慶應義塾

天

公開日:2026.10.23

天狗の棲むお山、高尾山

佐藤 久牧(さとう ひさまき)
株式会社アーバン代表取締役、八王子三田会会長・1972政


年間約300万人もの登山者が訪れる高尾山は、ミシュランの旅行ガイドで3つ星を得た、世界にも知られる山である。植物の種類は英国全土に匹敵するともいわれ、昆虫も多く、都心からわずか1時間ほどとは思えない豊かな自然に恵まれている。


しかし、私にとって高尾山は、観光の山である以上に「祈りのお山」である。天平16(744)年、行基によって開山されたと伝わる大本山髙尾山薬王院。私はご縁をいただき、参与として、また薬王院を支える慶賛会の幹事長として、この山に長く関わってきた。


その高尾山を象徴するのが天狗である。大天狗、小天狗は、御本尊・飯縄大権現の随身として、古くから災厄を払い、人々を守る存在として信仰されてきた。


山を歩けば、杉木立を渡る風や鳥の声に、時として人知を超えたものの気配を感じる。「天」とは遥か頭上にあるだけではない。自然を畏れ、見えないものに手を合わせる心──その心の中に、今日も高尾山の天狗は棲んでいる。

夢を見る枕

鈴木 晴香(すずき はるか)
歌人・2005文


パリにもロンドンにも行ったことがあるけれど、宇宙にはまだ。本当はないのかもしれない、という寓話性において、諸手を挙げて愛することができるから。


天橋立もかつてはそんな場所だった。平安京から歩いて3日かかったという遠い遠い天橋立は、伝聞や和歌で知るだけの空想の場所。


 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立
 小式部内侍


百人一首にも収録されているこの一首は、丹後へと赴いた母・和泉式部にちなんだ機知の歌。天橋立は歌枕として多くの歌に詠まれ、その土地のイメージが共有されていった。行ったことがなかったとしても。いえ、行ったことがなかったから憧れのエネルギーは大きくなるばかりだったのだ。


私は天橋立に行ったことがない。だから平安人のように詠めるような気がする。歌枕とは夢を見る枕。


 海は空、空は地になり見たことがないから君の心が好きだ
 鈴木晴香

個性あふれる分子たち

岩﨑 有紘(いわさき ありひろ)
中央大学理工学術院准教授・2007理工、09理工修、16理工博


音楽でも小説でも料理でも、強烈な個性をもつモノは面白い。作り手の工夫や熱量、思想を感じるからだ。目に見えない分子の世界でも同じだ。


私は、生物が作る化学物質(=天然物)を研究している。沖縄や奄美のサンゴ礁に生息する海洋生物から、未知の天然物を発見し、その構造と機能を明らかにしてきた。これまでの20年間で見つけた天然物は約90個。発見した当初は構造も機能も分からない天然物たちだが、辛抱強く研究を重ねるうちに、少しずつ個性が見えてくる。この過程がたまらなく面白い。


数年越しに巨大複雑天然物の構造を決定した時は、担当学生と抱き合って喜んだ。また、強力にがん細胞の増殖を抑える天然物の作用機序を解明した時は、頭が冴えてなかなか眠れなかった。


海辺に出かけることがあったら、岩場にいる目立たない生物にも注目してほしい。ガウディやゴッホにも負けない素晴らしい作品を生み出す、小さな芸術家かもしれない。

「天才画家」ラファエロの「天上世界」

荒木 文果(あらき ふみか)
慶應義塾大学理工学部外国語総合教育教室准教授


ドレスデン国立絵画館にある《シストの聖母》は、ルネサンスの巨匠ラファエロの傑作である。某レストランで、下方の愛らしい天使たちを目にした方もいるだろう。とはいえ、本作の主役は中央の聖母子である。しばしば理想郷のような風景が広がるラファエロの聖母子像とは異なり、本作の聖母は雲の上に立ち、背景は智天使(ケルビム)で満たされている。画面全体は聖母子から発する金の光で照らされ、至聖なる天上世界に属する者としての側面が強調される。


本作の魅力は、絵画空間と現実世界との境界が曖昧にされている点にもある。緑色のカーテンや下方の建築構造、こちらを指さす聖人の手、そして私たちを捉える聖母子の視線。翻る聖母の衣の表現からは、彼女がこちらの世界へ歩みでるかのような印象を受ける。本作には、同時期に完成したシスティーナ礼拝堂天井画からの影響が認められるが、ラファエロはミケランジェロの革新性を理解し、それを自らの様式に昇華させている。そのしなやかさこそ、彼が「天才」と呼ばれる所以であろう。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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