執筆者プロフィール
小山 太輝(こやま たいき)
幼稚舎教諭小山 太輝(こやま たいき)
幼稚舎教諭
画像:慶應義塾福澤研究センター蔵
坂田実(さかたみのる)は、福澤の3大事業の内の時事新報、慶應義塾を支えた人物の1人である。特に3代目舎長を務めた幼稚舎では、様々な改革、組織変更を実行し、慶應義塾の一貫教育体制の確立へと繋がる礎を築いた。また、福澤は、坂田幼稚舎長の間に、三男三八(さんぱち)、四男大四郎、長女里の長男中村愛作を入学させていることからも、坂田への信頼の厚さが見て取れる。当時幼稚舎の教員であった中村丈太郎の日記には、坂田が退任前に教職員に行った演説の記録が残っている。その記録内の坂田の言葉によれは、就任当時の幼稚舎は「乱雑を極めたる」有様で、生徒数も漸減し「廃舎」の危機を感じるほどであったという。しかし、僅か3年の間に「生徒の品行」も「本塾に誇るべきもの」へ回復させ、「生徒も大いに増加し、規則を改め内容を改善してその声価を高め」ることができたという。
時事新報の経営に携わる
坂田は、安政5年、備中岡山川上郡九名村に生まれた。『慶應義塾出身名流列伝』によれば、坂田は幼少の頃から「進取の気象に富」んでいたようだ。13歳の時には、まげを切り「しきりに新智識を鼓吹」していたという。
明治5(1872)年、16歳で上京し叔父である阪谷朗廬(ろうろ)(素(しろし))が懇意にしていた箕作秋坪(しゅうへい)の塾(三叉学舎)に入る。しかし、箕作塾では、慶應義塾でいう三等以上の英語を教える者がおらず、「毎日曖昧なところができる」ことに嫌気がさし、病気を契機に帰郷。1年間の休学を経て、明治7年に再上京し、翌8年3月慶應義塾の門を叩いた(「義塾懐旧談」『三田評論』)。在学中は、浜松町に住む華族に頼まれギゾーの文明史の講義をし、学資の補助にしていたこともあったという。
坂田が福澤と初めて対面したのは、卒業後であった。身の上の相談をするために友人に紹介をしてもらい面会した。当時の福澤は「政治熱が盛んで外交について熱心に議論していた」時期であったため、唐突に「條約書は読んだか?」と尋ねられ、坂田が「まだ読みません」と答えると「日本国民が條約書を知らん様ではいかん」と頭ごなしに叱られたと述懐している。
卒業後、坂田は塾で教員を務める。英語訳読を得意としていたという。明治15年、岡山師範学校と中学校で教頭が必要だという話が来て、両校の教頭を兼務した。しかし、坂田にとって教頭業は、「常に快なりとせず」(『名流列伝』)であったようだ。18年、文部省令改正で教員資格等で私立出身者は不利に扱われるようになったこともあり、教頭を辞し、高崎五六の仲介で神奈川県都筑の郡長となる。
20年のある日、坂田が福澤の所へ赴くと時事新報社への勧誘を受ける。福澤の「大の役人嫌い。郡長なんかやったってだめだというご趣意に応じ」坂田自身も「田舍はいやになっていた」こともあり、「先生の御指図なら何でもいい」と伝える。当時は、中上川彦次郎が退社をし、渡邊治が会計から編集専任となったタイミングであった。坂田はその時、経営に腰を据える者がいないことを福澤がしきりに嘆いていたと後に回想している。
福澤から「お前は経済がすきだから社の経済をやってくれ」と言われ入社することになり、「伊藤欽亮氏と共に両頭(ツーヘッド)でやってくれ」との要請のもと、経営に参画、会計事務、販売活動を担った。同年に福澤の提言で設立された広告代理店三成社の事務長も兼務している。なお、当時の時事新報はあまり儲けがなく、福澤も毎日世話を焼いており、坂田自身も「之を育てて為めを計らねばならんと一生懸命」に勤めたという。
幼稚舎長としての改革
幼稚舎は、明治7年、福澤が年少の塾生や自らの子女の教育を和田義郎に託す形で創設された。三田の施設内に存在しながらも位置付けは、あくまで和田の私塾であった。そのため、25年、和田が脳膜炎で急逝し、大黒柱を失うと、幼稚舎は大きな混乱期に突入する。福澤や小幡篤次郎塾長庇護のもと、早川政太郎を幹事(舎長は置かず)として取りまとめ尽力するも、生徒による監督教師殴打事件が起きるなど、混乱は続いた。生徒数も漸減の一途をたどっていく中、早川は僅か1年4カ月で幹事を辞してしまう。ここでも、白羽の矢が立ったのが、坂田であった。
「主人なくして子弟を預かるは無責任」であると考えた福澤と小幡は、「200人ばかりの子供を預かっていながら、無責任の事は出来ず、新聞も困るが、新聞はどうかするから」と坂田を説得。坂田は、困惑しながら承諾をした。
26年、坂田は舎長就任早々、和田時代の精神を踏襲した「幼稚舎規則」を発表、「生徒心得」を生徒に頒布した。「規則」一文目には、「児童を教訓し、心身の発達を助くる」、「授業は平易懇篤」、「起居眠食の如きも父兄に代りて親切に監督」、のような福澤の教育思想にも通じる文言が並んでいる。
「生徒心得」は、特に風儀に注意が払われ「喫烟を禁ず」「生徒全体の風儀を壊乱する言語動作を固く謹むべし」「一切の器具、造作等を破損すべからず」「刀片、その他危険の遊具を弄ぶべからず」等、今日の小学校にはないような文言が並ぶ。これは、当時の幼稚舎がかなり幅広い年齢が共存する特殊な学び舎であったことが関係していると考えられる。
幼稚舎の対象年齢は、和田の頃から7〜13歳と規定されていた。しかし、実際はこれに反し、主な入舎時期は、他の小学校から転校してきた12〜14歳であった。時には5〜6歳の幼児や16歳の青年まで在籍していた。つまり、普通部と同年代が幼稚舎にもいるという複雑な状態にあった。この特殊性故に、和田没後、風紀を正すことは困難を極めたことが考えられる。
そこで、坂田は、純然たる小学校化への第一歩として、附属の小学科を設けた。しかし、この改革は、現場の反対により中途半端に終わり、小学科と共に本科と称する中学校段階が設けられ、引き続き小・中段階が併存した。
続いて取り組んだのが、独立していた幼稚舎の会計を塾に編入することであった。和田の没後、校舎等の資産は整理され本塾に帰属したが、会計は独立したままであった。坂田は、現場の教員から総辞職をほのめかされながらも、この困難な任務を成し遂げた。この会計の編入により、純然たる小学校化への道が開けた。また、幼稚舎の校舎を三田の山の上から下へ移転させることで長年課題となっていた寄宿舎の改良・新校舎の建設へと歩を進めた。
坂田は、これらを成し遂げ30年9月29日、本文冒頭に触れた演説を行い退任する。同年9月18日、福澤は演説館で教職員・塾生に「学事改革の要領」を示し、翌年からの幼稚舎、普通部、大学部が連なる一貫教育体制への移行を進めることができた。
現場と福澤の声
坂田は、就任期間中「若いのに和田さんの後を引受けて柄にもない事だから、周りがうるさくて困る、年とったものでないと、いかん」、大いに「弱った」と福澤に退任を訴えることもあった。中村の日記によれば、数度退任の意思を示したが、その度に、福澤から慰留され続けていたようである。
坂田は、現場で奔走する傍ら、福澤からの声を受け止める役割も担っていたと考えられる。
明治29年の福澤の坂田宛書簡があるので要約し紹介したい。
「幼稚舎柔術」は、「従前は随分盛んに行われ、少年の衛生には申し分なき運動」であり「その効、あるいは体操よりも利」があった。自分の「子供などもお蔭をもって近来は目立つように丈夫に」なっており、「この後も怠らぬ様、精々注意を加え」ていたが、「幼稚舎の事情は全くこれに反し、道場へ出席は次第に減少」し、「近日に至りては往々皆無の事もこれ有り」と指摘している。自分の子どもたちが朝5時に道場に行っても他に生徒もおらず、柔道の教師と稽古を終わる時にようやく数人がくるかこないかである。「幼稚舎は智育よりも体育を専にして、子供の発育、他に比較して云々と申すところに妙味の存することなり」。それにもかかわらず「大切なる柔術稽古の事実は右の如し」であり、ただ忘れてしまっているのなら「時々これを集めて事の大切なる次第を話して聞かして宜し」。自由にしていることで「自然に怠」ってしまうようなら、「何か法を設けて点数にのせて奨励の工夫」をし盛んにしたいとも記した。その上に、追伸でなお「子供を集めて話して聞かせる」ようなことがあれば「老生の閑なる時に出席致」しても構わない、と加えている。
幼稚舎は、現在でも福澤の「先ず獣身を成して後に人心を養う」という言葉を大切にし、体育に力を入れている。創立当初は、和田が柔術の達人であったこともあり、柔術を軸に体を鍛えていた。また、夏季には海浜学校として、有志の学生を集め、水泳の術を修練し、中には七百間(一間は約1.8米)以上を遊泳する者までいた。
和田没後も幼稚舎は、体育を大切にしてきたが、時勢にも影響され、柔術ではなく兵式体操を取り入れていた。そのような状況の中、体操に比して柔術の方が、「衛生」の「効」に「利」があると考えたのが先ほどの書簡であった。このように福澤は、信頼する坂田に声を届けていたことがよくわかる。
実業家としての晩年
幼稚舎長の退任後は、「1年ばかり呑気に遊」び、31年に日本銀行の出納局長に就任。名古屋支店長も勤めた。その間、小幡篤次郎追悼の寄附の利回りを図書購入費とすべく企画された小幡図書基金の発起人にも名を連ねた。39年日本銀行を辞し、豊国銀行の創設に加わり専務取締役を務めた。
その後は、第一火災海上保険会社社長、小田原瓦斯株式会社監査役、北海採炭長、日本緬羊毛織創立発起人・相談役、日本海上倉庫社長などを務め、昭和4年12月に没。告別式の友人総代は門野幾之進、鎌田栄吉らが務めた。
最後に、『列伝』に記された人柄を掲載し、結びとしたい。坂田は、「極めて温厚にして、篤実、ことに所志を遂行するの妙に至りては、凡人のあえて企て及ばざる所あり」、「氏の頭脳はすこぶる明確にして算数に熟達し、一たび目を瞑れば、経済界の事歴々として指呼すべしと称せらるるに至りては、氏は実に先天的実業家たるの智能を有するものと云うべし」。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。