慶應義塾

山口仙之助

公開日:2025.11.20

執筆者プロフィール

  • 白井 敦子(しらい あつこ)

    一貫教育校 横浜初等部教諭

    白井 敦子(しらい あつこ)

    一貫教育校 横浜初等部教諭

画像:『特別展 福澤諭吉と神奈川』図録[2009年]より

今日の箱根は、世界中から多くの旅行者を惹きつける日本有数の国際観光地として、その名を馳せている。箱根町が発表している「令和6(2024)年箱根観光客実態調査報告書」によれば、観光客の総数は2031万人と、コロナ禍を越えて6年ぶりに2000万人の大台を突破した。中でも、外国人観光客の増加が著しく、前年比143.3%の49万3000人に達したという。インバウンド観光の活況を象徴しているとともに、箱根が持つ普遍的な魅力を示しているとも言えよう。

今日のこの繁栄の原点には、福澤諭吉をめぐる人たちがいた。福住正兄(ふくずみまさえ)と山口仙之助(やまぐちせんのすけ)(1851~1915)である。特に、今日で言うインバウンド観光の基礎を築いたのは、富士屋ホテルの創業者、山口仙之助である。

生い立ち

仙之助は、嘉永4(1851)年5月5日、武蔵国橘樹郡神奈川宿青木町(現在の横浜市神奈川区)で、漢方医師大浪昌随の五男として誕生した。その後、仙之助は10歳の時に山口粂蔵の養子となり、山口姓を名乗るようになった。浅草の小幡漢学塾で学び、外国人居留地のあった横浜で養家の商業に従事して青年期を過ごした。

彼の国際感覚を決定づけたのは、明治4(1871)年、20歳の時に渡米した経験である。訪れたサンフランシスコでの日々は、決して華々しいものではなく、労働に従事し皿洗いをしたりと苦労を重ねていくが、自身の不屈の心を育んでいた。その中で今後の日本には牧畜事業が有益であると感じ、3年間異国の地で働きながら資金を蓄えると、7頭の種牛を買い入れて帰国した。しかし、当時の日本では、牧畜事業を始めるには時期尚早と判断し、明治7年に慶應義塾に入学し、再度学問の道に進み始めた。しかし、福澤諭吉が、「氏の性質としては、今後勉強せんよりは寧ろ実業界に入りて一旗挙ぐるに適せり」(『慶應義塾名流列伝』)と教え諭し、仙之助は実業界への道に入ったのである。

仙之助は、海外での体験を通じて、西洋の生活文化や商慣習を肌で感じ取るとともに、西洋のサービス業の具体的なイメージをつかんだのであろう。この実体験こそが、後に彼を外国人向けの本格的ホテル事業へと向かわせる着想の源泉となった。

仙之助の若き日の挑戦は、一個人の冒険譚に留まるものではない。それは、開国したばかりの日本が、いかにして世界と対峙し、新たな産業を創出していくかという国家的な課題に対する、実践的な回答を模索する試みであった。彼の内に秘められた企業家精神は、この海外経験を経て確固たるものとなり、明治11(1878)年、次なる舞台である箱根でのホテル創業へと繋がっていくのである。

箱根での外国人専用ホテル開業

仙之助が箱根で外国人専用のホテル事業を立ち上げたことは、単なる商業活動に留まらず、日本の近代化と国際化を支える重要な意味を持っていた。アメリカでの経験から、帰国した仙之助は、外国人旅行者が宿泊施設に不便を感じている実情を目の当たりにする。その第一歩として、仙之助は明治11(1878)年、箱根宮ノ下温泉にあった旅館「藤屋」を買い取る。そして、これを外国人向けに改装し、「富士屋ホテル」を開業した。外国人旅行者の受け入れを念頭に、次第に客室にベッドを備えたり、バター、ミルクなどの食材を用いた西洋料理を提供するなど、当時の日本においては画期的な試みを重ねた。これが日本における本格的なリゾートホテルの先駆けとなったのである。

仙之助のビジョンは、ホテルの創業だけに留まらなかった。彼は富士屋ホテルを、単なる宿泊施設としてではなく、日本の文化や自然の魅力を世界に発信する国際的な交流拠点とすることを構想していた。この壮大なビジョンがあったからこそ、富士屋ホテルは開業後すぐに多くの外国人から高い評価を得ることになり、日本の国際化を象徴する存在へと成長していくのである。

明治維新後の日本が「文明国」であることを国際社会に示すためには、日本を訪れる外国人を適切に受け入れるためのインフラの整備が不可欠であった。湯本や塔之沢にしばしば逗留した福澤は、地域が発展するには交通の便が重要であると考え、明治6年足柄新聞に寄稿した「箱根道普請の相談」など、交通網の整備として、箱根の幹線道路開削を提言していた。福澤は「箱根山に人力車を通し、数年の後には山を砕て鉄道をも造るの企をなさん」と語り、箱根における交通インフラの革新を構想していた。そして、福住正兄らの尽力で、小田原から湯本、そして塔之沢へと交通路がつくられていった。

仙之助も、外国人旅行者の移動手段の不便さを感じ、明治20(1887)年に、私財を投じて塔之沢から宮ノ下までの道路約7kmを建設した。これにより人力車や馬車の通行を可能にした。この道路が後の国道1号線と138号線の一部となった。

仙之助のもてなしの心

仙之助は、ホテルの経営者であると同時に、自らも妻久子と共に外国人旅行者へのサービスに努め、自ら案内人となり、金銭の交換、旅行上の注意、食事や宿泊などについて助言を行った。また、客の御出入の挨拶や、路程の相談、着物に草履姿で外国人旅行者を駅まで出迎えに行ったりと、客の満足度を上げることに心を砕いていた。妻久子は養父山口粂蔵の次女で、英語に堪能であり、ホテル創業以来仙之助と苦楽を共にし、食材の買い出しを始め常に家庭的な親切な心を持って接客にあたり、体調を崩した外国人旅行者が仙之助夫婦揃っての手厚い看病により回復したとの記録もある。

仙之助が描いたビジョンが、単なる理想論で終わらなかったことは、当時の外国人旅行者たちが残した記録から明らかである。その当時の記録がホテルの60年史である『回顧60年』に記されている。例えば、創業間もない明治14(1881)年、宿泊した英人Mr.Atthur H.Crow は、富士屋ホテルは日本人が所有しているが、ヨーロッパスタイルで運営・設備されていると記録に残している。

しかし、記録を見ていくと、富士屋ホテルが外国人専用のホテル以上の役割を果たしていたことが分かる。例えば、日本学者のチェンバレンは、ここを愛好し、ホテルの敷地の一角に自身の書庫を持つほどであった。言葉や文化の壁を超えて快適さを提供し、人々が出会う国際的な空間であり、訪れた人たちが日本の自然美や文化に触れながら、心から寛ぐことのできる異文化交流の重要な拠点としての役割も担っていった。このような卓越した評判は、仙之助の経験の積み重ねの上にあり、また、福澤の先見の明があったと言っても過言ではない。

福澤諭吉からの書簡

仙之助と福澤の交流はその後も続いたが、福澤が仙之助に強い信頼を寄せることが、明治22(1889)年4月29日付で福澤が仙之助に宛てた一通の書簡からわかる。

春暖の好時節、益(ますます)ご清安拝賀奉る。陳(のぶれ)ば今回ミッシスナップ並びに令息、箱根見物として、二、三泊の積りにて罷り出で候については、百事宜しくお世話せられ遣わしたく、実は倅共同道致すべく用意のところ、よんどころ無く差支え出来能わずその義。本人は日本語も不十分にて、困却の場合もこれ有るべく、何分にもお含みご周旋下さるべく候。右願い用のみ申し上げたく、匆々(そうそう)この如く御座候。頓首。

                                                                                                            諭吉  

四月廿九日
山口仙之助様 几下

この書簡では、アーサー・メイ・ナップの夫人とその子供が箱根を訪れるにあたり、その世話を全面的に仙之助に依頼している。特に「本人は日本語も不十分にて、困却の場合もこれ有るべく」と案じ、「何分にもお含みご周旋下さるべく候」と心からの配慮を求めている点は、福澤が仙之助の国際的な対応能力と人格に絶大な信頼を寄せ、富士屋ホテルを日本の文明開化を体現するに足る場所と認めていたことがわかる部分である。

この一通の書簡が象徴するような日本の国際化の指導者層からの深い信頼こそが、仙之助の事業をさらに発展させ、彼の歴史的評価を不動のものとする大きな要因となったのである。

なお、この書簡の2年後、仙之助は今日に残る本館を建設したが、その際には、燈火による火災の危険を案じて、火力発電を導入して全館を点灯した。その後、川の水流を利用した水力発電に切り替え、更には、宮ノ下水力電気合資会社を創立し、周辺各村に電力を供給した。仙之助の活動は、ホテル事業のみならず、箱根の街づくりへと広がっていったのである。

現代へ繋いだ遺産

富士屋ホテルは、日本の「おもてなし」の精神を、世界中の人々が理解し、享受できる形へと昇華させる画期的な試みであった。それは、今日の日本のインバウンド観光の根幹をなす「質の高いサービス」の原型を築いたと言っても過言ではない。彼の功績の核心は、異文化への深い理解に基づき、日本と世界を結ぶ信頼の架け橋を、ホスピタリティという形で築いた点にある。

はじめに触れたように、現代の箱根は世界的な観光地として賑わいを見せている。福澤は、当時既にそのような姿を期待していた。明治24年6月18日の時事新報社説「外人を歓迎すべし」では、「仏京巴里が人間の楽境なれば、我日本国は世界の遊園にして」、日本の美術の独特の妙、山川の風景の秀麗、風俗の優美を伝え聞いた西洋の人々は、それを見に、友人や家族を伴って来遊する。そして、来遊の時には、各所にお金を散ずるだけでなく、帰国後は、日本の美を吹聴してくれると記した。そして、「外人の来遊とあれば多々ますます之(これ)を辞せず、文明交通の便利を利して更に大に国を開き、大日本国をして真に世界の遊園たらしめんこと、我輩の希望する所なり」と結んだ。この社説の中でも「箱根宮下旅店富士屋の主人山口仙之助氏の実話」として来遊の西洋人の増加傾向も紹介している。

なお、この社説の背景には前月におこった来日中のロシア皇太子の暗殺未遂事件による外国人の日本の印象の悪化と、日本人の一部にある外国人への警戒への憂慮もあった。

今日の箱根の隆盛を見る時、その源には、山口の遺産と、福澤の期待があることを思い起こしたい。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

福澤諭吉をめぐる人々

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