登場者プロフィール
小野 隆彦(おの たかひこ)
その他 : オスカー・テクノロジー(株)代表取締役その他 : 早稲田大学客員教授商学部 卒業1974年慶應義塾大学商学部卒業。東北大学にて工学博士取得。東京農工大学理事・副学長を経る。写真家でもあり、写真集『バリの息吹―王族と庶民生活の融合』がある。
小野 隆彦(おの たかひこ)
その他 : オスカー・テクノロジー(株)代表取締役その他 : 早稲田大学客員教授商学部 卒業1974年慶應義塾大学商学部卒業。東北大学にて工学博士取得。東京農工大学理事・副学長を経る。写真家でもあり、写真集『バリの息吹―王族と庶民生活の融合』がある。
新井 容子(あらい ようこ)
その他 : フリーライター商学部 卒業1986年慶應義塾大学商学部卒業。コピーライターとして広告制作会社に勤務後、1993年独立。インドネシア、バリ島への取材経験も豊富。著書に『小さきものの祈り〜インドネシアの聖剣〈クリス〉をめぐる旅』等。
新井 容子(あらい ようこ)
その他 : フリーライター商学部 卒業1986年慶應義塾大学商学部卒業。コピーライターとして広告制作会社に勤務後、1993年独立。インドネシア、バリ島への取材経験も豊富。著書に『小さきものの祈り〜インドネシアの聖剣〈クリス〉をめぐる旅』等。
倉沢 愛子(くらさわ あいこ)
その他 : 名誉教授専門はインドネシア社会史。豊富なフィールドワークによりインドネシア社会・歴史を研究。著書に『変わるバリ 変わらないバリ』(共編)、『ジャカルタ路地裏フィールドノート』等。
倉沢 愛子(くらさわ あいこ)
その他 : 名誉教授専門はインドネシア社会史。豊富なフィールドワークによりインドネシア社会・歴史を研究。著書に『変わるバリ 変わらないバリ』(共編)、『ジャカルタ路地裏フィールドノート』等。
2018/07/25
ガムランの響きに惹かれて
バリに初めて行ったのは比較的最近で、2003年頃だと思います。私は音響情報学が研究分野で、いわゆるデジタル録音を専門にしているのですが、あるとき、素晴らしい録音のガムラン(バリの民族音楽)のCDを聴いたんです。ものすごくその場の雰囲気、空気感が出ているものだったんですね。
これを実際に聞きたくなりました。ティルタ・サリという楽団で、ウブドの近くのプリアタンで録ったようでした。調べてもらったら、プリアタンの王族が持っている楽団で、日本人で1990年代にウブドの王族に嫁がれたマンデラケイコさんがマネジメントされていることがわかり、行くことにしたのです。
非常に素晴らしい方で、楽団をチャーターしてくださり、家内とたった2人のために30何人の楽団と20人ぐらいの踊り子さんが真剣にやってくださった。大感激ですよ。
それは素晴らしいですね。
それがきっかけで、マンデラケイコさんとご交誼を結ぶことができるようになりました。
また、私は慶應の商学部で、勉強せずにカメラクラブで写真ばかり撮っていたんです。その後も写真をやっており、ウブドの写真を撮りたいと思ってバリに通いました。もう20回以上になるかもしれませんね。
私の最初のバリは、大学を卒業した年の1986年の暮れから翌年のお正月にかけて、友達3人で行った観光旅行でした。「神々と芸能の島」と呼ばれていること以外はほとんど何も知らずに行ったんです。
でも、デンパサールの小さな空港に降り立ったときから、甘い花の香りが漂ってきて、「ここはどこ?」と、ちょっとエキゾチックな異空間に入り込んだような感動がありましたね。
5日間ぐらいの観光旅行でしたが、舞踊を見に行ったときも、ガムランの音が脳天にカントン、カントンと響いてきて、また踊り子たちの舞いも艶やかで、本当に不思議な異空間に迷い込んだような感覚に惹かれていきました。
その後、取材もされるようになって?
フリーランスのライターになったとき、インドネシアのことを紹介したいと思い、今度はジャワに行ったんです。それで、取材を続けるうち、地元の人のインタビューをするならきちんとインドネシア語を勉強しようと思い、97年に東ジャワのマランという都市に留学しました。
ちょうどその頃、ジャワやバリに伝わる不思議な短剣「クリス」のことを知りました。それは、神通力が宿る家宝として受け継がれてきた短剣なんですけど、その神秘の奥には彼らの人生哲学が息づいているんですね。
そこで、そういう文化を継承しているジャワやバリの人たちの精神性が、折しもスハルト政権が崩壊して民主化に進むという激動の時代に、どのように人びとの支えになっているのかを本にまとめようと思い、取材を始めたのです。それで、98年頃から、ジャワだけでなく、再びバリも訪ねるようになりました。
そもそもこの短剣「クリス」はジャワで生まれたもの。ところが、東ジャワで大帝国を築いていたマジャパヒト王国というヒンドゥー教王国が、16世紀にイスラム勢の侵攻に遭い滅亡し、自らの宗教や文化を守るためにバリ島に逃げるんですね。そのとき王国の宝である「クリス」も、バリに持っていくわけです。
ですから私にとってバリは、もはやジャワでは見ることができない、マジャパヒト王国の栄華、その残り香を探す場所となっていたのです。
私は、研究の対象としてはジャワの歴史をずっとやっていて、バリは最初は観光で行っています。初めて行ったのは1972年でした。45年くらい前になりますね。そのときはほとんどホテルはなくて、クタの海辺の民宿が1泊1ドルで泊めてくれた。お客さんは、欧米人の、ほとんどがいわゆるヒッピーと言われる人たちでした。
1泊1ドルの民宿で、本当に静かなバリを体験しました。
今とはまるで違いますね。
夜になると、海岸がもう真っ暗なんです。星がすごくきれいで、今のクタからは想像がつきません。
観光以外の関わり合いをしたのは、慶應の経済学部のゼミ旅行の行き先を、2004年から、ジャワの村からバリの村に移してからです。いわゆる観光地ではない、西のほうの、ヌガラという町よりバスで45分ほどデンパサール寄りの、本当に何もない村の農家にホームステイすることにしたのです。
たまたまバリのウダヤナ大学の先生がそこのご出身で、観光に汚染されていないからいいんじゃないかと段取りしてくださった。そこに、毎年ゼミ生を連れて行き、定年になったときにやめようと思ったのですが、下級生が、「先生、ゼミなくなっちゃうの?」と言うので、いまだにそれを続けています(笑)。
バリ・ヒンドゥーの魅力
バリに通っているうちに知り合いが増えて、いろいろなことを見せてもらえるようになりました。特に感激したのは、大きな公開火葬を見せてもらったことです(写真)。
ウブドの王族であるチョコルダさんのお母様が亡くなられたときにご招待状をいただき、内側から全部見ることができて写真も撮らせていただきました。これはすごいなと思って。大変なお金をかけるんです。なぜこんなにお金をかけるのか、いろいろ、バリの文化について考えるようになったんです。
バリ島の火葬というのは大事な宗教行事なんですね。学生のホームステイ先でも、いろいろな儀礼ももちろん、火葬も体験させていただいています。たまたま今年は大きな火葬がその村であるんです。
やはりバリというとバリ・ヒンドゥーの独特の文化が魅力的ですね。16世紀にマジャパヒト王国が滅亡し、ジャワからバリに亡命したとき、ニラルタという高僧もバリに渡ります。「聖水による清め」の儀礼を創始し、バリ・ヒンドゥーの礎を築いたと言われている聖人ですね。
すごい神通力を持っていて、バリ上陸後は、疫病が流行っている村々を巡り、マントラを唱えながら聖水を作って人々にふりかけ、病気を治したと言われています。ですから、バリ島にはニラルタに関係する村や寺院がたくさんあるんですね。木彫りで有名なマス村もその1つです。
そうなんですね。
またニラルタはジャワで受け継がれてきた宮廷文化、文学や音楽、舞踊劇などもバリに伝えます。こうしてバリに華麗なるヒンドゥー文化が花開くのです。インドネシア全体では人口の1、2%に過ぎないヒンドゥー教ですが、唯一バリだけがその文化を守り抜くんですね。
やはりバリ・ヒンドゥーは、儀礼など見た目も美しく、また、すべて目に見えるものと見えないものとのバランス、調和を大切にする。そういう精神世界が魅力ですよね。
「生まれ変わり」を信じる
私がいまご交誼いただいている方は全員、本当の意味でのヒンドゥー教徒なんですね。例えば、日本でプロテスタントのキリスト教徒になられる方は、物心ついてから信仰告白をして、洗礼を受けてキリスト教徒になるわけですが、バリのヒンドゥー教徒はそうではなく、生まれた途端にヒンドゥー教徒です。
実は、いま一番私が興味があるのは、その方々は全員生まれ変わりを信じていらっしゃること。
そうなんですよね。
しかも、生まれ変わりが仏教でいうところの「解脱」を目指すのではなく、再生型の生まれ変わりなんです。自分は何世代か前の親族の生まれ変わりだと信じている。そして、自分が死んだら、父方の親戚の誰かに生まれ変わるんだと。だから、死ぬことはあまり怖くないというところがあるんですよね。
ただ、その生まれ変わりを確実にするためには神様を信じないといけないし、神様に奉仕しないといけない。要するにお祭りには絶対に参加しないといけないし、通過儀礼は全部やらないといけない。
特に、最後の死に方ですよね。死の穢れをいかにきれいにして、天に昇らせていただくか。それは、死んだ方をどうやって火葬して天に送り出すかです。だから火葬には、ものすごくお金をかけなければいけない。
私がいまお付き合いさせていただいている、アナ・アグン・グデ・バグース・マンデラさんというプリアタンの王族の方は、もう70歳を超えていますが、子供のときはお手伝いさんが全部やってくれたそうで、靴下も自分ではいたことがなかった方なんです。最近はお子さん方と議論になって、「お父さん、そんなことやってたら生まれ変わりできないよ」と言われてシュンとなるそうです(笑)。
バリのヒンドゥー教徒の人は、オダラン(寺院の創建祭)にしても何にしても非常にきちんとそれに参加する。毎日供物をちゃんとつくる。毎日拝む。その理由は何かといったら、生まれ変わりを信じていらっしゃるから、ということも1つの理由なのではないかという気はしますね。
「神様がご覧になっている」
バリでは道などに供物を毎日置きますよね。でも、そのあとそれが車に轢かれてもまったく気にしない。供物を置いたとたんに神様が中身は持っていらっしゃるから、踏んでも何でも結構なのだと。われわれが考えるとちょっと変ですよね。
でも、毎日毎日やっている。大変ですよ。これは儀礼で、それを尽くさないと、きっと生まれ変われないと考えている。生活規範、暮らし方の規範なんでしょうね。
儀礼のときはなにかにつけて海岸へ行って、宝物を洗ったり。それから、最後の火葬も多くは海辺ですよね。
1番最後に骨は流してしまうんですね。
舞踊も、そもそも神様に捧げるためのヒンドゥー教の神事でしたので、やはり神様に喜んでもらいたいという思いで皆踊っています。木彫りにしても、寺院の壁や門を飾ったり、全部神様のためということで芸能などが発展してきているところがありますね。
ガムランも本来は神様に喜んでいただくためのものなんですね。
1つ、象徴的な写真を撮ってあります。これはプリアタンの王宮の中のいわゆる屋敷寺で、1人でバリスを踊っているんですね。誰も見ていないけれども、実は神様が見ているんですよ。
ここは既に神が降りてきてご覧になっている。そのときの踊り手は若い少年だったのですが、すごく上手かったです。緊張してやっているわけですよ。人の前でやるからではなく、神様の前で踊るから。
私は専門的には何も分からないのですが、連れていく学生たちには1週間でも、男の子も女の子も必ずバリ舞踊は習うようにさせています。村の子供たちは皆上手に踊るんですよね。それで、先生以外にも子供たちが来て一緒になって教えてくれて。
ですから、本当に子供のときから自然に覚えている。
習い事をするというのではなくて、生活の一部なんですよね。
例えばティルタ・サリ楽団にしても、あそこで踊っている人は本当のプロフェッショナルですが、それでお金を儲けているわけではないんです。神様に選ばれた人たちなんですよ。ほとんどの子供はああいうふうになりたいわけですけど、本当に踊れる子だけしか残っていない。
「ウブド」という名前
伝説では、8世紀にルシ・マルカンディアというヒンドゥー教の高僧が500人の村人とともに、東ジャワからバリのアグン山に渡ってくるんです。バリ島最初の定住者と言われている人たちですね。
ところが、最初は疫病とか悪霊に襲われて村人は病気になってしまう。そこで、ルシ・マルカンディアは1度ジャワに戻り、瞑想してから再びバリに来ます。そこがチャンプアンという、ウブドからちょっと西に入った、2つの川が交わるところです。
そして、そこには聖水が湧き出ていて、沐浴すると病気が治るというので、その川のほとりに寺院を建てるのですね。それがウブド発祥の地と言われている、グヌン・ルバ寺院なんです。
ウブドという名前も、癒されるとか、薬という意味のバリ語「ウバッド」から来ているんですね。だから、ウブドというのは、「癒される場所」という意味がもともとあるんです。
私も、このような話を、ウブド王宮のスポークスマン的な役割をしていらっしゃる、チョコルダ・ラコー・カルティヤサさんに聞きました。
チョコルダさんのご親戚ですね。
はい。それで、グヌン・ルバ寺院のオダランにも参加しましたが、お祭りではさまざまな舞踊が奉納されますからね。観光客用に披露されている舞踊と違って、地元の空気感や舞踊の深い意味をすごく感じることができますね。
その通りですね。
2009年にグヌン・ルバ寺院のオダランに参加したときには、ケチャ・チェウェッ、つまり、女性のケチャダンスをやっていました。普通ケチャは男性じゃないですか。
びっくりして、地元の人に聞いてみると、2008年からケチャ・チェウェッが始まったというのです。しかも、それをプロデュースしたのはスマラ・ラティ歌舞団のバリス舞踊で有名なアノム氏でした。
そこでアノム氏本人にお話を聞くと、今はグローバルな時代で、女性の活躍もどんどん増えてきているから、バリ舞踊でも女性が平等に参加できるようにすべきだと考え、女性のケチャを始めたと話してくれました。このように進化していくことでバリの伝統芸術がより輝くのだと。
当然、時代とともにいろいろとアダプティブに変わっていくでしょうね。やはり、本物はお祭りのときに見ないといけないと思うのですね。
欧米人芸術家の来島
バリ島がオランダの支配下に落ちるのは1900年代の初めですから、そのころからようやく港が整備されたりして、交通の便がよくなり、オランダ人が来始めているのですが、ピークはやはり1930年代でしょうね。オランダ人だけではなくて、メキシコ人やドイツ人とかいろいろな人が来るようになった。
芸術家がたくさんバリにやってきますね。
ええ、そうですね。しかも、皆さん長く滞在して、そこの土地の王家と強い絆を持った。ですから、バリの文化は欧米人がつくったと言われているぐらい、もとからあったものを欧米人が観光に適するようにつくり替えていったんです。
ケチャダンスも、もともと厄払いの儀式だったものを、1930年代に、ヴァルター・シュピース(ドイツ人画家)が、『ラーマーヤナ物語』と1つにして、観賞用の舞踊に創り上げたものですからね。
私が懇意にさせていただいているマンデラケイコさんのご主人のお父様が1930年代にガムラン舞踊団を取り纏めて、フランスのパリ万博に連れていった方なんですよ。そのお父様がご存命のときに、ケイコさんを見初めて自分の息子と結婚させようと言われて結婚なさったそうなんです。
チャンプアンにチャンプアンホテルというのがありますが、そこでシュピースがウブドの王様から部屋をもらったところが、今ホテルになっているのだと聞きました。
こうして、西洋の人たちがチャンプアンにたくさん住むわけですね。カルティヤサさんからも、「癒しはインスピレーションを与えるんだよ、だから、多くの芸術家がここに住み着いたんだ」と言われました。
じゃあ私も物書きとして、少し癒しを浴びて帰ろうなんて思ったりもして(笑)。やはりチャンプアンの森は、空気がすがすがしく、鳥のさえずりが聞こえ、山や渓谷があって、棚田もあるという、すごくいいところですよね。
そうですね。
そして、バリの人たちもシュピースから遠近法を教えてもらうなどして、バリの絵画が変わっていったと聞いています。
知られざるバリ――虐殺の記憶
バリは1930年代に一時期欧米の影響で観光産業が芽生えるのですが、戦争で日本軍の占領期にはすっかりつぶれてしまう。
それで、日本の占領が終戦で終わると、そのあといわゆる独立戦争が1949年まであります。これがバリでは激烈でした。バリ人がオランダ側につくほうと独立側につくほうとに2つに分かれてしまって、むしろオランダ側につくほうが数的には多かった。王家が昔からヨーロッパといろいろな意味で近かったわけですよね。だから、オランダの傀儡国家がバリにつくられるんです。
そういう苦い歴史があったものですから、インドネシアが1つの国として独立が認められたときもしこりが残っているんです。それがようやくなくなりかけた頃に9・30事件が起きるんですね。
バリでも虐殺があったのですか。
そうなんです。ホームステイのプログラムでいつも泊めていただいているところで、よもやま話をしていたときのことです。そこは海岸沿いの家なんですが、9・30事件に話が及び、「ああ、あの先の海辺のあそこにもいっぱい埋まっているよ」と言うんですよね。埋まっているというのは、虐殺された遺体です。
1965年ですよね。
そうです。スカルノが倒れたときです。
共産党だと言われて。
もう大虐殺が全国で起きた。でも、平和なバリではそんなものはなかったんじゃないかと皆思っていたのにあったんですね。
僕はまだお付き合いしているバリ人に聞いたことがないです。その話題を避けていらっしゃるのかもしれない。
普通、バリは安全だったと言われていたんですが、「いや、この村だって虐殺はいっぱいあったよ」とケロッとして言う。
これは大変だ、そんなすごいことが私たちが毎年泊めていただいているその村でもあったんだと。それで、何々さんのおじいちゃんは殺したほうの側だよ、何々さんのおじいちゃんは殺されたんだよという話を聞くようになった。小さな村ですから、その両者は今は仲良く暮らしているのですよ。
せっかく毎年こうやって学生を連れてきているので、自分でこのことを調査してみようと思い、今本を書き上げたところです。
私は、ジャワでは聞いたことがたくさんあります。留学していたとき、大学の先生の田舎がバニュワンギにあって、その村では共産主義者と疑われないために仏教徒になったという話も聞きました。でもバリでは私も聞いたことがないですね。
そうですか。そういう生臭い話を追いかけていまして、バリ島というときれいな楽園イメージばかりで、私もそういうイメージを持っていたのですが、そういうダークな部分もあるということです。
知られざるバリですね。50年前ですね。
そのあとぐらいにヒッピーがやってくるという感じですか。
そうです。60年代の末です。その頃まではバリ島に空港がなかったんです。今のングラ・ライ空港ができたのが68年でしたかね。戦前、小さな空港はあったのですが、日本が軍用飛行場にして、使い物にならないような状態にしてしまって、それっきりだったのです。
日本の戦争賠償のお金を何に使うかというときに、スカルノがこの国はやはりドルを稼ぐには石油とともに観光だと言って、バリ島にホテルをつくったんですね。それがバリ・ビーチ・ホテルで、バリで最初の国際級のホテルだと言われています。
これが建設中に9・30事件が起きたのです。そして、事件が落ち着いて、ホテルもできて、空港ができて、ヒッピーが来る。あとは昔いたオランダの人たちが、落ち着いてきたのでノスタルジアの旅をする。そういう感じで、日本人は遅れて出かけていったという感じです。
観光地としての発展
日本人がすごく行くようになったのは90年代ですね。
数の上ではそうでしょうね。
80年代から行き始めてはいたけれども、私の感覚だと90年代はどの雑誌でもバリ特集をするほどバリブームになっていました。それが97年のアジア金融危機でガクンと落ちていく。
だから、98年にバリに行ったときは、まさに金融危機の影響で、クタビーチは人1人いないという状況でした。そのあと少し復活しますが、今度は2002年にテロが起こって。翌年雑誌の取材で行くと、ウブドのモンキー・フォレスト通りには1人も観光客がいませんでした。
そうなんですよね。バリはそういうことで観光産業がぺしゃんとなってしまう。いつも、ちょっとしたことで大打撃を受けるんですね。
そうなると、ひたすら我慢というところがあるんじゃないですか。
忘れてくれるのを待つという感じですよね。そうすると、必ず復活してきますから。
昨年11月からのアグン山の噴火のときもそうですよね。
そう、去年のクリスマスとお正月も観光客は全然来なかったんですよ。
そういう意味では、バリ島のホテルも結構大変だと思いますよ。
ただ、日本人はともかく、今全体からするとものすごい観光客の数です。とくに中国人が増えている。
ええ、中国語の看板が至るところにあります。
去年行ったときもクタビーチに、「こんなに人がいるの?」というほど人がいました。ウブドも観光客だらけで。田んぼをつぶしてホテルをどんどんつくっているそうです。
実は今、バリ島を訪問する外国人は年間で570万人ぐらいなんです。2002年のテロの翌年は100万人を切っていますし、テロの直前も130万人ぐらいですからね。それに比べたら今は4〜5倍。しかし、日本人は逆に2008年がピークで今ちょっと下がっているんですね。
日本航空も直行便がないですよね。それから、ガルーダ・インドネシア航空も1日2便だったのが1便になってしまいましたものね。
ええ。でも、エアアジアが去年、成田から直行便が飛ぶようになりましたので、また日本人が増えるのではないでしょうか。
バロンダンスの精神性
先ほど小野さんが、しかるべき形で最後はきちんと火葬していかないと、生まれ変わり・再生ができないとおっしゃった。
それがまさしく大きな問題で、9・30事件のときに殺された何万人という人は火葬するどころか、そのへんに大きい穴を掘ってボーンと埋めてあるわけですよ。それで、そのあともスハルト政権が怖くて、誰もそれを掘り出してちゃんと供養しようとはしていないんですよ。
このままではとにかくいけないということで、今はさすがに掘り出して火葬し直すことが許可されて、徐々にそうしています。
それまでは土に預けてあったんだということにするんですね。
ええ。まだ魂がそのへんをさまよっていると考えて、いろいろな変な事件が起きると皆そのせいにします。例えば交通事故が続けて起きたら悪霊のせいだと、本当に信じているんですね。
だから、こういう生臭い調査をしている中で、皆さんの心の中にあるバリの伝統がすごく強く感じられました。
悪霊を信じているというのは本当ですね。
ええ、本当に信じています。
バリの舞踊で、聖獣バロンと魔女ランダとが終わりなき闘いを演じる「バロンダンス」がありますが、私はこのバロンダンスの精神性こそが一番バリらしいなと思うのです。つまり、聖獣バロンと魔女ランダは、聖と邪、善と悪、光と闇という両極を象徴している。しかし、善と悪は同時に存在するものだという考え方ですね。
そうですね。どちらが勝つとか負けるというのではなくて。
永遠に結果が出ない。要は、善というのは悪があるから善であって、悪がなければ善も存在しないということなんですよ。善と悪、生と死、光と闇というものは互いがあるから存在し合える。そこに調和を見るのがバリの精神性というか、バリの哲学ではないかと思うのです。
今も世界で戦争があったり、9・30事件のような悲劇があったりと、この世には光と闇があるのだけど。その融和、平和へのヒントとして、バロンダンスの根底にある精神性、つねに調和をとろうとする考え方が役に立つのではと、私は感じているんです。どんな物事でも、善と悪ではっきりどちらがいいとか悪いとかは決めつけられないものですからね。
僕もそう思いますよ。いいことばかりではないし、悪いことばかりでもない、ということではないですかね。
結局バランスをとることの大切さなんですね。そこに優しさや、融和の精神が生まれてくる。それがバリの精神性なんだと思います。
おっしゃるとおり、バランスとハーモニーですね。虐殺のときにさえ、共産主義者を殺す理由として、村落社会とバリの完結したコミュニティのバランスを壊した、という言い方を1つの口実にしているわけです。いかにそれが大事かということが分かります。
ちょうどその前に、アグン山の爆発が1963年にあった。まだその余韻が残るときに9・30が起きたのは神様の怒りなんだとなっていく。やはりすべてが神様なんです。
変わっていくバリ
バリは1908年に全土がオランダの統治下になって、バリの文化も崩壊してしまうのではないかというところに西洋の文化がプラスされて、新たなるバリ文化が花開いていくわけですよね。つまり、バリというのは、崩壊と再生を繰り返してつねに進化していく。2002年にテロが発生したときも、バリは大打撃を受けましたが、再生してまた新たなバリを創造しているんですね。
観光の楽しみ方も、例えば、以前は高台から見るだけだったテガラランの棚田が、最近は中に入って散策できるようになるなど、いろいろ変わってきています。ですから日本人も、新しく進化しているバリをぜひ見に行ってほしいなと思います。
そうですね。1回行ったからいいやではなくて、ぜひまた行ってください。
もし2回、3回と行っている方ならば、今度は地元のオダランや、ガルンガンやクニンガンといったお祭りにも参加していくと、もっとバリ芸能の深いところに触れられて、癒されてくると思うのです。
どんな小さな村のお寺でも、オダランがありますからね。ちょっと足を延ばせば、必ず1週間のうち1回ぐらいどこかでやっているから見せてもらうといいと思います。
それと、ニュピという1年に1回、外に出てはいけない日があって、あれは面白いですよね。
バリのお正月と呼んでいますけれど、今年、ニュピに学生を連れていったんですよ。
あれは本当は食べるのもいけないんですよね? 音を出してもいけない。要するに瞑想の日ですよ。
活動してはいけないんです。じっとしていないといけない。ですから、空港が24時間閉鎖。道路に出ても車も何も走っていません。全島一斉にね。
食事も外国人はホテルの中で食べるのは構わないけれど、ホテルも本当は電気をつけてはいけない。
外国人も外に出てはいけない。ヒンドゥー教徒でなくても駄目なんです。
私も経験しましたが面白かったです。まあ、僕は1日中ボーッとしていましたけど。
私はあえてその時期に学生をホームステイに連れて行って、ホームステイ先で24時間体験させているんです。今年からネットも駄目です。Wi‐Fiをバリ島全体で遮断してしまって。
忙しい日本での日々を思えば、そういう日が1日ぐらいあったほうがいいかもしれませんね。
※所属・職名等は当時のものです。