執筆者プロフィール

川内 聡(かわうち さとし)
一貫教育校 中等部教諭
川内 聡(かわうち さとし)
一貫教育校 中等部教諭
幕末・明治に外国語を学習する者にとって翻訳作業は困難を極めた。1862(文久2)年に幕府の洋書(蕃書)調所が出版した『英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書』は、初めての本格的な英和辞典であったが、英蘭辞書をもとに翻訳したことも影響して使い勝手は良いとは言えなかった。
明治半ばに発行された尺振八(せきしんぱち)の『明治英和辞典』は、正確でかつ使いやすいという画期的なものであった。加えてスペンサーの教育論を訳した『斯(す)氏教育論』は、明治の教育に大きな影響を与えた。さらに当時慶應義塾と並んで評価の高かった「共立学舎」を創立し、経済学者田口卯吉(うきち)(鼎軒(ていけん))らを輩出した人物でもある。そして幕末の困難な日米の交渉は秀でた語学力を持つ振八の存在なしには成し得なかったのである。これらの功績から、振八は「現代英学の祖父」や「一流の英学者」、「英学の先達」などと称されている。「先達」という表現は、尺次郎氏(「縁あって尺家を継いだ」「振八四代目の子孫」)による振八の伝記、『英学の先達 尺振八 幕末・明治をさきがける』(1996年、以下『英学の先達』)で使われている。しかし、英学者、教育者、翻訳家、通訳として高く評価されているにもかかわらず、同時代の洋学者や教育者ほど知られていない。福澤とも親交のあった振八は、どのような人生を歩んだ人物なのだろうか。
振八の生涯については、振八の死後、生涯の友である乙骨太郎乙(おつこつたろうおつ)が『大日本人名辞書』の中で執筆した「乙骨太郎乙所選略伝」(以下、「略伝」)に詳しい。
尺次郎氏によると、乙骨の振八評は、「自尊心・意志は強いが、一方、思いやりが深い。そこで政府の偉い人だからといって、見下した態度を取れば、胸を張り負けずに対応する。その一方、普段付き合いがない人でも、篤い志をもって何かをしようとしていると聞けば、全力を挙げて面倒をみる。そういう人物である」(『英学の先達』)という。
激動の時代の中で洋学の道を選ぶ
振八は、1839(天保10)年8月9日、下総高岡藩医鈴木伯寿(はくじゅ)の子として江戸で誕生した。乙骨によると振八は、まず儒学者の田辺石庵(せきあん)、藤森天山(弘庵)に学んだとある。その際知り合った石庵の次男、太一は、遣欧使節にともに随行した振八の「終生の友」である。また同志社を創立した新島襄とも親交を結んだ。のちに新島は、振八を「江戸の親友」と記している。
尺次郎氏は、振八と洋学との出会いは田辺石庵の長男、孫次郎が関係していると述べる。孫次郎は、砲術家の高島秋帆に学び、田辺塾では蘭学についての議論が盛んだったようだ。
その後昌平黌に入ることになるが、その直前に「尺氏を冒し」と、振八が尺家を継いだことがわかっている。詳細は不明だが、幕臣で漢学者の尺兼次郎の弟として尺家に入ったことで、幕臣の子弟に限られた昌平黌の寄宿寮に入ることができたようだ。しかし、病のため数年で退寮し、悩む振八は、田辺太一の「国家に尽くそうと思うものは、一日も早く西洋の学問を学ぶべき」(『英学の先達』)という言葉で、洋学の道を決意する。20歳のことである。
振八は、1860(万延元)年、中浜(ジョン)万次郎に方を学び、さらに西吉十郎(成度(なりのり))にも師事し、文法も学んだ。血のにじむような努力によって、略伝には「期年ならずして、語学大いに進む」とある。
外国方通弁就任、福澤との出会い
1861(文久元)年8月、振八は、矢野二郎、益田孝、津田仙とともに、外国方通弁(通訳)に任命された。また生涯の友、福澤とはここで初めて顔を合わせた。振八らはすぐに麻布山善福寺のアメリカ公使館に勤務することになった。攘夷論が高まっていた当時、公使館関係者であることは危険な立場であった。しかし振八らは臆せずに公使館員や通訳から英語を習い、自身の語学力に磨きをかけ、さらに約1年間横浜運上所で勤務し、その合間に通訳の立石斧次郎の教えも乞うた。
語学力を磨いた振八らは、1863(文久3)年の第2回遣欧使節団(横浜鎖港談判使節団)に西吉十郎らと随行し、ついに他国の地に足を踏み入れた。洋装で写真を撮影した振八は、帰国後に処分を受けている。ほどなくして、振八らは外国方を辞め、振八は1865(慶応元)年にアメリカ公使館の通訳となった。幕末の困難な交渉の場に語学力に秀でた振八がいたことは、日米両国の大きな助けとなった。
『福翁自伝』(以下、『自伝』)では、この頃の2つのエピソードに振八が登場している。1つ目は、第2回遣米使節団の際に酔った福澤が「幕府を倒せ」と公然と発言し、同席していた振八が、冷静にたしなめたことが書かれている。『慶応三年日記』によると、帰国後謹慎となった福澤のもとを振八が泊まり込みで数回訪ねている。森川隆司氏は米国で購入した洋書は、振八の助言で選んだのだという(「英学者・尺振八とその周辺」1978年)。2人の親しい関係がわかる。
2つ目は、振八がアメリカ公使館の通訳をしていた頃に、明治政府の旧時代的な行いがアメリカにまで伝わっていることを「大笑いではないか」と話す振八に対して、「苦々しい」気持ちとなった福澤の感想が残されている。
また『故社員の一言今尚精神』では、戊辰戦争時に振八は公使館が証明書を発行すれば塾生を保護できると福澤に提案している。振八は塾生のためにわざわざ公使と交渉し、福澤のもとを訪ねたのであった(塾生の小幡甚三郎が申し出を断った)。
共立学舎の創立と慶應義塾
振八は、江戸開城のあと、横浜の自宅や明治義塾などで英語を教え、1870(明治3)年の初め浅草近辺に英学塾を開いた。これが「共立学同社(共立学舎、以下学舎)」である。学舎には共同設立者として吉田賢輔の名が確認されている。吉田賢輔は、石庵のもとで振八と学び、幕臣時代に福澤と親交を結び、維新後に福澤の依頼に応じて慶應義塾で漢学を教えた人物である。その後自身も英語を学び、学舎創設に協力するのである。
開校からほどなくして塾生が増えたため、両国橋を渡った本所に移した。東京府に提出した「開業願」によると、これが1870(明治3)年7月、振八が32歳のことである。
ここで注目すべきは、「学舎社約」である。鈴木栄樹氏は「尺振八の共立学舎創設と福澤諭吉」(1990年)の中で、この社約と慶應4年4月の慶應義塾の「規則」および「食堂規則」がほとんど同一であることを指摘している。振八は、実用的な英語教育の他、漢学も重視して洋漢兼学を目指した。また優秀な塾生に授業を手伝わせる「助教」制度も採用した。これも福澤の「半学半教の制度」に似ている。
本所に移してから約半年後の『新聞雑誌』(第5号、1871(明治4)年6月)には生徒数111名とあり、東京府内有数の英学塾となっていた。
大蔵省翻訳局と晩年の翻訳活動
尺の教育者として高い評価を受ける理由は、大蔵省翻訳局時代の教え子たちの活躍にある。1872(明治5)年10月に開設された翻訳局(鈴木栄樹氏の「開化政策と翻訳・洋学教育──大蔵省翻訳局と尺振八・共立学舎」1994年に詳しい)の局長に振八は破格の待遇で抜擢された。局員は振八に近しい面々で固められ、静岡学問所の乙骨も招聘された。前述の田口卯吉や島田三郎(後の衆議院議長)は、翻訳局で力をつけ、政治・経済の舞台で活躍した。
1875(明治8)年9月に乙骨と大蔵省を退職した振八は、学舎での教育に専念したが、1879(明治12)年頃になると、自身の健康問題で閉校も検討するようになった。結局教え子の波多野伝三郎らが協力して学校運営と教育を引き継ぐことで閉校を免れた。
この時期の振八は、イギリスの哲学者、ハーバード・スペンサーの『Education: Intellectual, Moral, Physical』(1875年)の翻訳に精力を注いだ。スペンサー本人に直接手紙で疑問点や不明な箇所の確認を行う熱の入れようであった。こうして1880(明治13)年4月、『斯氏教育論』が発行され、西洋の自由な教育に関心を持つ人々に読まれただけでなく、「原文よりも名文」(海後宗臣『斯氏教育論解題』1928年)と言われるほど、日本語として受け入れやすく正確な訳文は、現在でも高く評価され続けている(森川隆司『明治初期英学者の翻訳態度──尺振八訳「斯氏教育論」の部分的検討』など)。なお、森川氏は「尺振八を含めて幕末・明治初期の翻訳家たちは、漢文をもって英文を制した」と述べている。振八は和漢英を自在に扱う、ある種の「トリリンガル」だったからこそ卓越した語学力を発揮できたのだろう。
この『斯氏教育論』が出版された頃、学舎は閉校した。学舎の中心メンバーが嚶鳴社を結成して活発に自由民権運動を繰り広げ、多くの門下生が取締りの対象となったことや振八の病状悪化もあり、閉鎖に至ったと考えられる。
最晩年、振八は英和辞典の執筆に取り掛かる。当時は初心者に手ごろなものがなく、正確かつわかりやすいことが意識されている。しかし体調は改善せず、Fから後の部分については永峯秀樹が手を入れている。結局『明治英和辞典』が完成したのは、振八が亡くなってから約2年半後の1889(明治22)年4月のことであった。
振八は1886(明治19)年11月28日、肺結核のため、療養先であった熱海で亡くなった。病の感染を恐れた振八の遺言により、ほぼすべての私物が焼却され、現在まで残る史料は非常に少ない。
尺次郎氏は希少な史料を丁寧に分析し、振八の姿を明確に伝記にまとめていた。『英学の先達』「後記」で気になったのは、次郎氏が振八の「神奈川・横浜での扱い」について嘆いている点である。東京では、新宿区北山伏町に「尺家旧居跡」の碑と「尺振八の業績」の説明版があり、共立学舎跡には、「尺振八の共立学舎跡」と教育委員会による説明板が設置されている(墨田区立両国小学校敷地内)。
一方、横浜では、運上所に勤務し、箱根で片腕を失った伊庭八郎を自宅(正確な所在地は不明)にかくまい、さらには初めて自身の英語塾をその自宅で開いたはずであるが、振八にふれるものは公的刊行物にも見当たらない。この文章が、横浜では振八にあまり関心が向けられておらず「いささか残念」と残した次郎氏の思いに応えるきっかけとなることを願ってやまない。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。