執筆者プロフィール
大牧 信介(おおまき しんすけ)
イノベーション推進本部戦略企画室特任准教授大牧 信介(おおまき しんすけ)
イノベーション推進本部戦略企画室特任准教授
慶應義塾に受け継がれる独立自尊の精神
私は2025年6月に慶應義塾大学イノベーション推進本部にて、全学的なアントレプレナーシップ教育の推進を担当することになりました。着任してまず感じたことは、慶應にはすでにアントレプレナーシップの風土があるということです。卒業生には日本を代表する起業家も多く、在学中に起業する学生も少なくありません。経済産業省の「令和7年度大学発ベンチャー実態等調査」において、慶應義塾大学は大学発ベンチャー数で3位、そのうち学生ベンチャー数は205社で全国1位となっています。
慶應義塾には、創立者である福澤諭吉の理念である「独立自尊」(何事も自分の判断・責任のもとに行う)、「自我作古」(前人未踏の分野に挑み、困難に耐えて開拓する勇気と使命感)の精神が受け継がれてきています。このようなアントレプレナーシップの風土が醸成されてきている慶應義塾で、あらためてどのような教育が必要なのか。新しい取り組みは、この問いから始まりました。
アントレプレナーシップ教育を全学に広げる
慶應義塾大学では、すでに学部・研究科ごとに特色あるアントレプレナーシップ教育が行われています。例えば、湘南藤沢キャンパス(SFC)や矢上キャンパスには、長年続くアントレプレナーシップ寄附講座などがあります。受講をきっかけに起業する学生もいます。卒業後、起業家としてゲスト講師や後輩の支援者として戻ってくる循環も生まれています。先に挑戦した者が、次の挑戦者を支える。慶應義塾らしい学びの場です。一方で、多様な学部やキャンパスを擁する総合大学だからこそ、学びの機会が一部の学部や学年に限られ、全学的な広がりにまで至っていないという課題もありました。
教育の目的は、単に「起業家を増やすこと」ではなく、起業はあくまで手段の1つとして、社会の課題に立ち向かう「先導者」を一人でも多く社会へ送り出すこととしました。そのために、学部やキャンパスを越え、できるだけ多くの学生が早期から体系的に学べるカリキュラムの整備を進めています。
早期から挑戦の志を育てる
デジタル化やグローバル化、気候変動、人口構造、地政学的変化、生成AIをはじめとする技術革新により、社会課題は複雑さを増しています。過去の規範や枠組みが問い直される時代に、自ら問いを立て、試し、失敗から学びながら挑戦する人材の重要性は、より一層高まっています。
これまでの授業カリキュラムでは、学部3・4年生や大学院生になってから本格的にアントレプレナーシップに触れる設計が中心でした。しかし現実には、学部3年生になると就職活動が現実味を帯び、大学院生は自身の研究に多くの時間を割くことになります。
挑戦の姿勢を学び始めるのに早すぎることはありません。入学後の早い段階で、自ら問いを立て、挑戦するマインドに触れることができれば、その後の学問への目的意識が明確になり、「志」をもって専門領域を主体的に選ぶことにつながります。アントレプレナーシップを「起業の手法」として学ぶこと以上に、「大学での学びや研究を、将来どのように社会に体現していくか」を考える羅針盤として、早期からのアプローチが重要です。
こうした課題意識から、2026年度春学期より、日吉キャンパスの学部1・2年生を主な対象とする全学共通科目「アントレプレナーシップ基礎講座」を新設しました。
起業を知り、手段として学ぶ
この講座の目的は、履修した学生全員に会社をつくってもらうことではありません。自ら課題を見つけ、周囲を巻き込みながら解決に向けて行動する姿勢を身につけてもらうことです。起業はその実践の一形態であり、キャリアの選択肢の1つとして知ってもらいたいと考えています。
経営学者ピーター・ドラッカーは、著書の中でアントレプレナーシップを「イノベーションを武器として、変化の中に機会を発見し、事業を成功させる行動体系である」と定義しています。重要なのは、会社をつくったかどうかではなく、変化の中に可能性を見いだし、新しい価値を社会へ届けようとする行動です。
新たな知を生み出し、その成果を社会実装する研究者、新規事業や組織変革を担う企業人、社会課題に取り組む行政・非営利組織の担い手、地域に新しい仕事や仕組みをつくる人。いずれも先導者として、未知の課題に向き合い、自ら考え、他者と協力して形にする力が求められます。
アントレプレナーシップは、起業家だけのものではありません。自らの判断と責任で目指す未来を決め、学問と経験によって得た知見を現実の社会に照らし、行動によって示す姿勢です。それは慶應義塾が掲げる「独立自尊」「自我作古」、そして「実学」「躬行実践」の精神とも符号します(詳しくはこちらをご覧ください)。
起業のリアルに触れる授業
「アントレプレナーシップ基礎講座」では、その精神を社会で具体化する有力な手段の1つとして「起業」「スタートアップ」に焦点を当てています。起業とは何か、起業家は課題にどう向き合い、行動していくのか。そうした問いを軸に、多くの事例から挑戦のリアルを学ぶ構成です。
宇宙ビジネス、AIスタートアップ、経営戦略、次世代エネルギー、ベンチャーキャピタル、スタートアップ・エコシステム、農業とテクノロジーなど、扱うテーマは多岐にわたります。ゲスト講師には、起業教育に携わる教員、研究成果を事業化した研究者・創業者、学生起業家を含む現役の起業家、ベンチャーキャピタリストなど、塾員(卒業生)を中心に多様な方々に登壇いただきました。
ゲスト講師が創業した企業は、Synspective、BlueWX、京都フュージョニアリング、フェルメクテス、concon、AYUMI BIONICS、READYFOR、日本農業など多岐にわたります。研究成果を社会実装する起業、急成長を目指してグローバルに挑むスタートアップ、身近な困り事や地域課題、文化への関心から始まる起業など、多様な挑戦の形を示し、学生に「自分ならどうしたいか」を考えてもらいました。
授業では、分かりやすい成長ストーリーだけでなく、初期プロダクトの失敗、資金や人材を集める難しさ、事業転換の迷いなど、起業のリアルを率直に語っていただきました。同時に、学生にとって挑戦することのリスクは少なく、むしろ得るものの方が大きいことも伝えていただきました。
印象的だったのは、学生の好奇心の強さです。大規模講義でありながら、出席率は最終回まで8割以上を維持しました。ウェブ上の質問ツールを活用し、ゲスト講師への質問は毎回30件以上にのぼりました。講義そのものに加え、質疑応答の時間が実践的な学びの場となったことは、本講座の重要な成果でした。
起業に挑戦する学生
本講座の受講生に限らず、慶應義塾大学には、明確な「志」や社会への問題意識を胸に入学してくる学生が少なくありません。目的意識のある学生は、教室で知識を得るだけでなく、すでに主体的に動き始めています。
起業に挑戦する学生には、いくつかの共通点があります。
第1に、行動していること。あるSFCの学生は「宇宙に関わる事業をつくりたい」という思いから、自らコミュニティをつくり、仲間を集め、技術を持つエンジニアを探し、起業準備を始めました。その後、海洋分野へと方向転換し、プロトタイプをつくり、大企業や自治体との実証実験に取り組んでいます。
第2に、実装していること。ある理工学部の学生は、AIを活用したプロダクト構想を資料上のアイデアにとどめず、まず動くモックアップをつくりました。大企業に自ら提案し、フィードバックを得ながら、顧客課題とプロダクトの仮説検証を重ねています。事業プランの完成度を高めるよりも、まず形にして外へ出し、反応から学んでいます。
第3に、越境していること。学部・キャンパスを越えて学内コミュニティに参加し、仲間を探すだけでなく、学外でも他大学、自治体、企業が主催するプログラムに自ら参加する学生が増えています。越境することで、自身の強みを相対化し、市場や競争相手を知る機会を得ます。その経験が、起業家としての成長につながります。
挑戦を育むエコシステムへ
事業アイデアを社会に価値として届けるためには、熱意や行動力だけでは足りません。市場の捉え方、顧客課題の検証、知的財産、資金調達、組織づくり、法務・会計など、実践的な「戦い方」や「起業の実務」を知る必要があります。
2027年度以降、ビジネスを創る上で必要な知識やフレームワークを学び、事業構想を具体化する実践講座を計画しています。さらに、会社設立や資本政策など、起業の前後に必要となる実務を扱う講座の設置も検討しています。
さらに、正規科目に加え、起業意欲の高い学生が集うコミュニティ、事業案作成のワークショップ、実務セミナー、起業仲間を見つけるイベント、個別メンタリングなど、挑戦の志を育て、社会実装へつなげる仕組みや環境も拡充していく予定です。このように、正規科目や課外プログラム、コミュニティ、そして塾員や実務家、教職員が有機的につながり、全学で挑戦を支えるエコシステムとして進化していくことを目指しています。
このエコシステムの核となるのは、講座や活動を継続させる基盤と、経験と人的ネットワークを持つ塾員や実務家の支援と協力です。挑戦した者が、その知と志を次の世代につなぎ、共に新たな機会に挑戦する。この「半学半教」や「社中協力」の志に基づく循環が、慶應のアントレプレナーシップ教育を支えるエコシステムになっていきます。
私たち教職員もまた、先導者の一人として、社会をよりよくするために、自らの境界を越え、新しい仕組みをつくり挑戦していきたいと考えています。
慶應義塾に集う人々の経験と志が、次の世代の背中を押し、また新たな挑戦を生みます。長期的視野に立ち、この循環を育てていくことが、これからの大学に求められるアントレプレナーシップ教育の姿だと考えています。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。