慶應義塾

三田正門と狭窄射撃場

公開日:2026.07.31

体育会射撃部員、上村政為の練習(昭和14年頃)(福澤研究センター蔵)

三田キャンパスの現在の正門のところに、戦前、射撃場が設置されていたことがある。屋外にある施設で、狭窄(きょうさく)射撃場と言われていたものだ。


戦前の教育には「学校軍事教練(教練)」と言われるものがある。この教練は大正14年に、将来の兵士としての基礎教育を目的に制定された。慶應義塾では、日中戦争中の昭和14年に教練の一環として、射撃場が整備された。同年10月26日に「狭窄射撃場申請」を行い、同年11月22日「使用願」を警視庁に提出し、許可を得ている。

慶應義塾三田狭窄射撃場設置申請書(昭和14年10月)


この射撃場を設置する少し前の昭和12年に、キャンパス南側の桜田通りが整備され、慶應の土地の一部を割譲し、道路工事の一環として道路が造られた。道路計画地には、福澤邸があったが、この工事により、邸宅の一部を解体している。桜田通りの整備箇所は、住宅が密集していたが、すべて撤去され、三田キャンパスの南側は、道路に接する今の形となった。狭窄射撃場は、桜田通りとの間にできた、狭い敷地を利用して、設置された。

昭和12年桜田通り整備平面図(管財部加工)
昭和14年 三田キャンパス配置図(狭窄射撃場設置場所)


なお、三田キャンパスは幻の門がもともとの正門で、今の正門は、昭和33年の創立100周年事業の一環として、南校舎が建設されたのと同時に、正門と警備室、車両用スロープが整備され現在の形となったものである。


狭窄射撃場が設置された目的は、「学校教練教授要目ニ示シタル狭窄射撃ヲ實施スルヲ目的トス」とし、教練の授業・訓練として行うためのものである。学校教練教授要目とは、陸軍省が主導したもので、軍事予備的教育を行うものだ。慶應にも軍から現役の将校が派遣され、指導を行っていた。

三田狭窄射撃場平面図・断面図


この狭窄射撃場は、屋外にあり、射場から的場までの距離は15m、的場は高さ2.7mの安土(土手)を作り、周りを塀で囲った、簡素なものだ。四射座で4人が同時に射撃できるようになっている。市街地のなか、その横には、歩行者や車が行き来している屋外で、本物の銃を撃っていたのは、今では考えられない光景である。教練は、1945年の敗戦後、GHQによって真っ先に廃止され、この射撃場も戦後撤去された。


昭和17年には、日吉の今の蝮谷体育館の場所にも狭窄射撃場が設置されている。管財部には当時の整備図面が残っているのだが、図面には「報国團(だん)射撃場」と書かれており、慶應義塾ではなく国(軍)のほうで整備されたようである。日吉の射撃場は、戦後の返還後しばらく放置され、昭和27年に同場所にバスケットコート・バレーコートが整備され、射撃場はなくなった。


現在の三田正門は、今では多くの学生が行きかい、ここに射撃場があったとはとても思えない、平和な光景となっている。

(理工学部管財課 渡辺浩史)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。