登場者プロフィール
堀井 良教(ほりい よしのり)
その他 : 総本家「更科堀井」代表取締役社長、九代目当主文学部 卒業塾員(1984 文)。卒業後、家業の「更科堀井」に入り、そば作りを始め、父とともに一度廃業していた店を復活させ、蕎麦の名店へと押し上げる。
堀井 良教(ほりい よしのり)
その他 : 総本家「更科堀井」代表取締役社長、九代目当主文学部 卒業塾員(1984 文)。卒業後、家業の「更科堀井」に入り、そば作りを始め、父とともに一度廃業していた店を復活させ、蕎麦の名店へと押し上げる。
インタビュアー奈良 雅俊(なら まさとし)
文学部 教授文学研究科 委員長インタビュアー奈良 雅俊(なら まさとし)
文学部 教授文学研究科 委員長
2025/02/14
「更科堀井」の歴史
──堀井さんは、令和6年度の厚生労働省「卓越した技能者」(通称「現代の名工」)に選ばれました。まずはご受賞おめでとうございます。ご感想はいかがですか。
有り難うございます。「名工」は技術を支えてきた職人、着物屋さんなら染め一筋で歩んできたような人がいただける賞です。僕は大学を出てすぐに実家を継ぎ、現場に入って自分の家の蕎麦の技術を磨いていこうとやってきたので、今は社長でもありますが、ある意味職人的なところがすごくある。そこを評価されたのは人生のご褒美みたいな感じがして嬉しいですね。
──東京のお蕎麦屋さんでは初めての受賞だそうですね。「江戸蕎麦の伝統を大切にしながら、蕎麦の可能性を追求」した功績への表彰ということですが、更科堀井の歴史、更科蕎麦の伝統について教えていただけますか。
「更科堀井」の創業は寛政元(1789)年となります。もともと信州と江戸を行き来しながら、布の行商をしていたうちの祖先が、蕎麦打ちがとても上手かったそうです。そこで、信州の領主だった保科弾正から、保科のお殿様の上屋敷が麻布にあるので、江戸に出てきて蕎麦屋をやらないかと勧められて始めたのが最初なのです。
信州更級郡の「更」と保科の「科」をいただき、「信州更科蕎麦処」といって麻布十番で始めたのですね。
お殿様がスポンサーだからコネクションもたくさんあり、将軍家にもお届けできるようないいお客さんを御紹介いただいたようです。お殿様は暖簾をくぐって食べに来ることはない。だから全部、お屋敷へ持ち込むお蕎麦になる。持ち込むお蕎麦というのは、もりそばのような黒いお蕎麦だと、タンパク質が多く粘りが出てくっついてしまうので、製粉して細かい篩(ふるい)でふるって、白いお蕎麦を提供したのですね。
──それで更科蕎麦は白いわけですね。
そうですね。さらに、明治時代に四代目が「もっと白くしちゃえ」と、更科の篩のやり方や製粉のやり方を変えていった。そして今でもお付き合いのある石森製粉という会社とタイアップして「さらしな粉」を作ったのです。
当時、もりそば15銭の時に1円で売っていたというのだから相当な高級品です。今で言えば、もりが500円として3、4000円で売っているわけですから。でも江戸時代からのコネクションのお蔭か、華族の方々などに受けたらしく、園遊会などで400玉、500玉と納めたり、明治期に相当流行ったのですね。
廃業から復活まで
──高級路線が成功したのですね。
しかも茹でおきしてもさらっとほぐれるので遠くにも運べる、ということで大繁盛していたのですが、商売が上手くいくと放蕩息子が出てくるもので、私の祖父に当たる人がすごい遊び人(笑)。ライカのカメラを2台持っていたり、祖母の話だと、女性を連れて店に来て、店のお金を持ってそのままタクシーで熱海に行ったり。加えて出資していた銀行が恐慌で倒産し、昭和16年に一回店を潰してしまったのです。
しかし、名店でしたから、戦後、麻布十番の地元の方たちが「是非復興しよう」と資金を出してくださって復興したのが「永坂更科」で、今も商店街の真ん中にあります。そこに祖父も入る形となり、父も大学を出た昭和35年にその店に入ったのです。当時は高度成長期で、大量生産をして百貨店に出したりしていました。
しかし、繁盛はしていても、父は、「うちの蕎麦はもっと美味しかったんじゃないか」と思い始めた。家業として、堀井のお蕎麦としてもう一回復興し、昔からの本当に美味しいお蕎麦をやりたい、と思ったのですね。それで僕が大学を卒業する昭和59年に、今の場所に独立開業したのです。
──そこから再出発したということですね。
でも、「永坂更科」があるので、最初は全然売れなかった。しかし、戦前にうちから暖簾分けして独立した店に、昔ながらの手打ちや汁の取り方など江戸前の技術が残っていたことがわかり、あらためてそこに習いにいき、段々と店を整えていきました。
父と僕のやったことは先祖返りみたいなもので、大量生産へのアンチテーゼとして、昔ながらの仕事を復活しようとしたのです。一手間かけて江戸時代の自家製粉を取り戻したり、おつゆも長時間煮詰めたり、湯煎をかけたり、なくなりかけていた技術をもう一度掘り起こし、江戸前蕎麦を復活させた。それが評価されたのかなと思います。
──すごくいい話ですね。僕は、更科蕎麦は白くてきれいだからという理由で生まれたのかなと思ったら、もっと実際上の要求があったのですね。
もちろん上品さもあったと思うのですが、製法も複雑で高くなってしまうから庶民は買ってくれない。けれど、お殿様コネクションがあったので取ってくださるお客様がいらっしゃったのでしょうね。
──一時、堀井さんが築地の「築地さらしなの里」に行っていたのは伝統の技の習得ということなのですね。
そうです。そこと大森海岸の「布恒更科」に修業に行っていました。
哲学を学んで蕎麦打ちを修業する
──私が倫理学、堀井さんが哲学専攻で同期ですが、堀井さんは卒業してすぐに家業を継ぎ、お父さんと一緒に店をもり立ててきました。家を継いだ当時の心境はどういう感じでしたか。
大学院に残ろうかなという考えもあったんです。三雲夏生先生からも「どうするんだ、お前」とおっしゃっていただいたり。また、経済とかアメリカでMBA取得といった、現実的な学問をやりたい思いもあったのです。
そのあたりで迷っていたら、父から「お前、九代目なんだから使命があるんだ」みたいに言われ、「俺も存在価値があるのかな」と思い返したようなところがあったかと思います。
──いろいろな夢がある時期ですからね。お父さんから「九代目なんだから」と言われたときに感じたのは、この歴史を受け継がなければ、という使命感みたいなものですか。
あの頃はそればかりだったかもしれないですね。やはりこういう家に生まれて、自分が九代目ということの誇りはあったのかもしれません。かつて名店と言われていた店を復興するわけですし。そういう家に生まれてしまった、ということが自分の一つのアイデンティティみたいになっていたのかもしれないですね。
──慶應の哲学専攻に在学中の思い出はいかがですか。
結構本は読んだと思いますね。卒論がデカルトだったので、『省察』とかは本当にぼろぼろになるまで読んでいたし、フッサールなども結構ちゃんと読んでいたかなと思います。
図書館にこもって、割と楽しく本を読んだ思い出がすごくあります。今でも哲学書は読むんです。ベルクソンは去年までに全部読み直しました。
──どうしてまたベルクソンを。やはりフランス哲学なんですか。
ベルクソンが好きなんですね。小林秀雄がすごく好きだし、アランとかヴァレリーなどフランス哲学が結構好きですね。楽器を学生時代にやった人は、やはりその後も全然レベルが違うじゃないですか。それと同じで「学生時代に哲学書を読んでいたよ」みたいな、そういう得意技みたいなところがあるのかなと思います。
──哲学というのは、そういう意味では一生付き合える学問ですね。そしてその年代、年代でまた受け止め方が違う。
違いますよね。そういう哲学書を読める環境に4年間いたことは、すごい宝だなと思っています。
──昔は今と比べるとゆったりしていて学生の自主性に任せて、興味があれば何でも与えてくれたし、興味が出るまで待ってくれてもいた。
卒業後に、「やはり慶應というのはいいな」ということはありますか。
やはり商売をやっていると、すごくつながりの強さを感じますね。老舗の人たちには本当に慶應の方が多いですし、最初に会ったときから打ち解けられるところは確かにあります。
「東都のれん会」という老舗の会にも入っているのですが榮太樓總本鋪さんとか、山本海苔店さんなど慶應だらけです。なので、すっと入っていけるようなところがありますね。
──また、2月3日の福澤先生の御命日は、麻布山善福寺に多くの慶應関係者が墓参に訪れ、お昼になると「では麻布十番の更科堀井へ」というルートがあるようですね。
そうですね。鳥居塾長の頃からか、ずっと来てくださるようになりました。鳥居さんは日常的にもうちに来てくださって、それから前塾長の長谷山さんもずっと来てくださっています。一番奥の狭いところで「いいのかな、塾長をこんな狭いところに閉じ込めて」みたいな(笑)。やはり慶應の方が来てくれるのは嬉しいです。
変わるもの、変わらないもの
──令和の時代になると、やはり味の好みとか、あるいはお客様の層は変わっていますか。
まず素材が変わりますね。私が始めた頃の醤油と現在のものとでは、まろやかさやうま味成分が違う。昔の醤油は、卓上に置いておくとすぐ色が黒くなったじゃないですか。でも昔と同じように砂糖を入れていたら、すごく甘いおつゆになってしまう。醤油のうま味も強くなっているからです。
また、若い頃は自動販売機にお茶があるなんて考えられなかったですよね。昔は甘いものが御馳走で、自販機もチェリオとかコーラとか、甘いもの以外に金を出さないところがあった。世の中全体が甘いもの志向というか、カロリーを摂りたい時代だったと思うのです。
でも、今はもう、あんなに甘いものに対する嗜好はない。世の中の味覚も変わってきています。僕は自分の持っている味覚は、多分、父からもらっている。その核みたいなものはあるけれど、父と同じやり方では駄目な部分もあるわけです。だから自分の中の「美味しい」という基準に対して、素材が変わり、僕の体も変わったので、そこに合わせていくということかと思います。
だから、僕のおつゆで育っている息子は、これから10年後におつゆを違った味にしていくと思うのです。真ん中の部分は先祖から受け継いでいても、時代に合わせてどんどん変えていくところはあるのではないかと思いますね。
──変わらないものと、時代に合わせて変わっていくものがあると。
僕らは九代続いているので、芯の部分はあると思うのです。しかし、それは基準としつつ、「これを基準にもうちょっと甘くしよう」とか、時代に合わせてどんどん味も変えていくものだと思いますね。
──なるほど。今の話は、生き方にも通じるものもありますね。
江戸の味を海外へというチャレンジ
──「蕎麦の可能性を追求する」ということで言うと、堀井さんはこれまでもいろいろやられてきた。例えば、2015年のミラノ万博にも参加され、一時ニューヨークに店も出されていましたね。
今、和食がユネスコの文化遺産になって見直されていますが、それを世界に広めることを10年以上前からやっておられるのですね。
和食の海外への普及の最初のきっかけは、2010年、アメリカのCIA(カリナリー・インスティテュート・オブ・アメリカ)という料理大学で、「フード・オブ・ジャパン」という日本食のフェスティバルをやった時で、日本から日本料理、フレンチ、寿司、蕎麦、天ぷらなどを専門とするシェフが30何人行きました。
三國清三さんや服部幸應先生、力石寛夫先生がいらっしゃって和食のチームができ、そこから皆で政府に働きかけて、和食を文化遺産に登録しようという流れとなったのです。それで2015年に和食が世界文化遺産に登録されました。
──ミラノ万博へ行って蕎麦を打ったという話を聞いて、すごい話だなと思いました。
それもそのチームが中心でした。あれは食の万博だったので、世界の人に伝えよう、みたいな感じでしたね。
──海外の人にとって、蕎麦とはどういうものなのですか。
まだ寿司やラーメンに比べるとちょっと遅れているという感じですね。蕎麦というのは啜って食べるのが一つの魅力ですが、海外の方はなかなか啜れないということもあるし、小麦に比べてソバという穀物にまだ馴染みがないところもある。
ただ、ソバ単体で考えればグルテンフリーであったり、栄養価が高い。息子(堀井良光さん、2016環)は、慶應在学中は長谷部葉子先生のゼミにおり、コンゴ民主共和国でソバを植えていました。結実して収穫もできたそうです。中央アフリカの幼児死亡率の高さは、タンパク質とビタミンB1の不足によるものなので、ソバはそれを補える。しかも3か月でできて、やせた土地でも育つというところがソバの強みなのです。
──それはすごいですね。
ソバは栄養価は高く、荒れた土地でも育つので、ヌードルとしての蕎麦にも魅力はありますが作物単体としても可能性はあると思うのですね。
蕎麦の可能性を追い求めて
──面白い話ですね。最近はヘルシー志向だし、今、ヴィーガンのメニューもお店で出しているのですね。
そうなのです。もともとヴィーガンに興味があったのですが、不二製油さんという会社がミラコア(MIRACORE)という、植物性のものだけを組み合わせて鰹風味のエキスを作る技術を開発されました。これが蕎麦つゆのような濃いものでも合うのです。
江戸のつゆは、鰹節を煮詰めるのだけど、野菜出汁みたいなものは濃度が薄く、そばつゆのような濃い汁が今までできなかった。しかし、ミラコアを知ることで、「これが自分の求めていたものだ」というものに出会えました。やはり自分の中に課題意識があると、ヒントとなる出会いから「これは取り込めるな」となる。これは江戸前の技術を掘り下げていったからこそ気がつくところかなと思いますね。
不二製油グループの酒井幹夫社長(1983商)も慶應の一つ上の先輩で、連合三田会大会の時に、そのつゆで蕎麦を提供させてもらいました。
──なるほど、そうやっていろいろな意味で、蕎麦の可能性というものを追求しているわけですね。今はインバウンドのお客様は多いですか。
結構多いです。本店で言うと、今、売上の5%はインバウンドです。コロナ以前から、海外に動画で紹介されたりして、うちにはよく来ていました。大使館が多い土地柄というのもあると思います。
──これからこういうことにチャレンジしたいということはありますか。
蕎麦だけではなく、飲食業界自体、若い人たちがまだ入ってきてくれないところもあるので、「名工」として脚光を浴びたりすることで「蕎麦屋って面白いな」と思ってくれるような業界になるといいかなと思いますね。
技術だけではなく、海外に進出したり、ヴィーガンとかグルテンフリーという部分にも「ビジネスとして面白いな」と思ってくれればと。
今まで学んできたことで、「未来の種になるかな」と思うことを「何か面白そうだからやってみない?」と、次世代に渡していきたいと思います。
──「慶應義塾の目的」の中に「先導者」という言葉があります。お話からは、何か新しいことに挑戦し、それを先導している気概、誇りをすごく感じました。心から堀井さんはすごい人になったと思います。今日は有意義なお話を有り難うございました。
(2024年12月24日、三田キャンパス内にて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。