執筆者プロフィール
住吉 朋彦(すみよし ともひこ)
研究所・センター 附属研究所斯道文庫教授住吉 朋彦(すみよし ともひこ)
研究所・センター 附属研究所斯道文庫教授
近年、大学の附属研究所斯道文庫(しどうぶんこ)(以下、斯道文庫と略称)では、重要な蔵書の寄託受入れが相次いでいる。
寄託とは、文庫や図書館、博物館などで行われている文化財保管の1方式である。寄贈とは違い、根本の所有権は原蔵者が保持したまま、管理と活用の権能を、他機関に依託する方法で、個人や寺院などのもつ文化財の保全を、よりよく行うために選択される。斯道文庫では現在、4件ほどの寄託を受入れているが、いずれも所蔵者と、学校法人慶應義塾との間で契約を交わし、斯道文庫における管理活用の条件を定めている。
最も新しく、2024年12月に発効したのが、標題にある建仁寺両足院(りょうそくいん)(以下、両足院)蔵書の寄託である。両足院は、臨済宗の中核をなした京都五山を代表し、学問の一大中心として知られる塔頭であり、日本中世の歴史や言語、文学、そして禅宗史に関心をもつ専門家ならば、知らない者はいないほどの、重要な蔵書である。
2025年2月、京都から東京に、蔵書の移送を実施したが、約200函に収められた約3000部9500点の書籍が、土蔵の上層一杯にひしめく様子には、蓄積時間の醸し出す存在感が滲み、1本1本の含み込む、書籍文化の多様性を体現していた。
斯道文庫では、原本受入れの後、最小限の仮整理を終え、2026年4月に、その暫定公開を始めた。当初の予想を超え、週ごとに複数の研究者・グループが閲覧に訪れている現状は、学界における注目度の高さを証明している。
その一方、整理した書籍の多くが傷んでしまっていることは、私たちの抱える大きな問題の1つである。文化財保全の観点から、傷んだ書籍原本を、撮影や閲覧に供することはできない。しかし研究や教育への活用を本旨とする大学としては、将来の全点公開と発展的研究に向け、その厚い壁を何とか越え、蔵書を開いて行かなければならない。
さて、現在のところ、原本の調査閲覧は、専門の研究者に限って受入れているが、その価値を学界だけに止めておくのはいかにも惜しい。そこで、塾生を含む内外一般の方にも蔵書の実像を知って頂くため、慶應義塾ミュージアム・コモンズ(以下、KeMCo)と共同で、2027年3月から5月にかけて、両足院蔵書の特集展示を行うことになった。こちらは少し先の開催となるが、それでは待ち切れないとばかりに、「両足院蔵書 斯道文庫寄託記念 碩学──建仁寺両足院歴代の学問」と題するプレイベントを、2026年8月1日(土)、3日(月)に開催することとなった。詳細はKeMCoイベントページをご覧頂きたいが、ここでは、そのエッセンスを紹介してみよう。
両足院蔵書中、もっとも古い書籍は、大治4(1129)年書写の密教の儀礼書か、北宋末に中国で出版され、紹興32(1162)年に印刷された、大蔵経本の『大般若波羅蜜多経』巻326であろう。朝鮮半島の書籍にも、高麗高宗33(1246)年刊行の版経があって、12、3世紀から20世紀に及ぶ、日本、中国、朝鮮の書籍が含まれている。大半は和本、つまり日本の刊写本であるが、唐本、韓本の数も少なくない。
こう書くと、やはり寺院の蔵書で、仏典が主と思われるであろうか。確かにそういう側面はあり、禅宗の語録や文集がその中核にある。しかし実のところ、両足院蔵書の一方の特色は、そこからいろいろな方向にはみ出していく幅広さにある。その中には『平家物語』や『三国志演義』といった、お馴染みの文学作品もあるし、「抄物(しょうもの)」と呼ばれる室町時代の講義録や、江戸時代の朝鮮外交記録など、ここにしかない、という資料も数多い。
後に両足院となる塔頭を始めた方は、龍山徳見(りゅうざんとくけん)という、臨済宗黄龍派の禅僧である。この方は、鎌倉時代後期に、下総の千葉氏に生まれ、日本臨済宗の始祖・栄西の系統を嗣いだ俊英で、嘉元3(1305)年には、元時代の中国に留学を果している。龍山は元の地で大悟したが、45年後の観応元(1350)年に遂に帰国、請われて建仁寺の住持職(第35世)に就いた。その龍山の建仁寺内に開いた子院が、両足院の始まりである。但し当初は知足院といった。
そのような経緯であるから、龍山の帰国した14世紀以降の書籍が、両足院蔵書の主な要素で、南北朝以来、約600年の蓄積と見るのが正しい。ここでは南北朝室町時代に用いられた書籍を中心に、8月の展観に出陳する作品を紹介したい。
室町時代の禅宗社会では、五山派と呼ばれる臨済宗のグループが主流を為した。両足院蔵書の把握には、この「五山」と「五山文学」の理解が欠かせない。当時、幕府公認の五大寺を五山といい、鎌倉と京都に5つずつ、さらに京都には「五山之上」の南禅寺があって、実は11の禅寺がその位にあった。臨済宗の初伝を称する栄西の建仁寺は、中でも別格の古刹(こさつ)。また五山の下が十刹(じっせつ)、十刹の下が諸山と組織化されており、その中では住持の任命も、将軍の許しを仰いで一元的に決められた。これらはみな、中国の寺院制度の模倣である。
五山派の特色は、宋元時代の中国との直接交流にあった。鎌倉時代、幕府執権の北条氏は、蘭渓道隆や無学祖元を宋から招いて建長寺や円覚寺を建てたが、そういう繋がりが発展し、中国江南地域の寺院に、日本の禅僧が盛んに留学した。
宋元時代の禅院には、皇帝の権威の下、宮廷に闊歩する高級官僚の子弟たちが入って、家伝の教養と文人趣味が溢れていた。洗練された修養生活の中で悟りを目指す習慣は、禅宗の一大特色となって行く。またそれに触れた留学僧たちも、文人趣味をまとった禅院の生活を、日本に持ち込むこととなる。
そこで禅宗の魅力は、新たな宗教思想にあったのと同時に、風雅な生活文化にもあった。書院建築や庭園、水墨画や書の鑑賞、喫茶や食の習慣も然り。例えば中国で一家を成した龍山徳見は、寺院周辺の人々を引き連れて帰国したが、その中に饅頭を作る林浄因という職人があり、後に塩瀬家の始祖となったという逸話が、両足院に伝わる。
臨済宗の寺院で特に目立つのは、文学趣味の流行である。文学作品に感化された心の動きを、悟りのきっかけとして捉える試みは、禅文学成立の素地となった。禅僧たちの説法や日々の交歓、手紙や掲示板の文言さえも、みな悟りのための警句として整え飾られた。ここでいう文学とはもちろん、韻律に富み、絢爛たる字面を誇る漢文学だ。そうして産まれる彼等の文辞とその準備過程を、五山文学と呼んでいる。
まず和尚の入山から始まって、禅院生活の中で語られる説法や問答を記録、編集した書籍を、語録という。図1の作品は、雲門文偃(うんもんぶんえん)『雲門匡真禅師広録』の宋咸淳3(1267)年頃慶元府(浙江省)刊本。雲門は唐末の伝説的名僧で、その語を広く収集した語録が、早期に流通した様子を示す、原本そのものである。
五山文学には、禅語の他、伝統的な形式の詩もあれば、壮麗な対句を並べた、疏(しょ)という文体もある。その内容はふつう、悟りを求める心境や、禅院生活の感興を述べたものであるが、その修練の過程では純粋な文学の愉しみを伴い、詩会での共作、山水画への著賛と、世俗的な作品も生まれ、果ては見目麗しい美少年への恋文(但し精緻な漢文)に及ぶ。
図2の作品、心田清播(しんでんせいは)の『聴雨詩集』は、室町時代初期の日本僧の詩集である。詩の形式は整った今体詩で、その内容は、禅林生活の出会いと別れに託した感興の表出に偏り、かつ美少年に寄せた艶詩をも多く含んでいる。
このように潤沢な語彙や語法は、どのように培われたのであろうか。それは図3の書籍に見られるような、絶えざる漢文の学習に負っている。この書は晋の杜預(どよ)が注を施した『春秋経伝集解(しゅんじゅうけいでんしっかい)』の南北朝(14世紀)刊本、いわゆる五山版である。孔子が編んだとされる歴史の書『春秋』は、左丘明や杜預の伝注を助けとして、唐宋時代に流布した。日本の五山僧もその余風を受け、宋嘉定9(1216)年刊本を被せ彫りにした木版本を刊行し、学びの土台を築いて行った。五山文学には、禅院教育の発達を促し、主要な中国の古典を出版して、日本の出版史を塗り替えた側面もある。
文学作品そのものの学習も次第に熱を帯びるが、図4『山谷詩私抄(黄氏口義)』は、抄物と呼ばれる講義録である。山谷詩とは黄山谷、すなわち宋代の文豪・黄庭堅の作品を指す。山谷の詩は典拠豊富で難解ながら、禅宗に親しんだ文人として、日本の五山でも人気を博した。室町時代中後期の建仁寺の文学僧・月舟寿桂の講義を記録したもので、永禄4年から10年(1561-67)にかけ、林浄因の子孫と伝える「饅頭屋」林宗二の写した本。講義は日本語で行われ、口語風の和語が数多く見られることから、日本語史研究の一級資料とされる。漢学の世界が周辺の人士にも広がる過程を、如実に示す作品であろう。
変わり種としては、図5『新板全補天下便用文林妙錦万宝全書』の明万暦40(1612)年刊本を挙げよう。この『万宝全書』は、日用類書と呼ばれる通俗の百科全書である。識字層の薄かったかつての中国で、その外側の層にも書籍を弘めようと考えた版元が、知識への憧れを軸に、大量の図像を盛り込んで刊行した商業出版物である。目を惹く図案はもとより、2層別のテーマを扱う離れ業で、編集技術の先端を行っている。日本の寺院ではこのような俗書の受容も、また漢学の範疇であった。
室町の学問は、一方で禅僧世俗化の過程でもあった。室町幕府に仕えた五山僧は、武家の漢文趣味に応えて知識を提供したが、明や朝鮮との外交にも起用されたことは、その極端な形であった。世俗の実務は益々漢学の必要を増し、かつ仏教者としての本分を失う方向に進む。そうした変化の末に、禅僧の中から「儒者」という新たな知識人が生まれ、近世の思潮が育まれた。禅宗もまた別の方向に歩みを進めたが、両足院の蔵書は、その屈折の跡を審(つぶ)さに示しており、ここに日本文化史上の大きな価値があるようだ。
最後に、プレイベントの題目にある「碩学(せきがく)」の語について一言。碩学とは、大学者をいう詞、両足院の歴代の学僧たちにぴったりの形容であるが、これにはもう1つの意味がある。江戸時代、幕府の発給した奨学金を「碩学料」といい、その受給者も指すのである。幕府は五山僧の知識を重んじ、これを活用するため、碩学料支給の名誉と実利を提供した。但しこれには義務を伴い、対馬国以酊庵(いていあん)への数年の滞在と、朝鮮通信使への応対が課せられる。
江戸幕府も伝統に則り、五山僧に外交の一端を託したのであるが、その結果として、歴代碩学僧を輩出した江戸時代の両足院には、朝鮮本を含む大量の書籍と、朝鮮外交文書が遺されることになった。これもこの蔵書の一大特色となっている。
来る8月のイベントでは、600年におよぶ碩学たちの活躍の跡を書籍でたどる、そんな展観を実現し、その先には、原本の修復と完全な公開、研究の発展を眺望できたらと、期待に胸を膨らませている。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。