執筆者プロフィール

結城 大佑(ゆうき だいすけ)
一貫教育校 女子高等学校教諭
結城 大佑(ゆうき だいすけ)
一貫教育校 女子高等学校教諭
2022/10/07
画像:慶應義塾福澤研究センター蔵
何か、足りない。明治15(1882)年、「時事新報」を創刊した福澤は、そう感じていたようである。それから2年後の明治17年3月、留学中の一太郎・捨次郎に出した書簡に、次のような一節がある。
「今泉秀さんは今4月に卒業の上は、新聞用の絵を勉強することに内話し致居候。日本の大新聞と称するものに絵をいれざるは大欠典と存候に付、時事新報も今少しく会計の都合を得れば、是非共絵を挿むこと、西洋新聞同様にいたし度ものと話合居り候」
この書簡が示唆するように、福澤が足りないと感じていたのは、「西洋新聞同様」に絵を付して紙面をわかりやすくする工夫であった。その不足を補う人物として期待されたのが「今泉秀さん」、今泉秀太郎(ひでたろう)である。
福澤とタッグを組む
秀太郎は慶応元(1865)年、中津で今泉郡司と釰(トウ)の長男として生まれた。郡司は同年に亡くなり、釰が女手一つで育てた。釰の妹は、福澤の妻・錦である。このため、福澤にとって秀太郎は、義理の甥という続柄になる。
明治3(1870)年、福澤は中津に帰郷し、母・順を連れて再び上京する。その際、釰と秀太郎も付いていくことになった。2人は福澤邸に同居し、秀太郎は福澤の子供達と兄弟同然で過ごすことになる。
秀太郎は明治6年に幼稚舎に入舎、慶應義塾に学ぶが、本来は明治15年に卒業するところ、落馬によって前歯を5、6本失う大怪我をした。乗馬を趣味としていた福澤は、秀太郎の落馬を見て乗馬をやめたという。秀太郎の卒業は、この怪我のため、前出の書簡のように明治17年4月にずれ込んだ。
さて、秀太郎の画才を見込んでいた福澤は、同年6月に始まった清仏戦争を受け、清国を諷刺する錦絵「北京夢枕」を9月に出版する。絵を担当したのが秀太郎であった。画面手前に大きな清国人を描き、その足元(台湾)ではフランス軍が攻撃。ところが清国人は気にも留めず、アヘンを吸いながら昼寝をしており、その様子を西洋諸国(独露米英)が窺っている、という構図になっている。
絵の詞書は福澤によるもので、清国を含めた各国の思惑が、洒落の効いたセリフで記されている。福澤は同じ頃、「時事新報」の社説でも、西洋諸国のアジア進出に危機感を持たない清国を批判しており、その主張と「北京夢枕」には相関がある。絵入りで事実を分かりやすく報道する西洋の新聞を理想としていた福澤は、秀太郎という右腕を得て希望を持ったに違いない。
ただ、秀太郎はその翌月、福澤の元をいったん離れ、朝鮮に渡ることになる。
朝鮮では明治15年の壬午軍乱以降、清国に接近しようとする守旧派と、日本の近代化も参考にしながら大胆な西洋的改革を目指そうとする開化派の対立が続いていた。福澤は明治14年に朝鮮の留学生を義塾に受け入れて以来、開化派を支援していた。秀太郎が渡朝した際には、門下生の井上角五郎が京城で新聞事業に従事、西洋の新知識を広く朝鮮に普及させることを目指しつつ、福澤との連絡役を務めていたとされる。井上が、朝鮮には図を引く者が少ないので困っていると福澤に相談したところ、福澤が秀太郎を推薦したため、渡朝の運びとなった。
ところが12月に入り、朝鮮では甲申事変が勃発する。開化派の多くが殺害され、開化派を後援していると見られた日本人居留者にも犠牲者が出た。秀太郎と角五郎は辛くも難を逃れ、東京に戻ることができた。
アメリカ生活
帰国した秀太郎は、明治18(1885)年3月、サンフランシスコへ向かうことにした。西洋風の諷刺画を描いてみたいという気持ちが起こっての渡米であった。
日本では、幕末に諷刺画ブームがあった。飢饉や地震が発生し、西洋諸国との貿易開始に伴う物価高騰が庶民生活に追い討ちをかけた。人々の不安を払拭できない公権力への痛烈な批判が諷刺画で表現され、庶民の支持を獲得。その描写方法は、18世紀に大坂で流行した鳥羽絵の影響を受け、簡略化・誇張化した絵を使うことが多かった。このため、諷刺画は「鳥羽絵」と呼ばれることがあった。
一方、貿易開始によって西洋諷刺画も日本に入ってくる。幕末の諷刺画とは異なり、似顔絵を使うなど直截な描写がその特徴であった。文久2(1862)年、イギリス人ワーグマンが横浜居留地で創刊した『ジャパン・パンチ』は、本国で人気だった諷刺画雑誌『パンチ』を模したものだった。日本の人々にも読まれ、やがて諷刺画を「ポンチ画」(パンチが訛った表現)と呼ぶ習慣さえ出来た。前出の「北京夢枕」も、「時事新報」では「ポンチ画」として宣伝されている。
サンフランシスコに到着した秀太郎は、2、3の新聞社を訪ね、諷刺画の練習生として働けないかと頼み込んだ。しかし、諷刺画は自国の風俗や習慣の理解がなければ描けるものではないとして、断られてしまった。秀太郎はやむを得ず諦め、代わりに福澤門下生の甲斐織衛がその頃当地で開いた甲斐商店(日本雑貨店)の経営に参加することになった。働きぶりは上々で、のちにサンフランシスコ支店長に就任。福澤も「甲斐商店中最も有用の人物」と称している。
「米国漫画士」として
明治23(1890)年2月、秀太郎は帰国。同年7月に福澤が山口広江(中津の銀行家)に宛てた書簡の中に、甲斐の事業が難しいと今泉から聞いた、との文言があるので、甲斐商店の経営悪化が一因かもしれない。この帰国により、いよいよ時事新報に入社することになる。
秀太郎晩年の随想集『一瓢雑話』(一瓢(いっぴょう)は秀太郎の雅号)には、入社直後の回想録がある。初めは会計事務に従事し、その傍ら、何か思いつきがあれば絵を描いていた。その後、1、2年は経験を積み、「漫画」の筋道がわかってきたので、「漫画専門」にしたという。
ここで注目したいのが、「漫画」という言葉である。葛飾北斎は文化11(1814)年から、花鳥風月や人物などを題材とした絵手本集「北斎漫画」を刊行した。「漫画」という語はすでにあったが、江戸時代の「漫画」は漫筆画、すなわち、思いつくままに描いた絵画を指す。
これに対して、秀太郎が用いる「漫画」は、諷刺画そのものを指す。前述のように、明治期の日本では、諷刺画を「鳥羽絵」と呼んだり、「ポンチ画」と呼んだりしていた。秀太郎はこうした中で、あえて「漫画」の語を使おうとした。
なぜ、「漫画」なのか。秀太郎の頭には、まず英語で諷刺画を意味する「カリカチュア」の語があり、その訳語として選んだようである。語の選択理由は、定かではない。ただ、わざわざ別の呼称を提唱する点に、従来と異なる新たな諷刺画を目指そうとする秀太郎の気概を感じる。
なお、「時事新報」は、挿絵・諷刺画の作者を明記していないものも多い。そうした中で、瓢箪マークが記された作品がある。このマークは『一瓢雑話』で見られる秀太郎のサインと同じなので、瓢箪マークがあれば秀太郎の作品ではないかと考えられる。
明治24年5月11日の「時事新報」に掲載された以下の作品は、そのうちの1つである。実際とは異なる部分があるものの、秀太郎の半生を映すような趣向で、主人公は7コマ目で開業し、「米国漫画士」と名乗っている。「漫画」を生業にしようとする秀太郎の決意が窺える作品といえよう。
ちなみに、作者未詳のものも含めて、「時事新報」には複数のコマで構成する諷刺画がたびたび登場する。我々は4コマ漫画に馴染みがあるが、1枚絵の諷刺画だけでなく、複数のコマを用いる手法こそ、秀太郎のこだわる「米国」式だったのかもしれない。また、「北京夢枕」の誇張された人物描写は、上掲の作品が代表するように、渡米後の作品では見られない。そうした絵のタッチの変化も、アメリカでの見聞の結果だろうか。
「漫画」のその後
秀太郎の画才は、福澤の期待に大いに応えたであろう。福澤と相談の上で制作された挿絵・諷刺画もあったかもしれない。ただ、現存する秀太郎の作品は少ない。明治37(1904)年、39歳の若さでの長逝であった。
断片的に残された秀太郎のエピソードを拾っていくと、人を楽しませようとする姿が浮かぶ。
例えば、明治23年10月、イギリス人スペンサーによる軽気球の興行があった。秀太郎はスペンサーと交渉し、上空から「時事新報」のビラを降らせてもらうことに成功する。人々を驚かせつつ宣伝もするという、抜け目ない広告演出である。この興行は話題となり、福澤が脚本のアイディアを出して、歌舞伎の演目にもなった(「風船乗評判高閣」)。スペンサーを演じたのは5代目尾上菊五郎で、劇中で披露された英語の口上は、福澤が考えた素案に、福澤と親交があった牧師マッコーレーが手直ししたもので、発音を秀太郎が教えたという。
また、明治27年、日清戦争で旅順口が陥落した際には、義塾でも祝賀会が行われた。この時、新しいことをしようと、秀太郎の発案でカンテラ行列が行われた。カンテラは、ブリキ缶に灯油を入れ、綿糸を芯として火をつける携帯用の灯火で、アメリカのトーチライトプロセッションに倣ったものだった。この行列は義塾特有の祝賀行事として昭和初年まで続き、その行進中の沿道はいつも見物客で賑わった。
何より、本業の「漫画」が人を楽しませるものであった。その精神は、後任の北沢楽天に受け継がれる。楽天は「漫画」ということばを引き継ぎ、「時事漫画」と題した紙面を「時事新報」日曜版の付録として発行し、優れた諷刺画を世に送り出した。「時事漫画」のヒットによって人々の間には「漫画」という言葉が浸透し、諷刺画は「漫画」と呼ばれるようになった。
明治から令和へ。秀太郎のこだわりは実を結び、やがて「漫画」は、諷刺画に限らず、我々がイメージするような、幅広いテーマのストーリーを絵と言葉で紡ぐ作品を含む語となり、現在に至る。世界に知られるMANGAの歴史に、秀太郎の名が刻まれている。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。