執筆者プロフィール

佐々木 貴久(ささき たかひさ)
一貫教育校 高等学校教諭
佐々木 貴久(ささき たかひさ)
一貫教育校 高等学校教諭
中浜万次郎(通称、ジョン万次郎:1827―1898)は、同時代を生き抜いた福澤諭吉と深くかかわり、大きな影響を与えた人物である。
万次郎のアメリカ生活
土佐の漁師だった万次郎は、1841年、14歳の時に漂流した。この時、船に乗り組んでいたのは万次郎を含めて5人で、彼が最年少だった。鳥島に上陸し、5カ月ほどの無人島生活を送ったあと、6月下旬、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号(John Howland マサチューセッツ州ニューベッドフォード船籍)に救われる。同号の乗組員ライマン・ホームズの航海日誌によれば、"they talked nothing we could understand only by signs"「(万次郎たちは)何もしゃべらない。お互いに、身振りと手振りでしか、相手の言うことが理解できない」とのことだ(『ライマン・ホームズの航海日誌』慶應義塾大学出版会)。救助されてから1年10カ月あまり、同号の捕鯨航海に同行し、アメリカ船での生活がはじまった。漂流した5人のうち、万次郎以外の4人はホノルルで降りたが、ウィリアム・ウィットフィールド船長は万次郎をアメリカで教育したいと思い、万次郎1人を本土まで連れて行った。
ホーン岬を経由し、1843年5月上旬にニューベッドフォードに到着して以来、万次郎はフェアヘイヴンで3年ほどの生活を送り、学校教育も受けた。バートレット・アカデミーでは英語のみならず、数学・航海術・測量術・捕鯨なども学んだ。また、万次郎は肌の色で教会に受け入れてもらえないなど、差別も経験したが、ウィットフィールド船長は彼を受け入れてくれる教会を探し、ユニテリアン教会に辿り着いた。
1846年5月以降の3年4カ月はフランクリン号での捕鯨航海の期間となる。この間、日本の鎖国政策への批判に接する機会があった万次郎は 「捕鯨船のために(琉球あたりに)港を開きたい」というメッセージをウィットフィールド宛に送っている。同号での経験で航海技術が上達したことに加え、同号船長の様子がおかしくなって以後、万次郎は副船長に昇格した。
ニューベッドフォードに帰港した1849年はゴールドラッシュの時代であった。フェアヘイヴンをあとにし、船でサンフランシスコに行った万次郎は、3カ月ほどのカリフォルニア滞在で600ドルほど稼ぎ、帰国費用の準備ができた。英語辞書、歴史書、航海術書、ジョージ・ワシントン伝などを携えて、サンフランシスコから琉球へと到着したのは1851年2月だった(その後、各所で長らく取り調べを受け、故郷・中ノ浜にいる母との再会を果たしたのは1852年11月のことだった)。同年11月にはハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』(Moby-Dick)が出版されている。
ジョン・ハウランド号に救助された直後は、身振り・手振りでしか意思を伝えることはできなかった万次郎が、「米国留学」を経て10年ぶりに日本に帰って来たのである。10年間のうち学校教育を受けるなどしながらアメリカ大陸で過ごした合計3年5カ月は、万次郎の留学の一部に過ぎない。
ジョン・ハウランド号、フランクリン号などアメリカの捕鯨船の上で他の乗組員と過ごした時間のほうが、陸にいた時間よりも長いのだ。捕鯨船での生活も「米国留学」だったのである。『白鯨』の "a whale-ship was my Yale College and my Harvard."「捕鯨船は私のイェール大学であり、ハーヴァード大学であった」(第24章)という言葉が万次郎にも当てはまる。
帰国後
マシュー・ペリーが開国を求め1853年に1度目の来航を果たして一旦去った直後、老中阿部正弘は、万次郎を江戸に呼び出した。アメリカ事情に精通している万次郎から、ペリー来航の意図等を聞くためだった。万次郎は阿部に「薩摩南島か琉球あたりに捕鯨船が憩うことができる港を開いてほしい」というのがアメリカの希望だと語る。
翌年の1854年にペリーが再来航したとき、万次郎が通訳として活躍したかどうかには諸説ある。万次郎はアメリカに命を助けられているので、アメリカ寄りの通訳をするのではないかという懸念があり、通訳には起用されなかったという説がある。その一方で、ウィリアム・グリフィスの『ペリー提督伝』によれば、"[Manjiro] sat in an adjoining room, unseen but active, as the American interpreter for the Japanese."「隣の部屋にいて、見えないが通訳として活躍した」とする説もある。いずれにせよ、万次郎が日本開国に大きな役割を果たしたという人は多い。
万次郎と英学
1859年、横浜見物をきっかけに福澤が蘭学から英学へ転向したのは有名なエピソードであるが、英語を教えてくれる人を探すのには苦労した。こしてアメリカ事情を伝えていたと考えられるのが万次郎である。『福翁自伝』の次の部分に出てくる「漂流人」とは万次郎のことを指していると考えられている。
英学で一番むずかしいというのは発音で、わたしどもは何もその意味を学ぼうというのではない、ただスペルリングを学ぶのであるから、子供でもよければ漂流人でもかまわぬ、そういう者を捜し回っては学んでいました。(『福翁自伝』)
1859年、万次郎は33歳で『英米対話捷径(しょうけい)』(以下、『捷径』)を出版した。これはポケット版の英会話本である。遣米使節団が出発する前年のことであったから、重宝されたと推測される。英語例文、カタカナによる発音表記、訳の3つが併記されたシンプルな本である。
カタカナによる発音表記については、sick「セッキ」、coming「カメン」、book 「ボック」、what you「フッチ ユー」という例から分かるように、万次郎が耳から聞いた英語をなるべく忠実に再現しようと苦労していることがうかがえる。『捷径』をよく読んでみるとカタカナ発音表記には一貫していないところがあったり、例文においてはつづりの誤りがあったりする。
発音表記について少し深入りする。万次郎が帰国後、『捷径』を出版したように、福澤は咸臨丸での渡米から帰国直後の1860年に『増訂華英通語』を出版した。福澤初の出版物である。これは福澤がアメリカから持ちかえった『華英通語』(英語・中国語の対訳単語短文集)に福澤がカタカナ発音表記と日本語訳をつけたものである。この『増訂華英通語』ではⅤの音は「ヴ」と表されており、この表記は福澤の創案とされている。万次郎の『捷径』ではVの音は単に「ブ」(例: eleven「イレブン」)だったり「ウ」(例: very「ウエレ」、believe「ビリーウ」)で表されていることが多い。しかし『捷径』をよく調べてみると、少なくとも1カ所、very「ヴエレ」のように「ヴ」を使っている部分がある。万次郎もⅤの音の表記に苦心し、様々な表記を試行錯誤した跡とみてもよいだろう。推測となってしまうが、福澤が『捷径』にある「ヴ」という表記からヒントを得て『増訂華英通語』で本格的に利用した可能性も捨てきれない。
咸臨丸
1860年2月、万次郎は通弁主務として咸臨丸に乗り込み、福澤とともに渡米した。乗組員たちは万次郎からアメリカ事情を聞いていた。出航から程なくして荒れた海で多くの日本人乗組員が船酔いをしている中、万次郎は捕鯨船に乗って海を渡っていた日々を思いだしながら楽しんでいた。日本使節がサンフランシスコに到着した直後の1860年3月30日付のDaily Alta California に次のような記事がある。
There are two or three interpreters with the Embassy, but we hear that none of them can compare with Capt. Mangero of the Kandinmarro […].
「使節一行には2、3人の通訳がいるが、咸臨丸の通訳万次郎にはとても及ばない」(川澄哲夫(編著)『増補改訂版 中浜万次郎集成』小学館)
「使節」とはポーハタン号に乗ってきた日本使節のことであり、咸臨丸より少し遅れて到着した。この記事は万次郎の英語力の高さを物語っている。また、到着からほどなくしてサンフランシスコにて万次郎は福澤を書店に案内し、2人で英語辞書を購入した。
その時にわたしと通弁の中浜万次郎という人と両人がウェブストルの字引を1冊ずつ買ってきた。これが日本にウェブストルという字引の輸入の第一番、それを買ってモウほかにはなにも残ることなく、首尾よく出帆してきた。(『福翁自伝』)
ここで購入した「ウェブストルの字引」こそ、ノア・ウェブスター(Noah Webster)が編纂した『ウェブスター辞書』の抄略版とみられている。万次郎や福澤たちが辞書を購入している様子を報じる記事が1860年4月4日付のSan Francisco Herald(サンフランシスコ・ヘラルド紙)にThe Japanese in Town「町に出た日本人」という見出しで掲載されている。
" One of them astonished a stationer not a little by asking, in excellent English, for a copy of Webster’s Dictionary, with the value of which he appeared quite familiar."
「彼らの一人は、非常に達者な英語でウェブスターの辞書を注文したばかりでなく、その本の価値について非常に詳しいように見受けられたので、本屋の主人をたいへん驚かせた」(中濱博『中濱万次郎──「アメリカ」を初めて伝えた日本人──』(冨山房インターナショナル))
この「彼らの一人」とは万次郎のことだと推測される。さらにこの記事の続きには、「咸臨丸の通訳は神奈川に大きな学校を持っていて若者たちに英語を教えていた」と書かれている。
福澤はトマス・ジェファソン起草の「独立宣言」の翻訳を「1776年第7月4日、亜米利加13州独立の檄文(げきぶん)」として『西洋事情』に発表した。さらには 「独立宣言」の"All men are created equal" の部分を「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず…」という表現で『学問のすゝめ』に記した。ウェブスターの辞書を引きながらこれらの翻訳作業を行ったと考えるならば、万次郎との交流なくして、福澤の著作の数々は生まれてこなかったかもしれない。
〈参考文献〉
川澄哲夫「日本史が見落としている1章──ジョン万次郎と福澤諭吉」『三田評論』1999年8・9月号
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。