慶應義塾

渡邊 直之:研究成果を社会の変化へ──大学発イノベーションを共に育てる「インパクト思考」

公開日:2026.10.06

執筆者プロフィール

  • 渡邊 直之(わたなべ なおゆき)

    イノベーション推進本部戦略企画室特任准教授

    渡邊 直之(わたなべ なおゆき)

    イノベーション推進本部戦略企画室特任准教授

研究成果は、社会の変化とどうつながるのか

ある衛星データ関連のスタートアップの話を聞いたとき、私は強く心を動かされました。データの利活用が広がり、事業が成長することが、災害対応や社会インフラの把握など、社会の意思決定を支えることにもつながっていたからです。社会的価値と経済的価値が、1つの事業活動の中で同じ方向を向いているように見えました。


また、食品分野の研究開発型スタートアップについて説明を聞いた際には、別の意味で考えさせられました。その技術には、将来のたんぱく質不足への対応、高齢者でも食べやすい食品の提供、環境負荷の低減など、複数の社会的価値が期待されており、これらはいずれも重要です。社会的価値は確かにある。しかし、誰に対するどのような変化を中心に据え、どの道筋から社会実装を進めるのかについては、複数の可能性があるように感じました。技術が生み得る価値が豊かであるからこそ、どの山を目指し、どの登山道から登るのか、その選択の難易度が高いようにも感じたのです。


大学発イノベーションの支援に携わっていると、こうした場面にしばしば直面します。研究者や起業家は技術の可能性を熟知しています。しかし、事業会社、投資家、金融機関などにとって、その技術が誰にどのような変化をもたらすのかは自明ではありません。


研究成果を社会の変化へつなげるには、多様な可能性の中から、目指す変化と、そこに至る道筋の輪郭を描くことが必要です。しかし、その道筋は研究者や起業家だけで描き切れるものではありません。大学発イノベーションに必要なのは、単なる資金提供者ではなく、価値仮説をともに問い、磨き、実装へ近づける共創者です。


そのためには、関係者が「誰に、どのような変化をもたらすのか」をともに考えるための共通言語が必要です。本稿では、その対話の道具としての「インパクト思考」を考えたいと思います。

「誰に、どのような変化をもたらすのか」を問い続ける

ここでいう「インパクト」とは、事業や活動を通じて、人々や社会、環境に生じる変化を指します。


インパクト・マネジメントという言葉からは、社会的な成果を測定し、事後的に評価・報告することが想像されやすいのですが、その役割は成果が出た後の採点にとどまりません。


誰に、どのような変化をもたらそうとしているのか。その変化はどれほど切実で、どの程度生じるのか。その事業だからこそ生み出せる変化は何か。意図しない不利益はないか。こうした問いを研究開発や事業の構想段階から検討し、意思決定に反映していくことが、インパクト・マネジメントです。


本稿では、この考え方を、より広く「インパクト思考」と呼びたいと思います。社会的に良い事業であることを証明するためではなく、技術や事業が生み出そうとする価値を、具体的な人や社会の変化として捉え直し、関係者が対話するための思考法です。


例えば、「高齢者でも食べやすい食品を提供する」という価値も、それによって誰の食生活がどのように変わり、栄養摂取や健康にどのような変化が生じるのかまで分解して初めて、検証可能な仮説になります。


大学発スタートアップは、研究成果や技術シーズから始まります。「この技術を社会でどのように使えるか」と考えることは、新しい知を社会へ届けるうえで欠かせません。


一方、技術から用途や市場を探すだけでは、社会実装の方向が定まらない場合もあります。「誰のどのような課題を解決したいのか」「どのような社会の変化を実現したいのか」という視点から、技術や事業を問い返す必要があります。技術シーズから社会へ向かう思考と、望ましい社会の変化から技術や事業へ戻る思考。この2つを往復することが、インパクト思考の特徴です。


この往復を助ける道具の1つが、ロジックモデルです。投入する資源や活動、そこから生まれる製品やサービス、人や社会に生じる変化までの因果関係を整理します。もっとも、その目的は、きれいな図を作ることではありません。描いた道筋のどこが仮説で、どこで切れる可能性があるのかを明らかにし、次に何を検証すべきかを考えるための設計図です。


インパクト思考は、研究成果から社会の変化へ至る道筋をあらかじめ固定するものではありません。技術シーズと望ましい社会の姿を往復しながら、価値仮説を更新し続けるための思考の型といえます。

社会的価値を、共創と事業の力へ

社会的価値と経済的価値は、しばしば別々に語られます。しかし、両者は必ずしも対立しません。


深刻でありながら十分な解決手段がない課題に対し、革新的な技術が新しい選択肢をもたらす場合、その変化は受益者にとって深い意味を持ちます。その技術が代替しにくければ、社会的な意義だけでなく、事業上の競争力にもつながり得ます。


社会的価値を具体的に考えることは、顧客や市場を理解することにもつながります。


誰がその変化を必要としているのか。利用する人、導入を決める人、費用を負担する人は同じなのか。利用者に生じる変化を、顧客はどのような価値として認識し、何を理由に支払うのか。これらは、社会的インパクトを事業として実現する条件を問うものであり、同時に、顧客、価値提案、導入条件、支払構造を明らかにする事業開発の問いでもあるといえます。


社会的価値を事業の外側に付け加えるのではなく、事業が成長するほど望ましい変化も広がる構造をつくることができれば、それは事業の力となります。


この構造を育てるうえで、資金の担い手が果たせる役割は、資金提供だけではありません。価値仮説を具体化すると、社会実装の途上で何が欠けているのかも見えてきます。実証先、導入先、流通網など、研究開発型スタートアップ単独では整えにくい条件も少なくありません。金融機関や投資家、事業会社などは、自らのネットワークや信用を生かして関係者をつなぎ、ときには動かすことができます。価値仮説をともに考えることは、どの資源や関係を動かせば社会実装が前に進むのかを考えることでもあります。だからこそ、資金の担い手は、事業を外側から評価するだけでなく、価値の実現に関わる共創者になり得るといえます。ただし、技術が生み得る社会的価値は1つとは限りません。だからこそ、誰にとってのどの変化をまず実証するのか、どの価値を事業の起点とし、将来どの価値へ広げるのかを選ぶ必要があります。


インパクト思考は、外部から「正しい山」を指定するものではありません。研究者や起業家とともに、技術の可能性を見渡し、まず登る山と、その登山道を考えるためのものといえます。

"技術×事業×社会課題"の接合点をイノベーションと位置づけた図

慶應における、対話と共創の実践

慶應義塾大学イノベーション推進本部では、研究開発型スタートアップが生み出す社会的価値と経済的価値を、どのように結びつけることができるかを探究してきました。


慶應義塾がこのテーマに取り組む意味は、単に新しい手法を学び普及することにあるのではありません。総合大学として多様な研究領域を持ち、研究者、学生、卒業生、企業、金融機関、行政、地域社会をつなぐ「大学」という場だからこそ、技術を社会課題や事業の文脈に接続し、社会実装をともに支える人々の輪を広げることができます。インパクト思考は、そのための共通言語でもあります。


その1つの場が、「慶應義塾イノベサロン」です。研究者や起業家に加え、投資家、金融機関、企業、行政など、多様な人々が集まり、研究成果の社会実装とインパクトを切り口に対話する場として開催しています。


サロンでは、理想とする社会の姿から研究開発や事業を逆算すること、社会的価値を変化の深さから捉えること、研究開発・インパクト・投資回収という異なる時間軸をどうつなぐかなどを議論してきました。


重視しているのは、単一の正解を示すことではなく、異なる立場の人々が、何を価値と捉え、何を検証すべきかについて共通の問いを持つことです。


さらに、対話で得た問題意識を支援の実務へつなげるため、研究成果の事業化を支援する学内のギャップファンド(KSIP助成金)などにも、インパクト・マネジメントの視点を取り入れる試みを進めています。


目的は、研究者に新たな報告作業を課すことではありません。誰にどのような変化をもたらし、限られた期間に何を検証するのかを明らかにし、研究開発と事業開発の意思決定に生かすことにあります。仮説どおりに進まない場合も、それは失敗とは限りません。何が確認され、何が確認できなかったのかを整理することで、事業を継続、修正、転換する判断につなげることができます。

慶應義塾イノベサロン #08 の模様。(撮影:菅原康太)


また、「慶應義塾イノベラボ」では、金融機関や事業会社などの人材とともに、ディープテックの特性を踏まえ、インパクト・マネジメントやシステム×デザイン思考などを横断的に学び、研究者や起業家と価値仮説を議論できる担い手を育てることを目指しています。


ここで育てたいのは、完成した事業を外側から評価する人材ではありません。研究成果が社会に届くまでの不確実な過程に伴走し、どの価値を検証し、どの条件が整えば次に進めるのかをともに考える共創者です。


イノベサロンで問いを深め、ギャップファンドの支援で試し、イノベラボで共通言語を持つ担い手を広げる。これらの取組を通じて、インパクト思考を大学発イノベーションの実践へ組み込もうとしています。

社会実装を共に進める「共通言語」として

大学発イノベーションに必要なのは、社会的価値を大きく語ることだけではありません。誰にどのような変化をもたらすのかを具体化し、そこに至る仮説を検証しながら、研究開発と事業の選択を重ねることです。


インパクト思考は、社会的価値の大きさを一律に採点するためのものではありません。むしろ、何を目指し、なぜその価値を選び、何を確かめながら進むのかを、ともに議論するための共通言語となり得ます。


研究成果を社会の変化へと導くには、研究者や起業家に加え、その可能性を信じ、必要な資源や知見を持ち寄る人々の存在が欠かせません。投融資、寄付、応援、事業連携もまた、まだ形にならない価値を共に育てるための重要な関わり方となります。


慶應義塾がインパクト思考に取り組むのは、研究成果の価値を社会に説明するためだけではありません。

「この研究成果は、誰に、どのような変化をもたらすのか」。この問いを多様な人々とともに持ち続け、必要な実践を重ねることで、大学の知は社会の力へと育っていくでしょう。大学の知を社会の変化へと導く歩みは、そこから始まると信じています。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。