慶應義塾

晩年の福澤諭吉

公開日:2026.08.07

登場者プロフィール

  • 志村 俊郎(しむら としろう)

    独立行政法人東京労災病院第二臨床検査科部長

    医学博士。元日本医科大学教授。日本医史学会理事。専門は脳神経外科学、医史学。福澤諭吉の「病床紀事」を研究。

    志村 俊郎(しむら としろう)

    独立行政法人東京労災病院第二臨床検査科部長

    医学博士。元日本医科大学教授。日本医史学会理事。専門は脳神経外科学、医史学。福澤諭吉の「病床紀事」を研究。

  • 大久保 忠宗(おおくぼ ただむね)

    普通部教諭

    1989年慶應義塾大学文学部卒業。91年大学院文学研究科修士課程修了。慶應義塾福澤研究センター所員。福澤諭吉と塾史・普通部史を研究し、歴史を担当する傍ら、『福澤諭吉文撰』を編集。

    大久保 忠宗(おおくぼ ただむね)

    普通部教諭

    1989年慶應義塾大学文学部卒業。91年大学院文学研究科修士課程修了。慶應義塾福澤研究センター所員。福澤諭吉と塾史・普通部史を研究し、歴史を担当する傍ら、『福澤諭吉文撰』を編集。

  • 都倉 武之(とくら たけゆき)

    福澤研究センター 教授福澤諭吉記念慶應義塾史展示館 副館長

    同館にて2021年の開館以来すべての企画展を企画。専門は近代日本政治史・思想史、メディア史。著書に『メディアとしての福澤諭吉』。

    都倉 武之(とくら たけゆき)

    福澤研究センター 教授福澤諭吉記念慶應義塾史展示館 副館長

    同館にて2021年の開館以来すべての企画展を企画。専門は近代日本政治史・思想史、メディア史。著書に『メディアとしての福澤諭吉』。

福澤と長谷川泰のつながり

都倉

慶應義塾史展示館の春季企画展(8月29日まで)では福澤諭吉の没後125年を期に「福澤諭吉の臨終──「独立自尊」の誕生──」をタイトルに開催しています。

大きく2つのテーマを考えており、1つは福澤諭吉が「老いていくこと」に関して紹介します。その中で明治31年に脳卒中で倒れ、一度は回復しつつも、明治34年にもう一度倒れて亡くなる、その病気の経過に関する資料を展示しています。

もう1つ、福澤が自分の老いを感じながら、自身の没後、どのように自分の考えたことが残っていくだろうか、あるいは伝わっていかないのではないか、と悩んだり模索をしている姿も紹介しています。特にその中心にあるのは「修身要領」とここで大きく取り上げられることになった「独立自尊」という言葉です。

今日は福澤の病気、あるいは身体関連のことについては、主に医師である志村さんにお話しいただき、最晩年の福澤が何を考え何を残そうとしたのかを大久保さんを中心にお話しいただければと思っています。

志村さんは脳外科と医史学がご専門の医師で、日本医大に長年勤められていたわけですが、どういった経緯で、福澤の病気、そしてその死に関心を持たれたのでしょうか。

志村

私が福澤諭吉の「病床紀事」に関心を持ちましたのは、日本医科大学の前身の済生学舎の創立者である長谷川泰(たい)という人を調べているうちに、長谷川が慶應義塾の特選塾員だったことがわかったからです。それをきっかけに、その後、都倉さんに指導を受けながら「病床紀事」を10年にわたり調べてきました。

都倉

日本医大は、ちょうど今年創立150年ということですね。

志村

そうです。日本医大は前身である済生学舎が明治9年4月7日に長谷川泰によって創立され、いったん明治36年に廃校になったのですが、すぐ医学専門学校として再開し、それが現在まで続いています。

都倉

私も志村さんのお手伝いを少しさせていただき調べてみたのですが、長谷川泰は非常にユニークで個性的な人物ですね。

明治時代に開業医となった人の大部分が済生学舎で学んだあと、内務省が実施する医術開業試験で合格して医師になったと言われています。国としては文部省の管轄で医師養成をまとめていきたい考えがあり、明治36年の専門学校令の時に、私立の済生学舎の存在が煙たいので認可を下ろさない。それで長谷川が耐えかねて廃校にしてしまう。

大久保

長谷川泰という方は、越後長岡の出身で河井継之助の軍医のような形で従軍していますね。

志村

そうです。よくご存じですね。河井継之助の軍医であったことから新政府に、干されたということもあるのかもしれません。

都倉

河井継之助の最期の時に長谷川泰と外山脩造がいて、後に阪神電鉄の初代社長になる塾員、外山脩造に継之助は「福澤のところに行け」と言ったと。明治維新前後の慶應義塾に多かったのは、中津、紀州和歌山、長岡の3藩の出身者と言われています。長谷川は立ち位置がもともと、福澤、慶應と近い人ではあるんですね。『慶應義塾出身名流列伝』にも長谷川が載っているのです。

大久保

それは驚きました。

都倉

塾員センターに特選になった時の記録があります。松山棟庵が推薦していて、慶応2年頃にちょっと慶應に出入りしていたというような書き方がされています。

志村

長谷川は済生学舎長のかたわら、長岡から選挙に出て衆議院議員を3期やり、そして内務省衛生局長、中央衛生委員などの医療行政の役職に就きました。そういうことも特選塾員になる評価につながったのではと思っています。

都倉

福澤との関係で言うと、北里柴三郎が伝染病研究所を移転しようとした時に、芝区の地元の住民が反対運動をし『時事新報』は北里擁護のキャンペーンをする。その際に、長谷川泰の伝染病研究所擁護演説を何ページにもわたって載せます。数時間の大演説を全部載せ、安全性をアピールしました。このように福澤周辺にも要所要所で出てくる人です。

福澤諭吉の生活習慣

都倉

志村さんは特に、1回目の発作が明治31年9月に起こり、それから回復していく経過を東京帝国大学教授三浦謹之助を中心としたお医者さんたちが記録している「病床紀事」を丁寧に読み解いていらっしゃいます。医師の立場からどのようなことがそこからわかってきましたか。

志村

その前に、日本人の死因の変遷について少しお話しします。2024年の厚生労働省の人口動態調査ではがんが23.9%で、次が心疾患、老衰で、脳血管障害が4位で6.4%です。しかし、明治13年頃の1位は流行病・感染症でした。外国から入ってくるコレラ、また結核などです。そして、脳卒中が含まれる「神経病」は感染症、全身病に次ぐ3位で、これも多かったのです。

脳卒中で亡くなった有名人を挙げれば、明治32年に勝海舟、明治33年に黒田清隆、明治39年に児玉源太郎がいます。

大久保

結核に次ぐ怖い病気ということですね。

都倉

今は、脳血管障害はある程度抑えられていますが、当時かなり高いのは、日本人の生活習慣などに要因があるのでしょうね。

志村

福澤の生活習慣に関しては、土屋雅春『医者の見た福澤諭吉』(1996年、中公新書)に詳しく書かれていますね。

都倉

福澤の体に悪そうな生活習慣としては、大久保さん、何が考えられますか。

大久保

最近、晩年の運動の仕方が、むしろやり過ぎだったのではないかということを言う人はいますね。ほかには、濃い味の三州みそ(八丁味噌)が大好物だった。それから喫煙と大酒ですね。

「鯨飲(げいいん)」とご自身で書いていますが、お酒は三度の飯より好きだったのでしょう。しかし、だんだん節酒して、明治3年に、発疹チフスで生死の境をさまよったものの助かったのは、酒を抑えていたおかげだと、友だちの医者に言われたという。そして、「わたしのような無法な大酒家でも、34、5歳のときトウトウ酒欲を征伐して勝利を得た」(『福翁自伝』)と言っていますが、飲酒は生活習慣だったと思います。

都倉

牛肉、牛乳をはじめ西洋風の食事を一生懸命推進している。そういうものがプラスになっている部分もある反面、マイナスの部分もあるかもしれません。

志村

喫煙はどうでしょうか。

大久保

喫煙は結構続けていたのではないかと思います。三田の家では、いろいろなお客さんが来るので、部屋をいくつも拵(こしら)えてある。そこを行ったり来たりする時に、たばこ盆を持っていったと。昔のことですから、紙巻きたばこではなく煙管で吸うのですが、チェーンとまではいかなくても、かなり吸っていたように見えます。

都倉

たばこ盆もキセルも福澤研究センターに複数残っています。

今回の展示では居合関係の展示もありますが、明治26〜8年頃は1日に1000本居合抜きをしたという記録が残っていますね。

大久保

もう、還暦前後ですね。

都倉

福澤の流派の立身新流では、刀を抜いてまた収める「数抜(かずぬき)」という所作を繰り返すそうです。

今まで酒飲みでたばこを吸って相当悪さをしてきた体からすると、その激しい運動がかえって悪かったのではないかと。松山棟庵も福澤の脈を見たら固くなっているから、そんなに激しくやらないほうがいいと言ったそうです。それで、その後は居合をお休みしたといわれます。

大久保

でも米搗きはやっていますね。あれもかなり力を入れますからどうなのかと。また結構激しく怒る、というのはどうなのでしょう。

都倉

確かに。

大久保

喜怒哀楽の感情の大変豊かな人でしたから、しかるべき場面では感情をかなりはっきり出すし、福澤先生に怒鳴られた人はたくさんいるようです。

どんな治療が行われたか

志村

福澤先生は明治14年に明治生命の健康診断を受けているのです。そこにある脈拍の記録は「弾力強ク脈派平等ナリ」とあるだけです。

脳卒中というと高血圧を気にしますが、血圧が血圧計で測られるようになるのは明治後期から大正初期で、健康診断の記載をすべて読んでも、血圧の記載がないのです。

都倉

倒れた時の記録にも血圧の記載は一切ないですよね。

志村

ないです。一方で、あの「病床紀事」は患者の愁訴を大事にしている。今のようにCTやMRIの検査ばかりとは違い、患者の訴えや観察を、看護日誌以上に正確に記載している。これは神経学の病気の大事なところなのです。

都倉

今回の展示では、あえて「脳卒中」という書き方をしました。当時は脳の中が見られないから、梗塞なのか出血(溢血)なのか断定はできない。そういう意味では脳卒中というのが、医学的には一応正確ということのようですね。

志村

それは確かにそうです。「病床紀事」によると、福澤の病気ということで、すごく多人数の医師団が組まれていて、戦後に文化勲章を受けている三浦謹之助が医師団の筆頭です。

大久保

それからベルツがいますね。

志村

ベルツは呼ばれて来ていろいろと治療を指示します。ただし、1回だけです。山根文策という北里柴三郎と同時期にベルリンに留学していた神経の専門医も医師団の中心人物です。

都倉

現在の医療からは、とうてい考えられないような治療法がいろいろ出てきますね。

志村

ベルツは血栓を融解するために頭部の左耳介後部にヒルを貼るんです。

大久保

血を吸わせるんですね。

志村

貼付して這わせたのです。何はともあれ血管系のものだろうとベルツは判断して、ヒルをやってみなさいと言って帰ったようです。しかし、病歴上はヒルで早くよくなったという記載はないですよね。

都倉

ヒルは血を吸うと同時に、吸う時に血が固まらないような物質を出していて、それで詰まったところを通すということらしいですね。記述を見るとヒル30匹貼ったと書いてある。そして、うち26匹が十分吸血し、自然に脱離したとある。

大久保

ヒルは吸い終わるとポトンと落ちますね。

都倉

倒れた次の日の夜、9月27日の午後9時にベルツが来診して、術が終わるのが午後11時50分と書いてある。約3時間吸わせたということなのだと思います。

病床を囲む人たち

大久保

実は、この「病床紀事」は学生の頃に大変驚いた印象深いものの1つなんです。私は塾高を卒業して大学に上がる時が福澤諭吉生誕150年という節目で、高校の福澤研究会でお世話になった佐志傳先生から山内慶太君と私に声がかかって、横浜の三越で開かれる福澤展の展示を手伝うことになりました。

この時、私が担当するように言われたのが、実は本日のテーマでもある晩年のところでした。それで、色のついた表紙の「病床紀事」、おそらく2回目の時のものを実際に手に取ってみると、時々刻々と移り変わっていく先生の容態、それに対するお医者さんの客観的な記録、それからグラフ化されたデータまで残っているのでびっくりしました。

医師たちが皆で必死に看病している様子がわかり、とても感激しましたし、福澤という慶應義塾にとって柱石と言える人が生きるか死ぬかの状態になった時、皆が共有していたであろう緊張感も理解した。こんな貴重な、詳細な記録が残っているのかと、当時18歳の私は驚き、考えさせられました。

都倉

しかも「病床紀事」の記録は2セットあるんです。看護婦と医師団が治療状況を把握するためのものが1つと、もう1つは、見舞いに来る人用です。だから、これが2つあること自体、いかにたくさんの人が押しかけて心配していたかを表しているのかなと思いました。

志村

今で言う情報の共有、開示を福澤先生の病気を通してやったということですね。

都倉

そこまで福澤本人の意思だとは言いませんけれど、やはり、そういう科学的事実をきちんと皆で知り、共有したいと思う集団だったということでしょうし、本人もそれを知らせることを良しとするだろうという意識が記録を残したのだと思います。

何の薬を何グラム飲ませたかとか、誰がいつ来たか、何回来たかも全部、来訪人名簿がある。電報も何と返事したかも残っている。頻繁に来ている人は小幡篤次郎、石河幹明、宇都宮三郎などです。

大久保

宇都宮三郎が大層焦れていたという話は読んだことがあります。「医者たちに何がわかるか」と言っていたそうですね。

志村

ベルツがHis career is over.というようなことを言ったら、あんな医者に何がわかるか、と怒ったらしい。

都倉

そうですね。先ほど緊張感という話がありましたが、一方で、見舞いで溜まっている人たちのところには、ノートのようなものがあって、そこで見舞いに来た人がこんなばかなことをやったというような笑い話を皆で書き留めている。それによると、福澤がいよいよ危ないと言われた夜に宇都宮三郎が「馬鹿者メ青二才共メ」と医師を罵った話が書いてある。

宇都宮は福澤の大親友ですが、その部屋で一晩、壁に向かって祈り始めた。それで夜が明けると宇都宮は立ちあがり帰っていった。見舞い客らは「何だあれは」と笑ったそうですが、その直後から福澤の病状が回復したと書いてある。

志村

それくらい弟子は恩師を心配したということなのでしょうね。

病状はどのくらい回復したか

都倉

この病気で、1回目に倒れた後、どの程度回復していったのでしょうか。医師としての見立てはいかがですか。

志村

三浦謹之助、山根文策らの医師団の診断は、視床に病巣があり、途中から「出血」と「病床紀事」に明確に書かれています。今で言う視床出血、視床失語だったようです。

視床失語というのはあまり一般の人には知られていなかもしれません。どういう失語なのかというと、病態としては一般的には超皮質性失語という難しい病名がついていますが、同じ型のなかでも微妙な違いを持っていることから、その亜型の範疇に入ると思います。これは、言語理解は良好で、復唱は軽度障害があるけれど、時に言いたいことを違う言葉で発してしまうということです。例えば、「さくら」を「花」と言ってしまったりする音声錯誤が見られた。錯誤は病床記事にはっきり記載されている。

福澤が病後に書いた、手習い反古(ほご)ですが、漢字のほうは書字障害が見られて、仮名の方は比較的保たれている。ここも言語と相関していると思われます。視床出血の失語の場合、視床梗塞より一般に回復が早い。だから、福澤先生は回復が早かった。一方、「そして」とか、「それから」とか接続詞の回復が遅れたために、発音が不明瞭になって構語障害が残りました。

都倉

自分が上手く話せないことがわかっているから、あまり話したくないところもあるわけですよね。

志村

視床失語といえども先ほど述べたように、亜型と私が表現したのはそのためです。脳卒中の発作直後、放置すると眠ってしまう嗜眠の状態が長く続いていましたが、そんなときでも合目的な動作はちゃんとしているんです。つまり状況が理解できている。

例えば口内洗浄に合わせて入れ歯を自分で外したり入れたり。それはまさしく合目的な動作です。訳のわからない人はそんなことはできないです。

都倉

この「病床紀事」は何と言葉を発したかが具体的に書いてあるのが面白い。今日は「いいえ」と言ったとか、最初は本当に1語しか言えないのが、だんだんと2語で言えるようになるなど。

志村

単語は増えてくるのですが、「しかし」「そして」など接続詞は抜けてしまう。それで、言語不明瞭と誤解された面はあると思います。

大久保

1回目の発作時は「紀事」はいつまで書かれているのですか。

都倉

明治31年末、12月31日までですね。

大久保

12月12日に病気の快復祝賀会を芝の紅葉館でやっていますから、随分後まで様子を書き留めていたことになりますね。

都倉

そうですね。だんだん言葉も流暢になっていき、人に会う回数も増え、具体的に宇都宮三郎と何時間話したといった記述が増えていくと、言葉のことを詳しく書かなくなってくる。それはつまり、ある程度普通に話せるようになったということでしょう。

大久保

話すこと自体がきっと言語回復訓練でもあったのでしょうね。

都倉

そうですね。書く訓練もしていて、それが今回も展示している手習い反古で、何枚か日付がちゃんと書いてあるものが残っている。

三浦謹之助が聞き書きを残していて、福澤のことも語っているんですが、書を書かせた話も出てきます。手習いの紙はたくさんあったけれど、皆震災で焼けてしまったと。でも何枚かは福澤家に残っていたんですね。

大久保

すると、医師団は機能回復訓練のところまでかかわっていたわけですか。

志村

そうです。下肢の電気刺激をリハビリテーションの一環でやったりもしています。

都倉

奈良徳太郎という西洋式あんまの人も長く来ていますね。

志村

皆で福澤先生の病状を必死によくしようとしていますね。

大久保

本当にいろいろなことがわかるものですね。

もう一回発作があった

都倉

また、1回目の発作と2回目の発作と言われていますが、丁寧に読むと、実は、明治33年8月に軽い発作があるんですね。

志村

福澤先生が服部鐘に宛てた手紙に「1時間ぐらいですぐに回復した」と書いてありますが、その時ですね。

都倉

その手紙の案文が福澤研究センターに残っていますが、「8月8日に少々病に侵され両三日は困った」と書いてあります。そしてその後に、もう平生のごとくに戻りましたというところを「太平の半病人と相成り候」と書いて少しふざけている。元通りの病人に戻ったと。少しユーモアと余裕を感じますよね。

これが明治33年8月のことですが、現在では脳卒中のかなり危険な予兆として捉えられる症状だと。

志村

1時間ぐらいの人事不省があったということですが、かなり危険です。今だったらすぐにCTやMRIを撮りましょうとなる。

大久保

中がわからない当時でしたら、どうしようもないですね。

都倉

それが結局、翌年すぐの2回目の発作になるということですね。

福澤諭吉晩年の想い

都倉

ここまで病気の話を詳しく伺いました。次に、福澤が最晩年にどういうことを残そうとしてきたのか、をお話ししていきたいと思います。

晩年、福澤は塾生や古い卒業生に向けて、演説でわれわれはこうだったとか、これからこうしてほしいというようなことをよく語っています。大久保さんは気になる演説や言葉は何かございますか。

大久保

還暦になる前後ぐらいから相当、自分がいなくなった後のことを考え出していますね。

例えば、明治29年から『福翁百話』の連載が始まりますが、その連載後の少し後には、芝紅葉館での義塾の旧友会があって、そこで今日「慶應義塾の目的」として知られる文言を含む有名な演説をされる。その中で塾の一番大事なものは何かを語り、後の人がそれを受け継いでくれるかが大変心配だと言っています。

その頃の慶應義塾は、ずっと大学部の存続問題が続いていて、この演説の2週間後ぐらいに大学部の存続、維持資金を集めることが決まるのです。そして、その翌年から塾の組織全体を変えていく大きな動きが起こります。小幡篤次郎が塾長を辞任したこともあり、社頭の福澤を中心に、慶應義塾全体を再編するという大きな仕事が始まりました。

この塾の歴史の節目にも何か感じることがあったのではないかと思います。この改革が一段落つくのが翌明治31年ですが、その直後、9月26日に1回目の脳卒中で倒れるわけです。

その間、福澤が語ったことは『福翁自伝』もそうですが、幸い、速記により、話し言葉に近い形で残っています。

例えば、明治31年1月28日に、三田演説会で塾生に向けて語りかけるような演説をしています。これを私は福澤先生の「Boys be ambitious」の演説と呼んでいます。塾生たちに、道草をしている場合ではない、大きな志を持って自分のやるべきことをやっていかなければいけないと懇々と話している。

それから、交詢社大会で話をしたものがありますね。

都倉

同年の4月24日ですね。

大久保

そこでも、大人君子が何か言ったからと言って、決してそれに草木がなびくように従ってはいけない、どこまでも自分が思ったことをやっていかなければいけない。「世の中をデングリ返す」という有名なフレーズが残っています。このように、後の人たちに期待するようなものがたくさんあります。

著作では、『福翁自伝』(明治32年6月刊)で自分の生涯を振り返り、しかも、そこにはそれまで語ったことのない多くのことを盛り込んでいます。

さらに、自伝の口述をする一方で、最初の『福澤全集』(明治28年12月〜明治31年5月、全5巻完結)を出しています。それも著作をまとめるだけでなく、冒頭には福澤の著作の自伝というべき『福澤全集緒言』が執筆されている。ですから、大きな病気にかかる直前、それを予知したとは言いませんが、自分の生涯の終わりを考えることはあったのだろうと思います。

「デングリ返せ」と「無限の苦痛」

都倉

何となく、自分でまとめをしている感じはありますよね。

私も晩年の演説で好きな一節に、先ほど言われた「世の中をデングリ返せ」というアジテーションがあります。死ぬまでそれをやるんだと、それが自分の道楽だと言っているのが非常に好きです。

還暦祝賀会での演説でも、自分の生涯は、ホラを吹いて吹き当てたという言い方をして、学生たちにも「ホラを吹きまくれ」というようなことを言っている。先ほどの大きな志を持って、というのもそうですが、後世に託していくということをいろいろな表現で一生懸命伝えたいという思いが感じられる。

一方で、明治29年の紅葉館での演説の中では、それが伝わらないのではという不安を表わすのに「無限の苦痛」という言葉を使った。

大久保

非常に強い表現ですね。

都倉

そのしんみりした感じ。最初期の門下生たちを前にそういうことを言いつつ、対照的に塾生に向かってはホラを吹けと言う。

「修身要領」がまとまるまで

都倉

そういう中で、先生が倒れたということもあり、周囲の人たちが、体系的に福澤の思想を残しておこうという話になっていったのが「修身要領」なのかと思います。「修身要領」については大久保さんはどのような関心をお持ちですか。

大久保

「修身要領」という一編によって、慶應義塾の中にも外にも「独立自尊」という言葉が定着し、広がっていった。そう考えると、大変大事なものだと思います。この短い道徳綱領をまとめることは福澤先生が希望したと言われていますが、どういう過程でそれをやろうとなったかがまた興味深い。

初めて読んだときの正直な感想を申せば、項目を立てて、1条、2条と並べてゆく方法が少し教条主義的で違和感のあるところではありました。けれども、後々になって読み返すと、逆に福澤先生の本に書かれていることを本当に素直に要領よくまとめていると感心するようになりました。

都倉

その編纂過程についても結構いろいろな資料が残っています。最初は土屋元作(もとさく)が独自に、福澤先生の考えはこうではないかと文章(「独立主義の綱領」)にまとめて、それを福澤のところに持っていった。それが福澤家に残っていた。

土屋元作はまだ30代で、しかも、慶應で学んだ人ではなく、あとで福澤に関心を持って時事新報に入社したのですが、そういう人が発案して、やってみようということになり、特に福澤と近しく長年付き合っていてよくわかっている信頼できる人を集めて編纂が始まるのです。

大久保

その中に日原昌造(ひのはらしょうぞう)がいたわけですが、これは福澤自身の希望があったということですね。

都倉

福澤一太郎が、こういうことをやるためには、小幡兄弟、小泉信吉、日原などがいたらな、と福澤が言っていると手紙で書いている。しかし、小幡甚三郎と小泉信吉はもう亡くなっていてどうしようもないから、当時山口県に引っ込んでいた日原に来てほしいと。

日原は嫌々出てくるのです。それでも、最終的にあの文章の中心に独立自尊という言葉を定めていく牽引役は、やはり日原だったようです。

大久保

そのプロセスを考える中で、私は「独立自尊」という言葉が、実はその手前では、「独立して自尊自重」「独立して自信自重」という2段階の表現だったことに気が付きました。

ただ「独立自尊」と言ってしまうと何だかわかったようなに気になる。そこで、私は生徒には独立して自尊自重なのだ、「自分を大事にする」というところが、ただ独立しているのとは違う、とよく言って聞かせます。

自分を大事にするというと、自分が何をするべきかを考えるので、ぐっと深みが増すのですね。自ずと何をしてはいけないのか、しなければいけないのかと考え出す。その4文字にまとめるのが最晩年になったことは、教育的な意味も含めてすごく意味があるように思います。

福澤三八(さんぱち)さんあたりが中心になって「独立自尊」より先に自分たちが自尊党というのを作ったと高橋誠一郎さんが書いていますが、「自尊」という言葉に反応している塾生がすでにいたことがまた面白い。

福澤先生は、1回目の病気から回復してきた32年7月、あちこちお礼に伺った後、自治制委員と呼ばれる人たちを集めて、学生の風紀刷新について話をしたという記録があります。そのあたりから、たぶん福澤先生自身にも「修身要領」と重なる構想があったのではないかと思います。

一方で、門下生の中にも福澤先生が倒れるという大変衝撃的な出来事の後、何か1つまとまったものを作ろうという動きがあった。それが合体して「修身要領」に進んでいったのかなという印象があります。

都倉

「修身要領」ができた後に、鎌田栄吉が日原に送っている手紙が残っていますが、それは、福澤が「慶應義塾を廃校にしよう」言っているけどどうしようという内容です。

慶應も金がない。大成している門下生がたくさんいるのに、書画骨董に凝って、ろくに慶應に寄付してくれない。まだ借金がなくて、資産価値がそれなりにあるうちに塾をやめて土地も売り払ったら、それなりにお金ができるだろう。それで「修身要領」の普及活動をしようという福澤の主張なのです。

そのぐらい「修身要領」を後世に託すことに対して、ある意味思い詰めている側面があった。それを周りが「まあまあ」と押しとどめている間に亡くなってしまうわけです。

大久保

廃校なんて、周りは慌てたでしょうね。でも先生の発想は、今の時代の自己実現とは全然違いますよね。そういう発想が晩年にあったこと自体が面白いし、驚きです。

「修身要領」のたくらみ

都倉

「修身要領」が発表されると、ものすごい批判の声も上がる。それに応える形で門下生たちが集まって、自分にとって「独立自尊」は何だろうと、福澤の前で言い合った記録をまとめたものが、「独立自尊の意義」というタイトルでまとめられ、『慶應義塾学報』(現在の『三田評論』)に何度も載っています。

「修身要領」は、先ほどおっしゃったように、説教臭くて古臭くい印象も受けるし、頭から万世一系と言い始めるので、誤解されるような気もするのですが、「独立自尊の意義」は、そのまま現代に置き換えても「ああ、そうだな」と思わせるようなフレーズが並んでいます。

今回、展示にあたって読んでみると、「修身要領」は教育勅語との関係が非常に強くあるなと、あらためて思いました。戦前は教育勅語批判はできないわけですし、戦後になると、もう「修身要領」は古臭いものという感じになっていたので、この「修身要領」が往時持っていた教育勅語批判のニュアンスは、実はあまり語られていないのではないか。

1行目には確かに「万世一系の帝室を奉戴して、其の恩徳を仰がざるものある可らず」とあるわけですが、「此一事は満天下何人も疑を容れざる所なり」と言って、「而して」の後は、「今日の男女が今日の社会に処する道を如何す可きやと云うに、古来道徳の教、一にして足らずと雖(いえど)も、徳教は人文の進化と共に変化するの約束にして、日新文明の社会には自から其社会に適するの教なきを得ず」だから、新しい教えを作りましたと書いてある。

要するに、今の日本で説かれている道徳は、今の時代に合っていないと言っているようなもので、実態としては、いわば教育勅語を書き換えてしまおうという精神をこの中に巧妙に隠しているように感じます。

また、欠字を避けるために文章の文字数を調整して、「帝室」という言葉が行頭にくるようにしているのが、ありありと資料を開いてみてわかりました。さらに、「修身要領」は発表しているのが2月11日です。

大久保

紀元節に発表し、さらに皇室にまで献上している。

都倉

これは、「不敬」と言われるような隙を見せない慎重さを持ちつつ、実態としては大胆に教育勅語と全然違うことをやろうとしている。そのしたたかさと貪欲さ、逞しさに、もう一度光を当てたいと思いました。

大久保

「修身要領」は、その前書きの手前に、慶應義塾社中某々、誌(しる)して「先生平素の言行に基き、その大要を述べて先生の閲覧を乞い、之を修身要領と名け、学生に示すこと左の如し」とありますね。

これは要するに、塾生に向けたものだと断っているのですが、実際には世の中に向けて出したものです。だからこそ反響も大きかった。これは戦略的な行動なのでしょうね。

都倉

最初に発表した時は「学生向けに」と書いておいて、その後はその部分を外してしまうのです。

大久保

それまでも、福澤は学生向けの演説を『時事新報』で出していました。そのやり方に似ています。

「独立自尊」とは?

都倉

最後に、独立自尊をどのように教えていくのか、歴史をどのように教育に活かすか、一言お話しいただければと思います。

志村

歴史というのは古いものだと医学生も思っている人がいます。医学の先人の歴史から医学の未来とプロフェッショナリズムの倫理的行動の姿勢を学び、また一方、医療人は社会との共生から自他を大切にする教えをもたらす役割があり、決して古いものではないと、私はよく医学生に話をして育てていました。

大久保

独立というのは、言うは易く行うは難くて、世の中はどんどん忙しくなり、『文明論之概略』で書かれている通り、多事繁多な世の中へと進んでいます。しかし、だからこそ、生成AIのようなものが出てくる中、独立して、自信自重、自尊自重、自分を確信して自分を大事にしていくという、この言葉が持つ価値は大きいと思います。

慶應義塾の場合、下は小学校1年生から上は大学生、大学院生、さらには社中まで加えれば、実に様々な人たちを抱えていますが、その発達段階や置かれた状況によっていろいろな独立自尊があるべきだと思います。あまり教条主義的にならずに、実際の状況に即して、こういう場合はどうしたらいいだろうと考えるようにして伝えていけばよい。

先ほど都倉さんがおっしゃったように、独立自尊の語ができた時と同様、お互いに言い合うことも大事です。教師が教条的に教えてしまっては言葉の価値が半減します。

他方、それを教わる側は今までの解釈をデングリ返すぐらいのつもりであってほしい。けれども、一片の礼儀は忘れずに、古いものが持っている価値は志村さんがおっしゃったとおり大事ですから、何を伝えようとしてくれたのか、と考えることは必要でしょう。

それが次代に後を託そうとなさった福澤先生の考えを託されている側の者、我々としての在るべきようではないかと思います。

都倉

独立自尊という言葉は、ある意味で最大の発明品で誰でも自分の独立自尊を語れる。最終的にその言葉に到達したというのは、きれいにまとまった感じがします。自分にとっての独立自尊はそれぞれが持てるし、違う方向を向いていても、独立自尊という言葉で皆がまとまれる。それが慶應の強みかもしれません。

道徳律としての独立自尊を考えた時、まさにそれが福澤が狙っていたことで、独立自尊という言葉によって自分を独立したものと捉えた上で、私はこう思っている、とそれぞれが言い合い、そこから出てくる多様性によって、言われたことだけをやるような構造を転換する。そういう意味で、独立自尊という言葉は最高の発明だったのではないかと思っています。

今日はお忙しい中、有り難うございました。

(2026年6月26日、三田キャンパスにて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。