執筆者プロフィール

田中 大介(たなか だいすけ)
その他 : 日本女子大学人間社会学部教授塾員

田中 大介(たなか だいすけ)
その他 : 日本女子大学人間社会学部教授塾員
1.未来のモビリティ社会の手応え
未来のモビリティ社会のひとつを示しているのは、今年開業したトヨタ自動車の「Toyota Woven City」だろう。「未来のモビリティのテストコース」ともいわれ、AIやロボット、自動運転車、ドローンなどの先端技術を試す、静岡県裾野市に建設されている実証都市──20世紀に自動織機から自動車のメーカーに進展し、21世紀以降、「モビリティカンパニー」へ転換を目指すトヨタのモデルケースとなる「スマートシティ」でもある。
モビリティの未来への期待は、スマートシティというイメージと重なりあっている。スマートシティに関する言説は、政治・経済・学術を広く横断し、肯定的な提言から批判的な議論まで多数存在する。スマートシティをざっくりと「ICT(情報通信技術)によって課題解決を試みる都市施策」を指すとすれば、その構想・実装の規模・種類・主体も多様で、それらをフォローするには紙幅が足りない。「2025年日本国際博覧会」(大阪・関西万博)でも、関連するコンテンツが複数のブースで展開され、そのサイト上にもモビリティの未来に対するイメージは多くある。
このように「未来のモビリティ社会」に関する言説・イメージが氾濫する一方、以下のようなスマートシティの「手応えのなさ」もしばしば語られている。
『テレ東BIZ』の「【ウーブン・シティ行ってみた】トヨタの実証都市は普通の街?」では、「当初予想していたほど先進的な街というイメージはない」、「普通の街」と表現される。その一方で、中国などのように公道で実証実験がしやすい国ではない日本における意義を強調し、それをいかにしてマネタイズをしていくのか、このスマートシティをどのように拡張するのかを報じる。
またトヨタ系列の企業も参加し、公共交通の実証実験を行っている「柏の葉スマートシティ」を訪れた社会学者・佐幸信介も、拍子抜けしたように以下のように述べる(2023『プラットフォーム資本主義を解読する』ナカニシヤ出版)。「これまでみたことがある普通の街の光景があった。(中略)既視感だけを体験し、外を出た」。そして、「視覚的な普通の都市と、見えないスマートシティ。いくら歩いても、スマートシティとは実感できないスマートシティ」は、ビジネスの論理で作られ、ブラックボックス化した技術中心主義的なものにすぎない。むしろ、市民が主体的に関与するコミュニティの視点で考えるべきであるとする。
後述する「MaaS」、「CASE」、「Society5.0」など、未来のモビリティ社会を表現するようなキーワードが21世紀以降、多数現れてきた。これらの威勢の良い言説は、技術が社会を変えるという技術決定論を、資本誘導のためにくりかえし煽った20世紀以来の「情報化社会論」の再来だろう(佐藤俊樹2010『社会は情報化の夢を見る』河出文庫)。
モビリティ社会の未来を垣間見せる「スマートシティ」に対するビジネス寄りの意見とコミュニティ寄りの意見──共通するのはその「手応えのなさ」である。そもそも情報テクノロジーは情報を電気・電子・電波として処理・伝達・蓄積し、その多くが物理空間の手触りをもたない。だからこそ、未来を語る言説、あるいはゲームやテーマパークのようなイメージ・体験が、(投資先の)空白を埋めるがごとく、次々に生み出されているのかもしれない。それにしても、このモビリティ社会の「手応え」のなさをどう考えるべきだろうか。
2.地球の都市化とプラットフォーム資本主義
「未来のモビリティ社会」は、都市に限られるわけではない。しかし、1950年に30%に過ぎなかった都市部人口は2018年に55%となり、2050年には68%に達すると予測されている(国際連合「世界都市人口予測・2018年改訂版」)。さらに現代の都市化は人口推移だけにとどまらず、産業、交通、物流、通信、資源、エネルギー、廃棄物、自然環境などをめぐる地球規模のインフラストラクチャーの相互依存によっても進展している。地理学者のニール・ブレナーたちは、これを「地球の都市化」(「Planetary Urbanization」)と表現する。「都市化の資本主義的な形式は、旧来の都市と農村の分割線を徐々に横断し、飲み込み、それにとって代わり、地球の全表面のいたるところに広がり、さらに地中や大気圏にまで拡張しているのだ」(平田周・仙波希望訳2014=2018「都市革命?」『空間・社会・地理思想』21号、大阪市立大学)。そして、このような「地球の都市化」は、まだら状の不均等な都市化や社会的な格差を生み出しているともいう。
スマートシティ構想は、いわば「都市化した地球」の縮図(ミニチュア)を特定の地域に作る先駆的な試みと理解することもできる。「地球規模の都市化」が進むなか、スマートシティというプラットフォームを生活インフラのパッケージとして世界中に売り込む。トヨタもまた、2018年以降、ただの自動車メーカーではなく「モビリティカンパニー」と称し、「モビリティサービス・プラットフォーマー」たろうとしている。「Connected」、「Autonomous」、「Shared & Service」、「Electric」の頭文字をとった「CASE」と称されるモビリティ・プロバイダーを標榜したダイムラー社を追うものともいえるだろう。
経済学者のニック・スルネックによれば、GAFAM(Google、Apple、Facebook(現Meta)、Amazon、Microsoft)等のビッグテックのような「プラットフォームは、要するに、新たなタイプの企業である。彼らは、異なるユーザー集団のあいだを媒介するインフラを提供すること、ネットワーク効果に突き動かされた独占傾向を示すこと、異なるユーザー集団を引き込むため相互補助を利用すること、そして交流可能性を支配するよう企図された核となる構造をもつことによって特徴づけられる(大橋完太郎・井村匠訳2016=2022『プラットフォーム資本主義』人文書院、60頁)」。プラットフォームはデータを独占し、抽出、分析、利用、販売する手段になるだけではない。それを司る主要企業は物理的な環境を含めた「社会インフラのオーナー」になりつつある(同上、129)。そのため、異なるプラットフォームの企業が似たようなものに「収束」(同上、128頁)する傾向にある。ユーザーの囲い込みは、既存の業界内の競争ではなく、業界外との競争にさらされる。したがって、ビッグテックは情報空間から、トヨタは物理空間から、社会インフラとしてのプラットフォームたろうとして交差・連携・競争することになる。
一方で、プラットフォームの独占が不均等な都市化や社会的な格差・排除を生み出すとすれば、「スマートシティ」はエリートたちのための「飛び地」、あるいはゲーテッド・コミュニティに過ぎなくなる。ビッグテックがそれらのプラットフォームを掌握することへの批判も根強い。
たとえば、Googleの姉妹会社のサイドウォーク・ラボがカナダのトロントでスマートシティの計画を立ち上げたが、失敗に終わったことはよく知られている。発端となったのは個人情報の収集に関するプライバシー問題であった。私企業が公的空間としての都市を設置・管理・運営する際の構造的問題だろう。赤字になればすぐに縮小・撤退といった損切りをするような企業組織に住民生活に関わることを任せるのは難しい。また、生活のすべてを企業に依存することになれば、住民たちは企業のいいなりにならざるをえないだろう。こうした事態は「ビッグテック=領主」が「ユーザー=農奴」から「レント(地代・使用料)」を搾取する「テクノ封建制」(ヤニス・バルファキス)とも表現されている。その意味で、スマートシティの見えにくさは権力の不可視化といいうる。
3.「未来像」の乱反射
このようにモビリティの未来に関するイメージは、多岐にわたっている。未来は、過去・現在を参照しながら、それぞれの人びとのこうあるべき(規範)、こうあってほしい(希望)、こうなるだろう(予測)──いわば「未来像」によって構成されている。人びとは、過去を振り返り、「未来像」をひとつの指針として考え、現在の行為を進めていく。だが、それがそのまま実現するわけではない。そうした規範、希望、予測はさまざまにありうるし、それらが矛盾・対立することもある。実現のためのリソースが不足していることもあれば、思いもよらぬ要因が発生することもある。だから、その都度、「未来像」を修正し、現在の行為を変化させていくことになる。そのため、結果として現れる未来がどのようなものになるかは不確定である。とはいえ、未来は、完全に自由で、予測不可能な偶発的な開放系であるわけではない。人口推移、自然環境、経済変動、政治状況、技術進化などを予測に入れつつ、望ましい社会変容をどのように構想し、実現するのか。多様なアクターの規範・希望・予測、そして複雑な変数がからまりあいながら、ある程度の幅に収まる、実現可能な未来へと前進する。
たとえば、社会学者のジョン・アーリは、このような未来を「複雑系」としてとらえ、都市とモビリティの未来を4つのシナリオとして検討している(吉原直樹・高橋雅也・大塚彩美訳2016=2019『〈未来像〉の未来』作品社)。
1つ目は「高速移動都市」である。この未来ではドローンによる貨物輸送、超高層ビルのエレベーター、自動運転、空中車両などによって、水平・垂直に高速移動が急激に広がるとされる。
2つ目は「デジタル都市」である。これはスマートシティとも言い換えられている。リアルタイムで遠隔コミュニケーションが行われ、スクリーンが遍在し、大量のセンサーによりビッグデータが構成された都市である。一方で、このような未来では、人びとはどこに住まなくてもよくなり、「反都市化」がおこるかもしれない。そして、多くの人びとは都市に「住む」というよりも、デジタル化された都市に停泊地として「訪問」するようになる、という。
3つ目は「住みやすい都市」である。電子・電気的に統合された小型化した乗り物(自転車、バス、その他)やシェアリングシステムなどの普及により、居住と仕事が混在した近隣生活やスローな移動が広がる。モータリゼーションへの反省から、カーフリーの都市が実現し、スプロールした都市をダウンサイズした、「ポスト郊外」の近隣生活が生み出されるという。具体的にはICTを活用して複数の交通手段を組み合わせて検索・予約・決済できるサービスであるMaaS(Mobility as a Service)の広がりを挙げることができる。発祥の地フィンランドのヘルシンキでは、マイカー利用が減り、公共交通利用が増えているという。ほかにも、現在さまざまな都市で広がる「ウォーカブルシティ」や「サイクリングシティ」といったいわば「反モータリゼーション」ともいえる多様な試みもここに含まれる。
4つ目は「要塞都市」である。富裕層やエリートたちが「飛び地」のような要塞化した都市を形作るというものである。アーリが念頭においているのは、アメリカなどの高度なセキュリティ化が進んだゲーテッド・コミュニティだろう。要塞都市の外側には、貧困者が排除され、治安が悪化し、動物たちが跋扈するような野生のゾーンが広がる。廃棄物や二酸化炭素もまた貧しい地域へと押し付けられている。そうした危険地帯を避け、要塞都市を守るために私的な警備・軍事産業も組織され、乏しい資源をめぐる新しい戦争や衝突が頻発する「新しい中世」となる、とされる。
アーリによれば、1つ目は、高速化をすべて実現できる低炭素のエネルギー転換の実現に疑問符がつけられている。2つ目のデジタル化は進むだろうが、デジタル企業による独占が働くとされる。また、3つ目は気候変動による破局が高度の炭素排出によって引き起こされたことが明確化され、またグローバルな景気後退時に展開するだろう、という。そして、もっともありそうな未来は4つ目の要塞都市で、すでに現実のものとして存在している、とする。
4.モビリティ社会の構造転換
いずれが正しいのかは、今は見通せないし、それらはかなり重なりあっている。たとえば、自然環境の変化や情報技術の発展などの共通する要因がある。その一方で、その帰結には、①都市の巨大施設化(高層化・要塞化)、②都市の縮小、③反都市化といったバリエーションもある。先に述べたように、さまざまなアクターの規範・希望・予測がからまりあいながら、ある程度の幅に収まっていくのだろう。そのトレンドを次のようにまとめておこう。
アーリによれば、19世紀に鉄道が登場して以降、大量の人びとが機械交通に詰め込まれて動いていく「公的移動化」(吉原直樹・伊藤嘉高訳2007=2015『モビリティーズ』作品社、138頁)が始まる。伝統社会から産業社会へ変化するなか、機械化された公共交通が発展し、広範囲から多数の人びとが移動し、高密度で、流動性の高い大都市が形成された。
さらに20世紀後半の自動車所有は、個人の自由を表現し、他者との差異を示す私的な欲望を加速させた。20世紀前半のアメリカの諸都市において、公共交通機関としての路面電車が、自動車関連企業の諸活動によって排除されていったことはよく知られている。それと連動するように、「みんなと同じ/違う自動車を所有/運転したい」という消費者の──その多くが広告・宣伝によって作られた──「見栄」や「欲望」が加速し、自動車は普及した。モータリゼーション、そして都市の郊外化は、いわば「私的移動化」として進んだのである。
21世紀以降のモビリティの未来像は、それを逆回転させようとしている。つまり、「私的な欲望」が加速することで形成された環境負荷の高い20世紀の自動車社会から、情報技術を用いて、多様な速度を調整・集約する環境負荷の低い「公共交通」を中心とする21世紀社会への回帰。その主要な担い手が、ビッグテックやトヨタのようなプラットフォーム企業なのか、ヘルシンキなどのように自治体・コミュニティなのか、Society5.0のように政府なのか、それらがどのように組み合わされるのかは、まだわからない。しかし、脱炭素と情報化、「直線的な加速」から「多元的な速度」へ、「私的交通」から再び「公的交通」へという構想のレトロスペクティブな方向性は共通する。
上記のような大きな流れはみえてきたが、それを左右するもののひとつとしてここで気になるのは、冒頭で述べたスマートシティの手応えのなさである。
5.私たちはどこにどのように行きたいのだろうか?
未来のモビリティは、より便利になる、より安全になる、より地球にやさしい──むろんそうした「正しさ」は重要だ。また、アーリのように、気候変動の破局や管理社会の浸透といったディストピア・イメージで危機感を高め、望ましくない未来を回避することも重要だろう。
しかし、現代の「未来のモビリティ」は、大衆的な欲求・欲望の所在、そしてその具体的なかたちがわからないまま、未来を求めてはいないか。モビリティの未来に関する「こう行くべき」「こう行ける」という政治的・経済的・技術的な言説・イメージは溢れている。そして、情報化した「多元的・公共的なモビリティ」の構想はおおよそ共通する。しかし、私たちの「どこにどう行きたいのか」は置き去りにされていないか。人びとを均一に扱えなくなり、「未来」を直線的に描けなくなっているからこそ、回顧的なものも含めた多様な未来像が氾濫する。高度成長が終わり、技術進化のインパクトがかつてほどには期待しにくい先進諸国共通の現象かもしれない。
だからこそモビリティ社会の未来の幅は、私たちの欲求・欲望によって広がりもすれば、狭まりもする。軌道を外れたり、進みを止めたりすることもある。重要なのは、「ここに、こうやって行きたい」という私たちの未来像だろう。遠くに? 近くに? 速く? 遅く? 頻度は? 手段は? そこにどのような手ごたえを感じるか、その選択肢はすでに用意されはじめている。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。