執筆者プロフィール

齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)
一貫教育校 横浜初等部教諭
齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)
一貫教育校 横浜初等部教諭
2022/01/28
画像:大槻三賢人像(一関市)正面:大槻玄沢、 左:磐渓、右:文彦
明治9(1876)年9月28日、蘭学の先人、大槻玄沢(げんたく)(磐水(ばんすい))の五十周忌を記念した追遠会が、子(次男)の磐渓(ばんけい)と孫にあたる修二(如電)、文彦の3人を祭主として開かれた。3人は相談して、玄沢の命日3月30日ではなく誕生日に会を催した。会場となった、東京本郷金助町に新築したばかりの大槻邸岳雪楼には、玄沢の肖像とともに「新元会図」が掲げられ、庭には28人の陸軍軍楽隊が整列し洋楽を奏でた。この会には、福澤諭吉も招かれ、出席していた。
故大槻磐水先生五十回追遠之文
追遠会には、江戸時代からの蘭学の家を代表する桂川甫周(国興)、杉田玄端、宇田川興斎をはじめ多くの洋学者や文人が招かれた。4日前、勝海舟は、来訪した磐渓から「磐水先生五十年回いたし度き旨」を聞き、当日は、大槻邸を訪問し、「五円、香花料遣わす」と日記に書き記した(「海舟日記」)。会は、のちにニコライ堂を建てた宣教師ニコライの祝辞に始まり、福澤も用意した追悼文を「事を為(な)すに外物を目的として為(ため)にする所あるものは独立の事に非ず。(中略)名の為に非ず、利の為に非ず、正に独一個人の精神を発達せんが為に勉強刻苦する者にして、始めて之を不羈独立の士と称す可きなり」と、おそらく自ら朗読した。
福澤は、続けて「今を去ること凡(およ)そ百年、我日本洋学の先人たる前野、杉田、大槻等の諸先生が、始めて蘭学に従事せしときの有様を追想するに、其事業の困難は固(もと)より論を俟たず」と、先人たちの労苦に思いを致した。そして、「我洋学の先人は、百年の上に在て既に此人心変動の元素を養い、之を伝えて後世の今日に遣わし、以て文明の路に荊棘(けいし)を除きたる者なり」と述べ、彼らの近代化への功業は、数万の兵を率いた指揮官以上に大きいと讃えた。さらにその歴史を受け継ぐ自らを含めた出席者の面々に「今の学者も亦多事なりと云う可し。学者勉めざる可らず。其発論の奇たるを恐れず、其事業の怪たるを憚らず、一個独立の精神を発達し」と、戒めと励ましの言葉を向けて、挨拶を締めくくった。
オランダ正月(新元会)
大槻玄沢は、宝暦7(1757)年に生まれた。名は茂質(しげたか)であるが元節と称し、24歳の時に玄沢と改めた。また、故郷一関の厳美渓の景観で知られる磐井川からとって磐水を号した。オランダ流外科を開業した父大槻玄梁(げんりょう)が仙台藩の支藩である一関藩の藩医として召し抱えられると、玄沢は父の同僚である建部(たけべ)清庵(二代目)に師事して、9年間教えを受ける。建部は、「一関に過ぎたるものは二つあり、時の太鼓に建部清庵」と謳われた人物で、江戸の杉田玄白に、蘭方医学についての質問状を送り、これに杉田が回答する形で書簡のやりとりがなされたことで知られている。2人は、一度も顔を合わせることがなかったが、遠く離れていても志を同じくする者と認め合っていた。のちには、建部の子由甫(ゆうほ)が杉田の養嗣子となり、伯元と称して杉田家の家督を継いでいる。
22歳になった大槻は、藩から2年間の遊学の許可を得て、江戸に出た(のちに2年の延長が認められる)。江戸では、建部のつながりで杉田の天真楼に入塾して主に医学を学び、さらに中津藩の蘭学者前野良沢から蘭語の教えを受ける機会を得た。遊学を終えて帰郷した大槻は、江戸勤番の命を受けて再び江戸に出るが、蘭語を学ぶために長崎遊学を願い出、これが認められる。長崎では、オランダ通詞(通訳)の本木良永・正栄父子のもとに寄宿して蘭学を学ぶとともに、高名な外科医で、杉田、前野の著『解体新書』に序文を寄せた吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)とも交友を深めた。吉雄の屋敷は、オランダから輸入した家具が並び、阿蘭陀座敷(おらんだざしき)と呼ばれていた。その邸宅で天明5年12月2日(1786年1月1日)に、オランダ正月が催され、大槻も招かれた。オランダ正月とは、オランダ商館の人たちが西洋暦の正月元日に合わせて日本人も招いて催した祝宴で、西洋料理が振舞われ、楽隊が曲を奏でる賑やかなものであった。長崎の人々はこれをオランダ正月と呼び、吉雄ら通詞たちの間でも、催されるようになっていた。大槻は、出島にも出入りできるようになったが、一関藩から本藩である仙台藩への移籍が決定し、至急江戸に戻るようにとの指示を受けた。こうして大槻は、公私に渡り収穫の多かった長崎遊学をわずか4カ月余りで終えることになった。蘭学を志して、福澤が長崎の土を踏む68年前のことである。
江戸に帰った大槻は、仙台藩から一代限りの江戸定詰と外宅を許され、京橋に私塾を設けてこれを芝蘭堂(しらんどう)と名付けた。門下生は百人を超え、中から優れた蘭学の後進を世に送り出し、芝蘭堂は、江戸における蘭学の一大拠点となった。門下の宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉らは、蘭方医、蘭学者として活躍するとともに、緒方洪庵の師となる中天游(なかてんゆう)、坪井信道らを輩出し、大槻の系譜を福澤まで繋いでいく。
寛政6年閏11月11日、この日は、西洋暦の1795年1月1日に当たることから、大槻は、芝蘭堂に多くの蘭学者を招き、新元会と称して祝宴を開いた。大槻は、長崎でのオランダ正月の様子を日記に書きとめ、江戸でこれを主催したのである。追遠会の会場に掲げられた「新元会図」は、この日参加していた門人の市川岳山が描いたものである。新元会は恒例行事となり、大槻亡き後も、長男の磐里(玄幹)がこれを受け継ぎ、天保8(1837)年まで実に計44回開かれたという。
自我作古
文化8(1811)年、幕府の蘭書翻訳機関として蛮書和解(わげ)御用(阿蘭陀書籍和解之御用)が設けられた。杉田が「万一禁令を犯せしと罪蒙るべきも知られず。この一事のみ甚だ恐怖せしところなり」(『蘭学事始』)と恐れたオランダ書の翻訳が幕府公認の事業になったのである。55歳の大槻は幕命により出仕し、幕府による最大の翻訳事業とされるフランス人ショメールの『家事百科辞典』の翻訳に取り組む。大槻死後も翻訳作業は続けられ、翻訳本は『厚生新編』と名付けられた。
大槻は、福澤が生まれる8年前の文政10(1827)年に病没するが、その生涯を通じて多数の著書と訳書を残した。中でも、著名なものとして『重訂解体新書』が挙げられる。二人の師の偉業を受け継ぎ、『解体新書』を改訂したものであるが、大槻は、これを単なる改訂の範囲を超えて仕上げた。『解体新書』は、西洋医学を世に紹介する画期的な翻訳本であったが、杉田は、一日も早く出版することを優先したため、翻訳が不十分で、改訂の必要があると自ら感じていた。しかし、杉田には改訂作業に打ち込む時間も体力もなく、弟子である大槻を見込んで改訂を命じたのである。杉田は、次のように大槻を評する。「この男の天性を見るに、凡そ物を学ぶこと、実地を踏まざればなすことなく、心に徹底せざることは筆舌に上(のぼ)せず。一体豪気は薄けれども、すべて浮きたることを好まず。和蘭の窮理学には生まれ得たる才ある人なり」(『蘭学事始』)。
大槻は、元来、事物に対し徹底的に考証せねば気の済まぬ性格であった。原書『ターヘル・アナトミア』翻訳のために古今東西の文献に当たり、解剖を見学して実証を得るなど、草稿に十年余りを費やした。これを杉田に見せることはできたが、出版までにはさらに二十数年がかかった。漸く『重訂解体新書』が世に出るのは、大槻が他界する前年のことである。
蘭学の普及に寄与した著としては、長崎遊学の翌々年(天明8年)に出版した『蘭学階梯』がある。同書は、蘭学と蘭語の入門書で、上下二巻から成り、上巻は蘭学の由来や蘭学入門者への心構えについて述べ、下巻では文字や数字など蘭語の基本的な知識や学習方法を紹介している。大槻は、その上巻において、「一切の道、草創の人の其艱辛労苦(かんしんろうく)、思いやるべきことなり。自我作古(われよりいにしえをなす)の業は右の如く難しき事なる故、今まで二百年来、事を起こさざるも宜なり」と、杉田ら、蘭学草創期の人々の苦難と気概を伝える。自我作古は、中国の古典『宋史』に出てくる語であると言われている。
慶應4(1868)年4月、福澤は、芝新銭座に移転した学塾を慶應義塾と命名し、その独立を高らかに宣言するかのように、塾の精神と主義をまとめた「慶應義塾之記」を広く発表した。「慶應義塾之記」は、前野、桂川甫周(国瑞)、杉田らの偉業を「只管(ひたすら)自我作古の業にのみ心を委ね、日夜研精し寝食を忘るゝに至れり」と記す。福澤は、自らが蘭学の道を切り開く開拓者になるのだという先人の強い気概を、自我作古という言葉を用いて表した。さらに福澤は、大槻や緒方らが継承してきた、洋学の道を慶應義塾が受け継いでいくのだという使命を披露している。
自我作古は、杉田が83歳にして書き遺し、大槻に加筆修正を託した、『蘭学事始』にも「とても我より古をなすことなれば、いづれにしても人々の暁(さと)り易きを目当として定むる方と決定して」と、登場する。この書は、「旧幕府の末年に」福澤の親友神田孝平が偶然にも散歩中に露店で発見し、これを読んだ福澤が先人の苦心と剛勇に涙したことで知られる。福澤は、『蘭学事始』や『蘭学階梯』をもとに「慶應義塾之記」に自我作古の語を用いたのではないかと考えられている。なお、福澤は明治2(1869)年の『蘭学事始』初版刊行に尽力し、明治23年の再版時には、その発見から出版に至る経緯を回想した序文を寄せている。
時は流れ、昭和14(1939)年7月、新設学校の入学式が挙行された。福澤に学び、社会に出て王子製紙を率い、製紙王と呼ばれた藤原銀次郎が、私財を投じて設立した藤原工業大学である。同時に藤原は、やがてこの大学を慶應義塾に寄付すると申し出ていた(実際に昭和19年、慶應義塾の工学部となる)。そのような経緯から、同校の学長に就任した小泉信三は、第1回入学式で198人の新入生を前に、「我れより古を作すという言葉がありますが、諸君は即ち我れより古を作す者でありまして、諸君の歴史が即ち藤原工業大学の歴史になる、諸君の成績如何が藤原工業大学の成績如何となるのであります」と、訓示を述べた。
大槻の用いた自我作古が、70年振りに脚光を浴び、慶應義塾の信条を表す言葉となった瞬間であった。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。