福澤諭吉は明治31年9月26日に脳卒中で倒れた。左脳の視床出血によると推定される。一時は危篤となったが持ち直した。そして多少の症状は残りながらも、再び多くの来客を迎え、リハビリを兼ねて揮毫も行うようになった。社会活動も徐々に再開していた。しかし明治34年1月25日に、今度は右脳の出血により倒れ、そのまま逝去する。
この2回の福澤の病臥については、驚くほど多くの記録が福澤家に残され、現在は福澤研究センターに保管されている。誰が見舞いに来たか、どんな見舞い品が届いたか。見舞い品の熨斗紙も一部残っている。電報も数百枚残されている。中でも注目に値するのは、医師団の記録だ。何時何分にどんな治療が行われ、どんな反応があったか。意識状態や、脈拍、体温、呼吸。上下肢の運動、口から発した言葉なども克明に記録されている。なぜか。第一に、福澤の家庭医で、近所で開業していた門下生の松山棟庵が、最も生々しい資料を大切に保管していたことが大きい。さらに松山や北里柴三郎など福澤に近しい医者が、当時の医学界の重鎮、三浦謹之助や橋本綱常、ベルツなどにも診察を乞い、時々刻々変化する容態をいつ来ても把握できるようにしていたことも重要だ。さらに見舞客が大量に押し寄せたため、その控室にも病状記録の写しが設置された。見舞客の噂話や珍事などを戯れに書き合った控室の自由帳まで残っている。社交を勧め、語り合うこと自体が文明の第1歩と考えた福澤に相応しい光景が、見舞客控室にも展開されていたことは、滑稽なほどだ。
それらの記録は、明治34年2月3日午後10時50分、福澤の死によって終わりを迎える。折れ線グラフで容態を伝えるこの資料は、他の病状記録からは1つだけ離れて、古くから慶應義塾図書館に収蔵されていた。松山がこれだけは先に歴史的資料として納めたのであろう。死の瞬間まで冷徹に数値で記録する紙片。それは科学的精神を鼓吹した福澤に相応しいものともいえようが、やはり粛然と襟を正させられる迫力を持つ。(慶應義塾史展示館春季企画展「福澤諭吉の臨終―独立自尊の誕生」、会期: 2026年6月18日~8月29日にて展示予定)
(慶應義塾福澤研究センター教授 都倉武之)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。