執筆者プロフィール

山内 慶太(やまうち けいた)
看護医療学部 教授
山内 慶太(やまうち けいた)
看護医療学部 教授
2022/07/09
画像:明治43年、シェーファーらが 来日時(福澤研究センター蔵)
慶應の野球を象徴する言葉に「エンジョイ・ベースボール」がある。日本のスポーツ界に長く巣喰っていた精神主義とは明らかに異なる野球。昭和35年からと57年からの二期にわたって監督を務めた前田祐吉によって確立した感があるが、腰本寿、三宅大輔ら、慶應の野球を支えた人たちの系譜の中においてこそ、より理解できるものである。
中でも、三宅大輔(みやけだいすけ)(1893~1978)は、塾生時代から最晩年まで、アメリカの野球人との交友を大切にしながら、著書の題名のように「True Baseball」を追求した人でもあった。『ベースボール・マガジン』に昭和37年5月より35回にわたって連載された「私が体験した野球と人生」を基に紹介したい。
『野球学』と義塾の気風
終戦間もない昭和20年8月20日頃、三宅は友人を訪ねて鎌倉へ行った折に作家の久米正雄と遭遇して、いきなり握手をされた。「とうとうあなたの時代になりましたね」と言われた。その時のことを三宅は記している。
私は意味がよくわからなかった。「エッ?」と聞き直すと「いつから野球は始まるんですか」と言われて、私はやっとわかった。野球をまたやれる時がきたのかと思うと、ゾクゾクするほど嬉しさがこみあげてきた。(連載第29回)
実際に、その年の11月には全早慶戦が開かれ、翌年春には六大学野球も復活した。また、多くの野球雑誌が生まれ、三宅は大いに健筆を振るった。中でも、その時の三宅の気概と野球への姿勢が感じられるのが、昭和21年11月に執筆刊行した、『野球学』の「序」である。その冒頭は次の文ではじまる。
近代文明とは科学と組織の世の中であると思う。
現代においては、如何なることをするにも科学的の研究なくしては、ある程度の水準以上の進歩は望めない。日本人は従来、ものごとを深く掘り下げて考えることが足りなかった。殊に科学的に、ものごとを組織だって研究する習慣が少なかった。
従来の日本では、封建的階級的制度の下に、人々が命令に従ってのみ動かされる習慣が出来た。命令を発する階級が、人種の違った人間であるかのように考えさせられ、命令を受ける一般人民は、自ら考え、自ら研究する機会を失し、命令なき所に、行為が行われないようになった。
学者が、うとんぜられ、技術者が軽視されたことが、ものごとの科学的研究不足を招来した大原因であると考える。民主主義の本家である米国から直輸入された最も民主的であるべき野球においてさえも、同様のことが云える。
「近代文明とは科学と組織の世の中」との指摘を見た時に、何が思い浮かぶであろうか。ここで言う「組織」とは命令を発する者と受ける者にわかれない関係、つまり、一人一人が自ら考えることのできる独立した人々で構成される関係ということである。
福澤先生は、明治30年、「慶應義塾学事改革之要領」において、塾風について「之を解剖すれば則ち独立自由にしてしかも実際的精神より成るを発見すべし」と記した。ここで言う「実際的精神」とは科学的思考を根底に持った実学のことである。『福翁自伝』の「(西洋にあって)東洋になきものは、有形に於て数理学と、無形に於て独立心と、この二点である」に通ずるものでもある。こう考えると、三宅の指摘には、正に慶應義塾の精神がそのまま表れているのではないか。
福澤先生との散歩
明治26年生まれの三宅が三田の御田小学校から義塾の普通部に入学したのは、福澤没後のことである。しかし三宅は、福澤を知っていることを自慢にしていた。
三宅の父豹三(ひょうぞう)は、兄宅三を頼って12年、広島から上京した。宅三は寺島宗則の書生をしながら慶應義塾医学所で学び、後に海軍軍医になった人である。寺島と福澤は洋学者仲間として親しかったので寺島の頼みで、豹三は福澤家に書生として住み込むことになった。そして、義塾で学んだ後、時事新報社に勤め、また井上角五郎渡韓後は、後藤象二郎の秘書を引き継ぎ、福澤とはその晩年まで公私共に親密な関係が続いた。
三宅大輔は、福澤晩年の思い出を語っている。
私どもの家は、当時、芝豊岡町にあった。丁度先生が散歩をされる道筋で、朝早く、(略)先生は私どもの家の前を通られるとき、「三宅さあん」と大声でお呼びになった。父はあわてて出て行って、先生の散歩のお供をするのであった。(略)
ある日、私は途中まで先生のあとをついて行こうと思った。
私は少しはなれてチョコチョコついて行くと、先生は父に、
「あなたの息子さんですか」と聞かれた。
父が「次男です。大輔といいます」と答えると、先生は
「一緒にいらっしゃい。朝の散歩はからだのためによい薬ですよ」といわれた。先生はだれに対しても、丁寧な言葉で話された。
それから、私はたびたび先生のお供をして、広尾の別荘まで行くようになった。(連載第3回)
そして、散歩の途中には、必ずたもとから半紙に包んだビスケットを取り出して分けて下さった思い出を語っている。また、折り返しの広尾の別荘の縁側での休憩中に、福澤の『世界国尽』を暗唱すると「先生はニコニコして聞いておられたが、私の頭をなでながら、「書いた私でさえそらには覚えていないのに、あんたはなかなかえらいな」といってほめて下さった」という。
明治34年2月3日、福澤は亡くなった。この時三宅は満7歳であったが、葬儀の日は、表門のところに行ったものの大勢の弔問客や塾生で近付けない。そこで、古川にかかる三の橋を渡った所で人垣の中から葬列を待った。「私はお棺が見えなくなるまで立っていた。「もう先生は散歩にもいらっしゃらない」と考えたら、淋しくなって、涙をぼろぼろこぼしながら家へ戻った」のであった。
アメリカ野球の研究
三宅は普通部に入学すると直ぐに野球部に入った。当時の野球部は、大学部、普通部、商工学校が一緒になっていた。明治43年、普通部4年の春に正選手に加わった。当時は、早慶戦が中断していたが、塾野球部は旺盛にアメリカの野球を研究し、吸収していた時期であった。
40年には、はじめての外国チーム招待として、ハワイのセントルイス・カレッジチームを招き、41年にはハワイ遠征をした。この時、ハワイでのリーグ戦に本土から参加した学生チームに、翌年ニューヨーク・ジャイアンツに入団する遊撃手アーサー・ジョセフ・シェーファーがいた。大会後コーチ頼んで指導を受け、「是非、機会を作って日本へコーチに」と頼んで別れたが、帰国後義塾野球部は、正式にジャイアンツのマグロー監督に手紙を書き、ジャイアンツからシェーファーとエルマー・トムソン投手をコーチに招いた。
43年暮れから約1カ月、約20名の部員は神戸で合宿、両コーチの指導を受けることになった。シェーファーは、マグロー監督から、いかにコーチすべきか細々と教えられてきていたので、「諸君はマグロウ氏から間接にコーチを受けているのだ。これが本式の野球だ」と言いながらコーチをした。部員達は、毎日、その日に教わったことは何でも、合宿に戻ってノートにまとめた。そして、合宿の最後には全員のノートを整理して1つにまとめた。これが秘伝の書と言い伝えられているものである。三宅は、後に大正5年主将になった折に、門外不出は狭量であると主張、日本全体の野球の向上進歩にも貢献することになった。
ちなみに、三宅は、「以前に(野球部の)菅瀬(一馬)君が私に「ベースボールを研究するには英語を勉強しておけよ」と教えてくれたので、私は一生懸命に英語を勉強していた。それゆえ、(略)先方のいうことぐらいはわかるようになっていた」という。
三宅ら義塾野球部は更に、44年にはアメリカ大陸に遠征、大正3年にもスタンフォード大に招かれて遠征、野球の技術・戦術を確立して行った。
大正7年に理財科を卒業した三宅は14年、早慶戦復活の時には義塾野球部監督を務め、プロ野球が出来ると、巨人軍の最初の監督となった。その最初のアメリカ遠征も、沢村栄治、水原茂らを率いている。
好い野球
前田祐吉が大切にしていた書翰の中に、昭和42年8月末の三宅からのものがある。
この頃のプロ野球の指導者の頭の古いのが多いためか、戦法が古くさく、不快を感じます。多分自分が中学生時代に教わったことを、監督やコーチになってから、使っているのではないかと思われます。(略)秋にも優勝するのを楽しみに見ています。但し、只勝つだけでなく、「好い野球」をプレーして勝って下さい。
三宅は、晩年までシェーファーとの文通を続けるなど、アメリカの野球人との交友も大切にした人であった。自らも、「好い野球」を生涯追い求めたのである。
最後に、三宅の隠れた功績を紹介しよう。三宅の父は、後藤象二郎の秘書の後、歌舞伎座の取締役を務めたような人で、歌舞伎への理解も深い人であった。また三宅大輔の弟の三宅三郎は劇評家である。その影響もあってか、三宅自身も、歌舞伎をはじめ劇の脚本を幾つも書き、上演された。
終戦後は歌舞伎検討会の委員も委嘱され、古い脚本の点検に関わるだけでなく、「勧進帳」「忠臣蔵」などの上演許可の為の折衝も三宅が担った。封建的の忠義を強調する劇の上演は認められないと言う進駐軍に対して、三宅は、「喜劇「カルメン」でも同じでしょう。ジプシーの密輸入国のあり方を見るのではなく「いい音楽」「いい歌」を聞きたいのでしょう」と歌舞伎も脚本のみではわからないと説得した。結局、担当の係官は上演を許可しただけでなく、歌舞伎の愛好家になったという。
また、進駐軍の演劇部長からはアメリカの劇の上演を勧められ、ジョン・スタインベック作・脚色の『二十日鼠と人間』を三宅が訳出した。1日2回、20日間の上演は常に満員であった。研究心が旺盛でしかもアメリカ人とのコミュニケーションに長けていた三宅らしいエピソードである。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。