登場者プロフィール
湯浅 綺宙(ゆあさ きひろ)
チアダンサー元NBAオクラホマシティ・サンダー・ダンサー理工学部 卒業理工学研究科 卒業塾員(2016 理工、2018 理工修)。2023年渡米。NBA オクラホマシティ・サンダーのチアダンスチームメンバーとしてファイナルの舞台を彩る。
湯浅 綺宙(ゆあさ きひろ)
チアダンサー元NBAオクラホマシティ・サンダー・ダンサー理工学部 卒業理工学研究科 卒業塾員(2016 理工、2018 理工修)。2023年渡米。NBA オクラホマシティ・サンダーのチアダンスチームメンバーとしてファイナルの舞台を彩る。
インタビュアー 牛場 潤一(うしば じゅんいち)
理工学部 生命情報学科教授インタビュアー 牛場 潤一(うしば じゅんいち)
理工学部 生命情報学科教授
テクノロジーで人の心を動かす
──湯浅さんは慶應に在学中の6年間、チアと研究を両立し、大手メーカーに就職後も製品開発とプロチームのチアリーダーの双方で活躍されました。最初は薬学部に入学されたのですね。
はい。薬学部に入学し、2年生で理工学部応用化学科に編入しました。もともと化学が得意だったこともあり、将来はテクノロジーを使って新たな医療をつくる仕事がしたいと考えていたのです。その後、より関心の強い分野で学べる理工学部に編入しました。
──その頃から骨太な領域に挑戦したい意欲があったのですね。
そうですね。自分の力で人の体験を変えたり、心を動かしたりといったことに強い興味がありました。それはチアを続けることにもつながっています。
──大学院も応用化学の道に進学すると思いきや、医療機器を開発している牛場研究室に入られました。学部時代の僕の授業がきっかけになったそうですね。
その授業は鮮明に覚えています。牛場先生は人と向き合ってテクノロジーで新しいことをしようとしておられ、その先の社会実装まで目指して研究されていることに衝撃を受けました。講義を聞き、これこそ自分がやりたいことだと思い、大学院で研究室を変更しました。
──薬学部と応用化学科ではケミストリーを勉強し、大学院から情報や計測といった工学的な要素が強い神経科学に移籍されました。そのことに不安はなかったですか。
ワクワクのほうが大きかったと思います。不安よりも「こんなことができる」という楽しみがありました。実際に研究室に入ると、大変なこともたくさんありました(笑)。
チアと研究を両立してこその自分
──湯浅さんはいつも自己管理をしながら計画的に学んでいるように見えました。研究室のメンバーとも融和し、自分の居場所をつくって成長していく印象がありました。チアは大学から始めたのですね。
入学と同時に、独立公認団体として活動しているUNICORNS Songleaders に入りました。高校にはチア部がなく、まったくのダンス未経験からのスタートでした。
──それも新しい分野へのチャレンジですね。チアは体力勝負で、競技団体ならではの組織文化もあると思います。研究と競技との両立は大変だったでしょう。
そうですね。課題や実験に追われ、時間と体力の勝負でした。
──牛場研究室でもほぼ毎日、メンバーが矢上キャンパスのラボに集まるので時間や場所の拘束が強かったと思います。ご自身の活動をどのようにマネジメントしていたのですか。
時間の管理はもちろんですが、「どちらもやってこそ自分」というマインドがあったので、両立するために周りへの理解を得ることも心がけました。チアの同期にも、まずは興味を持ってもらえるように「こういう研究をしています」と共有し、研究室でもチアの話を積極的にするようにしていました。
──研究室のリサーチもユニークな着眼点の結果を出していました。研究もしっかりやったからこそ、みんなが湯浅さんを応援したのでしょう。研究室で印象に残っているエピソードはありますか。
牛場研究室のメンバーは皆、とても生き生きしていました。牛場先生が外部の方々との関係を築きながら研究されているところにも刺激を受けました。いろいろな人からインスピレーションを得られるので、自然と頑張ろうという気持ちになれたのです。
よく思い出すのは、みんなで学食に行ったことです。研究以外の話からも刺激を受けられる良い環境でした。
──僕は研究室を交流の場にしたかったので、そのように言ってもらえるのはとても嬉しいです。
基礎研究の基盤の上に、テクノロジーの社会実装を目指す研究室なので、夢を語り合う時には「こういうプランで」と具体的に考える風土がありました。そういう仲間がいたからこそ、「私はこうしよう」と考える力や実行力が身に付いたのだと思います。
チアを全力でやりきる決断
──研究をしっかりやったことで、その後、パナソニックに就職し、プロダクトやサービスの製品開発や企画に関わるようになりました。就職活動ではどのような点を重視したのでしょうか。
2つのポイントがありました。1つは、自分がテクノロジーを使って新しい体験をつくることで人の心を動かせるような仕事ができること。もう1つはチアも本格的にやれることです。いずれアメリカも目指したいと思っていたので、仕事とチアを両立できる環境づくりを意識していました。
──パナソニックに入っていかがでしたか?
パナソニックから内定をいただいた後にガンバ大阪のチアリーダーのオーディションに合格したのですが、チアをやっていることやアメリカのチアに興味があることを最初からお伝えしました。それにより、"チアの人"として受け入れていただけたのはありがたいことでした。
──チアの活動に対して職場の理解があったのですね。仕事ではどのようなことにやりがいを感じましたか?
もともとテクノロジーの社会実装に興味があったので、実際に人が使っている現場に携われるのはとてもやりがいがありました。そこで出てくる課題をどう乗り越えるか、といったことに挑戦できるのも、恵まれた環境だったと思います。
──社内ではどのようなことを議論していたのでしょうか。
新規事業の部署にいたので、今までやったことがないようなことを考えてみようという話はよくしていました。例えば自社の家電をまったく新しいコンセプトで再定義するとどうなるか、また新しい機能を付けるとしたらどういうものがいいか、といったこともテーマになっていました。
──大きな実装力をもった会社で仕事ができる一方で、ガンバ大阪のチアチームという、国内でも華々しく活動する機会に恵まれました。アメリカを目指してチアのほうに舵を切る時、どのような葛藤があったのでしょう。
すぐに決められるものではなく本当に悩みました。社会の状況や制約を覚悟しつつ、最終的にチアを選びました。私は学生時代から研究や仕事とチアとの両立を本分としてきましたが、歳を重ねるとチアで大きな挑戦をすることが難しくなると思い、チアを全力でやり切ろうと最終的に決めました。
──日本で両立し続ける選択肢もあったと思いますが、そこで満足せず、退路を断つ決断ができたのは、どういうモチベーションがあったのでしょう。
ガンバ大阪に4年間在籍し、後半の2年はキャプテンも務めました。この時、本当にやりたいことをやり切ったイメージがありました。
その頃に知ったアメリカのチアは活動の幅が広く、地域とチームの発信に貢献する社会のロールモデル的な存在でした。Jリーグはまだそのレベルまで行けていないと感じていました。
アメリカに挑戦したいと思ったのは、日本のチアのさらなる可能性が見えたからです。現地の活動を知り、現場のリアルを学んで、最終的に日本にその学びを生かして貢献したいという思いがありました。
──アメリカではチアの役割がもっと豊かで、そこに飛び込みたいというワクワクする気持ちがあったのですね。
プロバスケットリーグ(NBA)やナショナルフットボールリーグ(NFL)のチアには、「アピアランス」と呼ばれる地域貢献の活動があることを知り興味を持ちました。ガンバ大阪チアに挑戦したいと思ったのは、かつてNFLで活動されていた方がディレクターを務めていたからでもありました。アメリカのチアのことを教えてくださる存在が身近にいるのはとても大きいことでした。
後がない状況で挑戦し続ける
──アメリカのチアに挑戦することを決め、オーディションに参加される中でさまざまな苦労があったと思います。
語学力やダンススキルに加えて大変なのがビザの取得でした。自分で弁護士を雇い書類を準備しなくてはなりませんでした。弁護士の知り合いもおらず、法学部出身の友人に尋ねたり、チアの先輩を通して紹介していただいたりしました。人のつながりの大切さを実感しました。
──オーディションを受け、NBAのオクラホマシティ・サンダーから合格を勝ち取るまでに、「この壁は大変だった」というエピソードはありますか。
オクラホマシティ・サンダーに合格する前に、すでに多くのチームで不合格になっていました。仕事を辞め、覚悟して来ていたので、この時期はとても辛かったです。後がない状況でやるしかない中でなかなか前に進めない、そんな状態が半年近く続きました。
──その間にいくつ受けたのですか。
片手では足りないほどです。ソーシャルメディアやウェブサイトに告知が出るのですが、オーディションは1チーム年1回しか行われません。日程が重ならず、私の挑戦の目的を果たせるチームを探して受けていました。
──一番遠い都市はどこまで行ったのでしょう。
東はインディアナ州、西はカリフォルニア州です。インディアナ州には日本からの直行便がない上、乗り継ぎのフライトがキャンセルになって空港に泊まるといったアクシデントもありました。
──初めて行く場所で不安と孤独の時間だったと想像しますが、苦労が実り、オクラホマシティ・サンダーのオーディションに合格します。どのように連絡がくるのですか?
結果発表の時はすごく緊張しました。チームからは「○月○日○時にインスタグラムで発表します」と告知があり、スマートフォンの画面をひたすら更新して待っていました。そのうちに「今年のチーム発表」の動画が流れ始めるのですが、自分の名は一向に表示されない。最後の最後に「Kihiro」と表示され、一気に感情が溢れ出して涙しました。
──それは鳥肌ものですね。ちなみにオーディションでは「ここがよかった」といったフィードバックはあるのでしょうか。
いえ、どのチームもありません。自分で分析するしかなく、不合格の時は周りの人の動きなどから「自分はここが足りていなかった」と分析するしかありませんでした。
マイノリティとして地元とつながる
──そうしてオクラホマシティ・サンダーのダンスチーム、サンダーガールズのメンバーとなるわけですが、どのような社会貢献活動をするのですか。
チームに入ってわかったのは、試合よりも地域での活動のほうが圧倒的に多いということです。「アピアランス」でダンスを披露することはほとんどありません。地域の商工会議所のイベントに参加したり、学校や病院を訪問して人びとを勇気づけたりと、いろいろなかたちで地域とつながります。想像以上に多くのことができると実感しました。
──湯浅さんの中で、チアの仕事の印象が大きく変わったのでしょうか。
そうですね。試合でダンスを披露することは活動の中のごく一部にすぎません。それよりもチームを代表してどれだけ地域とつながり、盛り上げられるか、というところが求められます。アメリカでは、チアがチームのアンバサダーとしての役割を担っていることを感じました。
それは私がまさにアメリカで学びたかったことで、その意味でむしろ期待以上のことが経験できたと思います。合格して1カ月もしないうちに参加した最初のアピアランスは、アジアの商工会議所のネットワーキングイベントでしたが、最初から目からウロコで、貴重な体験ができていると思いました。
──アメリカは公平やダイバーシティを理念としては掲げる一方、それと矛盾するようなシチュエーションもあるのではないかと思います。アピアランスに参加してどのようなことを感じましたか。
オクラホマはアメリカの中央部に位置し、白人人口が多い地域です。その中で、アジア系の方が「私も頑張ります」と声をかけてくれたり、子どもたちが笑顔で応援してくれました。マイノリティの中だからこそ、そこで頑張るアジアの人たちにインスピレーションを与えられたのはとても大きな経験でした。
スポーツで街が一体となる瞬間へ
──昨シーズンは6月に行われたNBAファイナルのコートに立ち、チームもチャンピオンに輝きました。その時の熱狂や興奮について聞かせてください。
正直、オーディションを受けた時には、サンダーがチャンピオンになるとは想像していませんでした。オクラホマ唯一のプロスポーツチームで、しかも優勝は史上初めてだったので街全体が本当に盛り上がりました。
みんなサンダーが大好きなので、普段からチームが勝てば盛り上がりますが、プレーオフに進出し駒を進めるごとに、街中がサンダーの話でもちきりになっていきました。街にはグラフィティアートが増え、レストランも特別メニューをサーブし、どこに行ってもサンダー一色。優勝パレードには、「オクラホマにこんなに人がいたなんて!」というほど人が集まりました。
スポーツを通して街が一体になっているのを実感できた瞬間でした。
──プロスポーツの本場で、街がドラスティックに変わる様子をその中の一員として体験できたのですね。ファイナルの舞台に立った時には目の前にどんな光景が広がっていましたか。
言葉で表せないほどの熱狂でした。私自身、夢の中にいるようなフワフワした感じだったところがあります。世界各国からメディアが集まり、現実と思えないほどの歓声が轟くという、普段とはまったく違うファイナルならではの雰囲気の中で踊れたのは忘れられない思い出になりました。
──ファイナル前後のアピアランスでは、街やコミュニティからはどのような変化が感じられましたか。
ファイナルの舞台が終わって数週間経っても、街全体のお祝いムードは続きました。みんな幸せそうで、ポジティブなオーラが溢れていました。アピアランスでもたくさん声を掛けていただき、ファンの方々との距離もさらに縮まったように思います。
──コミュニティがソーシャリー・グッドな状態であり続けることに、チアがすごく貢献していると感じました。今夏オクラホマシティ・サンダーを退団されましたが、今後の活動のイメージを聞かせてください。
アメリカでの経験を持ち帰り、スポーツと地域が一体となる姿を日本でも実現させたいというのが、私の最終的な目標です。このたび素敵なご縁をいただき、2026年からJリーグ・ベガルタ仙台にてチアディレクターを務めさせていただくことになりました。ベガルタ仙台は私がチアを始めるきっかけになったチームでもあり、私の原点での新たな挑戦に心が燃えています。日本でチアという観点、スポーツエンターテインメントという観点から、よりスポーツが根づいた街をつくることに、私の学んだことを生かしていきたいと思っています。
──湯浅さんの活動は日本のスポーツに貢献できることがいっぱいあると思います。応援しています。ありがとうございました。
(2025年9月26日、オンラインにて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。