執筆者プロフィール

倉方 俊輔(くらかた しゅんすけ)
大阪市立大学大学院工学研究科准教授、建築史家
倉方 俊輔(くらかた しゅんすけ)
大阪市立大学大学院工学研究科准教授、建築史家
2021/05/10
キャンバスのようにキャンパスを見る
「キャンパスという展示空間」という仮題をいただいて、そういえば「キャンパス」(campus)と「キャンバス」(canvas)は似ているなと思った。原語だと語源も発音も異なるのだけど、カタカナにするとわずかな差になり、どちらも庶民生活から少し離れた気取りをまとっているから、重ね合わせてしまうのだろう。もちろん、建築は3次元のものなので、それを展示に見立てた時にも「空間」と呼ぶにふさわしい。だが、あえて、2次元のキャンバスのように把握したらどうだろうか。両者が似ているのは、フレームや敷地の中に閉じて、全体が人工的に造形され、永続性を念頭に置いていることだ。
キャンバスのようなキャンパス。そう口にした時に思い浮かぶのが、例えば兵庫県西宮市にある神戸女学院大学の岡田山キャンパスだ。ウィリアム・メレル・ヴォーリズが全体計画から関わり、長方形の広場を4棟の校舎が取り囲む校舎群が1933年に完成した。特徴的なタイルづかいなど共通の趣味が横たわる中でも変化に富み、外界と切り離された小宇宙ができあがっている。全体が一気に「面」としてつくられ、それが基本的に今でも保たれている。
筆者は早稲田大学の出身なので、同校についても少し語らせてほしい。早稲田キャンパスの中でも、1925年に完成した旧図書館(現・會津八一記念博物館)は傑作である。形式にとらわれないロマンティックな世界が内部に広がっている。ただし、これは大隈講堂などと並んでキャンパス内にかろうじて残された素晴らしい「点」であって、これは他の都心の私学キャンパスでもおおむね同様だろう。
本年、丁度150年の節目を迎える三田キャンパスはどうだろうか。「面」という全体性でもない。数少ない「点」だけがあるでもない。個性を備えたものが隣接し、共同体に奉仕している。それがキャンバス全体で見た時の、得も言われぬ深みになっている。となると「線」をたどることになる。俯瞰からいったん降り立って、1つ1つのマチエールを追ってみたい。
三田キャンパスの建築をめぐる
三田キャンパスは、1871年に島原藩中屋敷のあったこの地に慶應義塾を移したことに始まる。当初は藩邸の屋敷を使っていたが、1875年に今までになかった建築が誕生した。現在、国の重要文化財に指定されている三田演説館である。前年に発刊された『学問のすゝめ』12編の中で、福澤諭吉は英語の「スピーチ」を「演説」と訳し、「大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思う所を人に伝るの法」と説いた。活用してこそ学問だという『学問のすゝめ』の全体を貫く信念からも、演説は日本で普及されるべきものだったのである。
この出版と同年に三田演説会が結成され、翌年には演説を実践する場として三田演説館が完成する。外観が和風のなまこ壁になっているのは、高い天井と柱のない広間を可能にするつくりが、当時は江戸時代から受け継がれた土蔵造りしかなかったためだが、アメリカから図面を取り寄せ、手持ちの技術を組み替えて「大勢の人を会して説を述べ」るにふさわしい空間を創出した活力の証明であり、江戸時代からの漢学の教養を駆使して、輸入された概念を人々が使えるようにした福澤諭吉らしさが表れている。
三田演説館があるあたりは藩邸だった頃に稲荷祠が設けられていたことから稲荷山と呼ばれ、今も眺望が開け、三田キャンパスが高台にあることが実感できる場所である。三田演説館がここに移築されたのは関東大震災後で、当初は図書館旧館と塾監局の間に建っていた。
1912年に開館した図書館旧館も、国の重要文化財に指定されている。こちらは内外ともに、福澤諭吉の唱えた学問が、明治の間に確かな足取りで蓄積されたことを実感させる。1906年に慶應義塾創立50年記念事業として、待望されていた図書館建設の寄付金を募り、予定額の30万円、現在の金額にして数十億円に達したことは、それまでに培われてきた慶應義塾への信頼と出身者の活躍を示すものだろう。設計を行ったのは1908年に開設されたばかりの曾禰中條建築事務所で、これは当時の評議員会議長である荘田平五郎が曾禰達蔵に声をかけたものだった。この荘田こそ、三田演説館竣工前に慶應義塾で教鞭をとった後に三菱に入社して、政府が売りに出した丸の内の土地を買い取ってオフィス街にすべきことを岩崎弥之助に提言し、国の雇いを辞めたジョサイア・コンドルを三菱の建築顧問に迎え、コンドルに学んだ国内最初の建築家の1人である曾禰達蔵も入社させて「一丁倫敦」と呼ばれる街並みを誕生させた人物だ。曾禰らは期待に応え、堅牢な煉瓦造であるばかりでなく、華麗で変化に富んだ図書館を完成させた。個々人の親しみから永続の感が生まれるような建築は、国家の主導から民間へ、明治から大正へという時代の先端に建っている。
慶應義塾と建築家
慶應義塾は建築家との関わりが深い。江戸時代以来の大工棟梁に代わり、新しい技術と意匠によって依頼者にふさわしい自画像を設計する、そんな各時代の建築家に力を発揮させてきた。その最初が、曾禰中條建築事務所だ。曾禰達蔵と16歳下の中條精一郎の下で、優れた若手建築家たちが腕を振るい、質の高い民間建築を数多く生み出して、第2次世界大戦以前における国内最大の建築設計事務所となった。慶應義塾は図書館旧館を通じて同事務所に初期の名声を与え、以後もさまざまな設計を依頼したのだった。
図書館旧館の向かいに建つ現在の塾監局は、曾禰中條建築事務所の設計によって1926年に完成した。玄関の上部を二連のアーチにしたり、ゴシック様式の控壁のようなものを壁から突き出させたりと、図書館旧館との関係を意識しているのが分かる。大きく違うのは鉄筋コンクリート造であることで、これにより玄関を入ったところは広々として、内部から見た窓も意外に大きい。外壁に貼り巡らせた黄土色のタイルも、近づくと1つ1つに色の違いがあり、それが遠目に見た時の深みにつながっている。煉瓦の風合いを受け継ぎながら、また違った色彩をキャンパスに加えて、これが後年にも継承される。
同じ曾禰中條建築事務所の設計でも1937年に完成した第1校舎は、鉄筋コンクリート造に過去の様式を思わせる装飾を施した塾監局とは異なる魅力を持つ。装飾らしい装飾がない外観は、質実剛健といった印象を与える。内部では折り返しの階段が走る3層の吹き抜けや、室内に柱のない大教室が圧巻だ。そんな迫力は実体としての形ではなく、構造体である鉄筋コンクリートの柱や梁がつくる空間に由来している。機能的でおおらかな工場のようだ。と思っていると、壁の1番下にだけ褐色のタイルをめぐらして、しかも床に接する部分に微妙なカーブを施されているといった、様式を扱うのにも似た気づかいも目に留まる。外壁が薄黄土色のタイルであることも、柱型が付けられていることも、塾監局と断絶した存在にはしたくなかったためだろう。大銀杏のある中庭に面して左右対称の形であることが意識されないほどに長く大きいが、威圧的ではない。様式を抽象化した割り切りとタイルなどの配慮の両立によって、キャンパスの風景の一部になっているためだ。
完成の年、曾禰達蔵が没し、前年に中條精一郎を失っていた曾禰中條建築事務所は活動を停止した。日中戦争が始まり、以後、鉄筋コンクリートの建築は建てられなくなる。そんな時代の節目に位置する。
谷口建築とモダニズムの時代
曾禰中條建築事務所の後、慶應義塾の建築家と言えるのが谷口吉郎だ。関わりの始まりは1937年に完成し、今も現役の慶應義塾幼稚舎である。校舎の設計を当時、慶應義塾常任理事を務めていた槇智雄が依頼したのだった。谷口はまだ20代であり、助教授を務める東京工業大学の水力実験室と数棟の住宅しか手掛けていなかったが、谷口は従来の校舎のありかたを継承するのではなく、新しく考え直して、良いと思うものを設計した。モダニズムと呼ばれる手法だ。第2次世界大戦後の三田キャンパスで、これが大いに使われることになる。
1949年には5号館、4号館、学生ホールが木造で完成した。これらによって、谷口は建築家の最も栄誉ある賞、日本建築学会賞(作品)の第1回受賞者に輝いた。学生ホールの東西の両壁面には猪熊弦一郎による壁画「デモクラシー」があり、今は西校舎内の食堂に移設されているが、こうした芸術家との協働は現在、南館にある「ノグチ・ルーム」につながる。これは1951年に完成した鉄筋コンクリート造の第2研究室の一部を移築したものだ。谷口は木造の校舎、鉄筋コンクリート造の校舎を通じて、縦に細い窓を連続させるというデザインモチーフを用いることで、三田キャンパスに清新な一貫性を付与したのだった。
煉瓦色が姿を消した時代に建っているのは、左手の部分が1959年にでき、1962年に全体が完成した西校舎も同じだ。左手の部分には、建設開始まで赤煉瓦の壁がそびえていた。それは1915年に曾禰中條建築事務所の設計で完成した大講堂が1945年の空襲で焼け落ちた姿で、当初は修復して用いることも念頭に置かれたが、結局はまったく新しいものに替えられたのである。
戦前の日本で有数の規模を誇った2000席の大講堂の代わりに、800人教室(現・西校舎ホール)が位置するが、これが大空間を内包した建物だとは気づきづらいだろう。谷口吉郎の学生ホールを現在の北館の位置に移築した跡地に、右手の部分が建設されたが、どちらも変わらない外観であるためだ。設計を担ったのは三菱地所の設計部(現・三菱地所設計)で、「一丁倫敦」と呼ばれた丸の内の赤煉瓦街が戦後のビルに建て替わっていくのと並行した動きだった。
コンクリート打ち放しの構造体を露出させて、さまざまな空間を内包するさまは今、とても魅力的に映る。それはなぜだろうか。戦後の都市開発をリードした一流の設計者が全体を科学的に計画し、細部までデザインし尽くした清々しさのためだ。今のように多種多様な既製品があるわけではないから、鉄や木といった素材そのものが生かされ、戦前や現在のように「大学らしさ」や「講堂らしさ」などを目指していないので、時の流れに耐えうるのだろう。あまり注目されていないかもしれないが、第1校舎と共に、この時代を語る貴重な建築であることは強調しておきたい。
三田キャンパスを“編み直す”
1969年に完成した研究室棟も三菱地所などが設計したものであるが、同じモダニズム全盛の高度成長期とはいえ、この頃になると優しさが加わっているのが分かる。象徴的なのが「煉瓦」の復活だ。煉瓦色の外装と白く塗装された柱梁の組み合わせが、図書館旧館との調和を意識していることは明らかだろう。前面に並べられた大きなプランターにも、既存の環境への配慮といった傾向が読み取れる。同時に、これらや建物の柱梁には工場生産されたプレキャストコンクリートが使われている。繰り返しによる工業化の美学は健在なのである。
ユーモラスに「父は慶應の建築を26棟設計しています。〈中略〉私には3件しか依頼がありませんでしたけど(笑)」と、槇文彦との対談で語っているのは、MoMAや東京国立博物館法隆寺宝物館などを設計した世界的建築家の谷口吉生だ。谷口吉郎の子であり、高校・大学と慶應で学んだ。槇もまた、やはり世界的に著名な建築家であり、彼が通った慶應義塾幼稚舎の設計を谷口吉郎に依頼した槇智雄の甥である(槇文彦・谷口吉生「慶應建築の系譜」『三田評論』2020年2月号、74~87ページ)。
日吉図書館や湘南藤沢キャンパスを手掛けた槇文彦が、最初に慶應の仕事を行ったのが三田キャンパスの図書館新館で1981年に完成し、ついで大学院校舎を1985年に完成させた。外観は装飾を排除しながらも四角い箱ではなく、表皮の繊細なデザインによって、外面のラインがどこかを確定しづらくしている。図書館新館の入り口や、大学院校舎の外部階段は、それが面する中庭に手を伸ばす要素である。
隣接する図書館旧館や塾監局に対しては、外壁のタイルの色を合わせたという以上に、内部からガラス越しに新たな眺めを提供することで関係性を与えている。モダニズムのデザインを皮膜として操作し、内部と外部に二分されない空間をめざす槇の作風が三田キャンパスを編み直しているのが分かる。
三田キャンパスに見る「慶應的なもの」
三田キャンパスの建築からは、「線」でつながる隣接性が読み取れる。モダニズムの時期においてすら、時代が断絶的なものではないことに思い至らせる。建設された時にそのようなものであったことに加えて、このように各時代のものが残されているということ。これ は「慶應的なもの」ではないだろうか。
三田キャンパスには歴史がある。古くからのものがあるというだけの意味ではない。「歴史」そのものが存在する。格闘し、再解釈し続ける人間というものが実感できる全国でも貴重な空間である。未来をつくるのは、単線的でない教養だろう。歴史という大切なものを、三田キャンパスは建築という具体物で示している。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。