執筆者プロフィール

岩谷 十郎(いわたに じゅうろう)
その他 : 常任理事法学部 教授
岩谷 十郎(いわたに じゅうろう)
その他 : 常任理事法学部 教授
1.国際刑事司法をめぐる「力」と「法」の相克
2026年1月3日、米国によるベネズエラ侵攻の報に接した際、私の脳裏には、ラ・フォンテーヌの寓話「オオカミと子羊」が示したあまりにも冷徹な教訓、「強者の理屈はいつでもまかりとおる(La raison du plus fort est toujours la meilleure.)」がよぎった。現代の国際社会は、この冷酷な言葉を現実のものとして証明するかのような、剥き出しの「力」による支配に塗り替えられようとしている。法の支配という人類の英知が、暴力という原プリミティブ初的な衝動の前に屈しようとしているのである。
実際、この大規模な軍事行動に先立ち、ICCに対する米国の圧力は看過し難いものであった。2025年2月、トランプ政権は、前年11月のイスラエル高官への逮捕状発付に対する報復措置として、ICCを「非合法裁判所」であると指弾した。それだけにとどまらず、ICCの検察官および裁判官ら個人に対し、資産凍結や入国制限といった強硬な制裁を発動したのである。さらに、これら制裁対象者に対して何らかのサービスを提供する第三者に対しても、米国が「二次的制裁」を科すことを示唆した事実は、グローバルな金融・情報ネットワークからICCを孤立させる意図を孕んでいる。これは、ICCの職務遂行能力を根本から毀損し、機能不全に追い込む事態を招きかねない。もしICCがなくなってしまったら、それは「ニュルンベルク裁判以前の状態に戻ること」を意味する(赤根智子『戦争犯罪と闘う──国際刑事裁判所は屈しない』文春新書)。国際刑事司法の独立性は、今、近代司法制度が確立されて以来、かつてないほどの存亡の危機に瀕しているといっても過言ではない。
2.慶應義塾とICCの学術的連携の歩み
こうした国際政治上の緊迫した空気が高まる中、2026年1月11日付の読売新聞において、ICCが世界4カ所に設置を構想している地域事務所(リージョナル・オフィス)の1つが、慶應義塾に置かれる旨の報道がなされた。しかし、ここで明確にしておかねばならないのは、これは現時点での「既決の事実」ではないということである。報道側の期待が込もった「勇み足」の解釈であることは注記せねばならない。現在、慶應義塾とICCとの間で慎重にその実現の可能性を検討している構想の本質は、ICC組織の事務的な行政拠点というよりも、アジア太平洋地域における学術的・知的なネットワークの「研究拠点(アカデミック・ハブ)」を慶應が担うという点にある。
この構想は、決して昨今の政治状況に呼応して一朝一夕に生まれたものではない。ICCと慶應義塾との深い学術的交流は、ICCが正式に設置されてから2年後の2004年にまで遡る。以来20年以上の歳月にわたり、国際刑事法を専門とするフィリップ・オステン法学部教授を中心に、地道かつ精力的な学術的対話が積み重ねられてきたのである。2024年3月に赤根智子判事が日本人として初めてICC所長に就任した際も、その僅か3カ月後の6月には、赤根所長の三田キャンパス訪問が実現した。そこでは、塾長や常任理事、教員や学生を前にした感動的な記念講演会が開催されただけではなく、優秀な学生(法律の専門に限らない)をインターン生としてICCへ継続的に派遣する制度の確立や、教員や実務家同士の研究・研修上の交流機会をさらに拡大するためのMoU(基本合意書)が締結された。
先の新聞発表を1つの「奇貨」として、慶應義塾は学術的・中立的なスタンスをあくまで堅持しつつ、ICCが掲げる「国際正義の永続的尊重及び実現」(ICCに関するローマ規程前文)の理念を支える研究・教育の国際的・先端的拠点として、可能な限りの協力を継続する方針を改めて確認した。これは決して目先の時勢に合わせた一過性の判断ではない。長年にわたって培われたICCとの強固な信頼関係に基づき、知の連帯をより確かなものにするという不変の決意の表れなのである。
3.ICCアジア太平洋学術フォーラムの開催とその歴史的役割
2025年11月27日と28日の2日間、三田キャンパスで開催された「第1回ICCアジア太平洋学術フォーラム」は、まさにベネズエラ侵攻という武力行使がなされる直前という、国際秩序の激しく動揺する時期に行われた。日本、韓国、モンゴルの3カ国から計10の大学の専門家や実務家が一堂に会したこのフォーラムは、ICCが直面する未曾有の政治的困難に対し、アジア太平洋地域のICC締約国のアカデミアがいかに知的に寄与し、法の支配を擁護することができるかを模索する歴史的な場となった。
フォーラムの司会進行・統括役はオステン教授が務め、学生や研究者のICCでの研修を通じた人材育成のあり方や、セミナーや共通カリキュラムの開発による大学間の連携強化が具体的に検討された。同時に、アジア太平洋地域におけるICC未締約国への働きかけを強め、締約国の増加に繋げようとする意欲的な展望が正式に宣言されたのである。この慶應の地で行われた意義深いイベントは、国内外の主要な報道機関によっても広く取り上げられ、その志は海を越えて各国の政策決定者や研究者へと伝えられた。
一橋大学名誉教授で国際法史・戦争法史を専門とする山内進氏によれば、現代は武力行使に実質的な制限がなく、非戦闘員をも標的とする総力戦が常態化し、あたかも「中世」の暗黒時代に逆戻りした感を呈しているとされる。山内氏は、それゆえにこそ、私たちは近代という時代が犠牲を払って発見した「人権」の歴史を、今一度厳粛に思い起こさねばならないと著書で述べる。その精神の核心にあるのが、「戦争は国家と軍隊に対して行われるものであり、一般住民に対して行われるのではない」とする「ルソー・ポルタリス原則」である。この原則は、かつてナチスの迫害を逃れ、日本を経由して米国に亡命したポーランドの法学者、ラファエル・レムキン(Raphael Lemkin, 1900-1959)が、後に「ジェノサイド(=集団殺害罪)」という戦慄すべき概念を法的に確立する際の、最も重要な立脚点となった(山内進『掠奪の法観念史──中・近世ヨーロッパの人・戦争・法』東京大学出版会)。
レムキンの献身的な尽力により実現した「ジェノサイド条約」(1948年国連決議で採択、1951年発効。日本は未だ批准していない)は、今、ICCが管轄する戦争犯罪(中核犯罪=コア・クライム)を裁くための、揺るぎない法理を刻む柱となっている。戦時下であっても市民への加害や略奪は断じて不正であるとするこの尊い法理は、悲しいかな歴史の中で幾度となく権力者によって無視され、意図的に忘却されてきた。だからこそ私たちは、暴力が前面に立ち混迷を極める歴史の中に、普遍的な理念の声を聞き分け、理想を粘り強く語り続けなければならない。私はここにこそICCの使命があり、この度のフォーラム、そしてこれから継続される対話が果たすべき歴史的役割があると確信している。
4.理想・理念に生きる「主体」として
赤根所長は2024年の来塾時、講演に集った塾生たちに対し、世界の紛争や理想実現の困難さを決して「他人事」と切り離すのではなく、自分たちが解決すべき「自分たちの問題」として自らに引き寄せる意識の重要性を、切々と説かれた。理想や理念というものは、その実現に伴う予測し難い出来事や摩擦を、他ならぬ「今、ここを生きる私たち」が自らの課題として引き受けたとき、初めて私たちはその理念を生かし、その理念に生きる「主体」となり得るのである。
かつて福澤諭吉は、「人々内に自から顧て、我一身も猶他人の如く・・・・・・・・・・、心力を労して世に存することを得るものと思ふべし」(『西洋事情外編・巻之一』、傍点岩谷)と述べ、独立した精神を持つ主体が互いに敬意をもって交わり合うことで織りなされる理想の社会像を描いた。慶應義塾のモットーである「独立自尊」とは、単なる世渡りのための処世術ではない。そうではなく、人間のあるべき理想的な生き方、そして文明社会のあるべき姿を示す理念としてこれを受け取る時、私たちはその実現の計り知れない困難さを噛み締めると同時に、初めてその理念に生きる誇りを得るのではないか。
2025年7月、三田演説館でウルズラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長は、福澤が生きた19世紀末の国際状況と現在とを重ねながら、「この歴史の転換点をどう生き抜くのか」と問うた。そして福澤の所説を丁寧に繙きつつ、欧州と日本とのパートナーシップの緊密化は、「私たち自身の独立を築くだけでなく、互いの独立を強めるために」こそ必要であると説いた(ウルズラ・フォン・デア・ライエン〔土屋大洋訳〕「慶應義塾大学 名誉博士称号授与式スピーチ」『三田評論』2025年11月号)。ここにこそ独立自尊の真髄が語られていよう。
慶應義塾が建学以来守り続けてきた「独立の精神」とは、現状に安住することなく、未だ到達できぬ高き理念に向かって歩み続ける不屈の決意に他ならない。力による支配が影を落とす不透明な時代にあって、ICCの掲げる人類の理想や正義の理念を次世代へと正しく語り継ぐための、強靭で開かれた「器」としての役割を、慶應義塾がこれからも果たし続けてゆくことを心から願うものである。それはもはや、単なる一学塾の貢献をも超えた、未来の国際秩序に対する私たちの、そして日本という国の果たすべき重い責任なのではなかろうか。
(注)日本弁護士連合会『自由と正義』2026年1月号には、「国際刑事裁判所と法の支配の強化に向けた展望」が特集されている。オステン教授と久保田隆氏(信州大学准教授)による論説は、ICC体制と日本国内法の整備問題を扱う。また赤根判事を囲んでの座談会や、ICC弁護士や同書記局長の記事も掲載され、極めて興味深い内容となっている。読者におかれては、ぜひとも併せて参照されたい。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。