登場者プロフィール
浜田 彰大(はまだ あきお)
その他 : 東京理化器械株式会社勤務法学部 卒業1981年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。コピーライターなどで広告制作に携わってきた。塾應援指導部在籍時に、つるの屋厨房でアルバイトをした経験を持つ。
浜田 彰大(はまだ あきお)
その他 : 東京理化器械株式会社勤務法学部 卒業1981年慶應義塾大学法学部政治学科卒業。コピーライターなどで広告制作に携わってきた。塾應援指導部在籍時に、つるの屋厨房でアルバイトをした経験を持つ。
北居 功(きたい いさお)
法学研究科 教授9月まで同研究科委員長。1984年慶應義塾大学法学部卒業。91年同法学研究科博士課程単位取得退学。学部生時代からつるの屋に通う。
北居 功(きたい いさお)
法学研究科 教授9月まで同研究科委員長。1984年慶應義塾大学法学部卒業。91年同法学研究科博士課程単位取得退学。学部生時代からつるの屋に通う。
高田 晴仁(たかだ はるひと)
法務研究科(法科大学院) 委員長・教授。1988年早稲田大学法学部卒業。95年法学研究科博士課程単位取得退学。大学院時代より恩師倉澤康一郎先生よりつるの屋でも薫陶を受ける。
高田 晴仁(たかだ はるひと)
法務研究科(法科大学院) 委員長・教授。1988年早稲田大学法学部卒業。95年法学研究科博士課程単位取得退学。大学院時代より恩師倉澤康一郎先生よりつるの屋でも薫陶を受ける。
2023/10/16
厨房でアルバイトをした学生時代
三田通り機械工具会館の地下にあった大衆割烹「つるの屋」が閉店して、はや3年半。すぐに再開されるはずが、店主のチーさん(故渡辺孝氏)の急逝によって新装開店が幻となりましたが、私たちの心の中には今も存在しています。
そのような中、慶應義塾史展示館で、9月20日から10月7日まで「三田につるの屋があった頃。」という展示が行われる(近日中に、展示室360度ツアーを公開予定)ことを機に、つるの屋の想い出を語り合ってみたいと思います。
浜田さんは塾生時代、つるの屋の厨房でアルバイトをされていたのですよね。
法学部政治学科の3年に進級し、三田に通うようになり、つるの屋によく飲みに行っていたのですが、ママ(故渡辺静子さん)から「浜田君、バイトしない?」とスカウトされたのです。
應援指導部(リーダー部)に入っていましたので、週に3~4回、同期や後輩などにも声を掛けて、1日2、3人のシフトを組んで、厨房のアルバイトをしていたんですね。
最初は皿洗いから始まったのです。同級生に小茂鳥君という非常にユニークな男がいて、食器洗いとか単純な作業が嫌でしょうがない。それで自分で何か作りはじめた。
木村さんというおっかない板前さんがいまして、それを見て、「じゃあ、おまえらもやれ」ということになって、いろいろな料理を作り始めた。焼き物から、焼き鳥、唐揚げとかを少しずつ教わりながら覚えていったという感じです。指導は昭和スタイルで厳しかったですね。
代々應援指導部の方が厨房でアルバイトをする伝統があったのですか。
いや、私たちの代からです。上の代も店にはよく行っていましたが、アルバイトはしていないです。
私の学生時代にも厨房に学生がいたので、それが應援指導部の学生だったんでしょうね。
北居さんはどういったいきさつで通うように?
学部の3年か4年だったと思うのですが、当時同学年だった岩谷(十郎)常任理事に連れていってもらったのが最初です。
彼は生え抜きの慶應なので、いろいろと情報があったのでしょう。授業がたまたま一緒で、ちょっと時間があるからと、授業の始まる前に行って、ひっかけて授業に出る。
今では考えられないです(笑)。
一応、20歳は過ぎていたので(笑)。学生で、お金がないですから、つるの屋は安くて有り難かった。友人たちとちょこちょこと行き、ゼミが終わったらゼミの仲間と行く。
学部時代はそんな感じですが、大学院生になると、もう、つるの屋ばかり行っていました。世間はバブルでしたけど、大学院生はお金がなくて地べたをはいずり回る世界ですから、つるの屋しか行く場所がない。それでパパさん(渡辺教義氏、ジイジ)、ママさんに大変可愛がっていただいて。
1993年、私が大学の教壇に立ちゼミを持つことになると、ゼミ生を連れて、本当に毎週行くようになりました。
地下に広がる別世界
つるの屋と言えば、倉澤康一郎先生のゼミだと思うんですが、倉澤ゼミのつるの屋との出会いは何かお聞きになっていますか。
これはゼミの先輩方にお聞きした話なのですが、昔々つるの屋以外に、1軒行っていたお店があったのが、ゼミ生が増えたかで手狭になって、つるの屋1店集中になったようです。それがもう昭和50年代の初めだったらしい。
それから、ゼミが終わればつるの屋、つるの屋に行く前にゼミ(笑)、ということが続いていたようです。
ですので、倉澤ゼミにおいては、おそらく教室より明らかに長時間滞在しているのがつるの屋になっている。関係者の皆さんに怒られるかもしれませんが、母校はつるの屋なのか、三田のキャンパスなのか、その両方なのか、少々曖昧なところがあるのではないかと思っています。
高田さんご自身は三田の大学院に入ったその日から、つるの屋に行ったという。
私は1988年に早稲田大学の法学部を出て、早稲田の修士課程に入り、あまりに楽しかったので4年もゆっくりさせていただきました(笑)。修士に入った時に非常勤で三田から早稲田に教えにいらっしゃっていたのが恩師の倉澤康一郎先生。大変お世話になり、これ以上早稲田にいられないとなった時、この先生についていったら、もっと面白い学問ができるのではと思いました。
それである日先生に「三田に行ってもいいですか」と言って、三田のゼミに行き、終わりましたら、当時のゼミのみなさんから「高田さん、つるの屋というところに行きますか」と声をかけてもらって、初めて行ったのです。だから、実は、三田の大学院に入る前に、つるの屋デビューしちゃった(笑)。
東京タワーが真正面に見えるのに、桜田通りを渡ったら、提灯を提げているお店が目に入りまして、地下に下りていったら、もう驚愕の昭和40年代。素晴らしい思い出です。
本当に地下に下りると別世界です。バイトをしている厨房から見ると、L字型の逆さまに座敷がバーッとあって、右端に8人ぐらいしか座れない、「小上がり」と呼ばれるところがある。そしてテーブルがあって。全体で120人ぐらいは入れる感じなわけです。
ジュークボックスがありましたよね。あれはもう閉店の10年以上前から壊れていて。
いや、あれまた鳴ったんですよ。たぶん途中で修理したんです。
そうでしたか。
ずっと壊れていて、私の記憶では閉店間際の数年だけ動いていた。本当に昭和のくぐもった音で。
私が厨房にいたのは1978年~81年ぐらい。その頃、久保田早紀の「異邦人」とか、北原ミレイの「石狩挽歌」がかかっていました。
つるの屋のビル、機械工具会館の上に1人でやっているような業界紙の社長さんがいらして、その人が毎日来るのです。必ず1人で飲んでいて、ジュークボックスにお金を入れて、自分の好きな歌を入れながら歌う(笑)。
そして、壁にはもう三色旗のペナントが一面にバーッとあって。だから、舞台装置としては最高(笑)。むしろ慶應っぽくないお店です。それでも、塾生、塾員、先生がたくさん集まってワイワイしている。今から思うとあの舞台装置はすごいなと思います。
舞台が本当、立ち上がっているんですよね。
ペナントがあんなに飾ってある店は、早稲田では体育会やサークルの部室的な喫茶店だったらあるかもしれませんけど、誰でも気軽に入れる店ではたぶんないんじゃないですかね。
いろいろなゼミやサークル、または有志によるものなど、様々あるので、ちょっと珍しいですよね。そのようにある種雑多なものが一面に飾られている。
そして田町のサラリーマンの方もたくさん来られますから、何か塾生、塾員、先生、そしてサラリーマンが何となく融合しているような感じもあって。
サラリーマンの方も、慶應出身で昔来ていた人が、慶應出身でない人も連れてくる。
そういう人もファンになってしまう。やはり懐が深いんですね。
つるの屋から広がる縁
ある日、チーさんに、「北ちゃん、ちょっと紹介するよ、滋賀県出身の人だよ」と紹介された。滋賀県出身の人って、あまり東京で会わないのですが、私と出身高校(虎姫高校)が同じでびっくりして。それが慶應の経済ご出身の枩山(まつやま)さん。
その枩山さんが非常に積極的な方で、そこから親しくさせていただき、2018年の11月3日、つるの屋さん50周年の記念祝賀会の企画を言い出したのです。
大先輩から、いきなりやれと言われ、いろいろ準備もして、お声掛けさせていただいたり。枩山さんの会社関係の方に助けていただいたりしました。
2017年だったと思いますが、今でも続けているシニアラグビーの仲間と一緒につるの屋に飲みに行ったら、桂子さん(加藤桂子さん、ママの妹)かチーに北居さんと枩山さんを紹介されて、それで私も引きずり込んでいただいて。
それも本当にご縁でしたよね。應援指導部の方が深く関わっていらっしゃるというのは聞いていたんですが、直接の接点が私にはなくて、そのとき初めてお会いしたのです。
それで、浜田さんのお話を聞いたら、厨房で料理をしていたんだみたいな話で、そんなにつるの屋との関係が濃い方がいらっしゃるんだ、「それはすげえな」と。
今度の展覧会のために、つるの屋の名物料理を再現するデモンストレーションをされたんですよね。
ええ。7月に麻布十番のフリーキッチンスペースというところをお借りしてやったんです。
まず何を作るのか。寄せ鍋と豚のこがね揚げにしましょうと決めて、食材を買って持ち込んで。豚のこがね揚げは実際に調理したのです。寄せ鍋は熱を入れると食材が沈んでしまうので盛り付けだけ。その2つの料理を合羽橋の道具街の食品サンプルを作る方にお渡ししました。それを基に、展覧会のためにサンプルを作ってもらうわけです。
なるほど。お作りになったこがね揚げは召し上がりました?
はい。おいしかったです。バイトをしていたのは半世紀も前のことで私は作る自信がなかったので、「こういうふうにしましょう」と言って、2つ下の應援指導部OGの神津さんに調理してもらいました。
再現可能なわけですね。
レシピは自分の頭の中に残っていましたね。
結婚式の二次会も
濃いと言えば、高田さんもつるの屋との関わりが濃くて、結婚式の二次会をつるの屋でやられた。
それはすごいですね。
いや、あそこでお披露目された方は多数おいでだと思います。私も他の方の会に参列したことがありますので、ただの一例です。
95年に私もゼミを持ち、その6月に籍を入れることになり、親戚向きの披露宴をさせていただいた後、引き続いてつるの屋で。もちろん北居先生にもお越しいただきました。そもそも家内と知り合ったのが、あの小上がりでした(笑)。
それはすごい。
北居さんにもお世話になっている教え子の親戚だと紹介を受けまして、それが小上がりだったという。
深い因縁が(笑)。
二次会をした人って他にいるんですかね。
私が知っているのはあと2人。
私のほうの二次会はいつものつるの屋の飲み会兼という趣旨でしたので、普段通りでした。
結婚式の二次会はおめでたいですが、私は二次会で一度やらかしたことがあります。毎週のようにゼミの学生を連れていっていたんですが、ある時、学生がたまには違う店で飲みたいと、わがままを言ったのですね。それで、その週は他の店に行ったのです。
すると2時間ぐらいで追い出され、これじゃ帰れないと言うので、つるの屋さんに「二次会なんだけどいいですか」と行ったら、亡くなったママさんに「今ごろ何しに来るんだ」と大変怒られて、それからもう3カ月ぐらい出入り差し止め。
出禁になったんですか。
出禁食らいまして、その間、行く店がなくなり大変でした(笑)。
客に媚びない店
卒業してからも時々は行っていたのですが、枩山さんほど足繁くではない。枩山さん、もうすごいですからね。
近いですからね。枩山さんはNECだったのです。NECの方は結構いらっしゃいますね。
サラリーマンで一番多いのが、やはりNECじゃないですか。様々な方が来られた理由の1つは、本当にあの店の人たちはお客さんに媚びないからでしょうね。そして逆鱗に触れると初代もママも、桂子さんもチーも、塾生だろうが、先生だろうが怒ってしまいますからね。それがやはりすごいなと。そういうお店がやはり必要ですよね。
その通りですね。こっちもよそ行きの顔をしなくても、普段着のままで普段どおりに接していただける。そういう店はなかなかないのかなと思いますね。
私は若輩ですので、先輩方に比べれば多くはないですけど、やはり通い始めた時はよく1人でふらっと寄りまして、身内の話も含めてママさんといろいろな話をして。
あるとき、何かつまらないことで自分の身内の愚痴を言ってしまった。そうしたら、バシーンと叩かれて本気で怒られた。これは何か染みましたね。何だか、亡くなられたママさんも妹さんもそうですけど、お客というよりは家族として接してくれて。それが巧まずにそうなっている。
しかも安いのです。とにかく焼酎のボトルをボンとOBや私が入れて、それであと適当に食べて、学生は1人1000円とか2000円で大丈夫。しかも夜遅くまでやっていて他に行く必要がなく本当に有り難い。
初めてお店にお邪魔した時、びっくりした顔をしておりましたら、先生が嬉しそうに「ここはね、卒業生が後輩におごる時は、ボトルを置いていけばいいんだ、水と氷代はかからないから」とおっしゃったんですよね。
後輩はボトルの酒を安く飲めるというので、いつもここに来ているんだとお話をうかがって、これはもうシステムができているんだなと思いました。ゼミの下宿生が腹っ減らしで、ご飯を食べるんだったら、皆で食べよう、しかもお酒を飲みながらなるだけ経済的負担がないようにというやさしい配慮もありました。
正直、つるの屋さんがなくなって、今ゼミ生を連れていく所がなくて、本当に困っていますね。
大先生との想い出
それから、忘れられないのは、年配の大先生がふらりと来られることがよくありました。ある時、入ってすぐの左の机の角席しか空いていなかったので、そこに座りましたら、その後から、亡くなられた法学部の大先生がふらっといらっしゃって、「ここいいかね」と。
駄目だと言えないじゃないですか。ドカッと座られて私は小さくなっていたら、「高田君、僕は学者として成功したのかな」と言うのです。
そんな話をされても(笑)。
それは困りますよ。でも、その大先生にしてこの空間の中で心を開いてしまう。自宅の居間でも絶対そんなことおっしゃらないと思うんですけど。すごい空間だなと。
もう一方、政治学科で名物だった先生、やはり同じようにいらっしゃいまして、「おい、ここ空いてるか」と。しばらくしましたら、「おい、高田、おまえ新橋に行ったことあるか、いい所に連れていってやろう。車を呼べ」と。表でタクシーを捕まえたら、「じゃあ、行くぞ」って新橋に連れていかれて。
着いた所が何か見たこともないちんとんしゃんのお店。「おまえ、こんなところ来たことないだろう」と言って、ものの30分も飲みましたら、「じゃあ、俺はこれで帰るから勘定はおまえが払っておけ」。嘘のような本当の話です。
それは怖い。
たぶんつるの屋に探しに来たのです(笑)。ちょうどいいのがいたと。
その政治学科の先生はよくお見かけしましたね。でも、怖いので、あまり近づかない。
あとはやはり文学部の三浦和男先生は主(ぬし)でしたよね。もう常にテーブルの一番端にお座りになって。三浦先生がご引退された後は樽井正義先生がそこに。今日は法学部の話が中心になってしまいますが、やはり文学部の伝統もございますし、経済学部ももちろん。
池尾和人先生、よくお見かけしましたね。
でも、ゼミ生を連れて毎週行ったのは、たぶん倉澤ゼミ、高田ゼミと私のゼミぐらいでしょうか。さすがに毎週通うゼミはあまりなかったかもしれないですね。
應援指導部もそれほど頻繁に行ったわけではないですけど、神宮で土曜日に野球をやって、勝った時なんかに、3年生とかが僕ら後輩を連れていってくれた。それが初めてだったのです。先輩がおごってくれてビールはいくらでも飲ませてくれますけど、つまみなんて本当にピーナッツとか最低限のものだけ。それで、翌朝早く神宮にまた行くのです。
他に体育会やサークルなどもよく来るところもありましたね。自動車部とか、歌舞伎研究会などもよく来ていたようです。
「つるの屋なくして学問なし」
法学部は昔から木曜日をゼミの日としていたのです。だから木曜日は皆、集まりやすかったのでしょう。倉澤先生はもちろん、定席が決まっていて、端っこのほうに私のゼミとかがいました。
ゼミ生を連れて来なくても、他の法学部の先生方がふらりと来たり。よく冗談で、木曜日につるの屋で教 授会を開けると(笑)。
倉澤先生は無粋な話はされないのですが、例えば勉強が好きな学生が、一杯ひっかけた勢いで議論で食ってかかると、嬉しそうにいろいろ教えていらっしゃった。あまりにしつこくなると、酒がまずくなるからやめろと(笑)。というわけで、やはり夜のゼミナールでした。
倉澤ゼミは6時ぐらいにいらして、9時ぐらいには倉澤先生はもうお帰りになりましたよね。
昔々は皆で、ゴールデン街まで移動したりしていたらしいのですが。
有名な「つるの屋なくして学問なし」というお話もありますね。高田さんがご著書の献辞に書かれたと。
酔っぱらってそういうことばかり言っているんですけど。正直申し上げて、私はつるの屋で学問を教わったという愉快な経験が多くあります。どうしても教室ですと、「本当のところはどうなんですか」という話はしづらい。突っ込んだ議論は専らつるの屋で、となるんです。
師匠は教室で時間をオーバーするということは全くない。そこは終わって、だけど一杯飲みに行く。すると酒のつまみに一番いいのは法律の議論だということになる。
われわれが大学院生として通っている時は、そういう勉強の話もかなりしましたし、それから教員になってゼミ生と行っても、与太話ばかりではなくてやはりちょっとは勉強の話をしたり。
単に飲んで遊ぶだけではなくて、教室で足りない時間をちょっと延長するような場所と時間であったのも事実だとは思います。
それもやはりその空間が、それができる場所なんでしょうね。
何か社会人が、飲んでいる場所で仕事の話をするなよ、みたいな話はよくあるわけですが、院生も含めて学生、あるいはわれわれ研究者にとっても、一番好きなことは本来は研究、勉強のことです。
それを楽しい時間にしなかったら、むしろそっちのほうがつらいのではという気がするものですから。そういう意味では、本当に三田キャンパスの延長につるの屋さんがあったというような思いがありますね。もちろんばか話はいっぱいするのですが。
應援指導部の方はどういう話をされていましたか。
やはり先輩と一緒だと、先輩に遊ばれるというか。総じて應援指導部とか体育会はそういうことを受け入れるような人が入ってくるので、いい意味でいじられながら、「飲め、飲め」とか言われたりするのが楽しかったんだと思います。
同級生だけで行くと、くだらない話から始まって、應援指導部はどうあるべきかというところを時々議論はしましたね。
でも、飲み方はやはり同期だけの時と、後輩がいる時と、先輩がいる時では全然違う。そういうこともやはり分かってくるので、それも生きた勉強なのかなと思いましたね。
積み上がるOBからの焼酎
昔はビールで、その後、樹氷など焼酎や日本酒を飲んだりと決まっていましたね。今は多様化していますよね。何を飲むかわからない。つるの屋さんで、終わる5年とか10年ぐらい、流行りだったのは梅酒で、女子学生中心によく飲んでいました。
現役のころはひたすらビールだったような気がするのです。焼酎も、まだそれほど飲んでいなかったような気がします。
私の師匠のゼミは「樹氷」ばかり。
樹氷ができたのが、たぶん1982~3年ぐらいですね。
ビールは高いから飲むなという話をしておりまして。
そうなんですよ。最初はビールで乾杯するんですけど、すぐに焼酎に切り替えましたね。
しかも、「甲」のほうの焼酎。亡くなった師匠が焼け跡、闇市派なんで、こういうのが大好きで何も味がないのがいいんだと。純粋なアルコールに近ければ近いほどいい。
樹氷を飲んでいたのは倉澤ゼミと高田ゼミだけじゃないですか。
最後はそうでしたね。師匠のゼミのほうは皆さん偉くなられて、「じゃあ、後輩に」と樹氷を1箱ドンと入れていっていただいたことも。そうしますと、在庫が手洗いの前に積み上がってしまうのです。飲んでも飲んでもなくならない、うれしい悲鳴という(笑)。
私のゼミも焼酎ですね。いいちこから始まって、そのうちいろいろ。赤霧島とか飲んでましたけど、私は途中で焼酎が嫌になって日本酒を飲んでいました。
應援指導部の場合は困った飲み方もありまして、年代によって若干違いがありますが三色旗飲みというのがあって、ビール、焼酎、日本酒というのを交互に。最悪なのは、それをブレンドして飲ませるとか。悪酔いしました(笑)。今では考えられない、遠い昭和の記憶です。
お店の方々との想い出
私が働いていた頃、ジイジは7時半ぐらいになると決まってどこかに行ってしまう。
ああパチンコ。
そう、それで、大体1時間ぐらいで帰ってくるんですけど、忙しくなっても帰ってこないと、皆でブーブー言っているんですよ。ママが「また、パパはパチンコばかりして」と言って怒っていましたね。
ただ、あのジイジは一切酒が飲めないのです。ママは飲んだんですかね。あまり飲んでいるような印象はないですけど。
聞いたことないですね。
チーも飲まないですよね。だから、あまり飲まない家系なのかもわからない。だから逆に冷静な目で酔っぱらいを見ている。
そうですよね。やはり飲む人はああいうお店は駄目でしょう。
一緒に飲んじゃいますよね、先生や私だったら。
絶対飲むと思いますよ。
もともとジイジはコパカバーナとかいうグランドキャバレーのマネジャーで、酒を飲まずに一生懸命やって、つるの屋を開いて。お金は持っていたと思いますけどね。外車の結構いい車で通勤していた。
本当ですか。
昔、一家は洗足池のほうに住んでいた。そっち方面の應援指導部の同期とかがいると、車で送ってくれたのです。
私は1回だけ、ジイジと将棋をしましたね。
将棋がありましたね。
小上がりの横に。
そうです。棚の所です。どういう経緯か将棋をすることになり、深夜2時ぐらいまでやっていた。飲みながら(もちろんお酒を飲むのは私だけですが)やろう、となって、4時間ぐらいやっていたんですかね。もう電車はないじゃないですか。チーさんがたぶん全く逆方向なんですけど、板橋まで送ってくれた。
無念の閉店
ママには非常に申し訳ないことをしました。2001年からドイツに2年間行っていたんですけれど、ちょうどその間にママがお亡くなりになった。残念ながらご葬儀に出ることができなくて。本当にあれだけよくしてもらった方に、申し訳ないことをしたなと、すごく心残りなことでした。
結婚する時に、そんな発想がなかったものですから披露宴にお呼びしなかった。そうしたら、ママさんが披露宴会場の受付までお祝いをわざわざ持ってきてくれたのです。その姿を見ていたので悪いことをしたなと思って。もう不義理ばかりしていまして、本当につるの屋さんに足を向けて寝ちゃいけない。
そんなこともあって18年の11月に50周年をさせていただいたのですが、1年後に立ち退きせざるを得ないということになりました。高田さんがよくご存じの弁護士の藤本健一さんが立ち退かないと頑張っていらしたのですが、建物自体は取り壊さざるを得ないというので、19年の12月で閉めることに。もう移転先はその時決まっていたのです。
あの場所は決まっていたんですか。
ええ。とりあえず閉めるけど、6月10日に再開するから、感謝の会をしましょうというので、19年の12月28日に、また枩山さんから「北居やれ」ということでやらせていただいたのです。あの時も浜田さんに来ていただいて、ワグネルが演奏しに来てくれました。ワグネルの部長だった経済学部の塩澤修平先生もフルートを持って実際に吹いてくれたのです。
そういう皆さんの協力があって、開催できたのです。私の記憶では翌29日が日曜日で、30日が本当の最後だったのではないかと。倉澤ゼミのOBの方もいらしていた。
結局、最後のほうは毎晩行っても同じメンバー(笑)。
最後まで本当ににぎやかだった。当然再開されると思っていたので、いっときの辛抱だと思っていた。それで新しいほうの店の内装も全部終わって、飾ってあったペナントや何かも全部そちらに運んでいた。
あとはもう店を開くだけという状況の中で、チーさんが残念ながら他界されてしまった。そこで都倉さん がそのペナントを引き継いで、今回の展覧会に飾られるという経緯です。
キャンパスの延長になる場を
何とかして近隣に同じようなコンセプトのお店を、関係者の力でできないものかと思っています。「つるの屋なくして学問なし」ということがもし言えるのだとすると、今は学問がないことになってしまう(笑)。これはえらいことです。
それこそ資金も、クラウドファンディングで薄く広く支えていただければ。皆さんの記憶が薄れないうちに。
今回の展覧会が起爆剤になるといいなと。
そうですよね。先ほどおっしゃったように、やはり教室で教わることと、教室以外で学ぶことは違いますものね。福澤先生だって、よく勉強はされたけど、緒方洪庵の適塾では酒も相当飲んでいたんですよね。
皆そう言ってお酒を飲むんです(笑)。
学生さんも、ちょうどコロナで飲みたくても飲めない時期が続いて、人とつながる接点が少なかったじゃないですか。ですから、今そういうことを求めている学生も多いのではないかと思います。それを埋めずに、この空白が今後普通になってしまうと、もう二度と集まらなくなってしまう。
毎週行ける所となるとやはり相当安くないといけないし、先輩がボトルを入れてくれるのはとても有り難いことです。そして、「今日はゼミの後だから飲んでるはずだ」とOBが来る。そういうOBとのつながりも作りやすい店だったことが非常に大きかったですね。
いい意味のルーティンですよね。キャンパスの延長でもあって。
妙な理屈を立てますと、教室ではお酒を飲んで議論することはできないし、教室では無制限1本勝負で話をしたり、青春の悩みを打ち明けることもできない。すると、その場が必要ではないかということになる。それを「つるの屋」と名付けるのであれば、われわれの心の中にあるものと似たようなもので、しかも次の世代にもそれを引き継いでもらえる場を作らなければ駄目だと。
現役生もOBも含めての慶應義塾ですものね。キャンパスだけではなくて、慶應義塾の1つの場がやはりあってほしいと思いますね。
新聞のコラムか何かで読んだんですが、落語家の立川談志師匠が、酒が人を駄目にするのではなくて、酒は人が自分は駄目な存在だということを気付かせてくれるんだ、と言っていたそうです。
ああ、そうか。俺もそうだな。他の人もそうかもしれないと。つるの屋さんのことを考えていたら、そう いうことが頭をよぎりました。
なくなって、その大きさがわかります。学生を連れていく店がなくて困る程度の話ではなく、やはり三田の大きな魅力の1つでしたね。
他にああいうところはないですものね。
今日は様々なお話を有り難うございました。
(2023年8月21日、三田キャンパス内にて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。