustness( ロバストネス)、Redundancy(リダンダンシー)、Resourcefulness(リソースフルネス)、Rapidity(ラピディティ)の4つのRというものがあります。

Robustnessというのは、昔から言われている地震に対する強さ、「頑健性」ということになります。Redundancyは「冗長性」で、1つやられても代替のもの、予備のものを用意しておいて機能を維持しようというものです。

それから、Resourcefulness というのは、日本語では聞き慣れない単語ですが、「臨機応変性」。持っている様々な資源を上手く活用して困難に対応していこうという機知を表しています。最後のRapidity は「迅速性」、つまり、素早く復旧するということです。この4つを総合したような力がレジリエンスだと提唱されました。

従来は災害の時に、これぐらいの地震力が来るだろう、これぐらいの津波の浸水深になるだろうという想定をして、それに耐えられるように構造物の設計が行われていました。しかし、それだけではなくて、想定を超えるような大きな外力、外乱が起こった時でも、上手く対応して元の姿に戻れるようなデザインを目指そうということが、2000年代の初めに提唱されたのです。

その後、多くの災害を実際に経験して、こういったことが本当に必要なんだということを認識するに至って、レジリエンスという言葉が普及するようになってきました。

なるほど、そういう順序なのですね。

小檜山

私たちが生きている社会には、建築・土木構造物といったハードも、経済的な営みも、人と人のつながりもあります。そのそれぞれにレジリエンスというものがあると思います。災害で非常に大きな心の傷を負った中で皆さんこの10年間、復旧、復興に取り組まれてきたわけです。

住まいを失った方がまず仮設住宅に入られて、その後、恒久的に住まわれる住宅に入る。これはマイホームの場合もありますし、災害公営住宅の場合もあるわけですが、住む環境を様々変えて、その都度、変化する環境に適応しながら復旧、復興に当たっていかないといけない。

その中で、大きな心の傷を負った方々が、いかに回復していくか。自分が生きてきた、いわば人格を形成する一要素である建物、まちなどの環境が破壊されるということは、ものすごく大きな心の傷になるわけです。そういった時に、自分たちの力で住んでいる環境を主体的に取り戻していく。これが深い心の傷を負った人が、心の回復をするのに非常に大切なのです。

ピカピカの今まで見たことがないような新しい道路や橋・建物に違和を感じるのであれば、この10年間の復興の過程で被災された方々が、それらをつくるプロセスにどのように主体的に関わってこられたかを、改めて検証する必要があるのかもしれません。

実は被災した方々の心と体はつながっていますので、新しいまちを主体的に取り組んでつくるということは、健康を取り戻す上でも非常に大切なプロセスになります。レジリエンスというのはハードの面だけが大事ではありません。建物やまちと人間の関わり合いを考慮した復旧、復興への取り組みが大切であると、研究で次第に明らかになってきています。

高台移転の課題

非常に示唆のある知見でした。このことにすごくつながりが深いのが、田老地区の堤防や復興ではないかと思います。紙田さんも現場で、様々な方と会われていると思いますが、いかがでしょうか。

紙田

私は現場で住民の方々と一緒に復興に取り組んできましたが、田老地区も国交省の事例集に載ったぐらい、ハード面では上手くいったと言われています。高台移転が予定より早くできあがったということでした。

でも、私は、「復興事業を迅速に行う」というのが必ずしも良いとは限らないと思うのです。皆が住みたいと思えるようなまち、仕事がちゃんとあるまち、高齢者がちゃんと集まり、触れ合い、震災前からの近所付き合いができるようなまちをつくらないと、いくら早くハードができても、魂が入っていないまちになってしまうと思うのです。

田老地区では復興後の居住地について、選択肢を作り一人ひとりに問いかけました。市街地の中の国道を移設、嵩上げし、その山側に嵩上げ市街地ができるよう計画しました。

また、市街地は怖いから住みたくないという方には、市街地の北東に隣接した山林を造成し、高台移転する選択肢を用意することができました。昨今の擁壁設置および盛土造成の技術により、急峻な場所でも多くの戸数の集団移転団地を造成することが可能になったのです。

そして、皆さんにどちらに住みたいですか、というアンケートや個別面談を何度も行いました。すると、もうまちから出ていきたいという方もたくさんいらっしゃいました。また、高台に住みたいかと聞かれても、その高台は、できる前は単なる森ですから、どんなまちになるのか分からない。だから、土地利用の配置だけを言われても、答えられないという人も結構いました。

ハード面だけを図面で決めて、「皆さん、どうぞ移転してください」と言っても、住民の方々にとっては、自分たちがどんな生活が送れるのかが一番大事なので、そのあたりを一緒に考えていかないと、復興というのは上手く実現できないのではないかと思いました。

宮古市は商工業と漁業のまちですが、漁業が盛んな地区の担当部署は、漁港が全部壊滅していたので、そのハード面の復旧に手を取られ、産業の復興が後手に回っている面もありました。

最近のことで言うと、田老の区間は割と遅かったのですが、内陸部を通る三陸沿岸道路(復興道路)が最近つながったんですね。ところが、そのおかげで、まちなかの交通量が激減してしまった。復興のために道の駅を海沿いに新たにつくったり、ハード面は進んできたんですが、逆にそのために地域の衰退が進んだという状況もなきにしもあらずです。

必要となる平時の備え

今のお話を伺うと、先ほど申し上げたハードのレジリエンスと、人のソーシャルなレジリエンスとの間につなげるものも必要という気がしました。

福迫さんはいかがでしょうか。

福迫

2019年に台風19号が全国で猛威を振るい、福島県でも甚大な被害が出ました。とくに中通り地域という東北新幹線が走っている地域の阿武隈川水系で非常に大きな被害が発生し、工業団地一帯が浸水しました。

衝撃的だったのが、浜通り地域のいわき市において、関連死も含めて13人という、基礎自治体として全国最多の人的被害を記録してしまったことです。

いわき市は福島県の中でも東日本大震災の直接被害を受けた地域であるにもかかわらず、台風災害に対応できなかった。これには、河川対策などハードの部分もあるわけですが、それ以上にソフトの部分が弱かったという課題が浮かび上がってきました。まさにレジリエントなまちづくりにかかわる大きな問題だと思っています。

私は市の台風検証委員会のとりまとめをしましたが、やはり情報の出し方や、台風に備える準備といったところが、行政のみならず地域全体で非常に弱かった。結果的に「今までなかったから大丈夫だろう」という正常性バイアスが働いて逃げ遅れて亡くなってしまった人がいたわけです。

こういった事態をどうやって防いでいくかを検討したのですが、ソフトの部分で言うと、日頃の準備ということを、こうした災害が起きたことを契機に周知、意識を高めていく。当然ハザードマップがあり、ほぼハザードマップ通りの被害だったので、自分の住んでいる地区のリスクは分かっていたわけです。しかし、住民の方もそれをあまり意識していなかった。

そして、ベースとなる平時のネットワークというものをつくっておく必要があります。

まずは行政の体制として、地方自治体は、今後災害対応がある意味で日常業務となるので、何かあった時に動ける体制をつくっておき、非常時の人的配置をフレキシブルにできるようにしておくことが必要です。いわき市では、来年度から危機管理部を創設し、その中核として機能することとしています。

さらに、行政と民間の平時のネットワークをつくり、いざと言う時に、様々な人や企業に関わってもらう体制を強化していく必要があります。

企業でも、いわゆるBCP(事業継続計画)をつくるにあたって、行政との連携が進んでいます。自治体と商工会議所等民間組織が連携し、災害発生直後、さらにある程度時間が経つ中で、どういう対応をしていくかを準備する体制をつくっておくことが必要であろうと思います。

記憶を伝えるためのプロセス

菅原さん、いかがでしょうか。

菅原

私は防潮堤を勉強する会というものをやってすごく感じたのですが、上からの計画で「ここは15メートルの防潮堤をつくります」というのでは、本当の安心、安全というものは得られないのではないかと思うんです。

防潮堤をつくるにしても、まずはやはり住民に計画を理解して納得してもらうプロセスが必要ではないか。そのためには、住民が津波の防御ということに関して、いろいろな勉強をしなければいけないので、大学などから先生をお呼びして、防潮堤の役割とは何だろうか、他に防災の方法はないのかということを勉強したんです。

そういった機会を設けることによって、必ずしも賛成はしないけど納得してもらえば、自分たちの子や孫の世代に、「われわれは、こういうことで納得していったんだ」と伝えていくことはできると思うんです。

これをやらないと、「安全ですよ」と上から言われただけで、何も後の世代に伝わらない。何世代か後には記憶が薄れて、防潮堤があるから大丈夫だろう、みたいな話になり、結局逃げることができなくなってしまうことを繰り返す危険もあると思うのですね。

防潮堤をつくるかどうかという議論の際、私たちの目の前の住人の方は、誰も高い防潮堤は望まなかった。むしろ、すぐに高台に逃げられるための避難路をつくったほうが有効で、予算も少なくて済むと主張したのですが、行政はそれを取り入れず、防潮堤の予算なので防潮堤をつくると言う。

「避難路の予算は、災害復旧では出ません」と言われて、結局防潮堤をつくるほうにいかざるを得ない。そうであるなら、住民が本当に参画して、納得してつくっていくということが、非常に大事だと思っています。

また、ハードの部分に関しては、分散化ということが大事だと思います。多重防御もその1つで、1つの方法やものに頼るだけではなく、いくつかのことを組み合わせる。あるいはこちらの施設が駄目になっても、他の施設は使えるようにすることが大事です。

一方でソフトというのは、意識に関わる問題ですから、やはり、住民が日常から身の回りのことをよく知っておくことが大事ではないかと思います。一本道路を知っておくだけで、全然逃げ方が違ってきます。もう1つは、連携軸、つまり何かあった時にすぐ連携できることです。ここは、ハードの分散化に対してソフトの集中化のような仕組みをつくっていく必要があるのかなと思います。

災害前後の情報の共有はすごく大事だと思います。われわれは行政のほうに、とにかく現状について数値化、可視化して情報を早く出してくれ、後で変わってもいいから、と言うのですが、行政は「そういうやり方はまずい」と絶対に出さないところがある。

また、住民にとって、このまちがこれからどうなっていくのかを考えるために、行政が将来像となる絵を出してください、とお願いをしても、「買収が決まっていない土地の上には絵を描けない」と言う。このまち全体が、どういうまちを目指すのか、空想図でもいいから描いてくださいと言っても、「空想図なんて描けない」と言われます。

しかし、絵を描くことで住民の関心にもなりますし、長い復興期の希望にもつながっていくのではないかと思っています。

ビジョンをつくる住民からの目線

私の活動は空想図を描いてばかりのような気がするのですが、驚いたのは、南相馬の太田地区で震災から2年たった頃、私たちが入るまでは、ほとんど地元で会議を開けなかったんですね。これからのまちをどうするか、まったく考えられていなかった。

それで、今後どうするのかを建築、景観、それから私たちのような情報の人間が集まって、未来ビジョンを皆で一緒につくりましょう、とワークショップを開いたんです。気仙沼の松岩地区でも同じことをやりました。

東日本大震災からの復興が以前の大災害と違うところは、少子化、過疎化が進む中、人が果たして戻ってくるかという問題です。30年前は30年後の未来について、描きやすかったのかもしれませんが、今のこの難しい時代には、30年後にどうなるのか、まったく予想できない。その中で未来の絵を描かなければいけないのは大変なのだと思います。

例えば、私の余命はあと10年だから、高台に移転してローンを組んで過ごせるわけではないから、安い公営住宅でもいいと考えるのは当たり前ですね。でも、孫の世代までこの土地に住んでほしいと思ったら、高台のほうへ移転しましょうとなる。

コミュニティーとは、そこの土地に長く住まれた方によるつながりですから、震災によってそれぞれの条件の下で住まいが再編されると、リセットされてしまうわけです。だから、この新しい状況下の復興されたまちの再生というのは、少なくとも一世代、二世代をかけないと、新しい社会のつながりにならないのではないか。

例えば、高台のほうへ引っ越すことも、昔は車を自由に運転できるので問題なかったと思いますが、今、高齢化した住民の方は、こんな坂道を毎日上がり下がりしながら買い物をしなければならないのはつらいという。これは当然だと思います。

行政も予算のある年だけ頑張るのではなくて、次の10年、次の世代のことを射程に入れないといけないと思います。ハードウェアができて、それをどうやってマネジメントしていくのか。またはイノベーションかもしれません。せっかく立派なインフラをつくっても、その発想をさらに展開していかないと、地域にとってのチャンスをつくれない可能性もあります。

上から与えられた目標ではなくて、皆で一緒にまちをつくっていくんだという住民からの何か新しい動きや面白い動きがありましたら、ぜひご紹介いただければと思うのですが。

紙田

宮古市では、以前、駅前の開発が住民の反対でとん挫したことがあり、市役所の人は住民参加ということに拒否感があったようです。「住民参加によって皆さんの意見で、どうやって復興していくかというのを考えましょう」と被災直後に市の方にお話ししたら、今はどうやって自分の生活を取り戻すかだけで精いっぱいで、将来のことなんかとても考えられないのではないか、というご意見でした。

それでも粘り強く意見を聞くべきだということで理解が得られ、市が主導して住民の方々に参加していただいて「復興まちづくり検討会」というものを始めたんですね。検討会での意見を市長に提言したところ、後は市のほうに任せてくださいという話になったんですが、田老地区では都市計画課が主導して決めたことを鵜呑みにしていいのかと、漁協の組合長から住民主導のまちづくりを進めたいというご相談があり、皆で相談をして、まちづくり協議会組織をつくることにしたんですね。

これは市役所には非常に煙たがられたんですが、完全に住民主導でつくりました。メンバーとしては、漁協の組合長、市会議員さんや消防団分団長など、いろいろな人に参加してもらいました。

例えば、市のほうでもハザードマップや避難マップというものは新たにつくってくれていたのですが、実は、県内では、この震災で90名の消防団員の方が避難誘導活動、防潮堤の水門を閉める活動などで亡くなっているんです。そこで避難誘導をもっと効率化して、この家にはもう人はいないです、この家にはまだ人がいますということが一目で分かる札をつくりましょうと検討しました。

また避難マップは、日々道路の場所や嵩上げされた場所などが変わっていくので、毎年更新しましょうということで、自分たちで避難マップをつくりました。「一回逃げたら二度と戻らない」とか経験した教訓を忘れないように毎年書く欄もつくったんです。

高台に移転される方は、すごく不安を感じられていたので、一度集まってみませんかと呼びかけ、200人もの方がいらっしゃって、皆で不安を出し合いました。高台の名称も市では考えていなかったので、自分たちで考えアンケートを取り「三王団地」としました。皆でガイドラインを考えたり、擁壁があるまちというのをあまり知らなかったので、ルールづくりをしたり、市が復興事業で精いっぱいの状況の中、自分たちならではの問題点を自分たちで出し合って解決策を考えるということを今も引き続きやっています。

住民主導でのまちづくりというのは、震災の後だからこそできることなのかもしれません。とても素晴らしい取り組みをされていると思います。

前向きなプロジェクトの循環に

菅原さん、気仙沼において面白い、新しい取り組みはありますか。

菅原

私が担当してきた内湾地区では住民の自治会などの人たちの集まりの組織でいろいろなアイデアを出し、このエリアをどうしようかといろいろ考えてきました。

しかし、アイデアは出てきても、結局、住民組織だけでは限界があり、プロジェクトを起こして、それを進めていくためには、会社組織のような推進力のある組織でなければいけないということで、気仙沼地域開発株式会社という震災前からあった休眠状態だったまちづくりの会社を使って内湾地区の開発をやっていくことしたのです。

新しい施設群を全部で3棟建てて、今、そこを運営しています。この中には飲食店や物販店も入ってもらい、コロナで大変だったのですが、去年の7月にグランドオープンをやって、たくさんの方に来ていただきました。

そこに地元の人たちと外の人たち75名が出資し合ってクラフトビール工場もつくったんです。別に特産品をつくるのではなく、クラフトビールというものを核にしながら、若い人から年配の方々まで皆、集まってビールを飲めるよな新しいコミュニティーをつくっていこうということです。

それが非常に好評を得て、3、4年後までの売上計画を達成してしまいました。うちの日本酒もそのぐらい売れてほしいなと思ったのですが、なぜかクラフトビールだと皆、飛びついてくる(笑)。

やはりそういうプロジェクトを1つ1つやっていくことが、すごく大事なのではないかと思っています。そうすると、そこにまたいろいろな人たちが集まってくる。人が集まると、そこからまたいろいろなアイデアが出て、次のプロジェクトが起きてきます。

加えて、内湾のエリアにITベンチャーが東京から入ってきて、気仙沼のデジタル化を支援しようとしています。無料の支援ではなく、きちんと対価を払って、支援メニューを受けて企業が成長しようとしています。こういう、経済的な裏付けを持った持続可能性を追求しながら新しい企業が入ってきて、そこに人が集まり、次のことが起きてくるという循環を、まだ小さいエリアですがやり始めています。

従来のやり方ではなく、復興の中から生まれた意識や、人のつながりを生かした取り組みが、また新しい希望をもたらすのですね。福島のいわきはどうでしょうか。

福迫

今のお2人のお話を伺うと、正直、福島についてはフェーズが違うというか、先程申し上げましたように、事例を挙げようと思っても少ないのです。

福島でも、例えばイノベーション・コースト構想などが復興事業として挙げられますが、どうしてもまだ全体として官主導、外資依存というところが大きいのが実情です。それは非常に大きな復興のパワーにもなりますが、まちづくりという点では住民主導ではなく、むしろ住民不在でさえある。

これは観念的な意味ではなくて、実際に住民が存在しないところでまちづくりが進められていたりする地域もあるので、そうした新しい動きに住民が主体的に関わるという点でいうと、福島はかなり遅れている。

これには当然、原発事故という問題があるわけで、非常に忸怩たる思いもあるのですが、ほかの被災2県も含めた他地域の事例を参考に、地域住民や民間企業、行政でも取り組んでいかなければならないなと思っています。

震災後、第3回国連防災世界会議も2015年に仙台で開かれ、仙台防災枠組もつくられました。この復興のプロセスを通して、震災復興あるいは災害マネジメントの国内、国際の観点から見ると、小檜山さんはいかがでしょうか。

小檜山

防災の観点ですと「自助、共助、公助」という言葉がありますが、この3つの連携が防災力を高める上で非常に大切であると、東日本大震災の経験後、改めて認識されています。

先ほど菅原さんから防潮堤を納得して次の世代に引き継いでいく、というお話がありました。やはり地域に愛着を持つこと、自分たちの祖先から受け継いだこのまちを好きになって、それをまた後世に伝えていくということが、レジリエンスを高める上で非常に大切な要素ではないかと思います。

共助の面で言えば、近隣の方々との助け合い、あるいは様々なNGO、NPOとの連携といったことがあるわけですが、地域への愛着というものが、人と人をつなげる上でも非常に大切な役割を果たしていくのではないかなと思います。

「稲むらの火」という津波の話をご存じだと思いますが、あの濱口梧陵が和歌山で行った津波からの復興。壊滅的な村を捨て、去っていく人が多く出た中で、防潮堤を築く事業を自分の私財を投げ打って行い、仕事を生み出して離れていく村人をつなぎとめた。そして大切なのは、つくった防潮堤が、100年後に再び襲った津波から子孫の命まで守ったということです。

こういった地域を愛して、後々まで大切な地域を後世に伝え、後世の命もしっかり守っていく。そういったまちづくりを行うためには自助、共助、公助、住民、それから様々な企業や商工会など経済の担い手、そして国、自治体との連携が上手く回っていくような仕組みを考えて計画を立て、それを実行に移すということが大切かなと、あらためて皆さんのお話を伺って、再認識した次第です。

危機に強いまちづくりとは

最後に取り上げたいのは、今のコロナ禍です。コロナのような感染症には災害のように公衆衛生の国際的な枠組みはほとんどない。各国ばらばら、地域もばらばらで、共助や公助があるかどうかも分からない。地域の経済の状況はどん底にあります。

コロナの災いは、それに対する地域の考え方、あるいはまちづくりの考え方、コミュニティーの考え方に、3. 11からの復興と似たような側面があるかもしれないと思います。コロナのことも含めて、これからレジリエントな、危機に強いまちになっていくためにはどうすればいいのでしょうか。

福迫

コロナは異質な面もあるのですが、基本的に災害は常に起こり得る時代になった。そうすると災害との共生が大きな課題になりますし、災害に強いか、強くないかというのが、まちが生き残れるかどうかという基準にもなってくるだろうなと思います。

そういう意味で、私自身地域の状況には危機感を持っており、突き詰めると最も基本的なところは、先ほど菅原さんからありましたように、「地域を知る」ということだと思います。自分が住んでいる環境等をある程度知っていれば、例えば津波や豪雨災害などからも最低限、避難できると思います。コロナのような感染症に関しても自分のまわりの環境が、どの程度の状況なのかを知ることで行動の変容にもつながってくるでしょう。

震災等の危機に強いまちを広く捉えると「持続可能なまちづくり」ということになると思うのですが、そうであればやはり、これからの地域がどういう方向に進むのかというビジョンが、非常に重要です。しかし、それをなかなか適切に出せていない。これは行政の役割が大きいと思うのです。

その時に参考になるのは、規模の最適化ということも含めて、建築や都市計画の知見をまちづくりに活かすということだと考えています。

「リノベーションまちづくり」が各地で行われていますが、これは、復興ということを考えると、非常に重要なポイントだと思います。残せるものは残すけれど、大きく変えるものは変える。例えば大家族が、子供たちが巣立っていったら小さな家にするのが最適であるように、地域社会でも、ダウンサイジングということも含めて、最適なまちづくりをしていく必要があるのだろうと思います。

この点、被災地全体に言えることですが、福島県浜通りでもなかなかダウンサイジング的なことが言えない。どうしても「震災前より」ということで、新しい外資を呼び込んで、素晴らしい豪華なものにしていこう、となってしまいます。いわゆるライフサイクルコストの観点なしにハコモノをどんどんつくっていくのでは、持続可能なまちづくりは難しいと思います。

規模の最適化ということからすると、分散やコンパクト・プラス・ネットワークということが言われていますが、それを都市政策、そして国の方向の中でどう位置付けていくか。圏域ということも当然重要なテーマです。

災害が起きたら1つの自治体、特に小さなまちだけで対応するのは難しいわけですから、圏域での連携を進めていく。そして、人口減少の中で地方がどうすれば持続可能なのかを、国もさらに踏み込んで示すべきです。地方も人口減少の悲観的な話はしたくないと思いますが、それを超えて、最適なまちや地域は何かを考えていくことが、これからの10年の主要なテーマになっていけばいいと考えています。

小檜山

コロナ禍ということで、人類の歴史を振り返ると、こういった疫病は何度も何度も人類を襲っており、それらを克服してきて、今の私たちがあるのではないかと思います。

そういった過去の歴史を振り返りながら、もう一度私たちの文化を、このコロナ禍を乗り越えていくために適応させる。レジリエンスには元の姿に戻るということだけではなくて、与えられた状況に上手く対応していくということもコンセプトに含まれています。コロナ禍の状況を踏まえて、うまく私たちの社会を変えていくということが必要なのではないかと思います。

人と人のインタラクションだけではなくて、人と建築とまちのインタラクションというものも当然存在している。こういった相互作用を解明して、私たちが持っている免疫力・治癒力を最大限高めるような建築デザイン、まちづくり、設計計画の理論を作り、実践していかないといけないと考えています。

コロナ禍を超えて

菅原

本当にコロナというのは、精神的にはすごく響いていますよね。気仙沼でも、やっといろいろなものが再建してきて、工場も稼働率を上げてきたところにコロナで、食産業が中心の地域ですから、水産加工や漁業の分野まで打撃を受けています。飲食業や、ホテル等の旅館も、やっと立ち直ってきたところでこのダメージですから、相当つらいものがあるのが現状です。

何とかそれを乗り越えようとして、今一生懸命やっていますが、先ほど厳先生がおっしゃたように、課題もやることも災害と少し似ている側面がある。政府の文句を言ってもしょうがないのですが、震災直後の対応と今回のコロナ対応はよく似ているんですよね。小出し、縦割りみたいな。もう少し現状を見つめながら、きちんとした政策を打てないのかなと思います。

常にわれわれは政策の小出しをされてきましたし、縦割りであったために進み方がすごく遅かったということを経験してきています。やはりここを何とかしないと、日本は本当に強い国になれないのではないかなと思います。

一方、少し震災の経験も生きていまして、震災発生当時は、様々な復興の主体を集めて何かをやるという仕組みが地域の中になかったんですが、今回はその経験があるので、例えばコロナ対応を皆でどうしようか、という集まりも結構早いんですよね。集まって皆で意見を交換したりすることで、何か作戦が見えてきたり、精神的にも楽になることができる。これは、やはり震災後の大きな経験かなと思います。

これから、地域をより強くしていくということを考えると、われわれ住民側、民間側も、連携という話になってくるのかもしれませんが、行政とも一緒になって、常に結集できる仕組みをつくっておくことが大事かと思います。

紙田

菅原さんがおっしゃったように、つながりというのは常に持っていないと、いざ大変なことが起こった時に、あたふたしている中で、1から組織や会議体をつくらなければいけなくなります。やはりソーシャルディスタンスは取っても、ソーシャルな「つながり」は常にキープしておかないといけないですね。

最近私たちの分野では「事前復興」という言葉がよく言われます。被災もしていないのに事前に復興するというのもおかしいような気もしますが、災害が発生したことを想定し、被災を最小限にとどめる「防災まちづくり」と、いざ被害を受けた時に、いち早く復興できるための「事前準備」の2つを合わせたものです。事前に皆でいろいろ考えておき、組織、つながりを強く持って復興計画を立てておく。事業の継続性についても事前に考えておく。あるいは、津波被害が起きそうなところでは事前に高台移転しておくという取り組みです。

まさにレジリエンスということで、何かが起きた時に被害を最小限に抑え、さらにいち早く元に戻し、新たな社会の中で、新たなあり方を皆でつくっていける社会にしていかないといけないのかなと思います。

ハードウェアは震災の直後に計画されてつくられているので、コロナになって、考え直すところもあるかもしれませんが、いろいろな側面において対応力は高いと思います。

また、このようなハードをつくるプロセスの中でつくられてきたソーシャル・レジリエンス、コミュニティーのつながり、マネジメントの力、内外の人のつながり、情報のつながりというのは継承されて、むしろコロナの災いの中でも、さらに強くなって活用されていくのだろうと、皆さんのご経験、現場の実践から実感いたしました。

10年後に、コロナの時に受けた打撃は、日本では震災の経験を生かして復興も非常に早かったという話をしたいですね。

本日はどうも有り難うございました。

(2021年1月22日、オンラインにより収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。