慶應義塾

門野重九郎

執筆者プロフィール

  • 坂戸 宏太(さかと こうた)

    一貫教育校 横浜初等部教諭

    坂戸 宏太(さかと こうた)

    一貫教育校 横浜初等部教諭

2021/11/29

画像:『平々凡々九十年』より

門野重九郎(かどのちょうきゅうろう)は、門野幾之進(いくのしん:慶應義塾の副社頭を務め、千代田生命保険相互会社を創設)の弟にあたり、大倉組の副頭取、東京商工会議所会頭を務めた実業家と一般的には評される。重九郎は、90余年にわたる長命であったことと、記憶力がよく、老年になっても一向に衰えをみせなかったこともあり、多くの回顧録を残した。自伝『平々凡々九十年』は、その集成と捉えることができる。本稿では、自伝群の中から重九郎の人柄を形成するにあたって大きな影響を及ぼした、大倉組に迎えられるまでの事柄に着目する。それは、慶應義塾での教え、鉄道工学を専門とし鉄道事業者を出発点とした社会人の歩み、学問として仕事として鍛えた英語力の3点に集約される。

生い立ち

重九郎は、慶應3(1867)年9月、鳥羽藩士門野豊右衛門の次男として、志摩国鳥羽(現、三重県鳥羽市)に生まれた。幼い頃は、よほどのろくでなしで末恐るべきものと、親や兄姉から殊更に厳しく育てられた。重九郎は、自分自身では良い子だと思っており、それをこのように特に厳しくされたので、内心不平でたまらなかった。

一緒に育った親戚の門野錬八郎(塾員、三井財閥で要職を務めた)に言わせると、悪戯の張本人は重九郎であったという。また、父の旧友である近藤真琴(攻玉社を設立)の一家が同居していた時には、養子の近藤基樹は善童(グッド・ボーイ)、重九郎は悪童(バッド・ボーイ)として対比された。

明治5(1872)年に学制が公布されて以降も、父は重九郎を学校へ満足に出さず、鳥羽藩の若者を呼んで四書五経や毛筆習字を教えた。しかしながら、重九郎は、これらを無理矢理つめ込まれ、チンプンカンプン、部屋で寝ころび大いに怠けてそれを得意としていた。重九郎曰く、結果として怠け癖は払拭しきれず、必要以上の勉強は何もやらなかった。

慶應義塾へ

明治10(1877)年、重九郎は母に伴われて故郷を後にした。四日市から海路で横浜を経由して、初めて鉄道に乗って東京入りした。後年、「その際、驚きの目をもってのみながめた鉄道が、10年後の専攻学になり、15年後のアメリカ及び日本でのわたしの職業対象となった」と振り返っている。上京の目的は、11歳年上の幾之進が腕白者の重九郎を引き取って、何とかしようというものであった。当時、幾之進は慶應義塾で最年少教師となったほか、三菱商業学校などへも派遣されて教壇に立っていた。

翌明治11年、重九郎は三田山上の和田塾(後の幼稚舎)に籍を置いた。和田塾は、初等教育を行うための家塾で、和田義郎夫妻が福澤諭吉から命を受けて始めた。塾生数は25~6名で男女共学(明治10年代前半の一時期のみ共学)、うち寄宿生は7名でいずれも地方の殿様をはじめとする士族の子弟であり、通学生は、明治の大官や三田近辺の裕福な家庭の子ども、義塾教職員の子たち(福澤の子を含む)で占められていた。通学生はいずれも絹物を着て、往復にはお供がついていた。ゆえに、和田塾の雰囲気は貴族的で、誰の仕草も鷹揚であったという。

塾生の多くは和田夫妻との思い出を「慈父慈母の如く」「家庭的」と記したが、重九郎自身は異なる印象を抱いていた。自分だけが非常に不都合な奴と思われているようで、殊に義郎の妻喜佐からは、「どうもあなたは性質が悪い」と、盛んに叱られた。その一方、次のような思い出も語っている。

「毎朝起きると毛布を池の金魚の上で振るのですが、余りにも蚤が多いので金魚もびっくりしたか食わない。それでもう少しサッパリしなければならぬとか、掃除をしなければならぬとかよく和田先生に叱られた。和田先生の妹さんで山口お秀さんという方が母親に代って非常に私を庇って下さったような心持も致します」

他方、福澤のことは「慈父に見ゆるの感ありき」と表現している。重九郎は、福澤の子どもたちとともに過ごし、寄宿先が福澤の長屋つづきであったためか、福澤家へ行って一緒に食事をしたり、正月にはお餅を御馳走になったり、時には手をとってもらって輪になって遊んだ。福澤は子どもたちにはやさしく、遊びの度が過ぎて「コラ!」と叱られても、恐る恐る近づいては話しかけることもあった。

和田塾での授業は、英語に漢籍を加えたもので、小学課程としては高度であった。勉強はすべて自学自修、下級の者を上級が教え、上級のものは自分が解らぬところをお互いに研究しあい、それでもラチのあかぬものを教師心得(学生の古参)へ持ち込む仕組みになっていた。重九郎は、塾生時代に英語を鍛え、英米での十余年にわたる滞在を通して英語で苦労したという記述は見当たらない。

15歳で本科へ移ってからは、かえって福澤と接する機会がなくなった。同級生には、武藤山治(鐘淵紡績株式会社社長)、山名次郎(日本勧業銀行鑑定役)、和田豊治(富士紡績株式会社社長)がいた。寄宿生の中には、尾崎行雄、犬養毅もいて、重九郎はとても今までのように腕白振ることは出来なかった。時を同じくして、幾之進が土佐の立志社から三田へ戻り、何かと窮屈な思いをした。しかしながら、この時期、兄を煙たがっていたばかりでもなさそうで、意識が変わってきたようだ。

義塾での教育は、文章をよく書くこと、英書が熟読できるように奨励され、それらが社会で実際に役立つように勉強せよと教えられた。重九郎は、このことを「いわゆる実学というもので、福澤先生のもっとも強調された教育方針である」と理解していた。

兄がすすめた実学の道

卒業を控えた18歳、重九郎は漠然と政治経済方面へ進学することを考えていた。しかし、義塾の教頭職に就いていた幾之進は、「学問々々といっても、政治経済のような正体のつかめない学問はよした方がいい。これは学問というより常識で身につく。福澤先生もどちらかといえば、これからの若い者にケミストリーをすすめておられる。お前はどうしても科学の方へ行け、工学を修めろ。その方が間違いなくメシがくえるようになる。おれが慶應の先生をしていてこんなことをいうのもおかしいが、本当の話そうなんだから仕方がない」と、真っ先に反対した。

明治17(1884)年夏、重九郎は慶應義塾本科を卒業して、工部大学校(現、東京大学)に約10倍の競争率を突破し合格、官費生に選ばれた。明治24(1891)年、帝国大学(在学中に旧東京大学と合併)土木科を卒業、専攻は鉄道工学であった。

卒業後は、官費生は修業期間に相当する期間を政府指定の職場で働く義務があったが、鉄道国有化以前は鉄道工学を生かせる場がなく、事実上の無職となった。幾之進に相談したところ、「アメリカへでも行ってみたら」という助言を得て、鉄道庁部長(後に長官を務めた)松本荘一郎の紹介でペンシルバニア鉄道技師のジョセフ・U・クロフォード(幌内鉄道建設のために招聘に応じて来日、その建設のために松本を起用していた)を頼り、同鉄道で働くことになった。渡米に際しては、小泉信吉(のぶきち)の後押しを得ている。

重九郎は、「義塾の同窓生で一番お世話になったのは小泉信吉氏であり、私が海外渡航する時に横浜正金銀行から援助してもらったことを深く感謝している」と述懐している。現地では、米国人なみの給料で雇われ、周囲に製図を満足に引く者がいないため自身のものが採用された。また、人種的偏見に悩まされることも少なく、むしろ日本出身ということに驚かれ、同僚から気持ちよく迎えられた。4年間の米国生活を終える際、英国経由で帰国した。

山陽鐵道に選ばれる

明治29(1896)年に帰国、重九郎は30歳になっていた。洋行帰りとはいえ、活躍する旧友に悲観されたことから、工学よりも政治経済だったのではと後悔もした。しかし、知人の仲であった荘田平五郎(塾員、三菱財閥の要職を歴任)から、「それはとんでもない考えちがいだ。政治経済より工学を修めた方がよかった。同じ4、5年でも、内地で苦労するよりは海外へ出て苦労したことがよかった」と懇切に諭されたという。

それからまもなく、帝国大学の助教授、逓信省鉄道局などから声がかかるようになったが、いずれも断るうちに、山陽鐵道株式会社(現JR山陽本線を敷設、開業)へ入る話が決まってしまったという。取締役の中上川彦次郎(塾員)と、技師長の山口準之助がそれぞれ重九郎にとって旧知の仲という、二重の縁によるものであった。こうして重九郎は、事実上の陣頭指揮者であった牛場卓蔵支配人(塾員)の下で、技師として全線開業に向けて延伸区間の建設に携わった。

大倉組へ

当時、大倉喜八郎(大倉組の設立者)はロンドン支店へ送り込む人材を探していた。重九郎を大倉組へ誘ったのは、大倉粂馬(大倉喜八郎の婿養子)と、高島小金治(塾員)であった。大倉粂馬は帝国大学の数期先輩にあたり、高島は幾之進の親友で、両人とも中上川とつながりがあった。この2人が、「門野という男は、アメリカとイギリスに行ったことのある慶應出だ。人間は正直で、正直以外に別に取柄はない。ボンクラで正直だから、気の利いた商売は出来んが、決して悪いことだけはしますまい」と推薦した。この転身には幾之進や中上川からの反対は無かった。

明治31(1898)年、大倉喜八郎は、「よろしく頼む」のただ一言で重九郎を迎えた。重九郎にとっては、技術者から実業家へ転身したいという漠然とした思いが潜んでおり、塾生時代の希望が実現する運びとなった。ロンドン支店長を10年務めて明治40年に帰国すると、副頭取を任された。後に重九郎は、「一介の鉄道技師に過ぎぬ私を、大倉組の重要ポストに引き上げ、若年の、しかも貿易関係には全くの素人である私に一切をゆだね、あとはもう何から何まで私を立てるようにされたのである」と振り返った。

その後

昭和12(1937)年に大倉組の要職を退き、小田原へ隠居してからは、意地のように東京へ出掛けなかった。重九郎は、「世間では私を誤って相当な財界人に認めてくれたようであるが、みんな「大倉さん」というバックがあってのことで、実質は大倉組の番頭、いうなれば一介のサラリーマンに過ぎなかった」と、終生控えめな発言にとどめた。一線を退いて肩書つきの職は、ヘボン式を重んじる標準ローマ字会の会長のみであった。昭和33(1958)年4月、塾生時代に得た教えを最後まで貫き、大往生の人生に幕を下ろした。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

福澤諭吉をめぐる人々

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