執筆者プロフィール

松岡 李奈(まつおか りな)
研究所・センター 福澤研究センター助教
松岡 李奈(まつおか りな)
研究所・センター 福澤研究センター助教
画像:『鶯栖園小草』より
明治34(1901)年2月3日、福澤諭吉死去に際し、明治を代表する国学者の1人である渡辺重石丸(わたなべいかりまろ)は「明治34年2月3日おもふ事ありてよめる長歌并(ならびに)短歌」と題し、2月3日が節分であることから、福澤を悪しき気をもつ鬼にたとえ、「鬼祓い」を寿く歌を詠んだ。
此鬼は いづくの鬼 大八洲 国のことごと 悪しき気を 此の名におふ 福澤の ふくといふ鬼 八百万 神の命や 神議(はか)り 議りたまひし をりしもあれ 月が中に 日をゑらび 大祓すとふ 此の三日の 夕日のくだち 撒く豆の よむともつきぬ ありし世の 罪をかぞへて 神叩き たたき罪なひ 西の海に けふをかぎり 疾(と)くいねと 神逐(やら)ふらし さし並(なみ)の となりつづき うちきくも 実(げ)にここちよや 里人の 口をし借りて 東西 みなみに北に 伊橋むる 神の声かも 鬼逐(やら)ひ鬼逐ひ
反歌にはさらに福澤への嫌悪が明明と現れている。
なま臭き風ふくざはの子を逐(わら)ふと神も大祓今日成すらしも中津瀬にはやおり立ちて禊して月日の神をあふげ世の人
重石丸にとって福澤は西洋思想という悪しき習慣を日本に蔓延させた悪鬼であったのだろう。重石丸と福澤は明治初期以降、20年以上連絡をとっておらず、その恨みは根深く強いものであったようだ。重石丸は福澤と同じく中津出身の国学者で、増田宋太郎の師であり従兄弟であった。つまり、福澤とも縁戚関係となり、近隣に住んでいたが、その思想はかけ離れていた。
国学者の家に生まれて
重石丸は天保7(1836)年11月15日に、八幡古表神社の宮司である渡辺重蔭の次男として誕生した。通称を鐡次郎といい、号を鶯栖園とした。重石丸の祖父・渡辺重名(しげな)は本居宣長の高弟で、国学者として活躍した人物である。重名は藩主の側で和歌を教授し、藩校・進脩館(しんしゅうかん)でも教員となり、中津藩国学の礎を築いた。
重石丸が生まれたときには重名は没していたが、その蔵書や書に囲まれて育ち、重名と交流のあった学者たちの影響を受けて育った。また幼少期から父・重蔭や兄・重春から和歌の教授を受けており、国学の環境、素養に恵まれた少年であった。一方で非常に力が強く、体格に恵まれ、加えて癇癪持ちであったため、母が恐れることもあったという。重石丸は晩年まで身体強健であったが、祖父重名も長寿かつ壮健であったため、体格も祖父から受け継いだのかもしれない。
野本塾で学ぶ
重石丸8歳の時、手島物斎の私塾・誠求堂に通って漢籍を学び、右筆に従って手習も学んだ。嘉永5(1852)年からは、中津藩進脩館の教授でもあった野本真城(白巌)の私塾に入学した。重石丸がのちに懐古した「鶯栖園遺稿」では、小幡篤次郎や福澤と懇意であった上士・桑名豊山(ほうざん)、今泉郡司(今泉秀太郎父)が、野本塾の学友であったと述べている。重石丸によれば、野本は「気節の士」で、野本塾では天下のことを議論し、西洋窮理の説も学んだという。重石丸は「鶯栖園遺稿」に野本塾での思い出を多く書き残しており、野本が重石丸に与えた影響は大きいと考えられる。重石丸は自身の思想の転機として、野本から与えられた藤田東湖著『常陸帯』と『犯境録』(『夷匪犯境録』のことか)の2冊を読んだことを挙げている。特に『夷匪犯境録』を選んだことは、徳川斉昭に海防建白書の提出を試みたという野本の思想が色濃く現れているように感じられる。
重石丸はこうした書物や尊攘の情調に触発され、尊皇攘夷運動を志すようになったのか、安政3(1856)年より中津藩剣術師範であった冨永應助に弟子入りし剣術の道に進もうとしている。しかし交流のあった元田直に武事ではなく文教の道を勧められ、学者の道に戻ることとなった。
子弟を教育する
安政4年からは、近隣の子弟を集めて教育を行うようになった。増田宋太郎はこの頃に入門している。元治元(1864)年には家塾として道生館と命名し、より多くの門下生を受け入れた。著名な門下生には朝吹英二や岩田茂穂がいる。道生館銘并十箴には敬神尊皇を主とすること、学を志す者は礼と儀を正し、言と語を慎み、長幼の序を持つこと、実学を講究して外侮をふせぐことが記された。
野本塾で『常陸帯』を読んだ頃からか、重石丸は藤田東湖に傾倒し、門下生にも藤田の著書を講義した。福澤が『福翁自伝』において「宋太郎の従兄弟に水戸学風の学者があって」と紹介したのは、おそらく重石丸のことであろうと推測される。のちに増田宋太郎をはじめとする道生館の門人の多くは、尊皇攘夷志士として活動し、明治10年の西南戦争において西郷隆盛に与するべく中津隊を結成した。
また重石丸は平田篤胤にも深く心服していた。重石丸は『霊能真柱』をはじめとする篤胤の著書を読んで感激し、道生館でも講義し、篤胤の学風が広く門下生に受け入れられていた。慶應3(1867)年には篤胤の養子であった平田鐡胤(かねたね)に書簡を送り、念願かなって篤胤の没後の門人となった。そして兄・重春の後押しもあって京都行きをかなえるのである。
京都へ赴く
明治を迎えると、重石丸は公職で活躍するようになる。明治元年、重石丸は奥平昌邁(まさゆき)によって行政官を命じられ再び上京、翌年には京都御所御用掛・京都御所講官に任命された。機関の閉鎖や統合に従って役職は変化するが、大学御用掛など重石丸の見識が評価された登用であったことが見受けられる。また明治3年には中津藩京都詰家老から宣教使への出仕を命じられるも断っている。明治初期、このような業務のかたわらで重石丸は積極的に著作執筆活動を行い、国学者としてのキャリアを本格的にスタートさせたことがわかる。明治5年には教部省出仕・考証掛を任命され東京に上京、以後は東京を中心に活動した。
一方で重石丸不在の中津では、道生館閉校によって学ぶ場を失った門下生が苦慮していた。また明治2年ごろより、旧中津藩幹部は福澤の助言によって洋学教育を推し進め、そのことに増田や道生館の面々が憤る様子が、彼らが重石丸に宛てた書簡から伝わる。彼らは福澤が洋学校設立にどのような条件を出しているか、皇学(国学)には何のお世話もなく困っている、ということを細かく重石丸に報告した。
その軋轢は明治4年に開校した洋学校・中津市学校と道生館を継承した皇学校まで続いた。福澤は明治6年4月15日付の島津復生宛書簡において、「中津の学校も依然たるよし。何卒静にして独立の本趣意を持張いたし度、官の学校えカラカウ抔(など)、以の外の義、万々一も左様の気振無之様御注意奉願候。」と記し、無用な対立を避けるよう気を配った。
結局、重石丸は教育者として中津に戻ることはなかったが、門下生とは交流を続けた。明治10年、西南戦争に門下生が挙兵した知らせを聞いた重石丸は現地に赴こうとしたが、父の制止もあって断念した。増田が鹿児島で戦死した際には哀悼の歌を寄せ涙を流し、職を辞した。その後、明治15年に麹町に道生館の名前を継承した塾舎を建設し、以後著作執筆と教育活動に専念した。
福澤諭吉と渡辺重石丸
福澤が重石丸に言及した記録はあまりないが、重石丸が幕末から明治初期を振り返った「鶯栖園遺稿」には度々福澤が登場する。例えば、福澤の母・順が福澤の蘭学修行をどのように捉えていたか。『福翁自伝』では、兄の死後に家督を相続したにもかかわらず、再び大阪に蘭学修行に行くという福澤を親類が止める中、順は「兄が死んだけれども、死んだものはしかたがない。お前もまたよそに出て死ぬかもしれぬが、死生(しにいき)のことはいっさいいうことなし。どこへでもでていきなさい」と言って、豪快に息子を送り出したエピソードが知られている。
一方で「鶯栖園遺稿」では、大橋仲太郎という自身の身内に順が「蘭学など決してサセナサンナ、蘭学をさすると諭吉の様ナ親不孝者ニ成る」と話していたことが記されている。また晩年東京で暮らす順に、福澤は毎月5円のお小遣いを渡したが、これについてもお金があるからくれるのであって、孝行心からではない、と断じていたことも、大橋から聞いた話として紹介される。冒頭の和歌が示す通り、重石丸は福澤に好意的とは言い難く、慎重に検討する必要はあるが、『福翁自伝』以外に資料の少ない福澤の青年期に関する貴重な記述が見られる。
また、福澤が封建的な中津を飛び出し蘭学を学ぶ契機となった長崎留学にも、重石丸は関係している。「鶯栖園遺稿」には、「家老奥平十学(奥平壱岐のこと)、蘭学に志し長崎に留学せり。諭吉之機として十学に寄食し志す所を成さむと欲す。急に思慮を翻して長崎に赴んと云。於是乎家蔵の漢籍(福澤の父百助兄三之助は漢学に長じ殊に三之助ハ詩才ありき)を挙て売却す」と書かれており、諭吉が長崎留学に赴く際、渡辺家に蔵書を売り払い、留学費用を捻出していたことが明らかになった。
実際に現在調査中の渡辺家資料からは、6巻すべてに「福澤家蔵」の印が押された『荘子因』1巻~6巻が発見された。虫食いや破損があるものの、質のいい唐本で、諭吉の父・百助が収集した典籍だと考えられる。学者肌の百助は質量ともによい蔵書をもち、その数は1500冊ほどあったが、『福翁自伝』では中津藩内では買い取るものがおらず、当時臼杵に出仕していた白石照山に買い取ってもらったと記されるが、それより前に一部を渡辺家に売却していたのである。先行研究では、福澤家がどのように諭吉の長崎留学費用を捻出したかについては、野本塾や野本塾に通っていた兄・三之助との関係性をもとに考察がなされている。重石丸と福澤という思想が全く異なる2人だが、その契機が同じ塾にあったことは非常に興味深い。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。