隠岐 理貴
オキ マサタカ
経済学部 准教授
研究概要
はじめまして。このたび学生のみなさんへの「メッセージ」として何を書いたものかとぼんやり考える中で何気なく振り返ってみたところ、私は学生のみなさんが生きてきた年数よりも長い間ドイツ語を学んできたことに気づきました。では、それでみなさんが日本語を話すより流暢にドイツ語が話せるかというと、全くそんな気はしません。とはいえ、ある程度大人になってから(母語や第一外国語とは異なり)自分で選んで学びはじめ、また学び続けてきたドイツ語という言語には深い感謝の念を感じています。 私が実際にドイツで暮らしたのは七年間に過ぎないのですが、交換留学生としてドイツで過ごした最初の一年以来、日本に住んでいる時でも心の深いところ(心の「奥」よりももう少し表層意識に近いところ)では、ドイツで出会った友人・知人たちの言葉が、彼らの声で響き続けています。そうした声は、何かについて深く考えている時や強く感動した時などには大きくなり、思考のヒントを与えてくれたり、友人たちがともに感動してくれる様が思い浮かんだりします。そうした時、母国ではない、みんなと過ごした遠い場所への「郷愁」を感じます。 「こんな話のどこが私たちへのメッセージなのか?」とみなさんは思うかもしれません。(正直に言えば、私自身もちょっとそう思いながら書いているのですが……)上に述べたような感覚を「外国語を学ぶことの意義」に強引に引き寄せてみるならば、次のように言えるかもしれません。すなわち、私たちは母語ではない言語を学ぶことによって、その言語を話す人たちとの間に、その人たちとの会話の中に、自分の新たな居場所を、住処を、憩い、また熱くなれる空間を切り拓くことができるのだ、と。私たちはしばしば、外国語を学ぶことで「異なる価値観に触れる」ことができるとか、「自分の考え方が相対化される」といった言葉を目にします。なるほどその通りだと思います。しかし、もう少し踏み込んで言えば、そうしたことがそもそも可能なのは、私たちが「言葉」を話すことで、自分たちが暮らす「世界」を作り上げる一風変わった動物=人間だからではないでしょうか。 どれほどたどたどしくても、母語とは違う言語の中で、私たちを取り巻く事物の名を呼び、生老病死について、またそれらの間で起こる様々な事柄について語り合い、ともに考える時、世界がそれまでとは違った現われ方をしてきます。いつしかそうした会話の中で、新たに見えてきた景色の中で、ひとときでも安らうこともできている自分に気づけたなら、その時はきっと地球の途方もない大きさ、そして人びとの暮らしの目も眩むような多様性に新たに気がつく時でもあるでしょう。 勇気を持って、外国語の世界へ飛び込んでみてください。学び続けるにはもちろん忍耐が必要になります。しかし、みなさんが選んだ言語が、みなさんの忍耐への返礼として見せてくれる景色は、心を強く揺さぶるものに違いありません。
専門
哲学、政治思想史(特にイマヌエル・カント)