執筆者プロフィール

山内 慶太(やまうち けいた)
看護医療学部 教授
山内 慶太(やまうち けいた)
看護医療学部 教授
画像:慶應義塾福澤研究センター蔵
今も中津で感じられる存在感
中津からは多くの若者が、草創期の慶應義塾に学んだ。そして、多くの優れた実業家が生まれた。中上川(なかみがわ)彦次郎、朝吹英二(厳密には中津を流れる山国川上流の宮園出身)、磯村豊太郎、等である。しかし、中津の町を歩いてみると、特に存在感の大きさを感じるのは和田豊治(わだとよじ)であろう。
寺町の浄安寺の和田の墓所の前には、渋沢栄一の撰文になる大きな「和田君紀悳碑」が立っている。また、福澤諭吉の旧居から徒歩3、4分の鷹部屋(たかべや)という地名のところには和田公園がある。これは富士紡績が和田の誕生の地の周辺の土地を合わせて作り中津市に寄付したものであるが、そこには、大きな「和田豊治翁聖徳碑」が立っている。
和田の生涯は、大正15年に刊行された『和田豊治伝』に詳しいので、それを中心に辿ってみたい。
苦学を支えた中津の人々
和田は、文久元(1861)年11月18日、中津の鷹部屋町に生まれた。父薫六は籾十石八斗二人扶持と、福澤より更に貧しい下士であったが、読書や学問を愛好し、「足軽階級にありて清閑を愛し読書を楽しみたるは稀有の事なりしと称せらる」ような人であった。
和田は、明治9(1876)年、藩校進脩館と皇学校を併合した形の中津中学に入学したが、医師としての自立を考え、翌10年から村上田長の家に、寄宿した。村上家は中津を代表する医家の1つで、今も、建物は村上医家史料館として往時を偲ぶことができる。
12年に卒業した後も、寄宿して勉強を続けたが、東京で医学を学ぶことを決意して上京、しかし、東京大学の入学試験に通らず、15年1月、慶應義塾に入学することになった。入社帳に記された保証人は、中津出身で福澤と共に義塾を支えた小幡篤次郎である。
東京で学ぶに当たっては、既に父も喪っていた和田は、自宅と足軽株を売却したが、それでも1部にしかならない。村上田長の紹介状により、村上の関西の知人に頼み、中外電報の通信記者の名目で手当てを得られるようになった。更にそれが途切れると、中津開運社の貢進生(奨学生)となった。これは、慶應義塾の分校の観もあった洋学校の中津市学校の閉校に際して作られた奨学資金で、優れた青年に支給し東京で学べるようにしたものである。そもそも中津市学校の設立には、旧藩主奥平家の家禄と、旧士族間の互助組織天保義社の拠出金が充てられていたので、その資金の残りで作られた奨学制度であった。
塾生時代の和田は、「強情なりしも書生としては何人にも接触し易ききわめて圭角なき人物」であったという。
和田の強情で負けず嫌いな人柄を示す逸話がある。当時の塾生の間で流行っていた競食会、「蕎麦の喰上がり」(武藤山治)でのことである。三田から銀座まで、途中にある蕎麦屋に1軒1軒入っては蕎麦を食べ続け、落伍者が費用を負担するというものであるが、この競食会では常に勝っていた。実は、その時には和田は、友人との約束を破って秘かに事前の食事量を減らしていたという。
桑港そして鐘紡、武藤山治との邂逅
明治17年に卒業した和田は、翌年、アメリカに渡った。この時、義塾で共に学び、後に実業家・言論人として活躍する武藤山治と中津出身の桑原虎治も一緒であった。この時も、和田の、3等客船の費用や様々な準備の費用には、中津開運社の支援があった。
サンフランシスコ(桑港)に到着した3人は、やはり中津の縁で甲斐織衛(かいおりえ)より紹介された友人の新聞記者ジャコブスの斡旋で、たばこ製造所に勤めることになった。ただ、賃金は低い上に英語を学ぶ時間もない。武藤と桑原は早くに退職し、最後に残ったのは、和田であった。そして、和田は、日本雑貨を扱う甲斐商店に入りサンフランシスコ支店に勤務することになった。
甲斐織衛は、中津藩士の子で、義塾で学んだ後に、神戸商業講習所の初代の校長を務めた人で、朝吹英二ら義塾社中の人達が中心になって作った貿易商会の経営を託され渡米、そして独立して作ったのが甲斐商店であった。甲斐商店は、義塾出身者のアメリカでの拠り所のような研修機関のような面もあった。福澤の義理の甥、今泉秀太郎も同時期にサンフランシスコ支店に勤務し支店長をしている。
6年間のアメリカ生活を終えて、明治24年1月、和田は帰国した。
帰国後の和田は、日本郵船を経て、翌年三井銀行に入った。そこには、4年前に帰国していた武藤が既にいた。
武藤は銀行の抵当係を経て、一方、和田は横浜支店を経て、いずれも朝吹が統括している三井工業部に転じ、鐘ヶ淵紡績で、それぞれ神戸支店長、本店支配人(向島)となった。武藤の『私の身の上話』に「鐘ヶ淵紡績会社は名は独立の一株式会社ではありましたが、その実は三井銀行改革中の中上川氏に経営が託されており、自然三井銀行の一分店の如く取り扱われていたのでした」とあるように、中上川の下で、それぞれに活躍の場を得たのであった。しかし、次第に2人は比較され、また対立するようになる。
業績を巡っても、武藤の評価は高くなっていった。武藤が兵庫工場を託されたのは、工場の建築に着手していた時であったので、最新鋭の機器が導入され、成績を上げることがしやすい立場にもあった。一方、和田が担当する向島工場は、旧い機器で、成果が出にくく、会社は、向島も兵庫のような成績をと焦るようになった。
加えて2人の意見も対立するようになる。そこには、性格の相違も影響したという。「豊治君は情義を主とするに反して、武藤君は智力を主とし、豊治君は円満を尚ぶに反して武藤君は先ず理義を正さんとす」であった。
三井も、2人を同じ会社においておくことは難しいと判断する。明治33年、和田に、新たに織布事業を考え三井呉服店の用務としてアメリカ視察を命じた。しかし帰国してみると、織布事業は見送られる。和田は辞職することになった。
富士紡績の再建と財界での活躍
明治34年、和田は富士紡績に入社した。富士紡での和田の功績は、『富士紡績株式会社50年史』(昭和22年)が詳しく語っている。
当時の富士紡績は経営不振で、「赤レンガの石塔」、「敗残の赤レンガ」と言われる窮状にあった。その再建に、同社の発起人であり大株主であった森村市左衛門が乗り出したのである。日比谷平左衛門を口説いて社長にし、その下に不遇の和田が招聘された。
専務取締役となった和田は、早速再建に尽力した。油染みで黒光りする詰襟の洋服に、長靴の和田は、常に工場を巡視し、機械の状況を細かく観察、欠点を見付けるとすぐに指摘していたという。例えば、工場の片隅に油ボロが落ちていると、自然発火のおそれがあると厳しい叱責をした。
微細に至るまでの厳しい指摘と叱責の連続に、職員も工員も緊張を強いられたという。しかし、和田は、自らも公私の別に厳格であったし、職場を離れると社員たちとはいつもニコニコとしていたので、和田に心服する者が増えていった。
このようにして、和田は生産工程の改善、人心の規律の回復を進めると共に、工員不足にも対応した。工場は、低賃金に逃げ出す女工も多く、高い塀に見張りを付けるような有様であった。和田は、直ちに、職工の報酬等を上げると共に、外出制限を外し、浮いた見張り等の費用を演劇等慰安的な活動に充てることにした。
これらの成果で、生産高の増加だけでなく品質も飛躍的に改善していった。
そこでさらに行ったのが、明治39年に行った賞与法、即ち利益分配法の改正である。それまで利益の15パーセントを重役賞与等に充てていたものを、職工、職員、重役それぞれ5パーセントずつ配分するというものである。和田は、三井時代の最後の渡米の時にも「職工利益分配法」に注目して調査していたのであった。その趣旨は理由書に書かれているように、職員には「普通に所謂勤人たるの概念を去り人格ある一個の人として、社会に立つの覚悟と体面とを保たしむる」ものであり、工員には「その業に安んじ、一身一家渡世の途として、唯一安全の活路」とするものであり、資本と労働の一致を図ろうとするものであった。加えて、同年には、工員と職員と一体の共済組合も確立した。
三菱長崎造船所の荘田平五郎、鐘紡の朝吹英二と武藤山治ら、いわゆる福澤門下の実業家達は、それぞれに先駆的な福利厚生制度の導入や今日の健康保健組合の原型に当たる共済組合等を作って来たが、和田もその1人に挙げることが出来よう。
和田はその後も、綿紡績から絹紡績への拡大、紡績会社の合併と、工場を支える水力発電事業の拡張等で、富士紡績の発展を牽引し続けた。
また、大正5年に社長になった頃からは様々な企業の経営に相談役等で参画すると共に、日本工業倶楽部、理化学研究所をはじめとする諸組織の設立にも尽力した。また、多くの公職も委嘱され、大正13年に亡くなるまで益々多忙な日々を過ごした。その幅広い活躍は、時に「第2世渋沢」と称されることもあった。
郷土愛と報恩
和田が亡くなると、多くの人がその人柄を語った。例えば、『和田豊治を語る』には、「豪放で私も及ばぬ緻密の和田君」、「友を持つなら和田を持て」等の題が並んでいる。また、塾員鈴木梅四郎は、敬服する要点として、親孝行、故郷への厚い情誼、社会国家への尽力と並んで「先輩友人は勿論、その他何人に対しても一切毛嫌いせず、その依頼を受くる時は喜んで之を諾し極めて親切に能う丈けの事を熱心に尽力したる事」を挙げた。
郷土愛と言えば、和田が細心の注意を払って設立した中津工場は、富士紡の主力工場の1つとなるだけでなく、鐘紡の中津工場と共に、長く中津の産業を支えるものになった。
そして何よりも特筆すべきものに、中津の若者の為の奨学資金がある。和田は、生前から奨学資金の寄付を重ねて来たが、没すると生前の遺言により巨額の基金を基にした財団法人和田薫幸会が設立された。この和田薫幸会による修学援助は、今日まで続いている。和田をよく知る森村開作は、和田の言をこう紹介している。
「自分は中津藩の貧乏士族の家に生まれた。普通ならば、尋常の学問もできないのだが、藩の育英機関である中津開運社のお蔭で以て慶應義塾を卒業し、その後色々の方のお世話になり、兎も角今日ある事が出来た。自分は人様の恩によって今日あることが出来たものであるから、出来るだけ人様のため盡さなければならぬ。」
和田薫幸会の名は、父薫六、母幸の名前からとられている。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。