慶應義塾

森山多吉郎

公開日:2026.08.26

執筆者プロフィール

  • 結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    普通部教諭

    結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    普通部教諭

画像 出典:国立国会図書館「近代 日本人の肖像」(https://www. ndl.go.jp/portrait/)

幕末。それは日本人が「未知の言語」に出会う時代でもあった。欧米諸国の船が次々と日本に押し寄せる中、最前線でその嵐に立ち向かった1人が、今回取り上げる森山多吉郎(もりやまたきちろう)である。

通詞の家に生まれて

森山は文政3(1820)年、長崎のオランダ通詞(オランダ語通訳)の家に生まれた。通詞は世襲制で、森山も天保2(1831)年、11歳の時に「稽古通詞」となった。


このとき通詞の間では、前のオランダ商館長ヅーフが、文化9(1812)年に始めた蘭日辞書の編纂が、大詰めを迎えていた。森山が通詞の道を歩み始めたのは、その熱気の中のことだった。結局この辞書は天保4年に完成して「ヅーフ・ハルマ」と呼ばれ、のちに福澤諭吉が大坂の適塾で、塾生たちと額を突き合わせて使うことになる。


他方、日本を取り巻く国際環境はすでに大きく変化し、日本人が馴染みのない言語と接触する機会も増えていた。文化5年、イギリスの軍艦フェートン号が長崎湾内に侵入した事件は、彼らが話した英語への関心を高める契機となり、文化11年には、蘭英字書をもとに編まれた日本初の英和辞書「暗厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)」が長崎で出版された。

英語との出会い

森山の通訳デビューは弘化2(1845)年、浦賀にいたときのことだった。浦賀は外国船の江戸湾侵入を防ぐ拠点で、幕府は天保14(1843)年以降、ひとまずオランダ語を理解する長崎の通詞を駐在させていた。


しかし、このとき応対したアメリカの捕鯨船マンハッタン号にオランダ語を話す者はおらず、森山は磨いてきたオランダ語を使うことがなかった。それでも通詞としての矜持からか、何かを伝えようとする姿勢は強く持っていたようである。船長のクーパーは、「英語はほんの2、3語を話せるだけだった。しかし彼は身振りで、より雄弁に語ることができた」と回想している。


そんな森山に、再び英語を使う機会が訪れたのは、嘉永元(1848)年8月のことだった。単身で利尻島に密入国したアメリカの捕鯨船員マクドナルドが、長崎に移送されてきたのである。その取り調べの通訳を務めた森山を、マクドナルドは、「発音の仕方は独特だったが、日本語とは異質な文字と綴りの組み合わせを、驚くほど見事に駆使していた」と評した。森山は英語の勉強を続けていたのだろう。


正座や礼法といった日本文化も教えた森山に対し、やがてマクドナルドは森山の英語教師になった。現在の日本人にとっても難敵の、エルとアールの発音矯正には苦労したようだが、のみこみの早い森山との「英語塾」はマクドナルドにとっても楽しみとなった。


ただ、マクドナルドは翌嘉永2年3月、長崎に来航したアメリカ軍艦プレブル号に乗船して離日することになった。その船員に英語で応対する森山を、マクドナルドはどのような気持ちで見ていたのだろう。

外交官になる

嘉永6(1853)年、ペリーが黒船を率いて来航した。長崎にいた森山は、幕府の命で浦賀に急行したものの、到着前に艦隊は離日。それでも2度目に来航した際には主席通詞として交渉に加わった。


基本的に、正式な交渉はオランダ語を介して行われた。すなわち、日本語を森山がオランダ語に訳し、それをアメリカ側の通訳が英語に訳すという仕組みで、英語から日本語への変換も同様であった。その一方で、森山は英語そのものでも十分にコミュニケーションが取れたようである。ペリー艦隊の主席通訳ウィリアムズは、森山の英語力について、「ほかの通訳がいらなくなるほど達者」と、驚きを込めて書き残している。


こうした卓越した語学力を背景に、森山は単なる通訳に留まらない活躍を見せていく。日本側の意向を艦隊に伝える使者となり、アメリカ側の条約案に抗議することもあって、ウィリアムズが「条約の処理はすべて森山の手に委譲されているのかと想像された」と記すほどだった。事実、日米和親条約のオランダ語訳に署名したのは、他でもない森山であった。


こうして森山は、ペリーとの交渉劇の中で外交実務を学び、実質的な「外交官」として育っていった。条約締結後には、その実力を認められて幕臣に登用。長崎の通詞は、実は長崎奉行が現地で採用した地方役人に過ぎなかったところ、森山はその枠を飛び越えた。


そして、安政3(1856)年7月、下田。このとき来日したアメリカ総領事ハリスへの応対が、それまでの外国人への応対と大きく違ったのは、その期間である。森山とハリス、オランダ語通訳ヒュースケンは、日米修好通商条約が締結されるまでの約2年間、同じ時間を共有し、それぞれ克明な記録を残した。その記述を重ね合わせると見えてくるのは、交渉の経緯だけではない。互いの文化や歴史に触れていく3人の姿である。


例えば、牛乳を希望するハリスに対し、日本では搾乳する習慣がないので提供できないと、森山が説明した日があった。ハリスは森山に世界地図を贈り、寒暖計で山の標高を測る方法を教えた。森山がハリスに老中制度を説明したり、ヒュースケンに豊臣政権の樹立から江戸幕府の樹立までの歴史を語ったりすることもあった。ハリスがブランデーやウィスキーを勧めると、森山は「生のまま」「十分以上に」飲み、肉を食べることにも抵抗はなかったという。互いに譲れない交渉の舞台裏で、彼らは確かに「異国」を吸収していた。


この、異国を知るという経験は、森山をさらに成長させただろう。その後も諸外国との条約交渉に臨んだ森山だが、交渉相手が残した手記には決まって森山の名が登場する。森山は、名実ともに日本を代表する外交官になった。

世界の舞台へ

ヨーロッパ諸国とも修好通商条約を結んだ幕府は、広がる攘夷運動に苦慮していた。混乱を収拾しようと、兵庫・新潟の開港延期と、江戸・大坂の開市延期について、諸外国の承認を得ることを模索する。


こうした幕府の動きに、当初反発しながらも同調した公使がいる。イギリス公使のオールコックである。オールコックは文久元(1861)年5月、公使館が置かれた高輪・東禅寺にいたところ、水戸藩の浪士に襲撃された。かろうじて難を逃れた彼にとって、いま開港・開市すれば、外国人にも多くの犠牲者が出るという幕府の説明は、理解できるものだった。


そこでオールコックは、幕府に対して、イギリスをはじめとする条約締約国へ全権使節団を派遣し、その延期について交渉することを提案した。その引き換えに条約の完全な履行を幕府に約束させるのがオールコックの目的だったにせよ、幕府にとっては良い提案で、使節団を文久元年12月に派遣することになった。その随員には通詞として、福澤諭吉も名を連ねた。


このとき森山は、もともと本国へ帰国することになっていたオールコックと、使節団を追うようにしてイギリスに向かうことになる。森山も派遣されることになったのは、交渉役としてオールコックが幕府に推薦したからだった。翌文久2年5月、森山はロンドンで使節団に合流。開港・開市を文久3年1月1日から5年間延期する「ロンドン覚書」の締結に漕ぎつけた。さらに使節団のヨーロッパ歴訪に合わせて各国をまわり、同様の合意を取り付けた。


こうして役割を果たした森山だが、帰国後の動向はよく分かっていない。使節団が12月に帰国したとき、攘夷運動はさらに激化していた。攘夷派を刺激したくない幕府は、開国策を進めにくい状況にあり、ヨーロッパで貴重な知見を得た使節団メンバーを敬遠したから、森山も同様だったかもしれない。慶応3(1867)年には、ようやく開港されることになった兵庫に着任するが、まもなく明治維新を迎えた。維新後は新政府に出仕することなく、明治4(1871)年に、51歳で亡くなった。

福澤との関係

安政6(1859)年、福澤は開港したばかりの横浜でオランダ語が通じない現実に直面し、英学に転向した。『福翁自伝』には、条約交渉の通詞を務めていた森山の噂を聞いて英語を学ぼうとしたものの、森山が交渉に追われて多忙を極めたので、森山から学ぶのを断念したというエピソードが載っている。


その後、2人はともに幕府の文久遣欧使節団に加わった。異国の地で長い時間を共有するなかで、彼らはどのような関わりを持ったのだろうか。「ヅーフ・ハルマ」をよく知っている点。オランダ語を学びながら英語の必要性に気づいた経験。翻訳に苦労した経験。開国初期にいち早く外国文化に触れた点。酒好きというパーソナリティ(オールコックも森山がビール愛好家であることを書き残している)に至るまで、両者を結びつけそうな共通点は多くある。しかし福澤も森山も、旅行中の交流について記していない。


『福翁自伝』の先のエピソードには、その関係について示唆的な箇所がある。福澤が森山のことを「何も英語をたいそう知っている人ではない、ようやく少し発音を心得ているというくらい」と述べるところである。ただ、森山の英語力が低くないことは、これまで見てきた通りである。両者の間に、何か確執があったのだろうか。同じ使節団でも、条約交渉で通訳をした森山と、各所の視察で通訳をした福澤とでは職掌が異なり、物理的にあまり接点がなかった可能性もある。


だが、2人が無関係な存在だったのかと言えば、決してそうではない。板橋倫行の論考「森山多吉郎と福沢諭吉」(『日本歴史』121号、1958年)では、使節団の帰国後に両者が接点を持っていた可能性を指摘している。明治期に文筆家として活躍し、幕府の時代には徳川家定・家茂の侍講を務めた成島柳北は、文久3(1863)年に幕府を狂詩で批判したことを咎められ、慶応元(1865)年まで閉門を命じられた。その間、英学に取り組むことにした成島は、洋学者の柳川春三、箕作秋坪、桂川甫策、神田孝平らをたびたび自宅に招いて会合を開き、これに森山と福澤も参加していたという。


するとやはり、なぜ福澤はそれでも森山にほとんど言及しないのか、なぜ森山との書簡も残っていないのかと、疑問が膨らむ。こうした「福澤に語られない人々」に注目することもまた、福澤を立体的に描き出す鍵となるに違いない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

福澤諭吉をめぐる人々

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