慶應義塾

慶應義塾における教育研究の産業界への貢献──現代の実学とは?

公開日:2022.08.16

登場者プロフィール

  • 鈴木 哲也(すずき てつや)

    理工学部 教授

    鈴木 哲也(すずき てつや)

    理工学部 教授

2022/08/16

福澤諭吉と自然科学

理工学部から参りました鈴木でございます。今日は「慶應義塾における教育研究の産業界への貢献――現代の実学とは?」ということで講演させていただきます。「私にとっての福澤諭吉」ということを半分ぐらい絡めながら話していきたいと思います。

安田靫彦(ゆきひこ)の絵(「福澤諭吉ウェーランド経済書講述の図」)は、ここに当時33歳の若き福澤先生がいらっしゃるのだなあと、見ているうちに大好きになってきました。まだ『学問のすゝめ』も書いておらず、このときはそれほど有名ではなかったのだろうと思います。

慶応4年は慶應義塾(福澤塾)ができて10年程ですから、もう100人ぐらい学生がいるのかと思っていたのですが、わずか18人ということです。後ろの学生が上野のほうを見ていますが、私もこのときの慶應義塾の18人の中に入りたかったなと感じました。

池田幸弘先生のユーチューブのミニレクチャーなどを見て知ったのですが、フランシス・ウェーランドは、経済学者とありますが人文科学全般に秀でていた人で、「科学は、神が確立した法則を体系的に示す」ものだと言っていたとのことです。科学、そして法則という言葉、それから体系的に示すという言葉は、おそらく福澤が大好きだった言葉だと思います。福澤は自然科学分野では、ニュートンが非常に好きだったということですが、科学を体系的に示したのはニュートンだけです。

『学問のすゝめ』はこのウェーランドから影響を受けた。特にThe Elements of Moral Science(『モラル・サイエンス』)から大きな影響を受けていて、その抄訳の部分もある。モラルにサイエンスが付くのか、というのが私はいまだに疑問ですが、福澤は非常に道徳的に厳しい方でしたから、ウェーランドの経済書と『モラル・サイエンス』、そしてもともと素養としてあった儒教と三つ巴のような感じで『学問のすゝめ』を書いているわけです。ウェーランドの経済書は、2度目のアメリカ行き(1867年)の際に学生用として多数部購入したとのことです。

このころの慶應義塾のカリキュラムがどうなっているかを見てみました。福澤諭吉はウェーランド経済書講義を火曜日と木曜日と土曜日の朝10時にやる。それから、小幡篤次郎がクアッケンボス(カッケンボス)の合衆国の歴史の講義を月、水、金の同時刻にやっています。

クアッケンボスの「究理書講義」というのも行われていますが、この本は福澤の『訓蒙窮理図解』(1868)の参考書にもなっています。このほかにもコヲミング氏の「人身窮理書会読」などもあり、このころは文系とか理系という言葉はなかったと思いますが、かなり自然科学系が多い印象を受けます。

わが国最初の自然科学の入門書『訓蒙窮理図解』

福澤によるわが国最初の自然科学の入門書『訓蒙窮理図解』は、わが国初という割には、あまり読まれていない。しかし、目次を見てみると福澤の意図が読めてくると思います。例えば巻の一は「第一章 温気(うんき)の事、第二章 空気の事」とある。福澤がこのころ一番考えていたのは、産業革命がイギリスで起き、黒船が日本まで蒸気機関の力で来たので、その動力をより利用したいということではないかと思います。第一章温気の事は、「万物熱すれば膨脹(ふく)れ、冷(ひゆ)れば収縮(ちぢ)む。有生無生(うじょうむじょう)(自然界のすべてのもの)、温気の徳を蒙(こうむら)ざる者なし」とある。少し熱力学っぽいですね。ワットの蒸気機関とか、そんなことを意識しているのではないかと想像します。

第二章空気の事。「空気は世界を擁(とりまわ)して海の如く。万物の内外、気の満(みた)ざる処なし(空気のないところはない)」。空気を圧縮しながら、エンジンなどで蒸気を燃やしていく。普通はニュートン力学から入っていくのですが、福澤にとっては、まずこれが重要だったのでしょうか。

巻の二「第三章 水の事、第四章 風の事、第五章 雲雨(くもあめ)の事、第六章 雹(ひょう)雪露霜氷の事」は気象についてですね。当時は天気予報はなかった。だから、例えば子どもの頃中津で生活していると、急に風が吹いたり、急に雨が降って田畑が荒らされたり人が流されたりするのを目の当たりにする。それで、これは気象が大切だ、どうして雨が降るのだろうか、と疑問に思ったのでしょう。これは、学問のスタートとして重要なことではないかと思います。

しかし、当時の偉い漢学者に聞いてみると、空が暗くなって、雲が出てくると雨が降る、といった全く説明になっていないようなことを言う。それを何とか説明したいと思っていたのでしょう。「水はどんな器に入れても一様に平面になる」とか、「露が凝結して霜となり、雨が変化して雪となる。雨雪露霜と状態は異なるが実体は皆同じである」という説明は私もグッときてしまうのです。すごくサイエンティフィックな心を持っていらっしゃると感じます。

巻の三「第七章 引力の事、第八章 昼夜の事、第九章四季の事、第十章 日蝕、月蝕の事」になりますと、初めてニュートン力学の話が出てきます。「引力の感(かんず)る所至細なり、又至大なり。近くは地上に行われ、遠くは星辰(せいしん)(星々)に及ぶ」「日輪常に静にして光明の変なし。世界自から転(まろ)びて昼夜の分あり(太陽はいつも静かで明るさは変わらない。地球が自転していることから昼夜ができる)」。

福澤は科学についての実験も実際にやっていますね。『福翁自伝』に載っていますが、緒方洪庵の適塾で原書を見て苦労しながら、好んで物理や化学の実験を試みています。塩酸を製造したり、アンモニアを製造したりしています。体中が臭くなって犬にほえられるとか面白いです。「塩酸亜鉛があれば鉄にも錫(すず)をつけることができる」(『福翁自伝』)。このあたりは理工学部でも理解できる教員はないと思います。今はやっていないですから。鉄を錫で被覆する、鉄に亜鉛メッキをする実験をしていたのですね。

当時はガラス瓶などあまりないですから、お酒を買いに行って、飲み終わったら徳利を返すんですが、これを理科実験に使うので、飲み終わっても酒屋に返さないから、酒屋からクレームがきたとか書いてあるわけです。徳利に塩酸や硫酸などを入れて実験していた。

私から見ると、このように福澤諭吉はまず理科系の学問を学び、その上で政治思想など社会科学に入っていったというイメージが非常に強い。その証拠というか、最初にアメリカに行った時、アメリカ人が自慢げにメッキ(ガルヴァニの電気鍍金)を「おまえらはこんなことを知らないだろう? 見せてやる」と言うわけです。ところが福澤は「こっちはチャント知っている」と言う。「これはガルヴァニの力でこういうことをしているのだ」と全然驚かない。

一方、福澤は何に驚いたかというと、その社会のシステムが日本と全然違うことに驚いた。女性の地位が高いとか、ワシントンの子孫を誰も知らないといったことです。

自然科学によって知り得た世界は厳格な法則の世界だった。その上でいろいろな政治思想を考えていったということがうかがえるわけです。ニュートン力学は予想ができるわけです。例えばボールをポーンと投げる。この初期速度と角度がわかって空気抵抗もわかれば、いつどこに落ちるかわかるわけです。そういう考え方をもって政治思想に入っていたような気が私はします。

実学の捉え方

今日は「義塾の教育研究が発展、産業界に貢献するには? 人間福澤諭吉を探求すれば何かヒントがあるのか?」ということを考えていきたいんですね。福澤諭吉の思想というよりも、人間・福澤諭吉というものがこの2022年にはかなり通用すると私は考えています。ツールとして福澤諭吉はどう生き、どう考え、どう行動したかが、今の世に非常に手本になるということです。

実学にはいろいろな定義がありますが、「実」というのは虚学に対して実証的という意味で捉えられます。私が一番気に入っているのは「現実を作っていく力」という捉え方です。2022年にどうやって現実を作っていくか。つまり現代の実学ですね。現代ではイノベーションという言葉がよく使われます。イノベーションを起こし、社会を発展させ、進化することに直接寄与するのが現代の実学ということになるのかと思います。

私は東京工業大学の学部は無機材料というところの出身です。大学院では原子核工学というものを学び、亡くなった東京電力の吉田昌郎元福島第一原子力発電所所長は私の先輩に当たります。誰でもそうかもしれませんが、若いと世の中に疑問を持つことも多く、乱読をしていました。岩波文庫を端から読んでいくとか、中央公論社の「世界の名著」などです。その中にニュートンの『プリンキピア』も入っていますが、その頃は、そういった本を大体1日1冊のペースで読んでいました。私なりに目的がありまして、どうしてこんなに世の中は悪いのだろうとその頃は感じていて、社会というものに非常に疑問を持っていた時期でした。そしてジャン=ジャック・ルソーは私の一つの心の支えになっていました。

『学問のすゝめ』もその頃読んでいます。ですから私と福澤諭吉の出会いは20歳ぐらいの時です。岩波新書で小泉信三の『福沢諭吉』というものが出ていますが、これも印象に残っていて、その時は慶應義塾の塾長とは知らなかったのですが、最初に子ども時代、福澤諭吉と直に接した想い出が書いてあり、「羨ましいな」と思った(笑)。浴衣がけの福澤が自らの孫と一緒に信三少年と遊んでくれて、蚊が飛んできて大きな掌で自分の脛を叩き、血が散ったという描写など、非常に詳細に描いてある。

福澤と「浮世」

福澤諭吉の本、特に『福翁百話』を読んでいると、「浮世」という言葉がよく出てきます。浮世の沙汰も金次第とか浮世離れの浮世ですね。「浮」というのは苦しい、つらいという意味です。「憂き世」が本来の形でつらいことが多い世の中のことを言った。だんだん「浮世」に変わってきた。これは仏教思想で厭世的なわけです。

福澤には厭世観が漂っていると言っている人もいますが、例えばこんなことを言っています。「生まるゝは即ち死するの約束にして、死も亦(また)驚くに足らず」(『福翁百話』「人間の心は広大無辺なり」)。

福澤諭吉が、育ちが貧乏で身分が低かったことは、やはり非常に大きいと思います。そして頭がよかった。いろいろなものを見ているわけです。人間生まれる時は母を苦しめ、死ぬ時も病気で苦しむ。苦痛のあまり死を選ぶ時がある。意外とこの世のことを気に入っていないのだなと考えながら福澤の本を読んでいました。あれだけ西洋の影響を受けていながら、神の愛とか人間に生まれてよかったとか神に感謝するといった記述は全く出てこない。

例えば、「天道果して至仁にして博愛ならんには、難産の母には初めより子を産むことなからしむるに若(し)かず、病苦を以て人を殺し又常に徒に之を苦しむるの戯(たわむれ)をなさんよりも、寧ろこの人を出生せしめざるこそ仁の法なれ」(同書、「天道人に可なり」)。福澤の時代は今のように病院に運んで帝王切開などなかったので、お産は非常に難しかったのだと思うんです。苦しんでいる人を最初から出生させないことこそ憐れみだとまで言っているように、この世にいろいろ矛盾を感じていたと思います。これは私の全くの想像ですが、福澤諭吉は、自身はかなり長寿だったと思うのですが、このままならない浮世をどうしようかということを非常に強く考えていた人だと思うのです。

「浮世を棄るは即ち浮世を活撥に渡るの根本なりと知るべし」(同書、「事物を軽く視て始めて活撥なるを得べし」)。これは非常に意味がある言葉だと思います。福澤諭吉には道徳的な厳しさがある。そして自分でそれを実践している。学問も非常によくやる。けれども、最後の最後に「どうでもいいや」というところがあるのが魅力で、これが今の若者にウケるのではないかと思います。

命懸けで物事をやりきるとか、腹を切ってわびるというのはナンセンス。だから、この浮世の現実の世界で働いているのだからと、ある程度割り切っている。そうすると逆に浮世を活発に渡ることができるという逆説です。それで最後までやりきったのはすごいなと思います。

ニュートンからの影響

福澤は『福翁百話』(「前途の望」)で、「孔子は道徳の聖人、ニウトンは物理の聖人」と書いています。ニュートンがどんな人だったかを簡単に説明すると、本当に物理学者だったかどうかは疑問で、名著『プリンキピア』は日本語に訳すと「自然哲学の数学的原理」ということになります。自然を数学を用いて表現した。そこが以前の人とは全然違う。福澤がこの数学をわかっていたかどうかは疑問ですが、宇宙論などが『福翁百話』に出ているのは、ニュートンの影響ではないかと思っています。私が驚いたのは、いろいろなことに否定的な福澤諭吉が、ニュートンの厳密さが自然法則を体系化しているということ、「自然の法則は人間の味方」であり、法則を理解すればいろいろなことがわかるということを実践したことです。

孔子とニュートンのように知識を兼ね備えていれば、人生は幸福、社会は円満になるかもしれないと書いている。それで、人類の幸福、社会は円満になると言う。

小泉信三さんが、福澤諭吉について語っているCDがあります(『小泉信三 福澤諭吉を語る』慶應義塾大学出版会)。慶應の百周年の時の講演ですが、その中で、「先生はなぜ雨が降るのか知りたかった」と言っている。やはり小泉信三先生もこれを言うんだなと思いました。

もう一つ、この話はご存じの方は多いと思うのですが、この時の福澤諭吉が大好きなのでご紹介すると、『蘭学事始』という本があります。杉田玄白が書いたものですが、正本が火事で燃えてしまって、複写があるかどうかわからなかった。すると神田孝平という福澤の翻訳仲間が複写を湯島の露店で見つけたというのです。それで福澤諭吉は興奮した。『蘭学事始』とは杉田玄白の回想録、『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の翻訳の苦労話です。

興奮して、とにかく写させてくれと。それで皆でわっと写して、杉田家にまずは挨拶に行く。「この本は売れない、でも出版させてくれ」と頼み込んで出版するわけです。その時に序文(「蘭学事始再版の序」)を書いて号泣するわけです。福澤は金儲けだけだと言っている人もいますが、100年前に死んだ人の回想録で涙を流して号泣している福澤諭吉は、やはり孤独を引きずっているのかなと感じられる。

大学と産業界

1990年、ちょうどバブル期に私はアメリカに渡っています。これが私の産学連携に対する考え方を随分変えました。アメリカのケース・ウェスタン・リザーブ大学というオハイオにある大学に行きました。アポロ11号が月で採ってきた石を最初に解析して発表した人が私を呼んでくれたんです。この頃、日本企業は最盛期です。日本企業の人たちは、学会のためにアメリカに大人数で来て、バスをチャーターして皆、帰っていく。応用だけかと思ったら、当時の企業は基礎研究でもばんばんお金をつぎ込んだ。ここにいた教授は、日本企業というのはすごいな、敵わないよな、と話をしていました。

私はとにかく一回素晴らしい日本企業で働いてみたいと思いました。これはやはり実社会、実学の実です。そこで、特許とかプロ集団の中で仕事をしたい。インフラも優れている。産業界への影響という中で、生産技術を持っていることはやはり強いんです。開発だけ競争しているわけではない。

大学はこことどうやって戦っていくかという戦いです。産学連携というと、何か仲よくお酒を飲んで楽しく懇親会をやって、というイメージがあるのですが、全くそういうことではない。私は1993年、(株)タンガロイ技術研究所に入り、研究開発に関しては企業は大学より優れていると感じました。

この後、私は1996年に慶應に赴任したのですが、驚いたのは、矢上はその頃プレハブだったんです。びっくりしましたね。すごく狭くて装置も何もなくて釘のようなものが下から出ている。それで上の先生から、頑張ってくれたまえ、自由にやっていいよと言われた。この時点で正直、私はもう終わったのではないかなと思ったんです(笑)。

そして、2003年、NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)で、経済産業省のプログラムマネジャーなどをやらせていただき、国の科学技術支援の仕組みがずいぶんわかりました。そして2005年に教授になってから学部の運営などに携わるようになり、電子顕微鏡などいろいろなものを買うようになりました。

講義をしていると、メンタルが不調だったり、寝ている学生が結構いるわけです。私も現実逃避型なので、社会の現実はつらいねと話して、「そんなとき僕は電子顕微鏡で原子が並んでいるのを見ると癒されるんだ」と言うとぴくっと反応します。私はダイヤモンドを作っているのですが、専任講師の時、普通のペットボトルでは酸素が入ってきて炭酸が出てしまうので、それを防ぐために内側にダイヤモンドの膜をコーティングする技術を開発していて、いまだにやっています。ガスを入れて、コーティングすると、炭酸が外に出なくて酸素が入ってこない。

あとはそれの応用で、血管が狭窄した時にステントを入れる。しかし、広げたステントに、また血栓が付着してしまう。手術後はよくても3カ月したらまた具合が悪くなりましたというのは、そういうことなんです。そのために血が付かない材料をコーティングしました。

京都駅の下の高架橋のコンクリートのこともやっています。新幹線は東京オリンピックの前にできているので60歳を超えている。高架橋を全然変えていないから危ないんです。亀裂拡大やコンクリートの中性化防止の実証実験をしていました。このように身近なことをやっています。

境界を超えた学生たち

私が長い教員生活で、今日の教育研究でいいなと思った学生を3人紹介させていただきます。殻を破った3人の学生が私のところに飛び込んできたという経験です。

1人は今も文学部で考古学、石器を研究しています。石を科学的に分析し、2万年前の石を見て研究している女子学生ですが、私のところに飛び込んできて、文学部から理工学部のドクターコースに入り、ドクターを取って出ていったんです。すごく気が強くてめげないんです。「ジャーナル・オブ・ザ・アメリカン・セラミックス・ソサエティ」は一流誌で、普通の学生では通らないんですが、落ちても落ちても論文を出すのですごいなと。工学博士を取り、文理融合というテーマを実現したような学生です。

次に「一人医工連携」の学生です。慶應の医学部から私のところに、どうしてもものを作りたいということで来て、工学博士も取っていった。医学部で臨床もやって基礎もやって、工学部でドクターも持っている。一人医工連携と私は名付けました。

3番目は、理工学部で研究をしているのですが、所属は経済学部で、しかも司法試験に受かっている学生です。彼は非常に優れていて、塾高時代に私のところに来た。何があってもマイペースでやるんです。現在、まだ22歳ぐらいだと思うのですが、論文を高校のときから英語で書いていて、オックスフォードに行くことが決まっている。私は将来必ず慶應に帰ってこさせてね、といろいろな先生にメールをしています。

このとき思ったのが、KLL(先端科学技術センター)の所長とか研究連携推進本部の本部長をやっていても、お金が自由に動かせないことです。当時の常任理事に訴えても、こういう子を支援する金がないというわけです。これは大問題だと思うんです。それで困ってしまい、僕は「君、慶應義塾が嫌いになったんじゃない?」と言うと、下を向いて笑っていたのですが、彼はさすがで、某通信企業の偉い人のところへ行って、ポンと200万ぐらいもらってきた。でも、これは何とかしなければいけないなと思いました。

ルソーの『教育論』によれば、教育とはラテン語の「引き出す」、あるいは「導き出す」という語が語源です。本来その人が持っているものを引き出していく。これは少人数制ではない今の慶應義塾にはなかなかできませんが、やはり研究室に入ったらいろいろ指導をして、社会に出る前に社会と接するということが今日は大事なことです。

福澤先生も「学問脩業者の平均数を計(かぞ)うれば、唯費すのみにして所得甚だ満足ならず」(『福翁百話』「教育の価必ずしも高からず」)と書いている。学者の所得は高くないと(笑)。今も昔も変わらないなと思うのですが、私もどうしてこんなにドクターや学者が、安定しないのかということを、全国の工学系や理工系の学部長と一緒に経産省の基盤技術研究会というところで話しています。これは日本特有なことかもしれません。ドイツなどに行くと、機械系、ものづくり系でドクターを取ると、就職に全然困らない。日本の場合、大学に長くいると社会に出られないとか、いろいろな問題がある。これは何とかしないといけないと思っています。

産学連携という戦い

産学連携というのはバブルの前まではどうでもよかったんです。大学で何をしようが、遊んでいようがどうでもよかった。ところが、日本企業が駄目になってきて、みんな苦しんでいるのになぜ大学だけ遊んでいるんだということになって、1990年頃から産学連携が始まり、遅れて2000年に慶應義塾先端科学技術センターができ、一生懸命やらなければいけないとなった。それまでは企業と組んだりしたら汚らしいとか、いろいろ言われていたのです。

慶應が面白いなと思ったのは、慶応工学会という組織があることです。これは進んでいまして、昭和36(1961)年にもうできている。私も随分お世話になっていますが、慶應のよさというのはこういうところにある。

連携企業とどうやって戦っていくかというところが問題で、われわれの技術がどこまでこの実社会に通じるかということを考えると、ほとんどの人は通じないと思います。いやいや先生、こんなに契約をいっぱいもらって、100万、200万、お金が入っているではないですかと言うかもしれませんが、よく中身を見なければいけません。単に学生の人手が欲しいから100万円で使っているとか、国の資金で連携するので、企業と組まなければいけないといったものもあります。

やはり慶應義塾の中で何か大きな発明をして、企業のほうから一緒にやらせてくださいと言って、ある程度大きなお金をもらってスタートするという基本概念が崩れてはいけないのです。そうでないと逆に侵略されていることになります。これは戦いなんです。私は何回も味わっていますが、揚げ句の果てに組織が変わったので来年からは遠慮していただけますでしょうかと言って肩たたきに遭う。

ベンチャーというのは、いまだに定義がよくわからないのですが、事業を興す人、起業家、アントレプレナーでしょうか。福澤諭吉がこれを見たら「事業を興す人? 当たり前ではないか」と言うかもしれない。しかし、この考え方はこれからの慶應義塾には絶対的に必要だと思います。特に学生などが授業を受けながらベンチャーを興せるようにしていかなければいけないと思います。

私自身、2013年にKLLの所長となり、学生が企業開発者と話すことの大切さがわかりました。KEIO TECHNO-MALLという2,000人ぐらい集まる企業向けの研究発表があるのですが、学生が背広を着て、東京国際フォーラムでいろいろな企業の開発の人と話すわけです。これはとてもいいことだと思います。私が教えても駄目なことも、「○○の会社の人からこう言われました」となると説得力がある。また、自分の研究が認められた時の楽しさがある。

1+1=3にするために

研究連携推進本部長の時は、全教員がどんな研究をしているかを知らなければいけなかったのです。理工学部でもわからないのにわかるわけない(笑)。どんな教員がどれぐらい有益なことをやっているか。それで文理融合するわけですね。1+1=3になるということを実現していかないと慶應義塾は勝てない。下手をすると1+1=0になるんです。どういうことかというと、けんかをしてしまうことが往々にして起こる。また何となくお金が欲しいから合体すると、お金がなくなったら切れていくことがよくあります。そうならない連携が大切です。

一昨年からは三田の研究連携推進室本部でコロナと戦っていたのですが、一昨年の今ごろは全キャンパスが閉じていましたから、私も「慶應義塾は研究をやめない」というキャッチフレーズを掲げて、岡田常任理事(当時理工学部長)と一緒にウェブで会議ばかりやっていました。そして全学部協力の下にDX化をしていった。この時、いいなと思ったのは、全塾デジタル化を進めていくのに興味がある人が全学部にいたことです。これは大変面白かったです。全学部の意図を聞いてアンケートを取ったり運営会議などをやって、一つになれるんだと思いました。まさにラグビーのワンチームというやつです。

こういうことがいくつもあるといいなと思います。全学部は無理でも、2学部、3学部ぐらいが常に連携を組んでいないといけない。今、国から、慶應義塾としてどう考えているんですか、という要求が多いんです。これは嫌なんですね。これは、「では誰がそれを考えているんですか」ということになるのですが、急にチームを組むことはできないので、あらかじめ組んでおくことが必要です。

チームは簡単には組めないです。いきなり電話をかけて僕と研究しませんか、あなた、いい研究やっていますね、と言っても、教授同士ですから大きなお世話ということになる。これはある程度トップダウンがいいのではないかと思います。トップダウンをするには何が必要かと言うとお金です。それも、自由に使えるお金でなければ駄目です。慶應義塾にはこれがあまりない。これを今、執行部の方たちはより多くつくろうとしていると思います。例えば三田の経済学部や文学部の人に理工学部、医学部、SFCとあなたは何ができますかと問いかけて、良い提案であれば500万出す、ということを繰り返していけば必ず成功していくと私は思います。先立つものは自由に使えるお金だと思っています。

大学が浮世と勝負する時代

新たな技術を取り入れ、新たな価値を生み出し、社会にインパクトのある変革をする。猫も杓子もイノベーションと言っていますが、福澤先生も学問というのは物事を成すための技術にすぎない、学問が最終目的ではないと言っている。では何が目的なんだ。大学が物事を成していないのではないか。これももう一回考える必要があると思います。

大学の中にいて人間社会の実際に当たらないのは、俗に言う畑の中の水泳練習だと。私は、今は浮世離れした組織、つまり大学が浮世と勝負する時代だと考えています。これは連携とかいう生易しいことではなくて、勝負です。今までは負けていると思っていい。

藤原銀次郎さんによれば、福澤先生が言ったそうですが「今、諸君に向かって言わんとするところは、学生の実業である。必ずしも卒業の後を待たず、就学中、その業を実にするべきもの、甚だ多きの一言である」(藤原銀次郎『福澤諭吉 人生の言葉』)というのがある。なかなか面白いです。意外と慶應義塾はこの2022年、ウェーランドの時代に戻っていくような動きをしているのではないかと私は思いました。

やはり大学が病院を持っているということは強いと思います。これは浮世離れしていない。世間と一番接しているんです。受付に行くといっぱい一般人がいて、これこそ浮世です。ここでの情報はすごく大切です。病院をベースとした医学・薬学の研究はどんどん進めていったらいいのではないかと思っています。

また、文理融合で日常生活に付随した身近なものをやっていかなければいけないなと思います。ウェーランドの時代のカリキュラムを先ほど言いましたが、文理融合です。現在も例えば心理学などを見ると、意外とみんな集まってうまくやっているなというイメージがある。理系も経済、商学部と連携したり、そして法学部からの助言は必要だと思っています。

結局、自由に使えるお金が重要になる。国からの資金では自由にできないですから。そして、1+1=3をいくつも作っていかないと、勝手にやらせておいたら1+1=0になって、自己崩壊していくかもしれない。どこかがリーディングしていったらいいと思います。

福澤諭吉は、「人間の心掛けは兎角浮世を軽く視て熱心に過ぎざるに在り」と言い、自分の身も家も妻子も軽く視てこそ、水や火の中に入る勇気が生ずる、「浮世を棄るは即ち浮世を活撥に渡るの根本なり」と言うわけです(『福翁百話』)。浮世のことを軽く見ることは、やはり重要だと思うのです。重く見すぎて、失敗すると必ず隠しますよね。そういうことが増えると、大学にとって非常によくないと思っていて、失敗しても「いいんじゃないの、これは失敗だよ」というようなことがあってもいいと思います。

「人間福澤」に学ぶ

「福澤思想、人間福澤は、2022年の浮世で通用するか?」ということです。1901(明治34)年、福澤先生が亡くなり、終戦まで45年ぐらい闇の時代のような軍国的な時代が続く。終戦後、ちょうど45年たって、福澤研究が復活してくるような感じがします。

そして、さらに45年がたち、ちょうど1990年頃で歌謡曲も終わりました。大体時代をけん引した歌はもうここで出なくなった。そしてここから、私にしてみれば闇の時代がずっと続いているわけです。思想的にあまりないんです。だから、どうしたらいいんだという時、私はこの福澤思想は非常にいいのでないかと思っています。あまり宗教じみていないですし、非常にしっかりしていて、さっぱりしている。

福澤思想というのは体系化されているんです。だから扱いやすい。ある程度理解すると、いろいろなことを福澤先生だったらどう考えるかなと考えることができる。これが重要だと思うんです。例えばコロナの時、福澤諭吉だったらどうしているかなと思うんです。家で休んでいるかというと、絶対そういうことはないと思います。やはり浮世の言動の手本になることをするのではないでしょうか。

やはり若い時に福澤諭吉を知ってもらいたいなと思います。いろいろな人に聞くと、年を取って引退した人がもう一回、『学問のすゝめ』を読み返したりしています。それはそれでいいのですが、もう少しこれからの人たちが浮世を渡るための道具にしてほしいなと思っています。

藤原銀次郎さんが、福澤先生を民衆化するべきだと言っています。「人間臭いな、この人も」と言いながら学んでいくと、大学の産学連携だのベンチャーに対する心がけとかも変わってくるのではないか。失敗して落ち込む時、福澤先生だったら、まあいいや、大したことないや、そう思うのではないかと思うんです。

福澤諭吉という芯があり、そこに自然科学が加わり、適塾時代辺りに人間が形成されてきた。この上に『学問のすゝめ』とか『西洋事情』とか『文明論之概略』がのってくる。これがやはり福澤諭吉に近づく妨げになっていないか。どうせ昔のことではないか、なぜ西洋のことを今さら読まなければいけないのかと。なので、この自然科学の素養と福澤諭吉の芯の辺りだけを上手く取り出して2022年に適用していけば、十分通用するのではないかと私は思っていて、今日は福澤諭吉を論じさせていただきました。

福澤諭吉は何と戦っていたのか。別に新政府と戦っていたわけではないですし、生活と戦っていたわけではない。私はやはり、浮世ということだと思うんです。福澤は、人間にはどうにもならないもの、死んでしまうとか苦しいとかどうしたらいいんだとか、そんなことと戦っていたように思います。そして、100メートル走を突っ走った感じです。

今日の講演は私の推測も随分混じっていますが、慶應義塾の産学連携とかベンチャーに福澤思想を入れ、何とかお金を稼ぎながら現実に持っていきたいと思います。どうも有り難うございました。

(本稿は、2022年5月13日に三田キャンパス北館ホールで行われた福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会での講演をもとに構成したものである。文中の福澤諭吉の原文は『福澤諭吉著作集』(慶應義塾大学出版会)による。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。