2022/01/31
ヒトのゲノムには全ての遺伝情報が入っていますが、通常「遺伝子」と呼ばれているものはたった2%程度でしかないのをご存じでしょうか? 残る98%は「トランスポゾン」と呼ばれる「動く遺伝子(転移因子)」とその残骸、そして未解明の配列で構成されています。少し前までは「ジャンク」と呼ばれ、何の働きもしていないと考えられていたこの領域こそ、実は種の違いを分ける重要な存在であることがわかり始めています。
このトランスポゾンの研究を続けている慶應義塾大学医学部分子生物学教室の塩見春彦教授らは、従来遺伝子の研究に用いられてきたマウスに比べ一部の遺伝子がよりヒトに近いゴールデンハムスターに着目し、ゴールデンハムスターのゲノムを徹底的に調べ上げました。そして遺伝子改変技術を応用することで、PIWIと呼ばれる遺伝子を欠損したゴールデンハムスターの作製に成功。その結果、染色体上を移動して遺伝子を傷つけ、がん発生の原因にもなっているトランスポゾンを発生の段階で制御していると考えられる4つのPIWI遺伝子うち、PIWIL1またはPIWIL3を欠損したゴールデンハムスターでは、受精後の胚の発生に大きな障害が生じることを突き止めたのです(Nature Cell Biology)。
この検討は遺伝子の違いからマウスでは解析できなかったもので、今後の遺伝子研究におけるゴールデンハムスターの有用性に期待が寄せられています。
マウスは新型コロナウイルスに感染しない
これまで、マウスはヒトに近い哺乳動物として、遺伝子と生命現象の研究に盛んに用いられてきました。しかし、研究の進歩とともに、案外マウスはヒトと異なっていることがわかってきたと塩見教授は語ります。
「例えば、今世界で流行している新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)に、マウスは感染しません。ところがハムスターはヒトと同じように感染して、症状も出ます。小さなハムスターが、コホンと咳をしたりするようになるのです。」
このため、SARS-CoV-2の研究には現在ハムスターがたくさん使われているとのこと。さらにゴールデンハムスターとヒトでは、精子や卵子の形成過程で発現するPIWI遺伝子の種類や発現状況が類似していることも明らかになってきました。しかしゴールデンハムスターに似たマウスでは、ヒトとはまた異なることが知られています。
いったい、種の違いはどこから生じるのでしょうか。
「ヒトとチンパンジーの遺伝子でタンパク質のアミノ酸配列だけを比較して見ていくと、ほぼ同じであることが知られています。つまり私たちヒトもチンパンジーも、はてはマウスなど他の哺乳類も、ほぼ同じアミノ酸配列のタンパク質セットを使っている。それにもかかわらず、なぜヒトとチンパンジーやヒトとマウスはこんなにも違うのかといえば、それは、タンパク質が同じでも、いつどこでどの程度発現するかが異なっているためです。」
タンパク質がいつどこでどの程度発現するのか―。トランスポゾンとその残骸は、どうやらここに大きく貢献してきたということが解明されはじめ、種の分化に大いなる役割を担っている可能性が浮上しています。
ゲノムの大きさはトランスポゾンで決まってきた
英語では”jumping genes”とも言われるトランスポゾンは多くの場合コピー&ペーストで転移し、古いコピーを残して新しいコピーがゲノムのどこかに入っていきます。これを単純に解釈すると、トランスポゾンに1回転移が起こる毎に1コピーずつ増えていく計算です。こうしてヒトゲノムの約50%もの領域を占めるトランスポゾンは、ゲノムの大きさ、サイズを決定する要因でもあることが明らかになっています。
「例えばヒトのトランスポゾンがその種類の違いによりゲノムに80万コピー、150万コピーというように膨大な数が存在しているのはこのためです。もともと1個だったものが進化の過程で80万回、または150万回飛び回っている。その結果としてヒトのゲノムサイズはどんどん大きくなっていきました。そして単に大きくなっていっただけでなく、さらに進化の過程で配列が少しずつ変わっていき、最近では、ある特定のタンパク質をいつどこでどれくらい発現させるかという『制御配列』としても使われ始めてきたと解釈されるようになってきています。」
卵子・精子で起きる転移が次世代に伝わる
少し前まで、トランスポゾンの研究はもっぱら転移の際に生じる疾患に焦点が当てられていました。しかし今はトランスポゾンが転移でどこに飛び回るかという違いが種の違いにつながっているという、「種分化」における役割に注目が集まっています。
トランスポゾンの転移はいろいろな場所で起きています。例えばがん細胞では、トランスポゾンはかなり激しく動いていると塩見教授は解説します。しかし、こうした転移が次世代にも伝わるのは、精子や卵子といった生殖細胞でトランスポゾンの転移が起こり、新たに挿入された場合です。そこで生殖細胞の形成過程で余計な転移が起きることを防ぐため、生物にはトランスポゾンに特異的に対合するpiRNAと呼ばれる小さなRNAと、piRNAに結合するPIWIという名のタンパク質を使ってトランスポゾン発現を抑制するメカニズムが存在しています。
「『PIWI-piRNA経路』はほぼあらゆる動物で雌雄どちらの生殖細胞にも存在していますが、実験動物として広く使用されているマウスにはなぜか卵巣のPIWIタンパク質発現がほとんど認められず、雌性生殖細胞のpiRNA経路についてはよくわかっていませんでした。」
そこで塩見教授らは、マウスには存在せず、ヒトをはじめとする他の動物種では発現しているPIWIL3というPIWIタンパク質を持つゴールデンハムスターに着目しました。
原因不明の不妊の裏にトランスポゾン
「これまで研究に多く用いられてきたマウスと違い、ゴールデンハムスターはゲノムデータベースが不完全でした。そこで、まずはゴールデンハムスターのゲノムを解析して新たなデータベースを構築し、精巣でも卵巣でもPIWIやpiRNAが発現しているハムスターの遺伝子を改変して、このPIWIという遺伝子を発現しないような状態にしたときに何が起こるのかを検討しました。すると、精巣ではマウスの時と同じように精子形成が途中で止まってしまい、精子が形成されずオスの不妊になります。そして、これがメスにおいても、一見正常に見える卵が形成されるけれど、その卵を正常な精子と受精させても発生しないということがわかりました。」
機能的な卵の形成では、卵の成熟過程でトランスポゾンがある程度発現しています。しかし、それを抑え込んでいるPIWI遺伝子をなくしてしまうと、トランスポゾンの発現がさらに上昇し、その結果として正常な卵が形成されず、メスの不妊につながることがこの研究で初めて証明されました。
「これは今後ヒトにおいてもおそらく重要な知見ではないかと考えています。今、子供が欲しいのにできないカップルの多くが、原因不明の不妊に悩んでいます。こういった方々では、父親の精子形成は正常で、母親の方も外から見る限り卵は正常に見えています。ですから、このような原因が分からない不妊症において、原因の1つは、もしかしたらPIWIという遺伝子の変異なのかもしれません。」
後半は、これまで負の側面に焦点が当てられてきたトランスポゾンが、
種の生き残りに関わる多様性の鍵を握る存在であるという新たな話題、研究者への道を目指す方に向けた塩見教授のメッセージ等が続きます。