執筆者プロフィール

小山 太輝(こやま たいき)
一貫教育校 幼稚舎教諭
小山 太輝(こやま たいき)
一貫教育校 幼稚舎教諭
2025/05/23
画像:福澤研究センター蔵
幼稚舎の特色である6年間担任持ち上がり制を生み出したのは第4代舎長森常樹であった。森は、福澤諭吉から直接薫陶を受けた最後の舎長である。
明治34(1901)年2月3日、奇しくも福澤が没した日。森は時事新報に「幼稚舎の教育」と題した記事を掲載している。記事中で森は福澤から「頂戴」した「小言」を紹介している。「子供は子供らしく育てなくてはいけない、細かなことまで干渉して大人らしく子供を導くと子供は、いじけて発達上に大変害がある。些細な事まで無暗に干渉することはよろしくない」「今の教育法は、どうも子供にあまりむずかしいことを教え過ぎて困まる」。また、「耳から入れることよりも、なるべく目に見える所の模範を示して、口でばかりやかましく言わずに、目よりする方がよろしい」。福澤は、よく幼稚舎の授業を参観してはこのような注意を与えたという。
続けて森は自身の言葉で、大人が「活動を抑えて静かにしろ、騒ぐべからず、大人しくしろ」など「束縛するが如きは牢に入れられたる大人の苦痛よりも彼等が感ずる苦痛は」大きく、「心身の発達を妨」げる。干渉することは、放任して「自然の発達に任ずものよりその害はかえって」大きく、子どもを取り扱うためには、「諸能力を自由に平等に多方的に使用」し、「力量に応じて」、「能力を調和的に発達」させるべきであると記している。
慶應義塾名流列伝には森について「辺幅を飾らず他の富貴を羨まず、一意専心教育の真義に憧れ」る「我が理想の小学校教育家」と記されている。
歩み
森常樹は、安政6(1859)年、現在の熊本県葦北郡佐敷で森弥七・はちかの長男として生まれた。幼少期、藩立の学問所、啓微堂で高藤典太に学び、明治5(1872)年、13歳で典太の息子の高藤正名が初代校長を務める佐敷小学校で助手となる。当時、様々な西洋流教科書が流布し始めていた中で、佐敷小学校は「童蒙をしへ草」や「世界国尽」などの福澤の著作を教科書として採用していた。
森が18歳の時、西南戦争が起きる。森は、郷土鎮部隊に加盟し官軍と薩軍との争いに巻き込まれる。時には闇に乗じ山に逃れ1カ月も潜伏し、時には第一線の戦闘に参加するなどの死線をくぐり抜けた。
明治11年に東京へ遊学。森は戸波親信の下に奉公し、余暇で英語を学んだ。翌年3月慶應義塾に入学。資金が乏しく苦しい生活だったという。
福澤の次男捨次郎とは同級生で、在塾中しばしば福澤家へ出入りし福澤に直接触れる機会があったようだ。森は、首席で塾を卒業する。時事新報発刊にあたり福澤から編集の誘いもあったが、郷里に事情ありと辞し、24歳で佐敷小学校に勤め、2年後には校長となる。福澤は森を諦めきれず、この間に出京を促す手紙が残っている。
明治20年、葦北高等小学校初代校長に就任するも5年後に小学校令の改正により急遽廃校の悲運にあう。森は、路頭に迷った数百の児童を、独力で教え、翌年再開校されるまで支え続けた。
明治30年、38歳の森は福澤の再度の招きに応じ、熊本に妻子を残し単身上京(後には家族も呼びよせる)。初代舎長和田義郎以来の慣例として、舎内に住居を構え365日24時間勤務で子どもたちの面倒をみることになる。幼稚舎・普通科・大学科と進む一貫教育の完成とほぼ同時期の舎長就任であった。
慶應義塾学報第1号には、幼稚舎の特色を「健全なる気風を養い、教育は英語を主とし普通部よりさらに大学に入るの地を作る」場とし、衣服飲食より入浴の「末事に至るまで懇切に世話してあたかも家に居ると同様の感」があるとする。また当時の小学校制度は未発達で各校「玉石混交」、治安もよくない上に華族学校は「あまりに貴族風にして平民の子弟を教育するに妙ならずこれ心ある父母の苦心する」ところ故に幼稚舎が必要とされたと書かれている。
舎長となった森は、本校舎・講堂・理科教室の新築、唱歌科の新設、植物園の設置、諸規則の整備等、自ら企画実行し、次々に幼稚舎を刷新していく。
幼稚舎生からは「温和そう」で「親しさ」があるが「どこか怖い」、「きちんとしておられた」といった印象であった。熊本の梨をご馳走になったり、森の息子と遊んだりと「家庭の延長のように過ごせた」とも書かれている。
修身へのこだわり
森は、自ら高学年クラスの修身を受け持つほど修身を大切にした。そのこだわりは、市中の修身の教科書に不満を持ち、自前の教科書を編纂するために福澤に相談にいくほどでもあった。
卒業生の回想によれば、森の修身は、子どもでも分かる「平易」な内容で「封建的な教育勅語にふれず、福澤諭吉主義で押し通され」るものであったという。また、他校から編入してきた者は「市立小学校では明けても暮れても忠君愛国と孝行の修身であったのが、幼稚舎ではそれが全く違って忠君愛国は一言半句もな」く「胆をひやすほどに驚」いたという。
森は、「良書籍の感化力は実に偉大であり人物の伝記を読ま」せるべきであるとの想いから、『フランクリン自伝』と『福翁自伝』を修身の教材とした。加えて、行動指針となる言葉を10ずつ定めた『十徳十戒』と、幼稚舎『修身要領』を自ら制定し柱としている。
『修身要領』とは、「独立自尊」を標語とする、29条からなるモラルコードで福澤精神の集大成である。
明治33年、森は病後の福澤に来舎を要請したが叶わず、「今日子供たる身の独立自尊法は唯父母の教訓に従て進退すべきのみ」という書を授かった。「独立自尊」は「立派に思想の固まった者」に向けた言葉であるため、子どもが誤解しないようにと贈られたものである。福澤没後、森はこの考えを踏まえ幼稚舎独自の10カ条(初期は6カ条)の修身要領を制定している。子ども向けに平易な言葉を選び、福澤が自らの息子に向けて書き与えた「ひびのをしへ」などを参考に作られている。森は、例えばケンカがあった時、「第7条 兄弟友達は勿論、何人にも優しく親切につきあうべし」などのように児童に該当箇所を唱えさせるなど、実際の場面に応じ活用していた。森によると、ケンカをした当事者は唱えた後には、ニコニコと笑い出し、自分の非を認め謝るため、「よろしい」というだけでことが済んだという。
6年間担任持ち上がり制
幼稚舎の特色の1つに6年間担任持ち上がり制がある。森は修身を時間割に定め、高尚で「四角張った言語をもって説き聞かせ」一見厳粛に「姿勢だけは行儀正しく」聞かせる世間のあり方に疑問を持っていた。そこでそれを克服する仕組みとして「全体学級受持」で「なるべく1年から6年まで一人の教員に受け持たせ」ることを是とした。この受け持った6年間に「教員が責任を有してすべての教授に修身の主旨含ませ」、児童間に起きた「偶発の事柄につきて教訓」し、「時々物語りや昔話を授けて」正していく。それにより「これが修身科であるといふようなことを子どもに感ぜしめず、かねて生徒の言行に注意すること」ができる。また、教師の人格は十人十色にもかかわらず担任が毎年代わると、「前の教師は後の教師との比較批評を試み師弟の関係はおのずから冷淡とな」るが、固定をすれば児童が適応に迷わないという。
森就任以前の幼稚舎は、中高生のような異年齢の子どもも混ざり能力別編成で学んでいた。森はその弊害について「年齢不相応の級」に進むと過度な重荷を負い「疲労を覚えて正常の発達を妨げ、かえって将来を誤る」。幼少の時には「心身に休息の余裕」を適宜に与える必要を考慮すべきと説明している。
獣身を成して後に人心を養う
冒頭の「幼稚舎の教育」において、森は、福澤の子ども教育の主義は、「獣身を成して後に人心を養う」であるから「体育の事につきては中々やかましく言ってお」り、「先生の孫達が来ておりますが先生は子供が学校で学科が善く出来たからと言っても喜ばないが遠足をして車にも乗らず、元気で帰って来たときは褒めるのです。これは世間の父母達がややもすれば勉強々々と云って子どもが静かにして読書するばかりを褒めるのとは反対」であるというエピソードを伝えている。森自身も、修身の柱の「十徳十戒」の中の1つに「健康」を掲げており、「健康なる精神は健康なる身体に宿るといへり、されば人は先づ身体健康ならさるべからず。若し身体虚弱なれば、たとえ才能智ありといえども、これを活用することあたわずして、空しく宝の持ち腐れとなるべし。故に不断衛生を重んじ、寝起食事等を規則正しくて成るたけ健康を増すやうに心掛くべきなり」と児童に伝えている。
また、具体的な運動については、「1クラスを一つの塊として一斉に同じ活動をさせるというのは、一部の者のためには利き目もあるかもしれないが中には体力の違いがあるために随分苦痛を感じるものがある。厳格に大勢を一斉に同じことをやらせるということは余程考えものであ」ると考え、「身体の運動は自由遊戯ということが最もよろしい」としている。「遊戯は自分の力相応に……興味という快楽が伴うから身体の発達という点からよほど利き目があ」り、例として相撲を挙げ、子供たちが力士に名前を付けたり、紙で廻しを造ったりする手際は、教師が教場にて教えるものよりかえって優れており、「長く続きまた大変に興味を感じて余念なくやっている」と言う。
「戯去戯来」と「最大幸福」
大正4(1915)年始業式。森は「およそ人は何事をなすにも気持よく愉快な気分をもっていなければ仕事ははかどらぬばかりか、億劫になって怠けがちになる」。「かぎりある身の力試しにという気分でやって行けば苦しい事も苦にならず楽しんで仕事をする。楽しんで勉強するといふことが大切である」という言葉を語っている。現在、幼稚舎の講堂、自尊館に掲げられている福澤の「戯去戯来(戯れ去り戯れ来る)」の書、または「修身要領」最後の条が掲げる「最大幸福」という言葉にも通じ、福澤思想が底流に感じられる。
森は大正8年、60歳で舎長を辞す。21年5カ月は歴代最長である。晩年「幼童を教育し楽しみて老を忘る、これ人生の至福なり」と語る森にとり21年5カ月の児童との戯れは、幸福で楽しい月日だったことであろう。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。