慶應義塾

【小特集・関東大震災と慶應義塾】『智慧』に書かれた幼稚舎生の見た関東大震災

公開日:2023.08.21

執筆者プロフィール

  • 白井 文子(しらい あやこ)

    その他 : 元幼稚舎司書教諭

    白井 文子(しらい あやこ)

    その他 : 元幼稚舎司書教諭

2023/08/21

震災発生時の幼稚舎

昭和40(1965)年に刊行された元慶應義塾幼稚舎長吉田小五郎著の『稿本慶應義塾幼稚舎史』には、関東大震災時の幼稚舎の被災状況が記されている。当時三田に在った幼稚舎は幸いなことに屋根瓦の一部が破損した程度で大した損害もなく9月8日の始業式を迎えたとある。併し都内の混乱、交通麻痺のため、塾内の主任会議の申合せにより、幼稚舎の授業開始は10月1日に延期された。

そもそも明治7(1874)年、福澤諭吉先生の意を受けた高弟和田義郎が三田の慶應義塾構内の自身の自宅に学齢期に達した子等を預かり教育にあたったのが幼稚舎の始まりである(初めは和田塾と言っていたが明治13年頃から幼稚舎と呼ぶようになった)。

その幼稚舎は大正8(1919)年に永らく幼稚舎長を務めた第4代森常樹が去り、新たに幼稚舎の責任者となった小林澄兄主任(この時から舎長を改め主任と呼ばれる)の時代を迎えていた。就任早々小林主任は、当時の校舎の土台全部に根継修繕を加えたことに始まり、寄宿舎移転、新校舎設立と大正10年までに次々と三田の幼稚舎の施設整備に取り組んだ。これらの成果が幸いして震災の際に幼稚舎は大きな被害を受けずに済んだと思われる。

なお、幼稚舎生の被害状況は『稿本慶應義塾幼稚舎史』に次のように記録されている。

死亡者:5名、負傷者:2名、家屋焼失者:104名、住宅のみ焼失店舗現在者:17名、店舗のみ焼失住宅現在者:60名、店舗のみ全潰:2名、住宅のみ全潰:8名、店舗のみ半潰:2名、住宅のみ半潰:11名(在籍児童631名)(塾史編纂所「大震災関係書綴」より)

綴方雑誌『智慧』の創刊

小林主任は教育学を専門とする塾文学部教授であった。殊に新教育に精通しており、自己を表現する学科を重視し特色ある教員がそれぞれの長所を発揮した活動を行っていった。特に文学や綴方教育に熱心に取り組む先生方が多かった。全国で綴方運動を展開していた菊池知勇が幼稚舎へ転勤すると、及川全三や鮫島盛一郎など同志の幼稚舎教員と共に大正11(1922)年4月に幼稚舎の綴方雑誌『智慧』を創刊するに至った。

大正12年7月号発刊後、9月1日の大震災で印刷所が印刷不能となったために次号は翌13年3月号になり、ようやく発行することができた(発行は4月)。この号は大震災を記録するために編集され、震災についての作品が多数掲載された(以後、特集号と記す)。

『智慧』から見える幼稚舎生と大震災

「特集号」には1年生から6年生の震災に関する作品が散文と詩で併せて百篇近く掲載された。それらの作品の中から数点取り上げてみる(当時の学年とクラスを記す。敬称は略す)。

*「ヤケアトヲミテ」1B 太田 茂

(三越や白木屋は焼けてしまい、バラックでやってはいるがほしい物はちっともない。本当にもったいないことをした。気の毒な人たちへ心が痛む。)

「カワイソウニユウカンウリヲシテイルノヲミルトナミダガコボレル。ユウカンダケデハ、モウケラレナイダロウ。十センバカリホドモモウカラナイダロウ。ボクタチミタイニウチデゴハンヲタベラレルモノハホントニシアワセダ。フフクヲイウトバチガアタル。(後略)」

*「船の中で助かった」2K 波多 進

(家の中で遊んでいると急にびしびしと言い、前のレンガの家が一ぺんに僕の家にかぶさってつぶされてしまった。家族は無事だったが、そのうちに方々から火が出たのでお友だちの船に荷物を積んでもらい大川の方へ船を出した。大きなだるま船や荷物をうんとつんだ船は橋がくぐれず、そこで大ていは、皆焼けてしまった。)

「船の中に居ても火がとんできて船の中の人の着物についたり、荷物についたりしますので、それをけすのに大へんです。僕の眼の前へも、大きな火がとんできたときにはおどろきました。ちょうど僕がのっている船に、船火事をしている船が、近づきそうになりました。僕はその時、しぬかくごをしておりました。それがうまくまつすぐに下の方へながされて行きましたので、たすかりました。(後略)」

幼稚舎生は地震に遭遇した際、まだ夏休み中であったので家族の人と自宅や避暑地でそれぞれに楽しい日々を過ごしていた。想像を絶する恐怖の中で幼い1、2年生も必死に生き抜いてきた様子が伝わって来る。

*「東京の家へ帰るまで」 3K 八十島信之助

(九月一日は家族と大磯にいて地震に遭った。突然「グラグラ」とやって来た地震。頭の上からは壁土が雨のように降りかかり建具は一度に倒れかかってきた。あっちへひょろひょろこっちへひょろひょろしながら外に逃げた。幸い家族は無事だったが東京へ様子を見に行った兄から大火で焼けた所の話を聞き驚くばかりだった。九月十一日はとうとう軍艦で東京へ帰れる。港に行き、皆で軍艦『羽風(はかぜ)』に乗り込んだ。)

「船はどんどん進んで城ケ島の見えるところに来た艦は城ケ島のすぐ側を通るので島の上にある灯台がよく見えた。此所をまわると浦賀水道だ。(中略)とうとう品川沖に着いた。ここからは『雉(きじ)』という水雷敷設艦に乗りかえて芝浦の桟橋に行くのだ。(中略)僕達は水兵にだいてもらって、雉艦に乗りかえた。皆が乗りうつってしまうと、しずかに動き出した。十分もすると芝浦の桟橋に着いた。僕は早く見たい見たいと思った東京の土を此時ふむことが出来た。」

後に法医学者になられた八十島氏は「仔馬幼稚舎創立九〇周年記念号」で大震災の日々を長い綴り方にして『智慧』に掲載された喜びは大きかったと記している。いつか自分の子達に父親の体験を読ませたいと思っていたが出征中に『智慧』を紛失してしまったそうだ。この時代の方たちは本当に何と厳しい時代を生き抜いて来られたのかと改めて思い知った。

*「大地震に遭って」 3O 南 博

(家族で過ごしていた時、何だかゴウと鳴ったようだと思ったらグラグラと家がゆれ出した。庭に飛び出したが家はびくともしていなかった。隣の病院から先生方が患者さんを無事に僕の家の方に移すことができた。夜は外のテントで寝て二日目の朝を迎えた。)

「空はよく晴れて居た。しかし夜の中に雨がふったのか、草にはしたたるようにつゆがついて居た。僕はあちこち歩きながら、こんなことを思った。『僕の家はせまいはずだが、よくこれだけの病院の人たちが這入れたものだ。そして食物にも不自由はない。これは不思議だ』と。(中略)何にしても一日が長い。ふと学校のことを思った。『僕の学校は焼けたかなあ。それともつぶれたかしら、まさかつぶれはしないだろう』。(後略)」

後に社会心理学者になられた南氏は「仔馬幼稚舎創立九〇周年記念号」で幼稚舎時代を回想し「大震災は小学生にも虚無を感じさせるほどのショックを与えたものである」と記している。友と楽しく過ごしながらも心にはその様な思いが去来していたことだろう。

*「焼跡の秋」 4O  世津谷重恭

(焼跡にも秋が来た。東京の秋は物淋しい。空が暗くなり雨が降り出した。)

「雨はだんだん強くなる。しかしいつの間にか、やんで夕方となった。窓から外を見るとキラキラ光る道の土。木の葉がキラキラ赤い夕日に輝いている。ああ何だかあの光が淋しいような感じがする。思わずあの九月一日を思い出した。『ああホントに夢にもアンナことは思わなかった。三越も中はガランドになった。おおおそろしい大火よ。そこへまた淋しい秋がかさなってきたのだ』。木の葉は夕日に輝きながらちっていく。ああ人もあのように一度は楽しみ一度は苦しみもして世を去っていくんだ。(後略)」

移り行く日々の中で焼跡を見詰めながらこの数カ月間の日々を憂う作品も多く見られた。

*「大地震の思い出から」 5O 山本 登

(大地震の日。三時過ぎにお父様、間もなくお兄様も仕事から帰って来てこれで家内一同無事と決まった。庭の小山に逃げた際に池が泥水になって沢山の鯉が苦しそうにしているのに気づいた。余震が来るたびに鯉と鮒が混ざって一匹二匹と死んでいった。)

「夜があけて二日目になった。余震はまだときどきやって来る。この日も何匹か死んだ。それらの鯉や鮒は、兄さんと二人で、網ですくって、みんな裏の小川に流してやった。三日目の午後になって、何の気もなくすくった一匹の鯉をよくよく見た僕は、急に悲しくなって来た。それは池の中で一番大きくて、一番古い鯉であった。もう六七年ぐらいもかっていたので、僕は小さい時からかわいがっていたのだった。僕はその鯉を裏の小川まで持って行って流すとき、かわいそうでたまらなかった(後略)」

鯉の安否を気遣う心優しい山本少年。「仔馬幼稚舎創立九〇周年記念号」で担任の菊池知勇先生の思い出を綴り、温和でいつも生徒に話しかけるような教え方をして下さり「先生というものは親しめるものだ」という印象を持ったと書く。後年ご自身が慶應大学に奉職され、「いつも学生諸君と親しみたい」という気持ちを持たれた根源は、そんな幼稚舎時代の日々の思い出にあったのだろうと述べられている。

*「大地震について」 6O 安川五郎

(九月一日の地震は軽井沢で遭遇し、最初は浅間山の噴火が原因だと思った。地震は止まず電気もつかない夜を過ごす。翌朝、「東京大火災で死體累々としてその死者の数幾万になるか知れず。大なる建物も全部破壊せり」という報に接し、家族一同、東京出張中の父を案じた。幸い父の無事は確認でき、しばらくして東京に戻ったが、焼野原の風景を見て夢としか思えなかった。)

「自然の力は偉大なものだ。こんなになって見ると人智の力も脆いものだ。如何に文明になったとて自然には勝ち得ないのかしらん。こんどの帝都はどうしても火災と地震とを防ぐようにせねばならぬ。帝都復興は決して容易な業でないが、国民が務めてより以上立派な帝都を作らねばならぬ。」

六年生の中には天災に負けずに1人1人が精神を引き締め学ぶことに努め、「成長した暁にはより以上の帝都を建てよう」と力強いメッセージを述べた作品が複数あった。

最後に

この特集号は、“子どもの成長のための良き学習態度をつくる近道は児童の表現を目的とする学科、即ち、綴方や詩の製作物などによって自分のありし姿を見詰め成果の跡を反省することである。”という当時の先生方の『智慧』に懸けた願いが幼稚舎生の心に確かに育まれていることを実証した1冊であると言えると思う。困難なことにも怯まずに立ち向かう志を持った先輩たちがいてくださったことを誇りに思う。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。