登場者プロフィール
設楽 洋(したら よう)
その他 : 株式会社ビームス代表取締役社長経済学部 卒業塾員(1975 経)。広告代理店勤務の傍ら、1976 年のビームス設立に参加。セレクトショップとして40 年以上にわたりカルチャーを発信。
設楽 洋(したら よう)
その他 : 株式会社ビームス代表取締役社長経済学部 卒業塾員(1975 経)。広告代理店勤務の傍ら、1976 年のビームス設立に参加。セレクトショップとして40 年以上にわたりカルチャーを発信。
インタビュアー本橋 涼介(もとはし りょうすけ)
その他 : WWDJAPAN編集部記者塾員
インタビュアー本橋 涼介(もとはし りょうすけ)
その他 : WWDJAPAN編集部記者塾員
2022/08/19
アメリカ文化に憧れた慶應時代
──まずは慶應義塾大学を選ばれた理由をお聞かせいただけますか。
小中高は東京教育大(現筑波大学)附属の出身で、周りは国立志向のクラスメイトばかりでした。サッカーやバンドが好きな軟派な生徒だったから自由闊達な校風の大学に行きたかったのです。
僕はこう見えて、1951年生まれで今71歳です(笑)。中高生の頃に洋画に目覚め、ホームドラマやディズニーを見てアメリカの自由さに憧れました。大学で言うとハーバードやケンブリッジではなくUCLA。慶應にもそれに近い気風を感じました。ですが、当時は学生運動の最後の頃で休講ばかりでしたので、晴れれば湘南へ行き、雨の日は雀荘に入り浸る学生生活でした。よく卒業できたと思います。
一方、大学では広告学研究会(広研)に入り、夏は葉山でキャンプストアをやったりしました。そこで横須賀の米軍キャンプの将校の子どもと友だちになり、キャンプで開かれるバザーの会場で初めてアメリカの文化に触れました。緑の芝生、白い家、GEの冷蔵庫、アメ車、大型犬、バスケットコート。「スニーカー」なんて言葉もなかった頃に彼らは見たこともないかっこいいバスケット・シューズを履いていた。衝撃的でしたね。僕も欲しかったけど、当時は売っている店なんてありません。その時の強烈な憧れがビームスへとつながります。
広研とテニス同好会の活動に熱心な大学生活で仲間も随分増えました。クリエーションの世界に憧れを持ち、卒業後は電通に入りました。何事も❝広く浅く❞の自分が力を発揮できるのはどこだろうと考えた時に行き当たったのが広告業界だったのです。僕はいろいろなことが得意でしたが、音楽もスポーツも超一流になれるほどではなかった。そこで、入社試験に合格するために友人と2カ月連絡を絶ち、新聞5紙を毎日読み込んでマスコミの世界を猛勉強しました。短期集中の努力が実り、何とか電通に入社できました。
──ビームスは設楽さんが電通社員時代にご家業の新事業として立ち上げたそうですね。
父親が立ち上げたダンボール箱の製造会社がビームスの前身です。高度成長期に業績が伸びたものの、僕が電通に入社する頃にオイルショックが起きました。事業を多角化することになり、洋服の小売を始めました。この時に親父が上手いことを言いましたよ。「今まではモノを包む仕事だった。今度はヒトを包む仕事をしよう」と。親父はおしゃれ好きでしたが、洋服に詳しいわけではなく、それなら僕が憧れていたアメリカのライフスタイルやファッションを扱おうと言い、「新光」という社名から「光」をもらってビームス(BEAMS)と名付けました。
原宿で6.5坪の店からスタート
──そして原宿にお店を構えられた。
ビームスを立ち上げた1976年当時、僕はまだ社会人1年目。物と情報が不足していた時代でしたが、電通にいたことでいろいろな新しい情報が入ってきました。勤務先の築地の近くに平凡出版(現マガジンハウス)があり、ある日、広研時代の友人と偶然会ったんですね。ビームスがオープンしたのは76年2月。ちょうど同じ年の夏に『ポパイ』が創刊され、僕は彼からファッションの情報をもらうことができました。
『ポパイ』以前はアメリカのファッションに関する情報なんてほとんどありませんでした。その友人から「アメリカでは❝ニケ❞という運動靴が流行っているみたいよ」と聞き、現地まで探しに行きましたが、それをナイキ(NIKE)と読むことがわかったのは店で売り始めてからでした(笑)。
アメリカで買い付けたスニーカーをたくさんバッグに詰めて持ち帰っていたのは並行輸入のはしりです。欲しいものがあると、まずそれを知っていそうな人を探す。「それならアメ横の○○という店か、福生に行けば手に入るかも」と聞いては走り回る。運よく手に入った時の喜びは大きかったですよ。
今でこそファッションのビームスとして知られていますが、スタート時は「アメリカンライフショップ」を冠していました。というのも僕は洋服だけでなく、米軍キャンプやホームドラマで見たアメリカの生活そのものを売る店をやりたかったからです。ビームスの1号店はまだラフォーレもなかった原宿の片隅のわずか6.5坪の店でした。そんなところから日本の若者文化を変えてやろうと思ったんですね。
──設楽さんがアメリカの文化から受けたインパクトはTシャツやスニーカーでは満足できないほど強かったのでしょうね。
そうですね。高校に進学した時、坊主頭からアイビーカットにして嬉しかった。エレキギターは買えませんでしたが、バンドメンバーとはロンドンストライプのボタンダウンで揃え、コッパン(コットンパンツ)にコインローファーという出立ちでした。まさにVANとコカ・コーラからアメリカを教わった世代です。僕はとても影響を受けやすく、浪人時代にウッドストック(音楽フェスティバル)があった時には長髪とベルボトムに変わりました。
ある時、UCLAのドミトリー(学生寮)を見せてもらえる機会がありました。狭い部屋でしたが、みんなバスケのユニフォームやギター、レコードを思い思いに飾っていてそこにはいろいろなライフスタイルがありました。ベニスビーチでは短パンとタンクトップでローラースケートをやっていて、これがアメリカか!と。こういう自由で開放的な生活を日本にもっていこうと一生懸命になっていました。
ビームスの最初の店はまさにUCLAのドミトリーのようでした。限られたスペースにジーンズやスニーカー、Tシャツを置き、売れるたびに買い付けに行きました。生活や文化を売りたいという姿勢は6.5坪の頃から変わらないビームスの軸です。
「昼の文化」が台頭した70年代
──原宿に出店したのはご家業の影響でしょうか。
わが家は新宿ですが、大手百貨店があり、小資本が出店できる余地はありませんでした。それに比べ、当時の原宿はまだ路地や小さい民家が残っていた。今表参道はスーパーブランドのメッカですが、あの場所からストリートの文化が生まれ続けているのは百貨店の不在も大きいように思います。
──この間、原宿でさまざまな時代の変化を見てこられたのですね。
僕はつくづく面白い時代を生きてこられたと思います。感受性が豊かな思春期に60年代を迎え、70年代に入ると「昼の文化」が台頭し始めた。それまでの風俗・文化は赤坂や六本木、新宿のディスコやレストランで夜生まれるものだったんです。
70年代に入るとベトナム戦争や学生運動が終わり、若者はスケボーやサーフィンに興じるようになりました。音楽もソウルやジャズからカリフォルニアサウンドへと変わり、世の中に夏の明るい光が差し込むのを感じました。1号店を原宿に出したのもそういう時代の風を感じたからでしょうね。
──さまざまな文化を目撃する中で、ビームスでは時代が求める価値にどのように応えてきたのでしょう。
店舗数が限られていた時代は限られた人に伝わればよく、とんがった店づくりができていました。ある程度の規模を超え、マスを相手にすると薄まる部分も出てきます。そこで忘れてはいけないのは、きちんとこだわりの品も置いておくことです。今、ビームスは海外を含め160店舗以上となりましたが、原宿の明治通り沿いだけで性格の異なる店舗を9つ構えています。ビームスの裾野を広げる一方で、感度の高い人たちにも別の世界を見せる必要があるからです。陳腐化しないための店づくりも同時に行っていたことが長く続いた秘訣かなと思います。
ビームスはアメリカ西海岸のライフスタイルを発信することから始めましたが、2年後には早くも東海岸のプレッピー文化へと流れが移り、僕たちもBEAMS Fを興しました。その後、ヨーロッパのファッションを扱うInternational Gallery BEAMS やレディースブランドのRay BEAMSを始めました。世の中の動きに応じた新しい試みはいつも自然発生的でした。
子ども服を扱う「こどもビームス」も展開しています。きっかけは子育て世代になったスタッフからの提案。でも、30年前に僕に子どもが生まれ、子ども服ラインを提案した時は全員から猛反対されたのです。ゴルフウェアもそう。僕に20年遅れてゴルフを始めた世代が今「ぜひやりましょう」という。20年前には僕の意見を却下したのに(笑)。社長の意見が通らないことはしょっちゅうですが、それはビームスが自分たちのリアルな生活とつながっている証拠でもあります。
リアルな生活とつながる店づくり
──スタッフを通して発信し続けるところもビームスの持ち味ですね。
2014年からは社員の暮らしぶりやインテリアを紹介する書籍『BEAMS AT HOME』をシリーズ化し、すでに6冊を出版しました。ライフスタイルを売るビームスならではの、いわば洋服の出ないカタログです。登場した社員は約750名。好評を博し累計30万部を突破しました。
僕自身、モノへのこだわりが強い人間です。以前は「モノからコトへ」と言っていましたが、2000年以降は「コトからヒトへ」に。まず自分たちが楽しむことを中心に置く。これからのビームスは「ハッピーライフソリューションコミュニティー」でありたいと考えています。明るくて楽しい社会現象を起こす集団、仲間に入りたくなるようなブランドを目指しています。
ビームスはスーパーブランドでもなければ、ファストファッションでもありません。いわば中間。中間がごまんとある中で重要なのは、ビームスがいいと思わせるブランディングです。
これはネットも同じです。ブランド名が頭に浮かばなければウェブサイトも見てもらえない。そういう時代に、❝コミュニティーブランド❞というものを考えました。これは1人のオーナーが小さい店に好きなものを集めていたビームスの原点でもあります。セレクトショップは自分の好きなものを好きになってくれる人が集まる十貨店でいい。会社の規模が大きくなった今、100人いれば100のビームスがあります。社員1人1人が「これが好きな人集まれ」と発信するわけですね。
僕がいつも社員に言うのは、これからの競合相手は同業者ではなくインフルエンサーだということです。彼ら彼女らは自分たちの趣味を生かしてブランドをつくり、自ら買い付けたものを売っていてそれぞれにファンもいます。その人のファンが5万人、10万人に増えたら僕たちの競合相手になる。それに対抗するには僕たちがインフルエンサー集団にならなければいけません。
「GAFAから世界遺産まで」
──コロナ禍の影響を受けながらも、その後すぐに業績を回復されました。独自のコミュニティーづくりや情報発信の賜物でしょうか。
そうですね。コロナ禍は予期せぬ出来事でしたが、それ以前からの人を軸にした施策が支えてくれました。もちろん業界全体で打撃を受けましたが、元に戻ることはないでしょう。数年先に起こったであろうことが前倒しになったと考えています。
コロナで唯一よかったのは、今までのビジネスの考え方では駄目だと気づき、スピード感をもって意識改革できたことでした。eコマースへのシフトはコロナ前からですが、DX化も推し進め、さらにVRやNFT(Non-Fungible Token)における可能性も探り始めています。異業種コラボは90年代から続けていますが、3年ほど前に「カップ麺から宇宙まで」と称し、日清のパッケージや野口聡一さんの国際宇宙ステーション滞在用被服のデザインを手掛けました。
さらにグローバルな市場を見据えた展開も始めています。日本国内の出店が落ち着き、物価上昇が進む中、日本のさまざまな魅力を発信するBEAMS JAPAN をはじめ、コミュニティーを海外へと広げる道を探っています。昨年は「GAFAから世界遺産まで」と言って、グローバル展開する企業とコラボしたり、伊勢神宮や善光寺の参道に期間限定出店もしました。
──ビームスの今年のスローガン「そこに愛はあるか」は設楽さんが自ら掲げたそうですね。エモーショナルなワードですが、設楽さんにとってどのような価値をもつ言葉なのでしょう。
「ハッピーライフソリューションカンパニー」というスローガンには、社員やビームスに関わる人が幸せになる会社にしたいというビームス創業時の思いが根本にありました。サービスや商品づくりもそうですが、今盛んなSDGsのための活動も本当に愛がなければ取り組む意味がありません。そういう僕の考えを社内に浸透させるために色々と考え、ひねりを入れたりしました。初めは笑われましたが、僕はそこにこそ真理があると思ったのです。
──ビームスは40年以上にわたり、新しいカルチャーを発信してきました。原宿から発信し続けることのこだわりを聞かせてください。
世界中のストリートファッションを見ても1番おしゃれなのは日本だと思うんですね。とくに東京は日本の象徴です。1989年に起こった渋カジ現象はそれまで海外のものを取り入れてきた日本のストリートが初めて生み出した独自のスタイルでした。原宿からはその後も裏原文化やカワイイ文化のように、新たなストリートカルチャーが生まれています。今ではスーパーブランドまでもがストリートの流れを取り入れるようになりました。ビームスは老舗ではありませんが、こうした変化の現場に長くいたことで、少しは貢献できたという自負があります。
実際にモノに触れる経験をしてほしい
──最近の若い人たちを見て、どのようなことを感じますか?
実際に色々な世界を見てほしいと思います。今はネットさえあれば海外に行ったり実物を見たりしなくても、それに近い経験や知識は手に入ってしまうでしょう。それでも、実物に触れるという経験を通して見えてくるものは違うと思います。実はフィルターバブルの外側にこそ大きなヒントがあったりもします。
僕は他業種の人と会う機会が多く、いつもさまざまな世界の流行に触れています。音楽業界やIT業界、おそらくママ友や女子高生の付き合いの中にもいろいろな流行りがある。そこから新たなスタンダードが見つかるんです。
面白いもので、89年に渋カジが流行った頃に「ビームス」のイントネーションが変わったんです。それまでは「ビ」にアクセントを置くのが正しい発音だったので最初はその変化に違和感がありましたが、次第に慣れていきました。女子高生言葉から「超~」が流行ったのと似ていますね。でもそういう流行がおじさんやおばさんに浸透する頃になると、中高生たちにとってはもう旬ではなかったりします。その現象はファッションにとても近い。マスに広がった時にはオワコンであり、ある種のスタンダードにもなっている。
──そこにも生き残りをかけた戦略があるということですね。
難しいのは広く流行したものから撤退するタイミングです。これから流行るものは感度の高い人を定点観測していればわかりますが、オワコンの見極めは本当に難しい。危ないのは売上のデータがはね上がる時です。町中に同じようなアイテムがあふれかえっていてもなおそれを追い続けると、感度の高いお客様が去ってしまうリスクもあります。
ですから敏感な人の定点観測と、逆にちょっと遅い人の定点観測が両方必要。あの人が手を出したらそろそろ終わりかなということも知っておかないといけません。僕はミーハーだからこの年代では早いほうだと思いますが、若い社員たちは「社長が買ったから、そろそろ引かなきゃ」なんて話しているかもしれませんね(笑)。
──本日は、有り難うございました。
(2022年6月15日、株式会社ビームス本社にて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。