慶應義塾

田中 慶子:「訳すこと」とは?

公開日:2026.07.21

執筆者プロフィール

  • 田中 慶子(たなか けいこ)

    Art of Communication代表同時通訳者大原芸術財団理事システムデザイン・マネジメント研究科 卒業

    2020SDM修

    田中 慶子(たなか けいこ)

    Art of Communication代表同時通訳者大原芸術財団理事システムデザイン・マネジメント研究科 卒業

    2020SDM修

先日、京都の西芳寺を訪れた。僧侶の方が海外からの訪問者に、「合掌」を "I promise myself to do my best today." と訳されているのを聞いて、深く感動した。単に表面的な動作だけでなく、「合掌」を通して感じて欲しいことまでも訳の中に込めている。私たち日本人は手を合わせると、自然と感謝の気持ちが湧いてきたり、今日という日を精一杯生きようと思ったりする。しかし合掌を知らずに育った外国人は、同じ心の作用が起こるわけではない。だから、合掌によって心に湧き起こる気持ちも伝えるべく「訳している」のだ。


夏目漱石が "I love you." を「月が綺麗ですね」と訳したというのは有名な話(実際は漱石が訳したわけではないという説もあるが、一旦それは横に置く)。この翻訳は英語の試験の解答欄に書いたら「正解」とされるのか否か。「愛している」という直訳よりも「月が綺麗ですね」の方が、時代背景や日本人のコミュニケーションスタイルを考えると相応しいように感じるし、気持ちを伝える恥ずかしさや戸惑いまでもが滲み出ていて、表現として素晴らしいと思う。しかし果たして、これが訳として「正解」なのかどうか。そして、その問いは通訳の仕事である「訳すこと」とは何であるのか、ということにも直結しているように思う。


AIを使えば瞬く間に精度の高い翻訳が出てくる。そんな時代に、わざわざ英語を学ぶ必要があるのか、と聞かれることがある。語学を学ぶ目的が情報伝達だけであれば必要はないだろう。正確さとスピードでは、人間は機械には敵わない。通訳の仕事だってAIで十分かもしれない。


しかし、言葉を「訳す」というのは、機械的に言語を置き換えて済むものではない。文化背景や習慣が違う者同士の会話では、辞書の言葉を表面的に置き換えるような単純作業では通じないことの方が多い。話者の口調、表情、話の文脈──様々な情報から、そこに込められた意図や想いを汲み、聞き手が理解できる言葉を選ぶ。「言葉は生き物」とはよく言われるが、通訳をしていると、伝えるために最適な言葉は常に変化するし、言葉に絶対的な正解はないと痛感する。


絶対的な正解のない、言葉という「生き物」と向き合いながら、「伝わる言葉」を探し続ける。人間にしか提供できない価値というのは、案外こんな正解のないことへの模索に隠されているような気もしている。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。