慶應義塾

【特別鼎談】コロナ禍の不安とともに

公開日:2020.11.13

登場者プロフィール

  • 北山 修(きたやま おさむ )

    精神科医、九州大学名誉教授。白鴎大学名誉教授。南青山心理相談室顧問。

    1972年京都府立医科大学医学部卒業。医学博士。専門は精神分析学。作詞家としても活動。

    北山 修(きたやま おさむ )

    精神科医、九州大学名誉教授。白鴎大学名誉教授。南青山心理相談室顧問。

    1972年京都府立医科大学医学部卒業。医学博士。専門は精神分析学。作詞家としても活動。

  • 神庭 重信(かんば しげのぶ)

    その他 : 精神科医、九州大学名誉教授医学部 客員教授その他 : 日本精神神経学会理事長その他 : 日本うつ病センター理事長その他 : 栗山会飯田病院顧問

    1980年慶應義塾大学医学部卒業。医学博士。専門は精神医学。

    神庭 重信(かんば しげのぶ)

    その他 : 精神科医、九州大学名誉教授医学部 客員教授その他 : 日本精神神経学会理事長その他 : 日本うつ病センター理事長その他 : 栗山会飯田病院顧問

    1980年慶應義塾大学医学部卒業。医学博士。専門は精神医学。

  • 森 さち子(もり さちこ)

    総合政策学部 (医学部精神・神経科学教室兼担)教授研究所・センター SFC心身ウェルネスセンター所長その他 : 臨床心理士

    1991年慶應義塾大学大学院社会学修士課程修了。博士(学術)。専門は臨床心理学。

    森 さち子(もり さちこ)

    総合政策学部 (医学部精神・神経科学教室兼担)教授研究所・センター SFC心身ウェルネスセンター所長その他 : 臨床心理士

    1991年慶應義塾大学大学院社会学修士課程修了。博士(学術)。専門は臨床心理学。

2020/11/13

コロナ禍の不安をどう捉えるか

今日は「コロナ禍の不安とともに」というテーマをいただいて、オンラインで、こうして3人で集まることができました。

コロナ禍の不安というものを、3人それぞれの体験を通して、今、どう感じ、どのように考えているか、思い浮かんだこと、考えていることを言葉にするところから始めていければと思っています。

北山

私は、あちこちでこの話をオンラインでしているので、そこで話をしていないことをちょっと話してみると、誰と一緒に暮らしているかということで、このコロナもずいぶん感じ方が違うんじゃないかと思うんですね。

例えば、同じ家の中に小さい子がいると、その子をとにかく守らねばならない。あるいは、年配者は自分よりも若い世代が優先されるべきだなと思ったりする。それぞれの個人が、「私(わたくし)の人」として、どういう状態に置かれているかで、ずいぶん影響を受けていると思うのですね。

1人暮らしの方と、大家族の中にいる人とでは、コロナに対してずいぶん捉え方が違うなと。これはこれまでの経験から最初に話しておきたいなと思いました。

その部分は人に語りにくいんですよね。例えば、仮の話ですけど、病気の老人と一緒に暮らしていたら、家の中にウイルスを持ち込みたくないなと強く思いますよね。そういうことが本当は考え方に大きな影響を与えるんだけど、なかなか言えないところがありますよね。

それは、とても大切なことですよね。そのように「私」をベースに考えないと、机上の空論になってしまうようなところがあります。

北山

うん、触れにくいでしょう。皆、違うから。

神庭

読者のために、私のほうから総論的な話をさせていただいてよろしいでしょうか。

北山

はい、お願いします。

神庭

今回のコロナ禍の問題が通常の災害と違うことに僕が最初に気づいたのは、うかつにも、編集長をやっている日本精神神経学会の英文機関誌に、2月5日、あるレターが届いた時なんですね。当時、武漢市はロックダウンに入っていて、日本人を政府のチャーター機で次々に帰国させていた。そういった状況の中、空港で検疫に当たっていた検疫官が謎の自殺を遂げたというニュースが、ひっそりと流されました。

このレターの著者は災害精神医療の専門家でした。著者は、そのことに言及しつつ、この災害が従来私たちがイメージする自然災害と違い、シーバーン(CBRNE)と呼ばれる災害だと書いていたんですね。シーバーンというのは、化学(chemical)、生物(biological)、放射線(radiological)、核爆弾(nuclear)、爆発物(explosive)などに起因する緊急事態を総称する特殊災害です。

例えば東日本大震災などの地震や信濃川流域の水害の際のような、従来、私たちが想定し、対策を講じてきた被災者へのメンタルヘルス対策とは想定外の問題が待ち受けているぞということです。

その理由の第1は、この災害の原因が私たちの五感で感知できないことです。原因がウイルスだとはわかっていますが、その性質が当初は不確定で、不安や恐怖が強まりやすかったんですね。自分が感染するのではないかという恐怖だけではなくて、自分が誰かにうつしてしまうのではないかという不安や恐れを抱くことがある。

そうですね。二種の不安ですね。

神庭

2つ目は、この感染症を食い止めるための有効な医薬品がなかったので、接触機会を削減するためにソーシャルディスタンス、物理的距離を取ることを強いられました。

さらに外出自粛によるステイホームによって、多くの人々が、在宅勤務や在宅学習をしなければならなくなり、飲食店などは休業しなければならなくなった。普段の行動を抑制しなければならないというストレスに加え、日常活動の制限の結果として収入や生活を失って経済的困窮に直面する人たちがたくさん生まれてしまった。

このような何重もの苦痛が長期化すると、メンタルヘルスに甚大な影響が及ぶ可能性があります。

国連が5月13日に出したポリシーブリーフは、「COVID-19の影響とメンタルヘルス対策の必要性」でした。各国でメンタルヘルスの対策を頑健なものにしないと、やがて医学の力でコロナ禍が抑えられても、速やかに社会は復興しない。社会が復興していく上で、メンタルヘルス対策をしっかりと行う必要があるという。

普通はこういった報告はWHOから出てくるのですが、これが国連から出てきたというところに、メッセージの重みと、われわれが受け止めなければならない覚悟が含まれています。

「感染させる」ことへの不安

世界中の人々がこの新型コロナウイルスをめぐって、ある種、共通の感覚を抱いていると言われています。どんなに気をつけても、いつ自分が感染するかわからないという状況の中で、皆、共通した不安や恐れ、心配、当惑、不自由さを抱きながら、日常を送っていると思います。

また、不幸にも感染されて闘病中の方、それから感染して回復された方も体が完全に元に戻れたのかと、やはり不安や心もとなさをいつまでも抱く。さらに、感染したことで周囲から向けられる様々な感情、言動をめぐる不安や苦悩、傷つきも、やはり共通に抱いていると思います。

特に、この感染するかもしれない、あるいは感染したということをめぐる漠然とした不安に対して、まず自分の中で対処できる不安としてどのように収められるかということが1つのポイントかなと思っているところです。

北山

「感染するのが嫌」というのはもちろんベースにあるけれど、最近ではウイルスの形が見えてきたし、治療方法も少しずつ知見が重ねられてきているので、かかったときは仕方がないなと思っている部分もあると思うのです。

でも、今回のコロナでは何よりも自分が加害者になりたくないという思いがすごく皆さんにあると思うんです。自分が感染する不安というよりも、うつしてしまって、人様にご迷惑をお掛けするのではないかという不安です。この「加害者になりたくない」という不安は、多くの方が口にされる。

この国の文化の中では感染者となって人にうつしてしまう可能性を非常に不安がる。その意識のありようは私にも否定できないし、とても強いと思うんですよね。

ちょっとそこが、海外の方と違うところかもしれない。私は文化論者だからこういったところに興味があるんです。大阪大学の三浦麻子先生の研究で、国際間比較をするとコロナになった人間は自業自得だと思う人の割合が日本人は顕著に多いという報告がありました。感染者になると、この国では非常に孤独を感じさせられてしまう。何かすごく、この国であるがゆえの問題があるのかなと思っています。

人様にご迷惑をお掛けするという不安で、居場所を失ってしまうのではないか。そんな感じで生きておられる。同調圧力と言ってもいいかもしれないね。皆が健康の中で、私だけがかかってしまった時の不安は、私にもあるな。

「自粛」が生み出した複雑な問題

神庭

おっしゃる通りだと思います。相手を感染させてしまって、場合によっては死に追いやるのではないかという不安を抱える点が、普通の災害と大きく違うところです。しかも身近な人になればなるほど距離が近くなるので、相手を感染させるリスクが高くなる。

日本では「自粛」と強く言ってきた。それにより、「感染することも、させることも許さない」と言われているように感じた方が多かったのではないでしょうか。

緊急事態宣言解除後に、歓楽街での接待を伴う夜の飲食店での感染が盛んに指摘されていました。そういうところに行く一部の者が感染をまき散らしている。けしからん者たちだ、という非難が殺到したようです。

今、僕は大学を退職後、信州の田舎に暮らして、東京でも仕事をする二重生活をしているんですが、地方では、感染者の数が非常に少ない。

東京だと、毎日100人、200人の感染者が発生したという話を聞くと、「またか。引き続き気をつけるか」となりますけれど、地方に行くと、どこの市町村で何人が陽性となったと発表されます。つまり、どこの誰だか分かってしまうことがあります。

そうなると、感染者を出した家に石が投げられたり、張り紙がされたりして、その地域に住みづらくなり、家族で夜逃げしたという話も聞いています。人々の抱く不安が、「感染者はけしからんことをしたのではないか」という偏見と非難を巻き起こしてしまう。

コロナに限らず、性暴力にしてもそうですが、被害者にも落ち度があったのではないかと見なしがちです。

北山さんがおっしゃったように、同調圧力の強い日本社会で「自粛しろ」と言うことは、感染拡大に有効に働く一方、被災者の責任論を生む、見過ごせない問題があるなと考えています。

北山

神庭さんがそこまでおっしゃってくださった。これは、その病気にかかったというだけではなくて、多くが同じような生活をし、同じような顔をして、同じ言語を話して、同じ文化を共有しているところで、一人変わった者が生じると、その者を、もう異類視して、排除するという日本独特の同類幻想があると思うんです。

それが、今回の「PCR検査をして隔離」という言葉に感じられたんですが、一方、それは感染予防には有効なんですよね。だから、おとなしく自分の中の異類の部分を抑えている。夜の街に行きたいという衝動を。それで、行っている連中を異類視する。この仕組みが非常に有効に機能しているんだけれど、同時に人を不幸に追いやっている。この二面性を自覚したいと思うし、語り合いたいなと思うんですよね。

私が専門にしている精神分析学では、むしろこういった感じ方に蓋をするのではなくて、意識していこうという発想を持っています。意識したほうが対応がしやすいし考えやすい。皆で考えると、いい知恵が出てくるかもしれない。しかし、私たちは往々にしてそれを考えないようにしてしまう。つまり、タブーの心理が働くのです。

だから、今日は可能ならそういったことを語り合いたいなと思って、ここにいる次第なんですよ。

「ふるいに掛ける、掛けられる」自分

北山

森 先ほど、共通の不安というお話をしましたが、今、北山さんがお話ししてくださった「精神分析における感じ方を意識する」ことと非常につながっていると思う体験をしました。それは、人と直接話すことによって、自分が不安を感じていたのだな、と深く気づかされる出来事でした。

北山

この4月から、心理療法で対面での面接がままならない状況になりました。それでメールで代行してやり取りしていた方がいたのですが、3カ月ぐらいたってようやく、対面での再会がかないました。でも、感染状況はまだ注意が必要でしたので、「この先どうしましょうか」とうかがったら、その方が躊躇なく「来週も来ます」と。「ここは自分を取り戻せる場所だから」とおっしゃった。私はその時、ハッとしました。

北山

その方は公共交通機関をいくつも利用しながらいらっしゃるので、コロナ感染を恐れて、またメールのやり取りを希望されるのではないかと思っていたのです。ところが、実は私自身のほうが臆病になっていたということに気づいたのです。

北山

つまり、相手の方が不安や恐怖を持っておられるだろうと思い、慮ったような態度を取ったのですが、自分の中ではあまり強く自覚していなかった不安や恐怖に気づいたのです。それは、自分の中にあったのだと、実感した瞬間でした。

北山

人と直接、関わり合うことによって、不安だとか恐怖だとか、なんとなく口にしていたものが、自分の中ではどんなふうに体験されているかがはっきりと自覚されたのですね。

北山

なるほど、よくわかります。

もう1つ、大学では春学期は全てオンライン授業でしたが、100人ぐらいの応用臨床心理という授業で、1年生から4年生が混ざり合い、4、5人のグループに分かれて、「コロナをめぐって今、体験していること」を自由に話し合い、それをグループごとに発表してもらいました。

すると、キャンパスですれ違って「よっ」と声をかける友達を「よっ友」と言うらしいのですが、そうしたちょっと挨拶を交わすぐらいの友達に全く会わなくなったと言う。オンラインで約束してわざわざ会うのは、この人だからとか、この友達だから、と「ふるいに掛けられた」特別の人たちだけ。今まで少し気遣いしながら会っていた人や、遠ざけたいなと思う人には、会わないですむ世界が生まれたと言うんですね。

でも学生たちは、「ふるいに掛けている自分」というものを振り返って、いろいろなことを感じていました。ふるいに掛けるということは、自分も「ふるいに掛けられている」のかもしれない。それをめぐって、学生間で様々な、とても繊細な言葉のやり取りが生まれました。その中でオンラインではやはり心の交流が失われるという実感も語られていました。

学生たちは、選りすぐりの友達との、ちょっと偏った(?)オンライン交流に「これでいいのかな」と自問しつつ、それを素直に言葉にしている姿が印象深く心に残りました。

「リモート」によるつながり

神庭

リモートを余儀なくされた時代のメンタルヘルス対策について、1つ今、森さんから非常に貴重なご意見をいただけたと思います。

従来の災害で私たちが心のケアをする時は、被害に遭われた方の傍らへ出掛けて行って対応します。例えば、それが上手くいったのが、東日本大震災の時だったと思うんです。

東日本大震災では自殺者が急増すると皆予想したのです。確かに一部の被災地域では増えましたが、急増を防ぐことができました。誰が被災者かが明確でしたので、現地の保健所の保健師、あるいはソーシャルワーカーが、その地域の避難所や仮設住宅、さらには災害を免れた家々を全戸訪問し、ハイリスク者を見つけて手厚いこころのケアをした。全国から精神科医、心理職らのボランティアがその活動に参加しました。東北は医療過疎地なので、現在でもその活動は続いています。

このようなメンタルヘルス対策のシステムは、その後の熊本地震や各地で起きた豪雨災害などでも機能してきたんですが、今回は誰が被災者なのか、どこに被災者がいるのかが分からない。特定できたとしても、対面で援助することもままならない。

メンタルヘルス対策の世界でも、人と人との物理的距離を取りながら、どうやって心理的距離を縮めていくのかということが、大きな課題になっています。新たな技術のイノベーションとそれを適正に用いる文化を作り上げていく必要があると思います。

北山

そうですね。私は、オンラインで講義をしたり、あるいはウェビナーを活用して専門家の人たちと話をすることをコロナ以前からやっていたのですが、今回すごく注目されて、関心を持って参加してくださる人が増えてきているという手応えがあります。

リモートに接点を持たない人たちをどうするんだという問題はあるけれど、やっぱりこれに慣れておくことでカウンセリングらしきものや人との交流の感じを提供できる。リモートで皆さんと今、出会っているのも、何か強い手応えがあります。

神庭先生と九州でお目にかかっていた時よりも、何か「つながってる感」がある。私は正直言って、森さんの顔も神庭さんの顔も、こんなにじっくり眺めながら現実に話したことなんかなかった(笑)。

これは非常に大きなインパクトだと思う。テレビや新聞しかなかった時代ではなくて、オンラインでリモートの心理支援もできるというのは、人間の交流が多チャンネル化したということなんでしょう。

若い頃、僕は深夜放送をやっていて、深夜に若い人たちとつながることができたという思いがあるんだけど、今はまたオンラインで、何かもう1つ別のネットワークが開かれつつあるなという手応えはありますね。もう1つのバーチャル版カウンセリングルームというような、いろいろな可能性をここに感じています。

この移行期にオンラインでつながれるってほんとうに有り難いですね。今まで苦手意識を持っていましたが、その敷居を飛び越えてみると、こんなふうに世界が広がっていくのだと、実感しています。

でもそれによって、移行期だからこそ失っていると感じるものがやはりありますね。

北山

ええ。でも、その「むなしさ」を含めてここで話せることが大事だと思うんですよ。

そうですね。「失ったこと」を語り合いながら、失ったものをカバーしていく。喪失というのは非常に大きなテーマですね。新しいものを身につけつつ、今まで馴染んできたものを手放し、喪失していくということ。でも喪失したかなと思っていたものに思いがけなく再会できると、すごく嬉しい。そんなことを繰り返し体験しているように思います。

北山

私のオンラインの実践でもそうなんです。緊急事態宣言の時はオンラインで、そしてちょっと収まった時には出会えるようになる。そうすると、オンラインの時の体験と本当に出会えた時の体験が両方あって、あれはつなぎだったのかもしれないけど、つないでくれたことで非常に大事な橋渡しができた、毎週会えるというリズム感だけは維持できたという意義も感じることができる。この微妙な移行期を、とても貴重だと思うこともできる。

幻滅期をどう乗り越えるか

神庭

おっしゃったように、今、まさに移行期です。だからこそ大事な時期なんです。被災者は、最初に災害に遭うと茫然自失する時期があり、その後にハネムーン期というものがある。

この時期には地域やコミュニティで人々の利他的な活動、援助活動が目立つ時期です。政府からもそれなりの緊急の財政出動があったりする。その後、災害が長期間にわたったり、救えない方々がたくさん出たりすると、今度は幻滅期になる。

今はおそらくハネムーン期から少し時間が経ち、いまだ将来が見通せず、しかも経済不況がのしかかっています。幻滅期に備えることが大事です。

北山

そうですね。またちょっと文化論になるんだけれど、この幻滅へと向かう時期に考えておかなくちゃいけないのは、『鶴の恩返し』の話です。皆、人間のつもりでいる時に1人だけが傷ついた鶴になると、その者が退去することで人間の共同体を維持しようとする。これが同調圧力の典型例だと思うのです。

与ひょうがつうを、「鶴だ鶴だ」と言っているだけではなくて、近所にいる運ずや惣(そう)どという仲間までが、皆、「鶴だ鶴だ」と言ってしまうと、つうはいたたまれなくなって去って行ってしまう。そんなふうに異類視したり異端視したりして排除してしまうこの心理を、今、皆で自覚したほうがいいと思うんですよね。

自粛、自粛で我慢しているから、皆の中に何か憂さみたいなものがたまっていって、その時、1人目立つ者がいると、それに向けて我慢できなくなった気持ちをぶつけてしまう。それを受けた人が非常に敏感であると、私1人だけが問題なのだから、私がいなくなれば元の平穏がやってくるんだと思い込む。そういったことがこの幻滅期に現れやすい。実はわれわれ皆が傷ついた鶴なんだけど、1人だけが目立ってしまうと、その者にぶつけてしまう。

このようにはけ口を求めてしまう私たちの心のありよう、こういう心理を小学校から学んでおいてもいいのではないかと思うんです。夜の街に出掛けて行く人たちだけが悪いわけじゃない、むしろ私たちの中にある「夜の街」が大問題なんだ、そこに隠された鶴がいるんだということを、考えたいと思うんですよね。

医療関係者も「傷ついた鶴」になることがある。異類視されることがあるということを、私たちはある程度覚悟しておいたほうがいいですね。カウンセラーもはけ口にならないといけないのでね。そういった思いも引き受け、そこを持ちこたえることが、メンタルヘルスにかかわる者の重要な役割だと思うんです。

命の選別という葛藤

神庭

諸外国のような医療崩壊は日本ではかろうじて食い止めることができましたが、医療現場は極めて厳しい状況を迎えました。しかし、医療崩壊といっても、それが何を意味するのか一般の人はよくわからないでしょう。

諸外国の映像で見るように、医療崩壊した病院の現場では、レスピレーター(人口呼吸器)の数とそれを必要とする患者さんの数に大きな齟齬が生じて、廊下にストレッチャーの上に載せられたままの患者さんが放置されていた。あの現場ではトリアージという災害医療の手法が取り入れられているわけです。つまり、助けられないと判断された人たちが後回しにされる。それが医療崩壊なんですね。

平時には、医師は一人一人の患者に分け隔てなく最善の医療を行います。しかし、災害のフロントラインでは、最大多数の人を救うためには、弱者を切り捨てなければならないという事態に直面する。そこで現場の医師らは、マイケル・サンデル教授の講義で有名になった「トロッコのジレンマ」から目を背けることができずに、「道徳的トラウマ」を受けることになります。

実は、日本でも医療崩壊を予想して、早々にトリアージのガイドラインが作られていたのです。ガイドラインは医師を「道徳的トラウマ」や訴訟から一定程度守ってくれるかも知れませんが、そもそも命の選別はやむを得ない、とするこの論理については議論を深めるべきではないかと思います。

北山

トリアージのことは、そういう考え方があるんだ、ということすら知らない方もいらっしゃるでしょう。

医者や医療の従事者は、本当に葛藤しているということですよね。緊急時にトリアージをしなければならなくなったらどうしようかと。その瞬間に理性的に行動するための準備が必要だろうと思うんです。

メンタルリハーサルという言葉があるけれど、そのことを覚悟しておく、考えておくことが、ある程度メンタルリハーサルになればいいと思っています。これはとても大事なことですね。

話題を少し広げさせていただくと、緊急時に判断を迫られることは、医療従事者に限らず一般の人も経験することですよね。今思い出したのですが、だいぶ前のこと、80代半ばを過ぎたおばあさまが「お嫁さんと自分がもし同時に海で溺れたとしたら、息子はどちらに手を差し伸べるだろうかと考えてしまう、それを想像すると苦しいのです」とおっしゃっていたことが忘れられません。

非日常的な状況下、どのような判断をするのか。先ほど、学生が「ふるいに掛ける/掛けられる」というお話をしましたが、いろいろな形を変えて、様々に自分が何を選び取り、そして何を失っているのかということが改めて問われるのだと思います。

生か死を選ばなければならないような状況がいつくるかわからない。即座に重要な判断を下さなければならない時もあるのだということを噛みしめながら、一つ一つの小さな体験を積み重ねられればと思います。

北山

小さな問題からというのは、本当に私は大事だと思うんですよね。現実問題と連動する心理的な清潔意識で、潔く行動するということがすごい美学のようになっているこの国では、例えばスポーツ選手がうろたえたり、おろおろしたり、あるいは政治的な発言をしたりすることが、とても難しいじゃないですか。

つまり、何々の分際でそんなことを考えるな、みたいな無言のプレッシャーがある。それこそ同調圧力なんだけれど、私はやはり葛藤したり主張したり、異議申し立てを行ったり、個人の気持ちを表現したりしていいと思うのです。

医者だって悩んでいるし、心理学者だって苦しんでいる。潔くふるまわなければいけないというのは、私は非常に嫌いなんですね。もうちょっと醜く汚くなっていいんじゃないか。

割り切って生きているわけではない私たちの躊躇とか迷い、葛藤を、今だからこそ語り合えるというこの瞬間が、私はとても有り難い。これこそ、私たちのメンタルヘルスを風通しよくしていると思うんですよ。

コロナ禍の自殺者数をどう見るか

神庭

コロナ禍による自殺のことがあれこれ取り上げられています。ちょうど緊急事態宣言でステイホームの期間に入った4月には減ったと報じられましたが、7月、8月と連続で前年に比べて増えています。

例年3月がピークで4月からは上下しながら、ゆるやかに減っていくという傾向があります。8月は春より減る時期なんですが、警察庁の報告では1,800人を超えており、前年同月と比較して、男性が60人、女性が186人増えた。これは注目してもいい数字かなと思っています。

というのは、自殺は男性に多いのですが、8月に限っては女性が増えた。有名人の自殺が影響した可能性もありますが、非正規で働いていた方が、解雇に遭って、生活苦に直面したからではないかという説明もされました。

結論はまだ出せませんが、平成不況の時もそうだったように、自殺者は遅れて増えてきます。

北山

4月は神庭さんが出されたモデルで言えば、まだハネムーン期だったんだと思うんですよ。まだ希望があった。夏の高温多湿で感染が減るのではないかという期待があったし、日本人だから大丈夫なのではないかという期待もあった。でも、夏になってもコロナは消えず、逆に7月から顕著に増えていった。

神庭

そうですね。4月は支援活動も盛んだったし、政府も財政出動を躊躇しないというメッセージを送って、かろうじて心理的、経済的問題を抱えている災害弱者の方々が、死を選ばないで済んでいたのではないかなと思います。幻滅期を乗り越えるために、メンタルヘルス対策を強化すべきです。

北山

もう1つ言えば、私たちって「面の皮が薄い」と思うんだよね。だから、経済的に困窮してきたり、あるいは社会的な弱者になって後ろ指をさされると、社会の負担になっているんじゃないかとか、ご迷惑をお掛けしてるんじゃないかと、すごく自責の念や羞恥心や罪悪感が募ってしまう。国際比較でよく言われていますが、私たちは自己評価が普段からすごく低くて、心理的にも追いつめられやすい性格を持っていると思うんです。

私なんかも人前にあれだけ出て、下手な歌を歌って、と言われるかもしれないけど、でも同時に、どこで何を言われるかわからないという不安があるんです。ステージフライト(舞台恐怖症)みたいな、いたたまれない感じです。

私たちはそんなに強くないですよ。だから、今ひょっとしたら、社会的弱者、あるいは心理的な弱者にすごいプレッシャーがかかっているのかもしれない。役所に行って申請すればいいじゃないかと言うけれど、その申請の敷居が高い。

恥の文化と言われているけど、日本人的メンタリティと言ってもいいようなものが作用しているのかもしれないと思います。

AYA世代への危惧

神庭

人口が少ないために、思春期から若年成人、いわゆるAYA(アヤ)世代(15歳~39歳)と呼ばれる世代は対策が軽視されがちなんです。でも、実はこの時期には人生の大きな課題を幾つも乗り越えなければならない。

彼ら、彼女らは就学し、自立して職を得て、恋愛し、結婚し、妊娠・出産して、家族を作っていく世代です。多くの精神疾患がこのAYA世代に発症します。

お二方はこの世代が受けている影響について、どうお考えになっていますか。

普段、20歳前後の学生たちに接していて思うのは、冒頭に北山さんが「誰と一緒に暮らしているか」とおっしゃったように、どういう家庭にその子が育っているかがとても大きいということです。

自粛生活の中で、孤独や孤立を感じる時、家族をめぐる悩みを抱えている時、学生相談にSOSしてもらえれば、そうした学生とはなんとかつながれます。

でも、外に助けを求められない、今の状況を訴えられない状態にある学生たちが心配です。

北山

私は今、臨床場面でも、若い人に会うことは少ないんですが、彼らはひょっとしたら、高齢化した団塊の世代に比べて相対的に数が少ないから、社会から忘れられていくという状況が進行しているのかもしれないですね。

私たちは、この若い世代のことを、元気そうだからということで気にかけていないのかもしれない。個別のアプローチも含めて、情報を提供して、語り掛けていくということを忘れないようにしようと思います。

20歳前後の学生の感性には、ほんとうに心を動かされます。先ほど触れたグループディスカッションのように、非常に率直に、自分の体験を語ろうとする学生たちに出会うと、新鮮な気持ちになります。

そういう意味では、教育の中で学生たちが自分が体験していること、考えていることを、自由に語り合えるような場を提供するのが大事だと思っています。そうすると学生たちが自ずから動き出し、影響を与え合います。

授業では、様々な感性が動き出すように「心を耕しておこう」と語りかけます。すると、そういう言葉に学生は敏感に反応し、吸収していることが伝わってきます。

学生との相互交流の中で、瑞々しい感性が豊かになるようなふれあいを大切にしたいと強く思いますね。

大切にしたい「横のつながり」

実はここにいる3人は皆、小此木啓吾先生と深いご縁があったわけですが、小此木先生だったら、今のこの状況をどんなふうに感じられるだろうか、少し話してみたいと思うのですが。

神庭

小此木先生にはたくさんのことを教えていただきました。もっとも先生からは「君は精神分析家には向いてないよ」と言われてしまい(笑)、精神疾患の神経科学の道を進むように背中を押してくださいました。先生は多くの名著を残されましたが、一番印象に残っているのは『対象喪失──悲しむということ』です。

今回のコロナ禍の中で問題になっているのは、亡くなった方の葬儀で、ご遺体が感染源として扱われることです。例えば志村けんさんの逝去時がそうでしたよね。最後のお別れができない、つまり対象喪失のプロセスを進めることができずに悲嘆が遷延するかもしれない。

社会が復興に向けて動き出す時にも、被災者や災害弱者が経験したであろう様々な対象喪失への目配りと支援を置き去りにしてはならない、と先生はおっしゃるのではないでしょうか。

私も、小此木先生のことで、今何が心に浮かぶかと言えば、やはり対象喪失のことです。

今までの日常、あたりまえだったことを失ってしまったということ。その失っているということを認めるのは大変で、今、もがいている時なのではと思うのです。

すごく大きな喪失体験を今、世界中でしているのだと思います。その中で、私たちが一体何を感じ、何を体験しているのか。その喪失体験のプロセスを少しでも共有していけたらと思うのです。

一人一人の心の体験は非常に違うのですが、共通のものが浮かび上がってきたり、他の人の体験を聞くことによって、思いがけない気づきが生まれる。相手のものかと思っていたら、それは実は自分の中にあったものだと経験できる。そういう場や空間を大切にしたいと思います。

この「あたりまえ」を喪失した時代に、何をどう感じ、今をどう生き、それが今後にどうつながっていくか。小此木先生の精神分析的思考を想像しながら考えていきたいと思います。

北山

小此木先生という人のことを考えると、私がいつも思い出すエピソードがあるんですね。

それは学会のシンポジウムで、シンポジウムをやっているにもかかわらず、ラジオで野球観戦をしていた小此木先生の姿です(笑)。お互いシンポジストで壇上にいながら、僕の隣で、「今、巨人が勝っている」と言うんですよ。

何を私は言いたいのかというと、小此木先生は、「横のつながり」を作るのが上手いんです。学会などでも隣に座っていると、横から「あいつ、とんでもないやつだ、いつもは違うこと言ってるくせに」と話し掛けてくる(笑)。

もういろいろなことをおっしゃる。そうやって、横のつながりを作って、日本人が言うところの「和」というものを、無意識に作っていたと思うんです。

オンラインで、失っているコミュニケーションはそれだと思うんですよね。オンラインだと、目の前にいる人としかコミュニケートできない。横に誰もいないんだよね。これが普通の集団とは違う人間のありようを作ってしまっている。だから今失われているのは横のつながりだと思います。

人間のコミュニケーションって、目の前にいる人とのコミュニケーションと同時に、横の人と会話する、つながっているということで安心できるのかもしれません。それは、個人主義ではなくて、「われわれ意識」で、小此木先生は「WE」という言葉を使っておられたと思うんです。

今日、皆さんとは、ひょっとしたら横につながれているという感じがするのです。小此木先生の作った横のつながりを今、享受しているのではないか。今日は、私は自分の精神衛生上、そこがよかったと思っています。皆さんと横のつながりを感じることができたので。

とても充実した、そして心地よい時間を過ごさせていただき、有り難うございました。

(2020年9月28日、オンラインにて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。