慶應義塾

福澤 錦

執筆者プロフィール

  • 小山 太輝(こやま たいき)

    一貫教育校 幼稚舎教諭

    小山 太輝(こやま たいき)

    一貫教育校 幼稚舎教諭

2023/01/12

福澤諭吉と錦(明治33年5 月) (慶應義塾福澤研究センター蔵)

「只やさしい旧式なおばあ様でした。福澤諭吉の妻でありながら、英語は一言も知らず、バターは食べず(中略)牛乳なら飲めると自慢して居られました。それで私達は、おばあ様を旧時代の象徴のように思っていました」。これは福澤諭吉の孫、清岡暎一の回想である(『父諭吉を語る』)。このおばあ様とは諭吉の妻、錦(きん)のことを示す。諭吉は、妻の錦を「おきんさん」と慕い生涯にわたって敬愛した。諭吉は、孫の清岡に「おばあさんには何をわたしておいても決してなくしたことがない。こんなに心配なく仕事の出来るのも、又財産が幾らかでもたまったのも、全くおばあさんのお陰だ」(同前)と語ったという。一方で四女滝は、母錦のことを「父の考えは母にちっともわかっていなかったと思います。父のいったことは、あの当時の人には多くわからなかったでしょうから、母にわからなかったのも、無理はないと思います」(『ふだん着の福澤諭吉』)とも振り返る。

生い立ちと福澤家での生活

錦は、弘化2(1845)年に江戸汐留にある中津藩の屋敷にて土岐家の次女として生まれた。明治9(1868)年に諭吉が記した「福澤諭吉子女之伝」によれば、土岐家は中津藩の家老である奥平家の分家である。錦の母は淀藩井上氏の娘「はま」、父の太郎八は「用人役」を勤め、諭吉曰く「俗気を脱して品行高き人物」であった。

清岡暎一が母から伝え聞いた話では、幼少期の錦は「かん」という名前であったが、その名を好きになれず親に頼み「金」に変えている。しかし、今度は漢字が気に入らず、結婚後の諭吉に考えてもらい、 同じ音の「錦」になったという。また、錦には若い時に許嫁がいたが頑なに結婚を拒んだ。最終的にこの許嫁は適切ではないとされ、婚約は取消されたが、錦自身は、結婚に至るくらいならば命を落としても構わないという考えもあったようだ。

錦が諭吉と結婚したのは、文久元(1861)年の冬のことである。錦17歳、諭吉26歳頃であった。先述のように土岐家は中津藩の上士であり禄高は250石もあった。13石2人扶持の下士である福澤家との石高の差は10倍以上もある。本来、結婚し得ない身分差である2人がこの時代に結婚できたのは、錦の父が諭吉の実力を見込み、娘との結婚を遺言し他界したことが大きかったとされている。また、諭吉は、この時期に、第1回の訪米を経て、外国語の翻訳方とし20人扶持御手当金15両をあてがわれている。諭吉が幕府に出仕していたことも結婚が成立した要因であると考えられている。

諭吉夫妻の結婚生活は、芝新銭座にある1階・2階合わせて20畳ほどの借家からスタートする。その後、幾度も引っ越しを重ね、三田に落ち着いたのは結婚約10年後である。福澤夫婦は4男5女の子宝を授かったが、乳母を雇ったのは第6子からであった。伊東茂右衛門の回想によれば、明治8、9年頃は女中や乳母が6、7人、書生が5人から10人、 雑用係が1人、馬丁が2人程度おり、福澤の家族親族を合わせれば大抵平均25、6人いたという。錦は女中や乳母などを指揮し、この大人数の福澤家を支えた。

また、福澤家では沢山の塾生が出入りするだけでなく、ホームパーティや様々な催しも行われている。知人、友人や塾生を対象とするものから、夫婦や錦名義の招待状を出し、「日本婦人論」で提唱したような女性たちが交際する場も設けられた。時には錦自身が主人となり、福引大会を楽しませるために工夫を凝らしたことなどが諭吉の書簡から窺い知ることができる。会合に招かれた大学部の教員ジョン· ヘンリー· ウィグモア夫妻は、錦は英語を話さないが、やさしい顔から立派な性格が表われていたとそれぞれ書簡に記している。

錦の日々は家事育児に加え、このような各種の接客で多忙を極めていた。長男一太郎に宛てた手紙には「外より案内をうければ、先次第にて断ると申わけにも参らず、又内ヘも来客致、日々いそがしく」と述べている。忙しさ故に、時に知人や親せき、アメリカ留学中の息子への手紙ですら諭吉に代筆してもらうほどであったようだ。

錦と諭吉の価値観

諭吉は、「福澤諭吉子女之伝」の中で「福澤と土岐とは同藩なれども、先祖より東西に処を異にし毫も血縁なし」と記している。大阪で生まれ、その後を中津で過ごした諭吉と、江戸で生まれた錦は、正に東西それぞれの異なる文化の中で育ってきたと言える。食1つとっても、中津では河豚を食べる風習があり諭吉は好んだが、錦は危険な河豚を食べるなら自分たち家族を殺してからにしてくれと諫めたとされ、その違いが感じられる。

また、錦は上士の娘として「江戸住居の藩士普通の養育」を受けてきた。一方、父を早くに亡くし母子家庭となり内職をし助け合わなければならないほど貧しい下士の家で育った諭吉、あるいは欧米の考えを先進的に取り入れていこうとする諭吉とは価値観が大きく異なっていたことが考えられる。

例えば、錦にとっては帰宅時に夫を出迎え「お帰りなさいませ」とお辞儀をすることは至極当然のことであったが、諭吉はそれを厭った。わざと裏から入って逃げ、錦がそれを追う姿はまるで追いかけっこのようであったという。最後には錦が根負けしてやめることになったが、上士の娘としての礼節を身につけた錦にとり、納得できないことは多々あったと想像される。しかし、旅行先から送った書簡からは、諭吉が着物の着脱の始末や歯みがきの準備などについては日々錦に頼りきっていた面もあったことが分かる。

娘の教育

諭吉は、著作の中で男女は同権であり、女性にも教育が重要であることを説いている。留学中の息子たちに、娘たちを留学させた場合の費用の概算を尋ねている書簡も存在している。

しかし、実際の娘たちは留学どころか学校にもまともに通うことはなかった。三女までは、一時、幼稚舎にも在籍はしたものの男子と学ぶ内容は異なった上におよそ2年間で辞めてしまう。その後、横浜の共立女学校(現横浜共立学園)に入学させた娘もいたが、こちらは、1、2カ月で辞めさせてしまっている。この学校は全寮制であったにもかかわらず、娘たちが慣れるまでは週末の礼拝を休み、例外として帰宅させて欲しいと嘆願書を送る始末であった。清岡によれば、これは「おぼあ様が心配でさびしくてたまらないと云って呼びかえされた」のが大きな要因であったようだ。五女にいたっては1度も学校に通うことはなかった。

結局、娘たちの教育は、外国人の婦人を家に呼び英語や編物、料理を教わること以外は、琴、三味線、踊り、日本画など「普通のお稽古ごと」を習う「全く普通の家庭と変らない女子教育」を受けていたようだ。「江戸住居の藩士普通の養育」を受けてきた錦の考えが色濃く影響していたのかもしれない。なお、錦の母「はま」は、夫を早くに亡くしたこともあり、福澤家に隠居していた。錦と共に家事一切をきりまわし、殊に女中の監督に気を遣っていたとされる。奥平の「芳蓮院(ほうれんいん)様」に対する心遣いからほうれん草という言葉を一生口にせず「赤根草(あかねそう)」と呼ぶほどに頑固で身が固かった。はまの存在も娘の教育には影響したのかもしれない。

夫婦の関係

諭吉は人生家族の本は夫婦であると説き、夫婦は対等で何事においてもよく相談することが重要だと説いている。実際に諭吉が留学中の息子に宛てた書簡には「母人」と「申合せ」や「語り合ひ」のような言葉がみられる。錦の書簡からは心配事は諭吉の体に障るため自分が先に聞き諭吉に「相談」をしておくという旨の内容も書かれている。

また、毎月末には「必ず帳面と算盤をもち出し夫婦さし向いで」で共に家計簿をつけるなどの共同作業もみられる。さらに、錦は、俳句が趣味で諭吉の門下生の飯田三治から教えを受けていたが、時に諭吉も加わり連句を作るなど錦の趣味に歩み寄りもみせている。

一方、四男大四郎は、姉から「父は女の権利がどうのこうのいっているけれども、家では常に遠慮なく平気で思うままのことをしていた」というようなことを伝え聞いている。ただ、実際には「反対する人がなかったので自然とそうなったであろう」と分析し、夫婦喧嘩もなく円満であったのは「母は日本式の女できわめて穏やかな従順なひとであったから問題が起こらなかった」のであろうとも振り返っている(『父・福澤諭吉』)。

おばあ様としての錦

諭吉がこの世を去ってから、20年以上、錦は未亡人として、三田の家に一人で住んだ。清岡によれば、子どもたちの世話になることはなく、「かえって子や孫に頼りにされていた」ようだ。「居間の隅には立派な事務机」があり、「やさしい人で、叱ることはあっても怒ることはなく、いつも落ちついていて、膝を崩すこともないので、夏どんなに暑くても、おばあ様だけはあつくないのだと思」うほどしっかりとしていた。「自然な流れで女中に指図しているので、こちらも大いにゆったりした気分になれ」たという。

錦は孫たちにとって「やさしい人」であると同時に冒頭のように「旧時代の象徴」的な存在でもあった。捉え方によっては、老後の錦は、福澤諭吉の妻にもかかわらず、「旧式なおばあ様」として〝年を取ることができた〟とも言えないだろうか。それは、諭吉と錦が独立した個人として価値観を尊重し合い、対話や相談、共同作業を大切にしてきた故なのかもしれない。

錦は、大正13(1924)年に息を引き取り、諭吉が眠る常光寺に埋葬、後に諭吉同様、善福寺に改葬される。

諭吉は、生前、錦も固有の財産を持つベきであると考え、錦名義の預金を行っていた。錦の殁後、その財産は大きなものになったため「錦(にしき)会」という名の記念基金を作り、親類を助けたり、塾のために使ったりするようになった。現在、この基金は、毎年の幼稚舎卒業生へ寄贈される『福翁自伝』にあてがわれ、今でも錦おばあ様の優しさは、小さな塾生たちに届けられている。

(参考文献:『福澤諭吉と女性』西澤直子)

孫の中村里、曾孫の愛作夫妻と玄孫たちとともに(前列左が錦)(大正8 年頃、『聞き書き・福澤諭吉 の想い出』より)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

福澤諭吉をめぐる人々

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