慶應義塾

[第243回]萩原 健司

公開日:2026.09.15 更新日:2026.09.15

登場者プロフィール

  • 萩原 健司(はぎわら けんじ)

    (慶應義塾湘南藤沢高等部 出身) / 2010年 慶應義塾大学理工学部 卒業 / 2013年 慶應義塾大学大学院理工学研究科 前期・後期博士課程修了 / 2013年 協和キリン株式会社 入社 / 2020年 英国留学 / 2023年 米国拠点に赴任。2026年現在もグローバル製品戦略の推進に従事 / 現在に至る

    萩原 健司(はぎわら けんじ)

    (慶應義塾湘南藤沢高等部 出身) / 2010年 慶應義塾大学理工学部 卒業 / 2013年 慶應義塾大学大学院理工学研究科 前期・後期博士課程修了 / 2013年 協和キリン株式会社 入社 / 2020年 英国留学 / 2023年 米国拠点に赴任。2026年現在もグローバル製品戦略の推進に従事 / 現在に至る

「塾員来往」への寄稿の機会をいただき、ありがとうございます。

私は現在、製薬企業で新しい薬を世界中の患者さんに届けるための戦略を立て、それを実行する仕事をしています。

薬とは、サイエンスに基づいて設計された「人類の英知の結晶」だと私は思っています。一つの薬を作るためには、研究段階から世の中で実用されるまでに10年以上の年月と、1,000億円を超えるような巨額の投資が必要な場合もあります。薬の種を見つけてから実用化されるまでの成功確率が数万分の一と非常に低いため、ビジネスとしては非常にリスキーと言われます。それでも、患者さんの病気を治す・症状を和らげるといった価値は、決して「お金には換算できない幸福」を生み出すことができる可能性があり、製薬企業で従事する身としてその使命を胸に日々仕事に励んでいます。

ここでは、私が「薬屋」としての道を歩むに至るまでのきっかけや、大学・大学院で何を学び、どのように今に繋がっているかについてご紹介できればと思います。この文章が、これからの進路や人生を考える皆さんにとって、何かの参考になれば嬉しいです。      

理工学部を目指したきっかけ

私が中学生になった頃、祖父が喉のがん(咽頭がん)を患い他界しました。治療の過程で、外科手術で声帯付近を切除したため祖父は声を失い、筆談が唯一のコミュニケーション手法でした。私がお見舞いに行くといつも、読みにくくも力強い字で会話をしてくれたことを今でもはっきりと覚えています。ただ、抗がん剤の酷い副作用の影響でモノが食べられず徐々に体重が減っていき、闘病生活後半はほとんど寝たきりの状態となってしまいました。こんなに弱々しくなってしまった家族の姿を見るのは人生で初めてで非常にショッキングでした。祖父は30代半ばで住宅営業マンから全く新しい分野で会社を興し、地元で愛される会社へと育て上げたエネルギッシュな人でしたのでそのギャップゆえに、目の前の祖父がこんなにも弱ってしまったことの衝撃はとても大きいものでした。この姿を目の当たりにし、中学生ながらに「なぜがんの治療は人をこんなに苦しめてしまうのか」と漠然とした疑問を抱くようになりました。同時に「もっと良い薬はどうやって作るのだろうか」というぼんやりとした興味・好奇心が芽生えました。常に意識しているような強いものではありませんでしたが、深層心理のどこかにずっと残っているような、おぼろげなものでした。

時は過ぎ、高校での理系・文系クラスの分岐点では、「薬屋になるには理系だろうな」というざっくりした感覚と、元々数学や理科が好きだったこともあり、迷わず理系を選択しました。高校3年生の時は大学での学部選択に悩む場面がありましたが、校長先生から「薬をつくりたいのなら理工学部がいいのでは」というご助言を頂き(※ちなみに医学部や薬学部でも薬を創る「創薬研究」をしている研究室はありますので必ずしもこの通りではありません。)、理工学部に行くことに決めました。ここは大きな分岐点ではありましたが、今振り返れば良い選択ができたと思っています。

大学・大学院生活

大学では、創薬に最も近い研究室に入りたかったので、生命情報学科を選択しました。毎日、実験とそのレポート作成に追われる日々でしたが、自分の興味あることをクラスの仲間と共に勉強する時間がとにかく楽しかったです。大学4年生では、佐藤智典先生・松原輝彦先生のご指導の下、ドラッグデリバリーシステム(薬を体内の必要な場所に効率的に運ぶ技術)の基礎研究に精を尽くしました。

これは薬作りには欠かせない技術に関する研究で、まさに自分がやりたかったことでした。薬は、体内で効いてほしい部分と効いてほしくない部分があります。デリバリーシステムにより、標的部位に必要な量を必要なタイミングで届け、一方で非標的部位への暴露を最小限にとどめて副作用を抑制することができるのです。私の研究では、これを実現するためにまず、生体への刺激が少ないバイオマテリアルという物質を使って、遺伝子を封入したナノサイズの小さな粒子を作成しました。これを体内のがん細胞に送達して殺傷する遺伝子治療システムを確立し、その有効性を動物モデルで確認することが出来ました。その過程では想定外の失敗や躓きも多く、精神的にも肉体的にも辛く奮闘の日々もありました。こうした時期を乗り越えられたのは、学科やラボの友人達との相談から新しいアイディアをもらえたこと、そして何と言っても指導教官である佐藤先生・松原先生が多くの貴重なご助言をくださり、さらには同学科の他研究室の先生方(土居信英先生、岡浩太郎先生、井本正哉先生)や別大学の先生方にも繋いでくださったおかげと感じています。今でもさまざまな場面を鮮明に覚えています。例えば、室温4度の冷蔵室で凍えながら何時間も癌細胞からタンパク質を抽出したり、逆に空調が効きにくい真っ暗な顕微鏡観察の専用部屋で汗だくになりながら光る細胞を観察したり、また自分が調製したナノ粒子が腫瘍を持つマウスにどうか効いてくれますようにと大学隣りの矢上神社にお祈りしたり。他には「夕飯クラブ」と称して、他のラボの先生方や学生も含めて皆で学食や近隣の定食屋で、毎晩のように研究の話をしたり雑談をしたりして時間を過ごしたことも楽しい思い出です。

学部卒業式
ハワイで初めて海外学会に参加し卒業論文の内容を発表させて頂きました。

こうして皆さんのサポートを得ながら、実験での失敗の積み重ねの中から学び、うまくいった数%の部分を研ぎ澄まし、誰も通ったことのない非常にか細い道を辿り続け、博士号を取得するまでこの研究に没頭することができました。博士号とは、たとえ非常に狭くニッチな分野であっても、その分野においてその時、世界の最前線に立った証だと私は思っています。ちなみに後期博士課程での研究テーマについては日本学術振興会の特別研究員に採択して頂き、得られた成果を元に理工学部での藤原賞を頂くことが出来ました。また、佐藤先生のご指導の賜物で専門誌への論文投稿と採択が円滑に進み、前期・後期博士課程を計3年半で修了できました。これらを達成出来たことは大きな自信となり、自分の胸の中でキラキラと光り今でも辛い・悲しい時であっても勇気づけてくれます。自分がやりたい研究・勉強を、何のしがらみもなく素晴らしい環境で好きなだけ没頭出来たことは何物にも代えがたい幸せな時間でした。振り返ると、慶應義塾で過ごした期間は、知識を勉強してただ詰め込むだけではなく、達成したい物事と目標に徹底的に向き合い、仲間や先生方と協力し助けを頂きながら、そして何よりも楽しみながら乗り越えることの大切さを教えてくれた時間でした。目標達成に向けて七転八倒しながら試行錯誤し、さまざまな人々と議論を重ねてアイディアの精度を上げて行くという経験は、社会に出た今でも自分の行動哲学の根幹になっています。

博士号をかけた公聴会での攻防。鋭い質問に戦慄しました。
学位授与式で恩師の佐藤教授と共に。素晴らしいご指導に大変感謝しております。

社会人として

「薬を作る」という目標に向けて、大学の研究員や先生(アカデミア)の道に進むか、それとも製薬企業にいくか、という選択肢がありましたが、製薬企業の有する資金力とスピード感に魅力を感じ、企業での研究員としてキャリアを始めることにしました。会社では個人ではなくチーム単位でプロジェクトを進めて行くため、想像以上に進行スピードが早く、日々の変化に圧倒されっぱなしでした。研究員と言えどもただ実験をしているだけでは不十分で、最新データをチームに即時に共有し、マネジャーや上層部に報告し、次のアクションを練り上げる。さらには、新しい研究テーマを草案したり、新しい実験手技を教えてもらったり、毎日が新鮮で刺激的でした。研究所で過ごした7年間ではアメリカのラボやアカデミアとの共同研究や、研究プロジェクトチームを率いて技術を特許・論文化したりと、一連の早期創薬研究を経験させて頂きました。それと並行して、社内研修での学びやそこで出会った方々の対話を通し、徐々に「薬屋としてビジネスのことももっと知りたい」という気持ちが強くなり、白衣を脱ぎ研究職を離れる、という決断をしました。

その後、仕事の傍ら海外大学院留学に必須となる英語試験(GMAT、TOEFL、IELTS)や面接準備に四苦八苦しながら、イギリスのオックスフォード大学MBAプログラムに合格を頂き留学しました。思い返せば、留学期間そのものよりも受験準備プロセスの方が圧倒的に過酷で、ここでの経験が自身のタフネスを鍛えてくれたと感じています。余談ですが、大学院面接官は「慶應は日本の素晴らしい大学」と認識してくれており、確かに同時期にオックスフォード大学院に留学していた学生には慶應大卒業生が数多くおりました。MBAだけではなく、バイオ、エコノミクス、ロー、AIなど多岐な分野で専門性を高めるべく日々研鑽している同窓の仲間達がオックスフォードにもおり、慶應のアラムナイネットワークが世界に広がっていた事が嬉しく、そして心強く感じたことを覚えています。

研究員時代。素晴らしい先輩方に鍛えて頂きました。

オックスフォードのMBAプログラムは世界で活躍する友人達との濃厚な学びの場であり、多くの刺激がありました。その中の重要な一つとして「仕事の価値はお金という尺度だけで測れるものではなく、社会にもたらすインパクトでも評価されるべきである」という考え方を学びました。製薬産業に当てはめて考えると、一般論としてはあくまで商売なので利益の追求はする一方で、同時に、我々のお客様である患者さんに幸せをもたらすことが何よりも重要です。一例としては「症状を緩和するだけではなく病気を根源から治す」、「治療による心身ストレスが軽減し夜よく眠れる」、「通院頻度を減らせる」、「副作用が小さく併用薬の種類を減らせる」といったお金には換算しにくい価値提供です。当たり前のように聞こえますが、資本主義社会の荒波で目の前の仕事に忙殺され「仕事の意味」を見失いかけそうになったときに、立ち返るべき原点として「全ての仕事は患者さんやそのご家族の幸福に貢献するためのものである」という行動指針を心に刻み込むことが出来ました。

オックスフォード大学卒業式の伝統的な洋装。膨大な課題の量に毎日圧倒されつつも充実した留学でした。

ここでの学びを社会に還元して行くべく、会社に戻ってからは、後期開発ステージから発売直後の新薬候補品を世界中の患者さんにお届けするための戦略を考え、多様な背景や専門性を持つメンバーが集うグローバルチームで実行する部署で働いています。患者さんにもたらす価値を最大化することを信念とし、それをピュアに追い求めるメンバーと日々仕事できることは、非常にやりがいのある仕事だと感じています。各分野の専門家たち(一例では開発、メディカル、ペイシェントアドボカシー(患者さんの声を戦略に反映させる活動)等)の力を借りながら患者さんや医師たちの生の声を聴いて「治療現場で求められているもの」を理解し、会社としてどういう価値提供をするのかを徹底的に議論し皆が心から納得する形で実行していく、ということを心掛けながら仕事をしています。

多様なメンバーが集うグローバルチーム。エネルギーに溢れた大好きなチームです。

おわりに

スティーブ・ジョブズは自身のキャリアを「点と点がつながって今に至る」と表現しましたが、私自身もまさに、慶應義塾での日々を含めた経験が一本の線に繋がってきていることを実感しています。

振り返れば、すべての原点は中学生の頃、祖父の闘病を目の当たりにした時に抱いた「なぜ癌の治療はこんなに人を苦しめるのか」という素朴な問いでした。そのぼんやりとした疑問が、高校での文理選択、そして理工学部への進学という「点」を打ち、大学・大学院での研究という新たな「点」へと繋がっていきました。

大学・大学院での研究は失敗もとても多かったですが、矢上の地で仲間や先生方と議論し、試行錯誤を繰り返した時間は、単なる知識の習得以上の意味がありました。一見、無駄に見える遠回りや失敗の積み重ねという泥臭いものこそが、次の一歩を踏み出すための血肉になる、そうした理屈を超えた手触り感のある経験が私のキャリアの土台を支えてくれています。

その後、企業での研究職を経て「薬」という人類の英知の結晶が生まれる最上流を経験し、MBA留学を経て現在のグローバル製品戦略担当へと舵を切りました。研究からビジネスへと一見大きな転換に見えるかもしれませんが、根底にあるのは「より良い薬を、より早く患者さんへ届けたい」という一貫した想いです。その想いは経験を重ねるごとに雪だるま式に大きくなり、今では新しい治療を待つ世界の人々の幸福を最大化するという、私なりの使命へと結実しています。

私にとって慶應義塾で過ごした時間は、単に専門性を磨く場であっただけでなく、自分が何に惹かれ、何を大切にして生きていきたいのかを、友人や先生方との対話を通じて見出すことができた、極めて貴重な時間であったと確信しています。

現在の拠点、米国。ちなみに妻も私と同じく生命情報学科の佐藤研出身です。
ニューヨークシティを疾走中。文武両道の精神のもと、仕事で知力、プライベートで体力、双方の研鑽を楽しみながら続けています。

塾員来往(卒業生コラム)

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