慶應義塾

【特集:慶應義塾の国際交流】座談会:国際化をさらに進めるために何が必要か

登場者プロフィール

  • アンネリーズ・ライルズ(Annelise Riles)

    その他 : ノースウェスタン大学アソシエート・プロボスト政策・メディア研究科 特別招聘教授その他 : ノースウェスタン大学法学・人類学教授

    ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで社会人類学の修士号、ハーバード大学ロースクールで法務博士号、ケンブリッジ大学で社会人類学の博士号をそれぞれ取得。

    アンネリーズ・ライルズ(Annelise Riles)

    その他 : ノースウェスタン大学アソシエート・プロボスト政策・メディア研究科 特別招聘教授その他 : ノースウェスタン大学法学・人類学教授

    ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで社会人類学の修士号、ハーバード大学ロースクールで法務博士号、ケンブリッジ大学で社会人類学の博士号をそれぞれ取得。

  • 大串 尚代(おおぐし ひさよ)

    文学部 英米文学専攻教授研究所・センター 国際センター所長

    塾員(1994文・96文修・2001文博)。博士(文学)。ブラウン大学アメリカ研究学部訪問研究員等を経て2006年慶應義塾大学文学部准教授。14年同教授。専門はアメリカ女性文学、ジェンダー研究等。

    大串 尚代(おおぐし ひさよ)

    文学部 英米文学専攻教授研究所・センター 国際センター所長

    塾員(1994文・96文修・2001文博)。博士(文学)。ブラウン大学アメリカ研究学部訪問研究員等を経て2006年慶應義塾大学文学部准教授。14年同教授。専門はアメリカ女性文学、ジェンダー研究等。

  • 三木 則尚(みき のりひさ)

    理工学部 機械工学科教授理工学部 国際交流委員長

    2001年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。博士(工学)。マサチューセッツ工科大学航空宇宙工学科研究員を経て04年慶應義塾大学理工学部専任講師、17年より同教授。体育会スケート部部長。専門はマイクロナノ工学等。

    三木 則尚(みき のりひさ)

    理工学部 機械工学科教授理工学部 国際交流委員長

    2001年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。博士(工学)。マサチューセッツ工科大学航空宇宙工学科研究員を経て04年慶應義塾大学理工学部専任講師、17年より同教授。体育会スケート部部長。専門はマイクロナノ工学等。

  • ロドニー・バンミーター(Rodney Van Meter)

    環境情報学部 教授

    1991年南カリフォルニア大学でコンピュータ工学の修士号、2006年慶應義塾大学でコンピュータサイエンスの博士号取得。専門は量子コンピュータアーキテクチャ等。19年より現職。

    ロドニー・バンミーター(Rodney Van Meter)

    環境情報学部 教授

    1991年南カリフォルニア大学でコンピュータ工学の修士号、2006年慶應義塾大学でコンピュータサイエンスの博士号取得。専門は量子コンピュータアーキテクチャ等。19年より現職。

  • 土屋 大洋(司会)(つちや もとひろ)

    その他 : 常任理事(国際担当)政策・メディア研究科 教授

    塾員(1994政・96法修・99政メ博)。博士(政策・メディア)2011年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授。19年総合政策学部長。21年常任理事。専門はサイバーセキュリティ、国際関係論。

    土屋 大洋(司会)(つちや もとひろ)

    その他 : 常任理事(国際担当)政策・メディア研究科 教授

    塾員(1994政・96法修・99政メ博)。博士(政策・メディア)2011年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授。19年総合政策学部長。21年常任理事。専門はサイバーセキュリティ、国際関係論。

2024/10/07

留学経験から得たもの

土屋

今日は「慶應義塾の国際化」に関する座談会のために皆様にお集まりいただきました。その目的は、慶應義塾が国際化に向けて現在何をしていて、将来に向けて何をすべきかを理解することです。そして、慶應の塾生たちに国際的な経験を積んでもらうよう促すことです。未来志向の議論にしたいと思います。

慶應義塾はご存知のように福澤諭吉によって設立されました。福澤は19世紀にアメリカとヨーロッパ諸国を訪問した後、この学校を整えていきました。彼は西洋諸国から新しいものを得て、日本人を教育したいと考えました。それが慶應義塾の始まりです。

そういう意味で私たちは当初非常に国際化された学校でしたが、今日では必ずしもそうではないかもしれません。私たちはより多くの留学生を受け入れ、他方でより多くの学生を海外に送りたいと思い、より多くの海外の大学との協力を望んでいます。しかし、それにはいくつかの課題があります。

最初に皆さんに簡単な自己紹介をしていただくとともに、海外留学や在外研究において最もインパクトのあった出来事を伺いたいと思います。

まず私の経験から話したいと思います。私は現在、慶應義塾の国際担当常任理事を務めていますが、外国の大学で学位取得のために勉強したことは一度もありません。

しかし、慶應で博士号を取得後、ワシントンDCに客員研究員として1年間行き、半年はメリーランド大学で、次の半年はジョージ・ワシントン大学で過ごしました。

ところが、現地に到着してから2カ月後、9・11の同時多発テロに遭遇しました。その日、私は会議のためにサンフランシスコにいましたが、1週間ワシントンDCに戻ることができず、ただ飛行機を待っていました。

その時、インターネットの世界でも何か悪いことが起こるのだということに気づきました。私はそれまでインターネットの明るい面ばかり見ていて、インターネットはより良い方向に世界を変えると思っていました。しかし、このテロ攻撃の後、「悪者」もインターネットを悪用していることに気づき、それから、専門をサイバーセキュリティに転向したのです。

それは私の人生を変える出来事でした。このようなことが誰にでも起こるとは思いませんが、留学中に起こったことがその人の人生を変えるということはあるかもしれません。そういうことからも慶應の学生にもっと国際的な経験をしてほしいと思っています。

まず、皆さんにご自身の留学や海外での研究について伺いたいです。大串さんからいかがでしょうか。

大串

私は文学部英米文学専攻で教鞭を執っていますが、同時に国際センター所長を務めています。

国際センター所長としての私の主な仕事は、全塾を対象とした交換留学プログラムを統括することです。基本的には、海外に出る派遣学生を選考し、交換留学生として慶應義塾大学で学ぶ学生の受け入れをしています。受け入れは半年単位ですが、派遣は基本的に1年間で塾生に海外経験の機会を提供しています。

現在、146の海外の大学と交換協定を結んでおり、海外から500人以上の交換留学生を受け入れ、義塾からは約270人程度の学生を世界中に派遣しています。

私自身も交換留学生でした。その経験は現在の自分の学問への歩みに大きな影響を与えた貴重な経験であると思っています。

私は、慶應からの派遣生としてオレゴン大学に留学し、1年間英文科に所属しました。慶應と留学先でアメリカ文学についてしっかりと基礎知識を身に付けたことが、現在の私の研究の強固な基盤となりました。この経験はとても良い組み合わせだったと思います。慶應で学んだ知識を元にしてアメリカでさらに専門知識を身に付けることができたからです。

オレゴン大学では、アフリカ系アメリカ文学や文学批評、また女性学などの講義を受講しました。当時、こうした内容は慶應では特化された形ではほとんど開講されていませんでした。また、実技科目もあり、とても楽しいボーカルトレーニングの講義も履修しました(笑)。人生でも最も充実した1年を過ごすことができました。

他にも、外国で日常生活を送るという行為そのものが、私にとって大きな意味がありました。スーパーマーケットに行ったり、映画館に行ったり、寮で仲間と楽しんだりしたことが、すべて大切な思い出になっています。

ちょうどアメリカにいた時、ロドニー・キング事件によるロサンゼルス暴動があり、大学内でも集会が開かれました。それも非常に衝撃的な経験でした。それまでもアメリカのニュースには関心をもっていましたが、日本にいた時は遠く離れた場所でのことでしかありませんでした。しかし、アメリカで知るニュースはもっと身近に感じられ、アメリカについてもっと知りたいと思いましたし、同時に自分の国についてももっと知らなければと思いました。それが、私がアメリカにいた時に経験したことです。

MITでの経験

土屋

次に三木さん、お願いします。

三木

私は現在、慶應義塾大学理工学部の機械工学科主任と国際交流委員長を務めています。

理工学部は、国際活動の推進という点では最も積極的な学部の1つだと自負しています。1週間の短期留学コースから、最長で2年間留学する欧州の大学とのダブルディグリープログラム(修士課程を卒業すれば慶應と欧州の大学の両方から修士号を授与されます)まで提供しています。最近は博士課程学生を対象にした英国の大学とのプログラムも始めました。

私は慶應に来る前、MIT(マサチューセッツ工科大学)で3年間ポスドクとリサーチエンジニアをしていました。働いていたので厳密には留学生ではなかったです。博士号は東京大学で取得したのですが、その最終年度の2000年の夏、MITでの将来のボスになる人がたまたま研究室にやって来ました。彼が進めていたMITマイクロエンジンプロジェクトのことを知っており、興味もあったので、勇気を出してMITでポスドクポジションがあるか聞いてみました。すると、彼は笑顔で私にレターを送るようにと。

初めて英文のカバーレターを書き、指導教員の推薦状とともに送ると、面接に呼んでいただきました。その時の私ですが、「MITってどこにある?」「お、ボストンらしい。なんかいい感じ」「で、ボストンはどこにあるの?」「東海岸らしい」。その程度の国際性でした(笑)。

結果、無事採用され、修了後渡米し、MITマイクロエンジンプロジェクトで3年間働きました。2004年に日本に帰るまでのボストンでの日々は、最高で、そして視野をぐっと広げる(eye-opening)ものでした。

私の学生時代は、朝から夜中まで研究室にいて、午前3時に家に帰るような日々で、また、エンジニア仲間の友人しかいないような非常に狭い範囲で暮らしていました。しかし、ボストンでの生活は違いました。ボストンにはハーバード大学をはじめ複数の大学があり、日本からも、医師、政治家、ビジネススクールに通うビジネスマンなど、様々なタイプの人々が留学していました。様々な人と知り合い、その中で私はSushisという日本人のアイスホッケーチームをつくりました。

ボストンでの生活は、私をある意味白紙にしてくれたと思います。偏っていた自分が矯正されて、知見、視野が広がったと思います。現在私は、7年前に会社を立ち上げた経験から義塾における起業家育成の活動にも関わっています。その会社は結果的には上手くいきませんでしたが、MITやボストン時代の友人たちが立ち上げを手伝ってくれました。このように当時の友人とは20年たっても、仕事でもプライベートでも大変仲が良いです。

また、当時のラボでの親友の1人はベトナム難民でした。日本から遠く離れたところで起こったベトナム戦争をとても身近に感じました。最近も似たような経験をしました。

新型コロナウイルス感染症の世界的流行が終わった頃、私たちはようやく留学生たちを受け入れられると期待していました。しかしその時、ロシアがウクライナに侵攻したのです。その直後は、正直に言うと日本から遠い場所での出来事だと感じていました。しかし、留学生にロシア人学生がいたことで、一気に当事者意識が高まりました。さらに、ロシア人の考えも知ることができました。

日本のテレビ番組は、基本ウクライナ側の話のみですが、私は彼女からロシア人の本当の気持ちを聞きました。彼女はウクライナに多くの友人、親戚がいると話してくれました。もう1人いたロシア人留学生は、翌年、ウクライナから理工学部にやってきた留学生を案内してくれました。非常に不思議な状況でした。このように国際的な経験や活動があれば、物事を別の視点から見る機会を得ることができ、出来事の真実に近づくことができるのです。これが国際化についての私の経験です。

研究のために慶應に

土屋

では、バンミーターさん。慶應で博士号を取得されましたが、なぜ慶應に来られたのですか。

バンミーター

私は南カリフォルニア大学の研究機関で働き、その傍ら修士号を取得し、その後、日本と米国の企業で働きました。私はアカデミアと産業界の両方で働いた後、博士号を取得して、通常のコンピューティングシステムから量子コンピューティングへと、研究の方向(または雇用の方向)を変えたいと考えました。

そこで、私は1990年代に数年間日本に住んでいたので、日本で博士号を取得し、さらに数年間日本で過ごしたいと考えたのです。実は、東大の教授と伊藤公平さん(現慶應義塾長)にメールを送ったんです。伊藤さんは返信をくれたんですが、東大の教授は返信してくれませんでした。それで慶應に来たのです。最近は私もメールをほとんど読まないので、優秀な学生を見逃しているような気がします(笑)。

インターネット関連の研究で最も有名な研究所の1つの南カリフォルニア大学で働いていた私は、インターネットコミュニティで有名な村井純さん(慶應義塾大学教授)の名前を慶應義塾大学よりもよく知っていました。村井さんが慶應出身なので、きっとよいところだろうと思いました。

ノキアで働いていた時、当時慶應の博士課程の学生だった湧川隆次さん(現ソフトバンク先端技術研究所所長)が、学生インターンとして働いていました。彼は本当に優秀でした。慶應が皆、隆次のような人だったら、素晴らしい場所だと思いました。彼が村井研究室史上ナンバーワンの大学院生だったとは知りませんでした。そのようにして、私は矢上キャンパスに来ました。私の指導教員は物理情報工学科の伊藤さんと寺岡文男さんで、私は偶然にも矢上の国際プログラムの最初の博士課程の学生の1人でした。

私は博士課程を終える頃、米国でテニュア(終身在職権)の職を探し始めました。そうしたところ、湘南藤沢キャンパス(SFC)の村井さんから電話があり、「SFCのテニュアに応募してほしい」と言われました。そして今、17年が経ちました。予想もつかないような紆余曲折が起こることもあるのです。

日本に来ることが、予め私自身の長期計画の一部だったわけではありませんが、日本は今、私が住み、働いている場所であり、家族、住宅ローン、義母、学生、終身在職権、プロジェクト、大学での役職を抱えています。人生にはそういうことが起こるのです。

私は一部の人のように、もとから日本文化に魅了されていたり、日本を敵視したりしていたわけではありません。1992年に日本に初めて来た時、私は日本語をまったく話せませんでした。はっきり覚えているのは、初めて食料品店に行って買い物をしようとして、通路で黄色い液体が入ったペットボトルをひっくり返して、これが食器用洗剤なのか食用油なのかを見極めようとしたことです。まあ、両方とも必要だし、買ったほうがいいわけですが(笑)。

土屋

では、あなたの人生を変えた瞬間は、伊藤さんからのメールだったわけですね。

バンミーター

はい、そうです。道の途中で何が起こるかは本当にわかりません。でも、人生には、決断を下しても、その道がどこにつながっているか、また、別の道がどこにつながっていたかもわからない時があります。

転機となった東日本大震災の経験

土屋

それでは、ライルズさん。あなたはイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスとケンブリッジで勉強されたのですよね。海外で研究した際の最高の経験は何ですか。

ライルズ

今日はこれまで会ったことのない慶應義塾の新しい同僚に会えてうれしいです。

私はノースウェスタン大学の国際問題のアソシエート・プロボストで、地球の持続可能性に関する学長特別顧問も務めています。ロースクールの国際法の教授で、人類学の博士号も持っています。私は、国際法と国際機関に焦点を絞った学際的な学者です。

私は実は米国の外で育ちました。今では、米国で過ごした年数の方が長いのですが、長い間、逆でした。私は様々な場所に住んできましたが、学部生での留学経験は中国で過ごしたことだけです。それは本当に素晴らしく、私にとって人生を変える経験でした。

私が中国にいたのはとてもエキサイティングな時期でした。それは天安門事件の直前の「北京の春」と呼ばれた時期です。北京大学のキャンパスは学生のあらゆる種類の芸術作品で溢れていました。当時の学生にとって文学はとても重要なことでした。

私はフランスで育ったので、フランスの演劇を中国語に翻訳するのを手伝いました。それは素晴らしい経験でした。そして、私に世界情勢の理解への人文学の役割を気づかせてくれました。それまで人文学がどれほど重要であるかを本当には理解していませんでした。しかし、当時の中国人学生にとって、文学は同時代の政治を理解するための絶対的な源でした。それが私が学んだことの1つです。

しかし、私のキャリアの中で最も決定的な瞬間は、おそらく日本にいた時、東日本大震災を経験したことだと思います。当時、私は東京大学で研究をしていました。私にとってそれは人生を変える経験でした。窓の外を見ると、新宿のビルがほとんど触れ合うほど揺れているのが見えました。人々が津波にのまれていく映像、そして、福島第一原発の悲惨な事故を見るのは恐ろしいことでした。

研究者としての私は、その時点では重要な研究を行い、重要な場所で論文を発表するなど絶好調でしたが、一体それが何なのか、と自問しなければならない瞬間でした。つまり、なぜ私たちはこれをするのか、なぜこのような先進国でこのような事態が起こったのか、と。そして私たちには何ができたのか、そしてもっと重要なのは、次の大きな危機にどう備えることができるのか、と自問しました。

私はその時、自分の人生の方向性を変えたい、学者としてのレースで最高になることに重点を置くのではなく、研究者が次の危機に備えられるよう、分野を超えて世界中とつながるようにしよう、と決心しました。

そして、私たちは新型コロナウイルス感染症と呼ばれる次の危機を経験しました。私たちすべてが経験した次の大きな危機だと思います。私は、震災時に日本で経験したことを考えました。人口への影響、憂鬱、絶望感などについてです。しかし、その経験こそが、すべての仕事をともに行う理由なのです。

海外留学を妨げるものとは

土屋

皆さん有り難うございました。それぞれ興味深い経験をされており、それが現在のキャリアにつながっていることがよくわかりました。

次の質問に移りたいと思います。皆さんはそれぞれ大学で国際化、国際交流にどのような役割を果たしていますか。そしてその役割の中で、最も大きな課題は何でしょうか。

大串

私は国際センター所長として全塾の交換留学プログラムを担当しています。そこでの課題の1つに、受け入れと派遣のバランスがあります。交換留学生の受け入れについては、現在、慶應義塾大学という充実した修学環境で学びたいという500人以上の学生を受け入れています。こうした学生の皆さんを慶應は歓迎しています。

一方で海外に派遣する学生の数は、交換プログラム全体としては、270名ほどにとどまっています。国際センターとしては、より多くの学生に海外経験の機会を提供し、慶應の外へ出て世界を見てもらいたいと思っています。

ぜひ塾生の皆さんには、慶應での学びに加え、慶應の外へ出て、様々な文化に触れ、見聞を広めてもらいたいと思います。少なくとも400人、あるいは受け入れと同じ程度の500人近くの学生を派遣できればと思っています。

日本では経済が停滞しているため、費用の問題もあります。奨学金や助成金など、どのように学生への経済的支援をするか、私たちが提供できるその他の支援は何か、寄付や学生への経済的支援に関するリソースを探しています。

バンミーター

海外に行く学生が少ないということに関して、主な課題は4つくらいあると思います。経済的な面と言語の問題は明らかですが、学生の観点から見ると、他に2つの大きな課題があります。慶應義塾大学の学事日程が海外の大学と違うことと、そして就職活動の問題です。

大串

その通りです。

バンミーター

学生が海外に行くのに最適なのは3年生の時ですが、大学院に進学しない学生にとっては、就職活動にとって最も重要な年でもあります。これらの問題への取り組みは進んでいますか。

大串

私は新型コロナウイルス感染症が拡大する最中に国際センターの所長に就任しました。当初の国際センターの最大の急務は、できるだけコロナ以前の状況に戻すことでした。有り難いことに派遣も受け入れも、今はコロナ前の通常の状況に戻ってきていると思います。おっしゃる通り、塾生が留学する際の懸念点の1つに日本の学事暦が海外と違うことがあります。いつ準備していつから行けばいいのか、単位の交換が可能なのかなどが問題となります。

そしてご指摘の通り、日本の就職活動と留学の関係は非常に大きな問題で、おそらく他の国とは状況が大きく異なると思います。学生は2年生か3年生の時にインターンを始め、3年生の後半から4年生にかけて就職活動を本格化させます。就職活動のためにできるだけ早く、1年か2年生のうちに留学したいという学生も少なくありません。

しかし、大学としては、その時期に留学させることは難しい場合があります。学問分野の基礎科目の履修が少ない時には、受け入れの大学で希望する専攻や学部に所属できない可能性もあります。就職活動で有利になるかもしれないから、という理由だけでは難しい場合があります。

では、国際センターは、学生たちに海外での学問の追究を奨励するために、どのようなことをすればよいのでしょうか。インターンシップ付きの留学や、半学期ごとの学修機会など、プログラムを多様化するにはどうすればよいのか。慶應での交換留学がそもそもどのような位置づけなのかをもう一度考える必要があります。これは私たちが直面している課題の1つです。学生たちに留学を奨励するのと同時に、彼らの目標に合わせてシステムを調整する必要があると思います。

縦割り組織という課題

三木

私は、キャリアのために海外に出ることは問題ないと思います。学生にとってそれは重要なことですから。

問題はやはり、日本の就職活動が非常に独特だということです。学生は学位を取得する前に就職活動をします。ヨーロッパの学生を見ていると、基本的に学位を取得してから、半年から1年間就職活動をし、その後に働き始めます。

慶應理工の学生を見ると、大学院の修士課程1年目に半年間インターンシップをし、2年目の初めまで就職活動を行います。そしてその後は修士論文研究に取り組まなければなりません。私たち理工学部には非常にインテンシブなダブルディグリープログラムがあります。また、学期単位の交換留学や2、3カ月の短期の交換留学プログラムも多数あります。しかし、多くのプログラムを準備しているにもかかわらず、学生は就職活動のためにプログラムに挑戦するタイミング、時間的余裕がありません。

残念ながら、今の就職活動は産業界にとってローカルミニマム(部分最適)です。産業界は大学から多くの優秀な学生を一括で雇うことができます。そして学生がまだ学位を取得していなくとも、産業界は大学が卒業までに素晴らしい教育を提供してくれると信頼している(もしくは全く期待していない)のです。この就職活動文化は学生の留学の機会を奪っていますが、ローカルミニマムなので変えるのが大変難しい。

また、学生が留学に行かないのは、日本の産業界が他の国ほど学位を評価しないからでもあります。これもまた問題です。

大串

国際センターでは複数のプログラムを実施しています。慶應が直面している課題の1つは、大学の縦割り的な組織にあるかもしれません。各学部がそれぞれ独自に国際化を推進しています。もちろん、それは必ずしも悪いことではありませんが、大学全体で統一された国際化のビジョンを共有することが難しい場合があります。

例えば、国際センターは国際化やグローバル化に関するすべての事項を扱う部署と思われがちですが、国際センターの主な業務の範囲は全塾の学生交換プログラムの運営です。したがって、三木さんが理工学部の責任者として関与されているような、それぞれの学部が運営する交換プログラムに国際センターは関与していません。

国際センターは、慶應義塾の国際化の取り組みの真の中心(センター)とは必ずしも言えません。組織全体としての国際関係のより広い視点を考慮し、各部門が持っている情報や戦略を共有できれば、他の部門の先生方にも「これはいいアイデアですね、私たちにもできるかもしれない」とか「一緒にやってみましょう」といった気づきがあるかもしれません。私たちが直面している課題は、国際化やグローバリゼーションの観点から、縦割り的な制度、システムをどのように共有または解体できるかだと思います。

三木

まったく同感です。例えば、経済学部にはPEARLプログラムがあり、湘南藤沢キャンパスにはGIGAプログラムがあります。これらは学部生向けに英語で授業を提供する国際コースです。私はたまたまPEARLプログラムの学生たちを知っていますが、これらの学生を通じて素晴らしいプログラムだと実感しました。

私は理工学部に将来、国際コースを設けたいと思っています。いい名前を思いついたんです。Global Engineering Education at Keio 通称「GEEK」です(GEEK とはTech Geek やMovie Geekなど、ある分野に極めて詳しい人を意味します)。素晴らしいでしょう(笑)。大学のグローバル戦略を皆で考えたいです。

バンミーター

実はGIGAプログラムと名付けたのは私なんですよ。

矢上の多彩なプログラム

土屋

矢上の理工学部以外にももちろん慶應義塾のダブルディグリープログラムがあります。でも、なぜ矢上キャンパスにはこれほど多いのですか。

三木

これまでの国際交流委員長のおかげです。海外の大学とよい関係を築くには非常に長い時間がかかり、基本的には個人的、属人的な関係に基づいています。欧州の大学と理工学部が結んだ最も古い協定は、ドイツのアーヘン工科大学とのもので、1956年に遡ります。

また2003年にIGP(国際大学院プログラム)を開始しました。2005年にはフランスのÉcole Centrale Groupとのダブルディグリープログラムを開始しました。2007年には、T.I.M.E.Association(エンジニアリング分野のトップ大学による大学院ダブルディグリープログラムの枠組み)に加盟しました。この5年行っているJEMARO(Japan-EU 高度ロボティクスマスタプログラム)は、少し異なるタイプのダブルディグリープログラムで、ロボット工学分野に特化したものです。このようなプログラムのどれもが、長いコラボレーションの歴史に基づいています。

土屋

科学技術分野では英語で論文を書かなければならないですよね。人文社会科学と比べると、学生は英語に慣れていますか。

三木

それは正直よくわかりません。IGPは2003年に始まり、英語で行う授業を留学生向けに用意し、日本語ができない留学生も慶應に来られるようになりました。これは大きな前進だったと思います。今でも英語で講義することに前向きでない教員もいますが、当時の学部長や国際関係の中核メンバーの強いリーダーシップがあったと思います。

もう1つの問題は、学部に国際プログラムがないことです。学部では英語で教えている授業がほとんどないからです。

現在、特にアジアの大学では、学部での国際プログラムを積極的に推進しています。たとえば、IISMA(Indonesian International StudentMobility Awards)はインドネシアのプログラムで、多くの学生を海外に派遣しています。SFCには7人のIISMAの学生がいます。今年理工学部で2人のIISMA学生を受け入れる予定です。

ただそのためには英語で行う授業を準備する必要があります。幸い、私が主任を務める機械工学科は国際化に非常に積極的で、十分な数の英語の授業を用意し、留学生を受け入れる準備ができました。今後、理工学部として何ができるかをさらに検討する必要があります。

なぜ英語のプログラムが学内に必要か

バンミーター

特に学部の国際化プログラムについて話す際の重要なポイントの1つですが、PEARLとGIGAは、プログラムを立ち上げる際に2つの非常に異なるアーキテクチャの選択をしました。

GIGAプログラムはPEARLプログラムよりも数年前に設立されました。私たちは開始時にGIGAの学生をキャンパス全体の生活に直接統合することを決定しましたが、PEARLプログラムでは、PEARLプログラム自体と通常の経済学部の学位取得課程の間に壁があります。

私が皆に伝えていることの1つは、教員やスタッフが、なぜ少数の学生のために、英語での授業やプログラムを設置するのかを必死に訴える必要があるということです。確かに、私たちは留学生の数を増やすべきですが、これは入ってくる留学生のためだけに行っているのではないのです。私たちは日本人学生のためにも行っているのです。

英語を母国語とする私が、大多数の人が英語で育っていない国で、自分の言語を話すべきだ、と言うことはセンシティブなことです。しかし、ご存知のように、17世紀には科学をしたいならラテン語でした。18世紀に外交をしたいならフランス語でした。19世紀から20世紀初頭にかけては、工学や科学をしたいならドイツ語でした。戦後は、外交、ビジネス、科学、工学はすべて英語です。

私たちは日本の次世代のリーダーを教育しているので、そのリーダーはグローバルな環境で働く必要があります。彼らの中には英語以外の言語を学ぶことを選択する人もいますが、しかし、ほとんどの学生はキャリアのどこかの時点で英語が必要になります。

三木

多様性ということが非常に重要なのだと思います。私は体育会スケート部の部長を務めていますが、その活動の中でGIGA、PEARLプログラムの学生と出会いました。これらの学生は他の日本人学生と異なる背景を持ち、それゆえ異なる見方、ビジョンを持っています。このようなGIGAやPEARLの学生に、日本国内の学生とコミュニケーションをとってもらい、彼らの視野を広めてもらいたいと強く願っています。

日本では、多様性と言うと、男性と女性の比率の問題だけのように思われることがあります。もちろんこれも重要な問題です。しかし、日本に本当に足りない多様性は国際性です。米国では、たとえ教室の学生がすべてアメリカ人であっても、彼らの背景はまったく異なります。白人、アフリカ系アメリカ人、アジア系、中東やインドなどをルーツとする学生もいます。同じアメリカ人でも非常に多様なのです。

しかし、日本の教室、特に学部の教室では99%が日本人で、非常に似たような家庭で暮らし、同じような年齢で、多くは関東圏から来ています。多様性は革新を生み出します。私たちは異なる背景を持つ学生を受け入れなければなりません。

バンミーター

SFCでは、私の現在の研究グループは約40人ですが、皆で17の異なるパスポートを持っていますよ。

U7+アライアンス学長会議の経験

土屋

昨年2023年の3月、U7+アライアンス学長会議が三田キャンパスで開かれ、加盟大学の声を「東京声明:平和と安全保障のためのイノベーションを促すエンジンとしての大学」にまとめ、首相官邸で岸田文雄首相に手渡しました。

ライルズさんにも来ていただき、私たちは非常に緊密に協力しました。ライルズさんにはその後もいろいろな形で私たちの国際活動に関わっていただいていて、今年度の一部を慶應義塾のグローバル教授として過ごされています。

ライルズ

まず、米国から見た慶應義塾の国際化の取り組みについてお話ししたいと思います。私たちは慶應義塾と様々な場所で様々な強い関係を築いていますが、特に強いのは医学部間のパートナーシップです。医学部生の交換が非常に活発で、ノースウェスタン大学の学生の多くが慶應義塾で研修を受けています。これは素晴らしいことです。

しかし、最近、私たちはいくつかのエキサイティングな新しい方法で協力関係を拡大しています。これは伊藤塾長と常任理事の土屋さんのリーダーシップのお蔭です。

また、グローバル本部事務長の隅田英子さんも本当に素晴らしい同僚です。彼ら彼女らのリーダーシップのもと、慶應義塾はU7+アライアンス学長会議のリーダーになりました。

これはG7諸国のトップ大学と、グローバル・サウスを代表するために追加された、いくつかの大学の連合です。このアライアンスには合計約50名の大学学長が参加しており、2023年にはアライアンスのすべての学長を慶應義塾が迎えました。それは多くの理由で注目に値することでした。

学長会議が慶應義塾で開催された、まさにその同じ日に慶應義塾は韓国の尹錫悦(ユンソンニョル)大統領を迎えていました。そして、なんとか伊藤塾長と土屋さんは50の大学の学長を1つのドアに、韓国の大統領を別のドアに入れることに成功したのです。それは本当に素晴らしいことでした。そして、キャンパスで最も重要なゲストであるかのように、誰もが歓迎されていると感じました。本当に素晴らしかったです。

この会議の年は広島でのG7首脳会議の年でもあり、その会議のテーマは安全、世界平和、安全保障でした。そこで私は、土屋さんと協力して、これらの大学の代表者からなる委員会を招集し、全学長が署名した声明を起草するという栄誉に浴しました。声明では、世界平和と安全保障を主導する上での大学の役割や、私たちができることについて語られ、それが首相に渡され、その文言の一部は実際にG7コミュニケに盛り込まれました。

私たちはとても嬉しかったのですが、それはすべて、土屋さんが裏で働き、あらゆる人間関係に働きかけて、すべてが上手くいくようにしてくれたおかげです。慶應義塾が日本政府といかに緊密に連携しているかは、外部の私たちにとって非常に印象的でした。アメリカの大学では必ずしもそうではないからです。

土屋

優しいお言葉を有り難うございます。

ライルズ

これは日本の大学にとって非常に重要な瞬間だったと思います。今はアメリカの大学がリーダーシップから少し後退していて、日本の大学が前に出て、世界にリーダーシップを発揮する絶好の機会です。慶應義塾はまさにそのビジョンを持っていると思います。

そして、U7+アライアンスでは、伊藤塾長と慶應義塾、そして土屋さんのリーダーシップに多大な尊敬の念を抱いており、慶應義塾のリーダーシップのもとで将来進んでいくことを心から期待しています。

最高の研究者を集めるために

土屋

QS世界大学ランキングでは、ノースウェスタン大学は世界第50位です。これは素晴らしいことです。ノースウェスタン大学には2万466人の学生がおり、慶應義塾大学には3万3437人の学生がいますが、慶應義塾大学の留学生の割合は9.3%です。ノースウェスタン大学は22.2%で、大学院レベルでは留学生が80%を占めています。アメリカの大学が留学生を集めるのは簡単なのでしょうか。

ライルズ

私たちの役割はできる限り最高の研究を行うことです。つまり、出身がどこであるかにかかわらず世界最高の研究者を揃える必要があります。私たちはただ最高のものを求めています。ですから、おっしゃる通り、大学院生のほとんどが米国生まれではありませんが、それは私たちにとってまったく問題ありません。

最近は難しくなっていることもあります。研究室に中国人学生を受け入れる規制がはるかに複雑になっているのです。ビザ取得が思ったほど簡単ではないこともあります。10年前とは環境が変わっています。

しかし、国際関係の仕事に携わるもの、さらにすべての教員は、これは良いことではないと考えています。人々が自由に移動し、米国で過ごすことで世界はより良くなるわけですから。そして、彼らが米国を好きになり、国に戻って米国を支持してくれることを願います。それは私たちの国にとって良いことなのです。また、最も優秀な人たちが私たちと一緒にいることは科学研究にとっても良いことです。

そうした人々の多くは、卒業後も米国に留まるという結果も出ています。それは良いことです。なぜなら、そうすれば、私たちの国で世界最高の頭脳が私たちのプロジェクトに取り組むことになるからです。ですから、私は政治情勢が少し落ち着き、国と国の間が以前と同じようにオープンになることを願っています。

バンミーター

私は慶應義塾大学の量子コンピューティングセンターの副センター長を務めています。そして、私たちは過去20年間、商業的な競争と国家安全保障上の懸念の両方に対する関心が高まるのを見てきました。

そして、それが現在の地政学的緊張と相まって、契約上許可されていて、国籍に基づいて誰と研究を行うことができるのか、それが許されていたものについても、多くの反発や変更を受けています。当初は、国籍は関係ないと言われていたのです。日本で合法的な学生ビザで滞在している限り、研究に参加できるはずです。これらの規則は、私が気に入らない方法でここ数年変更されてきました。

ライルズ

私たちの大学では、他の大学とは異なり、機密研究は行いません。私たちの研究はすべて公開研究です。ですから、アソシエート・プロボストとしての私の立場は、政府に対して、もしそれが非公開であるべきだと考えるなら、それを機密扱いにしてください、そうすれば私たちはそれを行いません、ということです。その研究を機密扱いにしたくないのであれば、誰でも取り組めるようにすべきです。

バンミーター

110%賛成です。私は自分のグループの学生の国籍や、特定の研究への参加が許されるのかどうかを確認するよう求められていますが、私は個人として彼らの国籍情報にアクセスできません。

学生が学生ビザを必要とする場合、学生部の誰かがそれを手伝います。しかし、彼らがすでに他のビザで日本に居住していたり、二重国籍を持っている場合、私の知る限り、それを調べていません。今、私は伝聞に基づいて、誰が量子コンピューターを使用できるのか、誰が使用できないのかを決定するよう求められています。

国際化のカギとなるもの

土屋

3つ目の質問に行きたいと思います。これからの大学のあり方についてビジョンやアドバイス、希望、要求、不満などを教えてください。未来の大学とはどのようなもので、慶應義塾は何をすべきでしょうか。

三木

私たちは世界中の人々の循環を促進しなければなりません。私は、慶應義塾が、学部生、修士学生や博士学生、さらには研究者や教員の世界的な循環のハブになってほしいと心から願っています。世界中の人々が研究や交流のために慶應義塾に立ち寄るのです。そして彼らと交流することで、慶應義塾の学生も世界に出ていく準備ができます。

例えば博士課程修了後、海外に渡り、そこでポスドクをし、その後世界のどこかで仕事を得ます。すぐでなくとも、20年後に彼らは日本に戻ってきて国に貢献してくれるかもしれません。それは素晴らしいことではないでしょうか。私たちはすぐにそのような環境を整えなければなりません。

慶應義塾は福澤諭吉によって創立されたのですから、私たちこそ国際化を高く評価しなければなりません。彼はアメリカやヨーロッパに行った最初の日本人の1人です。慶應義塾が学生や研究者の国際的な循環を支える良い一部となることが私の希望です。

また、日本の経済が大きく後退している中、ポスドクの給料の話をしなければなりません。ポスドクの給料というのはおおよそその地域の最低賃金なのですが、例えば現在のMITに雇用されているポスドクの最低給与は7万ドル近く、日本円で1000万円なのです。わが国からの支援ではここまでの給与は出ません。経済的な支援をさらに行うか、もしくは現地の大学、プロジェクトに直接雇用されるように教育する必要があります。

土屋

バンミーターさんは慶應義塾の国際化について100の課題を挙げることができると思いますが、トップ3くらいを教えてくれますか。

バンミーター

日本の科学の進展を妨げているものは4つあり、そして、慶應義塾の将来はそのことと非常に密接な関係があると思います。

一番のポイントは、三木さんも触れたように大学院生に最低の賃金を支払うことさえデフォルトではないという事実です。デフォルトは何も払わないことで、そうではなくて教授に研究費がある場合、プロジェクトに取り組んでいる学生は時給1100円ほどをもらえるかもしれません。マクドナルドで働けばそれより稼げます。これは受け入れられる金額ではありません。そして少しのお金を払うためにも時間とエネルギー、背景の理解が必要で、常に不確実なのです。海外からの大学院生に生活賃金を約束しなければ、彼らは来ることができないでしょう。

私たちは学生に、入学後に数千ドルの追加の奨学金に応募できるかもしれないと伝えています。彼らは「たぶん」や「わからない」、「入学してから」というのでは、入学するかしないかの決定を下すことはできません。それは不可能です。

プリンストン大学では、すべての博士課程学生に給料として4万~4万5千ドル支払われます。今日の為替レート換算では600万~700万円近くになります。しかも授業料はかかりません。日本の大学院生は授業料を払わなければなりません。資金の問題が日本の科学全体に横たわる1番の問題です。

2番目は言語の問題です。私たちは矢上とSFCの両方で国際プログラムを正しい方向で展開してきたと思います。私が2007年にSFCに着任して以来、大学院政策・メディア研究科の学生の約25%は外国人学生だったと思いますが、彼らはいくつかのプログラムに集中することができ、他のプログラムではそうではなくなりました。

3番目の問題は「サイロ化」の問題です。サイロ化とは、学生が同じ大学に留まるということです。学部と大学院の間で学生の出入りをもっと流動化させる必要があります。他の大学院により多くの学生を送る必要があり、海外の大学からより多くの大学院生を受け入れる必要があります。

そして4番目は、慶應義塾が直接制御できるものではありませんが、日本の博士号取得者のキャリアパスが不明確であることです。日本では、博士号取得が米国ほど魅力的なキャリアパスではないと思います。日本では博士号取得者の多くが独立した研究者ではなく、比較的平凡なエンジニアリングの仕事に就いていると思います。

そして、私たちが話していないもう1つの大きな問題はジェンダーです。2013年から2023年の間に、日本の女性研究者の割合は14.6%から18.3%に増加しました。10年間で3.7%の増加です。つまり、このままだと男女比が均衡するまでにはさらに80年かかるということで、これは受け入れられないことです。私たちはその問題を解決する方法を見つけなければなりません。私の研究分野であるコンピューターサイエンスと物理学では、さらに悪い状況です。

国際的な課題解決のための拠点に

土屋

ライルズさん、慶應や他の日本の大学へのアドバイスをお願いしたいのですが。

ライルズ

私はアドバイスをする立場ではないですが、この座談会に科学者が2人参加しているのは興味深いことだと思います。なぜなら、現在、多くのグローバルな仕事の重心が伝統的な社会科学から科学技術に移っていると思うからです。

私の専門分野ではありませんが、おそらくこれらの分野は、グローバルな使命を理解し、グローバルに行われている活動の中心により位置づけられるべきである、ということを心に留めておくことが重要なのだと思います。私は、三木さんの「グローバルなハブになる」という考えが大好きです。慶應義塾は間違いなくグローバルな拠点になれると思います。

国際化に関するデータを見ると、学生交流の問題以外にも多くの問題があります。共同執筆や共同研究という本当に難しいことに比べれば、交流は比較的簡単です。共同研究が始まれば、学生交流は自然に起こります。教員、ポスドク、大学院生、そして学部生の流動性を備えた分野を横断した共同研究の拠点になることは、まさに「ゴールド・スタンダード」だと思います。

次の大きなステップは、いくつかの大きなグローバルな課題を特定することです。つまり、気候危機をどう解決するか、AIが兵器産業を運営するようになる世界でセキュリティをどう確保するか、デジタル世界で市民がどのように情報に適切にアクセスできるようにするか、といった問題があります。

どんな問題でも構いませんが、世界中の誰もが理解できる大きな問題を選んでください。そうすれば、こうした問題に関する研究拠点となることができ、その問題を理解し、変化を起こしたいなら、慶應に行かなければならない、ということになるでしょう。

それが、将来に向けて慶應を確立していく方法になると思います。政府や産業界との関係が深い慶應なら実現可能です。もちろん、研究は極めて優れているわけですから。

多様性を理解するための国際化

土屋

「QS世界大学ランキング2024」で研究分野別に見た場合、慶應義塾大学は人文学と社会科学で良いスコアが出ています。なかでも、Classics & Ancient History(古典と古代史)が非常に高く評価されていることに驚いています。大串さん、この結果も見ながら、慶應はこれからどのようにすべきでしょうか。

大串

古典と古代史に関しては、慶應は中世ヨーロッパ研究が非常に有名で、本塾の図書館にはグーテンベルク聖書をはじめとした稀覯本の所蔵があることとも無関係ではないでしょう。本塾が誇る非常に重要な分野だと思います。

おそらく私のコメントは、国際センター所長としてではなく、人文学者としてのコメントになります。ここまで言われていたようなデータや数字などの目に見える目標は、重要なものですし、理解しやすいものだと思います。しかし、私にとって国際化の最も重要な点は、可視化されない心の問題にあります。それは人間のまさに基礎となるものです。

私は学生たちに、私たちの外にはどれほど多くの異なる世界があるかを知るためにも、海外に行ってほしいと思っています。そして、今自分が見ている世界が、自分が住んでいる世界が、唯一の世界ではないことを知ってもらいたいのです。

言語の面では英語が支配的ですが、世界にはたくさんの言語があり、たくさんの異なる文化があります。異なる文化間の知識は、異なる視点を得るための基礎だと思います。自分が見ている世界の外に、どれほど多様な文化や思考、生活があるのかを知ることが重要だと思うのです。

国際的な経験とは、自分が持っている価値観を壊し、新たな価値観を再構築することだと思います。それが国際化とグローバル化のまさに基礎だと思います。

他の文化や異なる世界に対して寛容になることも重要だと思います。自分なりの価値観を持つことは良いことですが、世界に対して寛容になってはじめて見えてくるものもあります。そしてまた、自分も「他者」として見られることを意識することも必要だと思います。そのことが性別やセクシュアリティ、階級、人種、エスニシティーなどの多様性の理解につながっていくのではないでしょうか。

だからこそ、私は学生たちに、彼らが知る世界とは異なる世界についてもっと知ってほしいのです。ナイーブに聞こえるかもしれませんが、人文学者として、このことは言い続ける必要があると思います。

世界中で紛争があり、抵抗運動があり、改革への叫びがあります。解決は難しいかもしれませんが、私たちはその背景を知り、なぜそれに取り組んでいるのかを知る必要があります。国際化、グローバリゼーションには、そのような背景を考える力を養うことができると思います。

土屋

今日はとても素晴らしい議論をすることができました。ご参加いただき、有り難うございました。

(2024年7月24日、オンラインにより収録。英語で行われた討論を和訳・編集して掲載した。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。