慶應義塾

【特集:ポピュリズムをどう捉えるか】比較の中のラテンアメリカのポピュリズム

執筆者プロフィール

  • 出岡 直也(いづおか なおや)

    法学部 教授

    出岡 直也(いづおか なおや)

    法学部 教授

2020/02/05

ラテンアメリカは、ポピュリズムを考察する上で重要な地域である。議論に含めないわけにいかない典型的な諸事例を提供してきたのみでない。同地域のポピュリズムの多くは、ヨーロッパを中心とするいわゆる先進国において主に見られるものとは異なるタイプであるとして、「ポピュリズムの2つのタイプ」の議論を行う考察・研究が多い。紹介は概観にとどめ、いわば「ラテンアメリカ的」なタイプの定義的な特徴とされる性格に焦点を当てることにより、この地域への着目がポピュリズム現象の理解をより深めることを示すのが本稿の目的である。

紹介し、考察するにはポピュリズムの定義を示さなくてはならないとも考えられるが、紙幅の制限もあり、ここでは省略したい。ただ、以下で挙げる諸事例は、どのような定義を採用する議論でもポピュリズムとされてきた。そして筆者は、「ポピュリズム」に関しては、多くの人が同種の現象であると認める諸事例をどれも収めうるように、色々な定義が工夫されてきた側面も大きいとも考えている。なお、2019年に政権に就いたブラジルのJ・ボルソナーロの政治は、以下で扱う事例と大きく異なっている。しかし、ヨーロッパのものも含めて従来ポピュリズムとされてきたほかの事例との相違から、また、関連して、現在有力な複数の定義から、それがポピュリズムかは議論の余地が大きく、以下では扱わなかった。

ラテンアメリカにおける「ポピュリズムの3つの波」

ラテンアメリカでは、ポピュリズムの政治が同時代にいくつかの国で顕著に現れた3つの時期を指摘できる。第1の波は、1930- 40年代を中心とした時代に現れ、その最も典型的とされる事例が、アルゼンチンのフアン・ペロンのものである。1943年に軍事クーデタを行った将校グループの中心の1人であった彼は、労働関係官庁のトップの職に就いて、福祉拡充、賃金上昇などの労働者寄りの政策を行い、自らを支持するものへと労働組合をまとめ、組織化も進展させる。また、配偶者のエバ・ペロン(エビータ)とともに寡頭支配層と帝国主義(大国の資本や権力)を強く攻撃し、自らを豊かでない人々の代表とする主張を、強烈な演説などで示した。そのようにして支持を集めたペロンは政党を形成して46年の選挙で勝利する。大統領になった後も同様の政策・アピールを続け、国有化と国内資本による工業化を振興する政策での経済発展を進める。他方で、反対派に対する弾圧も行い、権力集中も明らかだった。大統領府のバルコニーからのペロン夫妻の演説に、大統領府前の広場に集まった多くの人々が熱狂する様子は、ポピュリズム政治を象徴する光景であり、そこに示される〈民衆層に直接的に訴えかける指導者の個人的な人気〉をポピュリズムの定義的要素とする議論が支配的だった。ほぼ同時期のブラジルのG・ヴァルガスやメキシコのL・カルデナスも、文脈はそれぞれ異なるが、同様の政治スタイルを持ち、類似した政策を行った。

第2の波は、1990年代前半に新自由主義改革を行った政治家の一部、アルゼンチンのC・メネム、ペルーのA・フジモリ、改革を行おうとして腐敗スキャンダルによって政権を追われたブラジルのF・コロルなどの政治からなる。ポピュリズム政治による場合は、新自由主義改革が急速で極端になった傾向が指摘しうるだろう。

第3の波は、多くの人々が新自由主義の政策に不満を持ったことを基盤として、ポピュリズムの特徴を持つ左派的な指導者たちが広く支持を集めた時期である。1990年代末から21世紀初頭に政権に就いたベネズエラのH・チャベス、エクアドルのR・コレア、ボリビアのE・モラレス(ただし、社会運動に基盤を置くためポピュリズムとは異なる性格を持っているとする論者もいる)などである。石油などの世界価格が高かった条件の下で、これらの指導者、特にチャベスは、貧しい人々の生活条件の改善を強く進めた。先住民人口が多いところでは、先住民の権利・文化の重視と重なるが、恵まれた環境になかった人々のシンボリックなエンパワーメントも重要な要素とする点でも、第1の波の指導者たちと共通する。

第2の波以降では、テレビなどが重要な役割を果たすなどの変化もあるが、人々に直接的に、単純なメッセージで訴え、従来の組織・制度を攻撃し、ルールを軽視し、大きな変革を唱える点で、第1の波のポピュリズムとの共通性は明らかである。

ラテンアメリカのポピュリズムの包摂性

ポピュリズムについての多くの議論で、ラテンアメリカ諸国の事例は、ヨーロッパ諸国の多くに見られ、米国でもD・トランプの勝利の形で顕著に現れた「排除的(exclusionary)」なタイプとは対照的な「包摂的(inclusionary/inclusive)」なタイプとして取り上げられる。後に紹介する水島治郎やC・ミュデらの議論が、その代表であろう。しかし、経済政策的にはこの地域のポピュリズムが必ずしも包摂的なわけではない。第2の波のポピュリズムの政策的な特徴であった新自由主義は、少なくとも所得再分配的ではない。ポピュリズムに関する議論における〈ラテンアメリカにおける第2の波のポピュリズム〉の扱いは曖昧であるが、筆者は、後記の理由で包摂的であると考えているし、少なくとも先進国の「排除的ポピュリズム」とは根本的に異なっている。では、ラテンアメリカのポピュリズムの包摂性は主にどこに現れるのだろうか。

1つは、「反移民主義(ネイティヴィズム)」の欠如である。その最も単純な説明は、ラテンアメリカ諸国では排外感情がそれほどは強くないというものである。一般にラテンアメリカ諸国で移民排除・差別がないとは言えないだろうが、「民衆層/普通の人々」(“the people”)に訴えかけるポピュリズムでその要素が重要ではないことの基盤に、排外感情の小ささがあるとの議論は成立しうる(新たにやって来る人々が先進国のようには多くないという差異も、重要な要因だろうが)。

そのような解釈を行い、それを植民地であった過去と結び付けた理論化を行うのがD・フィルクである。筆者なりに整理すれば、植民地を持った西ヨーロッパ諸国は、植民地主義が〈人種主義に基づいた現地人の排除〉を特徴としたことの延長線上にある「ネイション=国民」観念を持ち、ポピュリズムが訴える民衆層がそのように想定されるのに対し、ラテンアメリカ諸国では、混血などの混淆を特徴とする「包摂的」なネイション観念を特徴とするという議論である。そして後者は、〈大国の経済的な支配とそれと結びついた自国の豊かな人々(寡頭支配層)への反対としての反植民地主義〉と同一視されている。

植民地としての性格による説明?

この議論は多重的な混乱を含んでいるように思われる。何よりも、ラテンアメリカのネイション観念は、植民地一般であったことからではなく、特殊な性格を持った植民地であったことによると考えるべきである。ラテンアメリカとなる地域の広い部分では、植民地化の時点に社会階層化に基づく政治が存在した。その場合には、宗主国からは従来の収奪システムを利用する行政担当者やビジネスの人々が派遣され、大量の人口移動はないことを基本とする植民地となるのが通例である。しかし、この地域には、そこを自分たちの土地としようとする多くのスペイン人がやって来た。そのような植民地からは、やって来た人々が豊かなエリート層で、混血層が中間的で、先住民が貧しい層に多い社会を持つ独立国が生まれた。それは、アジアやアフリカの多くの植民地が、宗主国の支配を排して独立し、元来住んでいた人々が大多数を占める土地であり続けたのと異なっている。同時に、元来の住民が少数であり、階層化した社会を形成していなかった土地に多くの人々がやって来て、先住民を駆逐・殺害して自らの土地とした植民地が、独立により、やって来た人々が大多数を形成する国となった場合(セトラー型の社会)とも異なる(以上の議論は高橋均の議論の筆者なりの要約である)。ブラジルも含めて、アフリカから奴隷として連れて来られた人々が多い地域では、アフリカ系の人々が先住民の人々と同様の位置にある形で、類似の性格を持つ社会となったと考えられる。それらの国々では、前記の混淆を中核とするネイション観念が形成されたことが広く指摘されてきた。それはネイティヴィズムが重要になりにくい観念であろう。その意味では、ラテンアメリカに限定すれば、フィルクの議論にはある程度の説得力がある。

ただし、最も典型的なポピュリズムを生み、そのポピュリズムがネイティヴィズムを持たなかった──そして、フィルクが主要な事例として紹介している──アルゼンチン社会(の支配的な部分)は、セトラー型の性格を持っている(独立後の19世紀後半から20世紀初頭に、イタリア人を中心としてヨーロッパから多くの人々がやって来たことも含めうるであろう)。ラテンアメリカの多くの国では、前記のネイション観念が公式のイデオロギーであるのに対し、アルゼンチンでは、エリート層の欧化主義に限らず、自国をヨーロッパ系の人々の国とする観念はかなり広く抱かれている。ペロンのポピュリズムは、おそらくは内陸部やそこから都市に来た貧しい人々へのエリート層(や中間階級)の蔑視に人種主義的な要素も含まれていたことに対抗して、ネイションの混淆性も唱えたが、その主張の中心は反帝国主義(経済的な「反植民地主義」)であった。

排除的なネイティヴィズムは、フィルクが含意するように「植民地を持った国々/西ヨーロッパ」に限定されず、ヨーロッパ一般やほかの先進国にも見られるが、フィルクの言う「植民地主義」を、〈人種主義と結びついた排除的なネイション観念〉と一般化して、彼の議論を維持・拡張することは可能かもしれない。しかし、植民地としてのラテンアメリカの例外性を見ないフィルクの議論は、発展途上国については維持しがたい。それは、ヨーロッパ系を上と見る人種主義と、経済的な収奪を意味する〈広義で経済的な側面での植民地主義〉を同一視することで、ラテンアメリカの第1・第3の波のポピュリズム(と先進国の左派ポピュリズム)に見られる〈国際的にも国内的にも経済的な不平等性に反対する左派性〉と、先進国ポピュリズムの多くをなす右派ポピュリズムが持つ〈アイデンティティーの重視〉とが同じ次元での対照ではないにもかかわらず(後に紹介するミュデらの議論は、それが別次元のものであることを重視している)、両者を植民地主義対反植民地主義という同じ次元での対照へと無理矢理に整理しようとしている(なお、ラテンアメリカには「包摂的なネイティヴィズム」があるという議論もミスリーディングであろう)。

すなわち、ラテンアメリカのポピュリズムは、エリート層を攻撃して民衆層の人気を集める別の要素が重要ならば、成功するポピュリズムの主張ではその要素が中核となり、ネイション観念は重要ではないことを示している、と考えられる(ペロンのポピュリズムは、ラテンアメリカにおける左派ポピュリズムが反人種主義を主要な要素にしていないことを──ラテンアメリカの中でのアルゼンチンの例外性ゆえに──より明確にする)。水島やミュデらの二分は、そのような議論として解釈できる。エリート層が支配している秩序で「排除」されている人々が多ければ、当然「反排除」すなわち「包摂」がポピュリズムのアピールになる。そして、自分も含まれる政治社会を想定して、それが外から脅かされていると思う人々に訴える場合は、エリート層との対立は「少数の包摂された人々 対 多数の排除された人々」として図式化されないため、国の問題についてのほかの観念との競争が生じやすく、ポピュリズムの主張を受け入れる人々はより少数になりやすいであろう。

ただし、ポピュリズムの二分論の中でも単純化が強いミュデらの議論では特に、その違いが〈ラテンアメリカ諸国が経済的にまだ豊かではない〉ことに求められているのには疑問を呈しうる。ミュデらの理論化では、ヨーロッパでは脱物質的なアイデンティティーが重要なのに対し、ラテンアメリカではまだ物質的な分配が多くの人々にとって重要だとされる。その議論では、政党などの形で政治的に代表を持たず、社会的・観念的に低い地位に置かれている人々が経済的にも貧しいことから、社会的・政治的な排除を正すポピュリズムの訴えが、客観的にも再分配的な政策の提唱・実施と結び付くことが当然視されている。その誤りは先に述べた。経済的な分配を重視する左派性を持たない第2の波のポピュリズムも、〈下に見る他者〉の排除を伴わずに、民衆層の代表であることをアピールした。排除されていると感じている人々の存在が重要だと考えられよう。メネムもフジモリも、大統領選挙時には新自由主義とは逆の政策を期待されて支持を集め、政権獲得後に新自由主義的政策に転じたことを、ラテンアメリカのポピュリズムが持つ共通性の証左として挙げられよう。

ポピュリズムを生む歴史的な文脈

以上述べたように、ラテンアメリカのポピュリズムの包摂性の第2の中核要素は、ポピュリズム指導者への支持が貧しい人々に集中する性格がより強く、その層についてはより広範な支持となることに現れると言えよう。全国レベルで政権に就く運動がヨーロッパに比べて多いことも、この特徴に関連する(政権に就く場合が多い理由として、ラテンアメリカ諸国が総じて大統領制であることが重要なのも明らかだが)。その前提は、社会的・政治的に排除されている考える人々が多く存在したことである。しかし、経済政策と1対1で対応していないことが示すように、ミュデらのもののような、貧しい人々が多い、または、「近代化」が遅れているという単純な図式ではそれを理解できない。自らが排除されていると考え、強い不満を持つ人々が社会に大量に存在する歴史的な文脈が重要だと考えるべきだろう。

政治に代表を持たず、社会的に排除されていると考える社会層が広く存在した時期に着目すれば、ポピュリズムが波として現れたこと、そして、必ずしも「経済的包摂」と合致しない場合があったことが説明できる。第1の波の典型的な諸事例では、特にペロンのポピュリズムでそうだが、工場労働者が重要だった。その説明では、工業化の進展で都市に出てきて、それまでの社会的絆を失い、単純なアピールに惹かれやすい、いわゆる「操作されやすい大衆」が支持基盤であったとの議論が支配的であった。労働組合がペロンを支持したことなどが検証され、その議論は強く批判されるようになる(研究動向については、松下洋の諸文献など)。しかし、それまで自分たちが政治的代表を持たず、社会的にも差別されてきたと考える大量の人々がいて、自らをその代表であるとしたペロンを強く支持したことは否定できない。第1の波のポピュリズムが軽工業の発展を基盤にしていること(エクアドルにおけるポピュリズムを部分的な例外として)は、通説的な理解である。

第2の波以降においては、ポピュリズムの主な支持基盤が、正規労働者ではない、いわゆるインフォーマル・セクターの人々や失業者などであることを、多くの研究が明らかにしている。民主主義が継続するようになったことを前提に、既成の主要政党がそれらの人々を代表していない状態で、その層が拡大する社会経済的な変化(グローバル化と表裏一体の)が起こったことを背景として、そのような人々の不満に訴えた指導者が支持を集めた。時代の要請に従い、政権に就いて新自由主義改革を行った結果、一時的には経済成長やインフレ解決に成功したメネムやフジモリは、ある程度の期間、広範な支持を維持できた。経済の困難の原因が新自由主義にあると認識されるようになった時期には反新自由主義を政策的な主張で重視して民衆層の代表であるとアピールする指導者が、インフォーマル・セクターの人々を中心として、広範な支持を集めた。

〈参考文献〉(言及した中で、特定の英文文献のみ)

Dani Filc, “Latin American Inclusive and European Exclusionary Populism: Colonialism as an Explanation,” Journal of Political Ideologies, Vol.20, No.3 (2015), pp.263-83.

Cas Mudde and Cristóbal Rovira Kaltwasser, “Exclusionary vs. Inclusionary Populism: Comparing Contemporary Europe and Latin America,” Government and Opposition, Vol.48, No.2 (2013),pp.147-74.