登場者プロフィール
くろすとしゆき
服飾評論家文学部 卒業塾員(1959文)。1961年VANに入社し、商品開発を手掛ける。アイビーファッションの伝道師として2025年スタイルブック『Mr. IVY』を出版。
くろすとしゆき
服飾評論家文学部 卒業塾員(1959文)。1961年VANに入社し、商品開発を手掛ける。アイビーファッションの伝道師として2025年スタイルブック『Mr. IVY』を出版。
インタビュアー:デーヴィッド・マークス
文筆家商学研究科 卒業2006商修
インタビュアー:デーヴィッド・マークス
文筆家商学研究科 卒業2006商修
1950年代のスクールライフ
──慶應に進学された理由をお聞かせください。
僕は普通部、慶應高校を経て大学に進学しましたが、自分で学校を選ぶような時代ではなく親の方針でした。普通部は当時、天現寺の幼稚舎に間借りしており、そこで3年間過ごしました。慶應高校は日吉キャンパスが2年前(昭和24年)に進駐軍から返還されたばかりで、戦時中黒く塗られた校舎は、米国人好みの真っ白になって返還されたようです。
──どのような高校時代を過ごされたのでしょう。
当時の慶應高校は3年生に予科練を経験した先輩がいる時代でした。「俺は1回死んだ身なんだ!」と怒鳴っていて怖かったですよ。クラスメイトのほとんどは体育会に入部しました。僕は運動が苦手なので、格好に惹かれてフェンシング部に入部。1年で逃げ出しました。
よく知られているとおり、日吉は戦時中、海軍の連合艦隊司令部が置かれ、地下壕が張り巡らされていました。僕たちの学生時代はわりと自由に出入りすることができました。蝮谷を下りると入口が3つくらい開いていて、真っ暗で気味が悪かったけれどよく探検しましたよ。
日吉には進駐軍のかまぼこ兵舎も残っていました。グラウンドの周辺の斜面にたくさん立っていました。大学1年生の時に、そこでの授業がありました。兵舎は鉄板でできているので、冬は寒く夏は暑かったのを覚えています。
学ラン時代の学生のおしゃれ
──慶應には米国プリンストン大学と重なるおしゃれなイメージがあります。プリンストンはアイビーリーグの中でもおしゃれな印象を持たれています。学生時代のファッションに関する印象的な出来事はありますか?
ないですね。当時は大学生にも制服を義務付ける戦前の校則の影響で、私服の学生はほとんどいませんでした。稀に着物姿のおしゃれな空手部員等がおり、袴姿に下駄を履いていました。
15歳くらい下の学年に俳優の中村雅俊君がいますが、彼は学ランに下駄で通っていたという話がありますね。彼らが学ランの最後のほうの世代だと思います。皆、学校のそばの仕立て屋であつらえていました。
僕の学ランは、父親が贔屓にしていた洋服屋で作ってもらっていました。父がスーツをオーダーするついでに「お前の学生服も作れ」と言われ、オーダーメイドの学生服を着ていました。
──生地は黒のサージ(背広等に用いられる毛織物)でしょうか?
そう。「サージ」なんて、よく知ってるね。強い生地だから、着続けているとお尻や袖がピカピカに光っちゃう。普通部、高校、大学で3着作りましたが、大学の学ランはだいぶくたびれてしまい、見かねた先輩にお下がりをもらったりしました。
──どのようにして洋服に興味を持ち始めたのでしょうか。
ガールフレンドができると皆身だしなみに気を遣うようになるからね。僕も高校の頃に「少し格好いい服を着たいな」という感じで興味を持ち始めました。と言っても当時のおしゃれは背広しかなく、それすらも"就職してから着るもの"という意識が強かった時代です。
──学ランと背広の間のおしゃれは?
そんなものないですよ。やがて紺のブレザーが出てきますが、カジュアルウェアなんてない時代だし、スーツの着こなし方すら誰も知りませんでした。高校時代に兄のお下がりの背広を着せてもらいました。だぶだぶだったけど、うれしかったな。ツイードのジャケットを初めて作ってもらったのは大学に入ってからです。
アイビーファッションへの扉
──1954年に『婦人画報増刊 男の服飾讀本』が創刊されます。くろすさんにとって重要な情報源となった雑誌ですが、発売当時は大学生ですね。
そう、男性向けファッション誌はまだ珍しく、とても話題になりました。刊行ペースも年4号から6号と次第に増え、月刊になる頃に誌名が『メンズクラブ』になりました。と言っても洋服に興味を持つ学生はまだ少なく、僕も軟派な友だちと服の話を少しするようになったくらいでした。
──テーラリング(仕立て)の勉強会をしていたそうですが、大学卒業後のことでしょうか。
慶應生の頃です。僕は大学に通いながら長沢節さんの教室でファッションのスタイル画も習っていました。そこで4歳上のイラストレーターの穂積和夫さんと出会い、洋服の世界にのめり込むことになりました。
穂積さんは当時すでに『メンズクラブ』でイラストを描いており、その縁で僕も原稿を書かせてもらいました。と言っても最初の頃に書いていたのはファッションではなくジャズの話ばかり。高校時代に仲間とジャズバンドを結成して進駐軍のキャンプでしょっちゅう演奏していたからですが。
──音楽を仕事にしなかったのですね。
バンドの仕事は学業に支障があったから(笑)。キャンプでの演奏は、ラーメンが1杯35円の時代に一晩1000円ももらえるいい仕事でした。のめり込みすぎて案の定大学を留年し、父親にさんざん怒られ、スタイル画に切り換えたというわけです。
──教室での人間関係がやがて、アイビーファッションブランドのVANに入ることに繋がるのでしょうか。
いえ、大学を卒業後に2つの会社で働きました。最初は慶應の先輩がやっていた着物の通販の会社です。僕はグラフィックデザインを勉強していた時期もあり、先輩のすすめで半年ほど、着物のカタログを作る手伝いをしました。おかげで着物のことも少し学べましたが、グラフィックでは食べていけないと感じ、銀座の山形屋に転職しました。父親には「慶應を出たのに洋服屋で働くのか!」なんて怒られましたが、それでも山形屋に勤めた1年間に、生地の知識等いろいろなことを学びました。
この頃に知り合ったのが『メンズクラブ』編集部にいた石津祥介さんです。ある時、彼が「編集部を辞めてオヤジの跡を継ぐ」と言うんです。「お父さんは何やっているの?」と訊くとVANの経営者だ、という。その時に初めてVANの石津(謙介)さんと"祥ちゃん"が繋がりました。祥介さんが「VANで商品企画をやる」と聞き、「僕も連れていって」と言ったのがアイビーの世界への入口でした。
──運命的な出会いだったのですね。
当時のVANは中年向けの製品が主流でした。1960年頃、ターゲットを若者へと転換するために息子を『メンズクラブ』から引き抜いたというわけです。VANがその後、若者を中心にアイビー旋風を巻き起こしたのは皆さんもよく知るところです。
米国文化のインパクト
──戦後の日本を席捲したアイビーファッションは今、海外で再注目されています。くろすさんらが1965年に出版した写真集『TAKE IVY』はバイブルとなっています。こうしたリバイバルについてどのように思いますか?
アイビーファッションがかつてあれほど過熱したのは日本だけでしょう。僕は一も二もなく米国に憧れたけれど、今の若い人たちは英国やイタリアのファッションもよく知っていますから、たくさんあるものの中でアイビーを見ているという違いはあるのでしょうね。
僕は小学5年生で終戦を迎えましたが、疎開先の那須で米軍のトラックの列に遭遇しました。キャンプ地の仙台に向かうために小学校の前の国道を通りがかったのでしょう。「鬼畜米英」と恐れられていた彼らが、かっこいいジープからキャンディーを撒いていったんです。それまで甘いものに飢えていた僕たちは、完全に米国が好きになってしまいました。
──米兵は当時、東京でも至るところにいたのではと思います。
わざわざ日比谷まで見に行きましたよ。駐留していた兵隊さんのピカピカのブーツに感動しました。米国の匂いのする所を探して回り、代々木のワシントンハイツで金網越しに将校の宿舎を眺めたりしていました。そこで初めてジーンズを見たのです。駐留兵の子どもたちが裾を折り返してはいていてね。白い裏地が印象的でした。
半生記『Mr. IVY』を出版
──昨年7月に出版された『Mr. IVY: Kros Toshiyuki Style Book』(小学館スクウェア)は、日本のアイビーファッションとともに歩んでこられたくろすさんの自伝とも言える内容ですね。
この本は、虎屋の黒川光博さんや株式会社アルカの久世泰雄さんなど、僕のアイビーの仲間たちにプロデュースしていただき実現しました。編集者の方々にもインタビューや資料の発掘を担っていただき、とても充実した本になりました。
──ファッションのメディアが雑誌からデジタルに変わる中で、『Mr.IVY』にはどのようなメッセージを込めたのでしょうか。
この本は若い人に向けて、というよりも、かつてアイビーに親しんだ世代に懐かしんでもらいたいと考えて作りました。出版パーティーには若い人も来てくれたけれど、彼らにとってアイビーは、僕らが大正時代の服に憧れるような感覚かもしれません。送り手としては「こんなものがあったんだよ」という感じです。
──中でも『TAKE IVY』の制作秘話はファッションの歴史的にも貴重です。この写真集は後に復刻され、英語版、韓国版も出版されました。米国では7万部が売れたと言われますが、この本の普遍的な価値に気付いたのはいつ頃でしょうか。
随分後のことです。この本は本場米国のアイビーファッションを日本の若者に広めるために、ハーバード大学等8大学のキャンパスライフを取材したものですが、渡米の目的はVANのPR映画を撮ることでした。林田昭慶さんのスナップ写真を見た『婦人画報』編集部の発案で、後から写真集を出版することになりました。
ですが、『TAKE IVY』は発売当時、思うように売れませんでした。ネガも残されておらず、復刻版や英語版、韓国語版は複写です。
──映画の16ミリフィルムは残っているそうですね。デジタルリマスタリングする話も浮上しています。
米国の人たちが今、この映画を見たら驚くと思います。と言うのも、1965年頃はアイビーファッションの一番良い時代だったからです。この直後にベトナム戦争への反戦機運が高まり、米国の大学はヒッピーカルチャー全盛になってしまいました。
VANは当時、全国各地でこの映画の上映会を行い、ファッションショーを実演しました。主に各地のVANショップの顧客が見に来ていました。
──各地での上映活動がVANのカルチャーを日本中に届けることになったのですね。
そうです。しかし、マークスさんが著書『AMETORA』(DU BOOKS)で書いているとおり、1965年当時、アイビーは不良のファッションとされていました。校則で着用を禁止するだけでなく、上映会に参加したり、下校途中にVANショップに寄ったりしてはいけないとする学校もありました。
アイビーが優等生のスタイルであることを知ってもらうために、『TAKE IVY』が出版された1965年に、築地警察署が主催し「アイビー大集合」という集会を開きました。若者約200人を集め、できたばかりの映画の上映会と講演会を行いました。石津さんが壇上から、アイビーが東海岸の伝統的な文化であることを呼びかけたことで、不良と呼ばれた若者たちも素行を改めるようになりました。
──今では市民権を得て、人気が再燃しているのは不思議な現象です。根強い支持を集めるのはなぜでしょう。
それは僕が聞きたい(笑)。アイビーと付き合って70年経ちますが、こんな時代がくるとは思わなかった。1つ言えるのは、かつての流行が基本になったということじゃないでしょうか。古くからあるスタイルだからこそ飽きられずに続いているのかもしれません。
アイビー全盛期の高揚
──くろすさんはVANで約9年にわたり商品企画に携わりましたが、アイビー全盛期とも言えるこの時代の変化をどのように感じましたか?
VANに入社したのは1961年です。東京支社の製品企画の部署に服好きが6人ほど集まり、自由な雰囲気の中で数多くの若者向け製品を手がけました。未開拓のマーケットで商品化したものがどんどん売れてとても手応えがありました。
ですが、会社の規模が次第に大きくなり、そういう自由さがなくなると、服に対する考え方も変わっていきました。なにしろ数百人の社員の生活を預かるわけですから責任は大きく胃が痛かった。結局、VANがアイビーからヨーロッパ志向に転換し始めた1970年に退職し、独立して「クロス・アンド・サイモン」を始めました。この時は本当に気持ちが楽になりました。
──同時期には『メンズクラブ』でもたくさんの記事を書いています。中でも「街のアイビー・リーガーズ」(街アイ)は同誌の人気連載でした。
あれは面白い仕事でした。毎月街頭でファッションスナップを撮り、1人ひとりの写真にコメントを付けるのですが、単発の記事が好評を博し、1963年から足掛け27年続きました。連載後期にはロケ地を予告するようになり、誌面に載りたい人が大勢集まってきました。
マクドナルド1号店がオープンした1971年に「松屋銀座前」と予告した時がすごかったのです。集まった人が歩行者天国をふさいでしまい、松屋が屋上を開放してくれることになりました。階段で上がってもらい、「はい次、はい次」と流れ作業で撮影しましたが、あまりの賑わいに後日、編集者が築地警察署に呼び出されたと聞きました。
──「街アイ」ではペアルックのカップルも多く取り上げました。
ある時、彼らの親から編集部にクレームがきました。「婚約者と違う相手と写っている」と。そんなこと言われてもね(笑)。それ以来、カップルは撮らないようにしましたよ。でも、コメントを書くのはとても面白く、モデルがお仕着せの服を着ているのとも違いそれぞれに個性が出ているので、僕も勉強になりました。
"本物"とは何か
──アイビーファッションの黎明期には、米国の"本物"への憧れがあったと思いますが、今「本物に触れる喜び」について、どのようにお考えでしょう。
もはや何が本物かわからなくなっていますよね。かつてのように「襟の高さは○センチ」「ボタンは○ミリ」と言っても、それが正解とは言い切れない。いまだにわからないので、僕は生涯本物探しの旅かなと思います。
──丁寧に作られているモノが本物というわけではないですか。
それを見きわめるのは大変だよね。パッと見てわかるものではないでしょう?その意味でファッションセンスは味覚に似ています。「味は三代」と言うけれど、食道楽のおじいさんや父親がいてようやく3代目の舌が肥えるのと同じように、おしゃれも3世代くらい時間がかかるものなのではないでしょうか。
──本日は有り難うございました。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。