執筆者プロフィール

末木 孝典(すえき たかのり)
一貫教育校 高等学校主事
末木 孝典(すえき たかのり)
一貫教育校 高等学校主事
画像:『慶應義塾名流列伝』より
福澤諭吉は日清戦争において日本の勝利を期待していたことで知られている。その熱意は、独自に募金を始めるほどであった。同戦争では福澤の期待する若き2人が海軍で活躍した。その1人が鏑木誠(かぶらぎまこと)である。
慶應義塾出身の軍人
鏑木誠は、安政4(1857)年8月、鏑木元悦の次男として千葉県香取郡古城村鏑木に生まれた。匝瑳(そうさ)郡作新学校で学んだ後、東京に出て明治4(1871)年3月慶應義塾に入った。在学時には「誠安」を名乗り、蓬髪弊衣で義塾の「鐘たたき番人」を務めながら学業を修める苦学生だった。
本人は慶應義塾には約1年間在籍しただけというが(のちに特選塾員)、その後、海軍兵学校に入学した。慶應関係の軍人は海軍に集中しており、一般的に著名な人物としては中牟田倉之助や日高壮之丞が挙げられる。鏑木の在学中に中牟田が校長を務めた時期もあった。
明治9(1876)年には3年生(3号生徒)として軍艦での海上訓練が盛んに行われ、鏑木も乗艦して訓練に励んだ。水雷攻撃を専門的に学んでいたようだ。明治11(1878)年8月に卒業すると海軍少尉候補生となり、遠洋航海に出た。
千島艦事件
明治23(1890)年、日本政府がフランスの造船所ロワール社に発注した新造の水雷砲艦「千島」(排水量750トン)を受け取り、日本まで艦長心得として回航する役目を命じられた。海軍としては明治19(1886)年にフランスに発注した新造艦「畝傍(うねび)」を回航中に南シナ海で失っており、期待を受けた任務であった。しかし、千島は想定したスピードが出ず、当初の予定を過ぎてもなかなか完成しなかった。
ようやく25(1890)年4月竣工し、鏑木たち士官が乗り込んだ千島は、機関部分に難を抱え、修理しながらも地中海を横断し、スエズ運河を通ってインドを回り、上海経由で日本近海まで来た。事故が起きたのは、寄港した長崎港から出発し、瀬戸内海を通って神戸港に向かう途中であった。11月30日午前4時、愛媛県和気郡堀江沖由利島から1海里ほどの場所で、千島とは逆方向の神戸港から馬関港に向かって航行中だった英国P&O社の郵船ラヴェンナ号(排水量3256トン)と衝突し、沈没した。ラヴェンナ号は同社にとって初のスチール船で、千島よりもはるかに大きな船体だった。事故の原因は、狭い海路ですれ違う際に、東から来たラヴェンナ号が右転し、西から来た千島が左転したことにあった。
鏑木は艦長心得として軍法会議にかけられたが、責任者としての安全配慮義務を果たしたと判断され、予審で免訴となった。
日本政府対P&O社訴訟
その後、領事裁判制度により、日本では裁けず、英国の裁判所で日本政府とP&O社の裁判が始まった。26(1893)年5月、日本側は85万ドルの損害賠償を求めて提訴したが、損傷を受けたP&O側も10万ドルの賠償を求めて反訴した。英国領事庁(横浜)は反訴を棄却したが、P&Oはこれを不服として控訴した。英国高等裁判所(上海)は領事庁の判決を破棄し反訴を認めた。そのため今度は日本側が英国枢密院に上告した。枢密院は控訴審の判決を破棄し、ようやく反訴を却下する結果となった。
次に、日本側の賠償の求めを審理する段になったが、8月になって、P&Oから仲介依頼を受けた英国外務省が、日本側に6000ポンド支払いを内容とする和解案を非公式に打診した。日本政府は当初から和解での解決を念頭に置いていたことから、これを好機とみて条件交渉の姿勢を見せた。日本側はカークウッド弁護士の助言を受け、2万5千ポンド(約25万円)の賠償と訴訟費用支払いを要求した。
P&O側は1万ポンド(約10万円)の賠償と訴訟費用(1万2千76円)支払いで歩み寄り、日本側はこれを受け入れた(拙稿「司法省顧問カークウッドと明治政府」『日本歴史』759)。日本国内では千島沈没の悲劇と領事裁判への怒りでナショナリズムが高揚した事件となったが、こうして収束したのであった。
乗組員への思い
「千島」には士官は鏑木を含めて8人乗船していたが、助かったのは鏑木と土山少尉の2人だけだった。乗組員74名が犠牲となり、生存者は16名という大惨事となった。
鏑木は「死者の音容艦体の形装今なお吾人の身辺にあるかごとくに思われ、夢寝の間なお忘れることはできない」 と衝突事故の犠牲になった乗組員の死を悼んだ。その弔文は様々な文献に紹介された。人々の間で悲運の海軍軍人として鏑木の名は知られるようになった。
福澤との関係
慶應義塾在学時は期間が短かったこともあり、鏑木が福澤に直接教えを受けたことはなかった。鏑木の福澤に対する評価は、天賦の雅量、卓識、徳義と充実した精力および高潔な性格を備えた真に偉大な英傑豪邁、と絶賛している。さらに、日本の発展の大功績者で泰西文明の開祖、5000万同胞の恩主と仰いでも余りある、とまで表現している。やや大袈裟に聞こえるが、身近に接していない世代の学生にとっては仰ぎ見るしかない偉大な存在と映っていたのだろう。
福澤は日清戦争時(明治27年10月5日)に従軍した鏑木に手紙を出している。内容としては奮戦と抜群の功名を祈る趣旨で、黄海海戦の激戦勝利など実に愉快に堪えず、何卒破竹の勢いを示して100戦100勝、めでたく凱旋を待っている。国内の人心は一致協同し、日夜戦地を望み軍人の労を謝するのみだと伝え、佃煮と甘納豆を贈るというものだった。
この書簡は石河幹明『福沢諭吉伝』にも収録され、福澤の日清戦争に対する見方を示すものとして知られることになる。同日、鏑木と同じく日清戦争に従軍した海軍中佐木村浩吉(福澤の恩人木村芥舟の次男)に対しても、ほぼ同じ内容の書簡を送り、贈答品も同じであった。福澤が鏑木に対して恩人の子息と同等の扱いをしているところから、往時の「鐘たたき番人」が国運を担って戦うまでに成長したことへの感慨と期待を感じることができる。
当の鏑木は、戦争時は水雷艇長として威海衛夜襲で水雷攻撃を成功させ軍功を挙げた。その際に敵前で船の自由を失ったが、鏑木は艇内で携帯したウイスキーを飲んでへべれけになっていて、救護に行った一同がその豪胆さに驚いたという逸話が残っている。
鏑木の戦争観
鏑木は雑誌『中学新誌』の記事において、日清戦争の勝因は教育にあると分析している。特に、日本の国民が義勇奉公の精神で一致団結したことが重要で、それには教育者の役割が大きい。国家に軍備が必要なのは国に司法警察の必要があるのと同じである。軍備を拡張しなければ国運の発達はない。また、軍備は平和を維持するためにも必要である。戦争の予防にもなるからである。外交官がどのような人であっても、軍備がなければ一国の主義を貫き通すことはできない。したがって軍備は国の保険料にもなる。鏑木の考えでは、軍器は火ぶたを切るのが最後の職務で、たいてい力を量れば止むものなので、発砲させないのが軍艦の任務であるという。
また、武器の進歩は驚くべき速度であり、将来に備えないと戦勝国の地位を保つことはできない。教育者諸君には、平時から備えるため軍国の知識を脳底に懐くこと、また、児童に軍事的教育を授け、一致協力して国権を世界に輝かし、万国と並び立つ精神の国民に育てることを期待したい、と記している。
その後
日清戦後は軍令部第一局員として勤務し、明治30(1897)年には英国に発注した新造艦浅間の回航要員に任命された。翌年からは、イタリア公使館付武官として活躍した。明治31(1898)年の米西戦争時には、スペインへの軍事視察を命じられた。外交官栗野慎一郎によると、スペイン政府は視察への便宜協力を拒んだが、鏑木は独自に友人である英国大使館書記官バークレーや駐在武官ホワイト中佐に頼んで紹介状を書いてもらい、それをもって各地を訪問し、艦隊の視察をするなどして任務を成功させたという。日露戦争時には英国公使館付武官として外交手腕を発揮した。
このように鏑木は豪胆さはあるが、「戦士」というよりも「参謀」タイプで、もっと言えば語学巧みで気品高く外交に長けた軍人であった。米西戦争時の視察エピソードはまさに鏑木の手腕の一端を示している。
その後、鎮遠(ちんえん)艦長や呉鎮守府司令長官を務め、最後は海軍少将まで昇進した。明治41(1908)年には外客待遇機関「喜賓会」(ウェルカム・ビューロー)の幹事長に就任し、大正3(1914)年までその職にあった。同会は今でいえば「インバウンド政策推進機関」であった。なお、同会では福澤捨次郎が常任幹事を務めたこともあった。この喜賓会から発展して「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」(公益財団法人日本交通公社の前身)が設立された。
慶應では異色の国際派海軍将校鏑木誠は、大正7(1918)年8月少将で退役し、翌年4月、61歳でこの世を去った。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。