慶應義塾

小幡甚三郎

執筆者プロフィール

  • 結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    一貫教育校 ニューヨーク学院(高等部)教諭

    結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    一貫教育校 ニューヨーク学院(高等部)教諭

2017/03/03

慶應義塾ニューヨーク学院から車で1時間半ほどのニュージャージー州ニューブランスウィックに、ウィロウ・グローブ墓地がある。やや雑然とした墓地の一角に、明治初期にアメリカで亡くなった日本人留学生の墓碑が7つ、整然と並んでいる(下記写真)。昨年11月、本校福澤研究会一同は当地を訪れて墓前に献花し、周辺の清掃を行った。部員たちは昨年よりも綺麗に手入れされていた墓碑を見て、日本人墓所が多くの人に大切にされていることを実感したようである。この7つの墓碑のひとつが、今回扱う小幡甚三郎(おばたじんざぶろう)(仁三郎)のものである。

福澤との出会い

甚三郎は、弘化2(1846)年、中津藩上士二百石取りの家に生まれた。福澤と甚三郎が出会ったのは、元治元(1864)年3月。この時福澤は31歳、6年ぶりに帰省していた。安政5(1858)年、適塾で学んでいた福澤に江戸で蘭学を教授すべしとの藩命が下り、江戸に出るならその前に母に別れを告げようと中津に戻った時以来の帰省であった。

福澤にとってその6年間は、激動であった。横浜で衝撃を受けて英学に転向し、咸臨丸で渡米して帰国すると幕府翻訳方に雇われた。さらに幕府派遣の欧米使節団の随員となって各国を歴訪。文久3(1863)年、国内で攘夷論が盛り上がりをみせると、洋学者として身の危険を感じる日々も続いた。

そうした中で帰省した福澤は、塾の将来を背負って立つ有望な人材を江戸に連れて帰るという重要な目的を持っていた。洋学を学ぶと命を奪われるかもしれない情勢の中で、そういう人材を見つけようというのは、学問で未来を切り開くのだという、福澤自身の決意の表れのようにも思える。

福澤がまず熱心に勧誘したのは、甚三郎の兄・篤次郎である。篤次郎は当時23歳、のちに『学問のすゝめ』初編では著者として福澤と名を連ねるなど、福澤の右腕として活躍する人物である。しかし、すでに藩校・進脩館で漢学を教授する立場にあった篤次郎は、はじめ福澤の誘いを拒絶した。それでも福澤は諦めずに説得し、篤次郎とともに江戸に出ることになったのが、甚三郎である。

甚三郎はこの時20歳。進脩館で漢学を学んだようで、兄同様、洋学の素養はなかったと思われる。甚三郎が自ら江戸行きを望んだのか、それとも福澤が連れて行こうとしたのかも、判然としない。ただ難色を示した母親を説得し、結局2人とも江戸に連れて行ったのだから、甚三郎の将来性も高く買っていたであろう。甚三郎は元治元年6月、篤次郎らとともに江戸に到着する。

日本人留学生の墓所のニューヨーク学院生

義塾を支える

甚三郎は入塾すると2年も経たない間に英語を習得した。慶応2(1866)年12月には篤次郎とともに幕府開成所に出役して、英学を教授するようになる。慶応4年3月には、日本初の熟語・文例集である『英文熟語集』を篤次郎とともに出版。翌年には福澤を助けて『洋兵明艦』の翻訳に携わった。『洋兵明艦』は熊本藩に納めるために翻訳されたもので、新銭座に塾を移転し、名を慶應義塾と定めたばかりであった福澤は、その収入で塾舎を増築している。また、明治元(1868)年版および明治2年版の「慶應義塾之記」に記載されている日課表によれば、福澤や篤次郎と並んで、歴史や経済を教える教授として甚三郎の名を見ることができる。

ところで、甚三郎が入塾してしばらくは、塾生に粗暴で不勉強なところが多くあったようである。例えば、甚三郎と同時期に義塾の教授を務めた馬場辰猪は「彼等は不規則であると同時に不身持であった。……彼等は殆ど勉学しなかった」(『馬場辰猪自伝』)と回顧している。その中にあって、甚三郎は塾生の気風を正すことにも大いに貢献したという。さらに、甚三郎の人柄をよく示すエピソードがある。

戊辰戦争の最中、官軍が京都を発して江戸を目指していた。江戸の人々は、官軍がこの地で大いに乱暴するに違いないと噂し、それに巻き込まれまいとして、外国人居留地のある横浜に逃げ込む者も多かった。

一方、西洋人のなかにも、知り合いの日本人に外国公館の使用人であるという証明書を与えて、それを官軍に示して一時を免れよという親切な者があった。塾も多くの西洋人と交流があったので、塾生のために証明書を手配しようと申し出る人もいたという。

これを聞いた甚三郎は、血相を変えて義塾の広間に走り出て、強い口調で塾生にこう語ったという。「堂々たる日本国人にして報国の大義を忘れ、外人の庇護の下に苟も免かれんより、寧ろ同国人の刃(やいば)に死せんのみ、我輩が共にこの義塾を創立して共に苦学するその目的は何処(いずこ)に在るや、日本人にして外国の書を読み、一身の独立を謀(はかり)てその趣旨を一国に及ぼし、以て我国権を皇張するの一点にあるのみ、然るを今にしてこの大義を顧みざるが如きは、初(はじめ)より目的を誤るものと云う可し、我義塾の命脈を絶つものと云うべし」(「故社員の一言今尚精神」)。

〝一身独立して一国独立す〟という福澤の主張を想起させる言葉である。塾生たちはこれで落ち着きを取り戻し、以後、維新期に起きた様々な事変に惑わされることなく学問に励んだという。福澤が上野戦争に動じずウェーランド経済書の講義を行ったのも、この直後のことである。

こうして義塾の中心的存在となった甚三郎は、明治3年には塾長に就任している。初期の塾長の職務は定かではないが、翌年3月に義塾が新銭座から三田に移転した際には、工事指揮の任にあたり、時には自ら半纏を着て働いたという。

アメリカ留学

明治4(1871)年12月末、甚三郎は旧中津藩主奥平昌邁(まさゆき)とともにアメリカに出発した。入塾したばかりの17歳の昌邁に福澤が留学を勧め、その随行者に甚三郎を推挙したのであった。後年福澤は、学問・人物を大成させるために甚三郎を選んだと語っている。

昌邁と甚三郎は明治5年2月末にニューヨークに到着している。3月初旬、留学先のコネチカット州ウィンチェスターに移動するが、ここでは十分に学ぶことができないと判断して下旬にはニューヨークへ戻り、ブルックリンでプライベートレッスンを受けることになった。

ようやく落ち着いた甚三郎は、手紙を2通送っている。そのうち1通は、篤次郎宛で、初めての異国で、旧藩主である昌邁の通訳・従者の役が満足にできず、辛い思いをしたということが率直に綴られている。

一方、母親および「皆々様」に宛てた翌日の手紙では、もう辛い思いはしていない、心配無用であると強調し、「此の次の便のとき迄には、立派な「アメリカ」っ子になって写真を指上申候間、写真を御覧になって御安心可被下候様(くださるべくそうろうよう)呉々奉願候(ねがいたてまつりそうろう)」と重ねている。また、「当地の食物好きもののみなれは、必ず少しは肥満して、達者に相成候事と相楽申候」と明るく展望を述べている。さらには、甚三郎が戸惑ったアメリカの風俗、例えば、テーブルマナーや石鹼で体を洗うことも茶化しながら紹介している。前日の手紙と打って変わって明るい文面には、本当は辛いが遠く離れた母親に心配をかけたくないという母への優しさが投影されているように思えてならない。

甚三郎は同地にあるポリテクニック・インスティテュート(現ニューヨーク大学技術工科大学)でも学んだ。当時の日本人留学生がそうであったように、あるいはそれ以上に学問に打ち込み、睡眠もほとんど取らなかったようだ。そのためか、同年11月頃から、精神に変調を来すようになってしまった。異国の生活は、祖国への思いを強くさせ、時に強烈な孤独感を誘起する。少しでも多くのことを学んで義塾の発展や一国の独立に貢献しようという使命感、福澤の期待に応えなければいけないという責任感、家族への思い、そういったものが折り重なっての発病であろう。

甚三郎の発病を知った昌邁は、費用は高くても最良の治療を受けさせたいと願い、当時アメリカ随一といわれたフィラデルフィアの精神病院に入院させた。しかし、すでに身体は著しく衰弱し、回復の見込みもなかった。そして明治6年1月29日、甚三郎は帰らぬ人となった。享年27。若すぎる死であった。

福澤の悲しみ

甚三郎の訃報は4月2日に東京に達し、知らせを受けた福澤は湯治中の箱根から急ぎ帰京した。福澤の深い悲しみは随所に見られ、例えば中津の島津復生(ふくせい)に宛てた手紙では、「生涯の一親友」である甚三郎が帰国した際にはともに諸事を成そうと楽しみにしていたのに、それが叶わなくなった、「天命とは乍申(もうしながら)、何分にも自から慰る方便無御座候」と、遣る瀬ない気持ちを吐露している。甚三郎の死を悼んで脱稿した「小幡仁三郎君記念碑詩稿」には、「嗚呼(ああ)、君を思えば君のために君の死を悲しみ、我学問の道を思えば道のために君なきを歎じ、天下を思えば天下のために君を失うを患う」と綴っている。

福澤はその後も、折に触れて甚三郎のことを語っている。前掲の戊辰戦争の際の逸話は、明治15(1882)年3月に時事新報に載った後、福澤全集緒言にも掲載された。明治29年11月に「慶應義塾の目的」を演説した際には、見習うべき塾員の筆頭に甚三郎を挙げている。明治33年に『修身要領』を執筆した時にも、甚三郎が生きてくれていたら良き相談相手になったのにと、嘆いたという。

福澤が晩年までその死を惜しみ続けた甚三郎。福澤が大切にした「独立」「気品」「智徳」を体現する稀有な存在であった。その甚三郎が学んだここニューヨークで、その足跡を大切に伝えていきたいと思う。

※福澤の手紙は『福澤諭吉全集』所収のものを、甚三郎の手紙は西澤直子「小幡甚三郎のアメリカ留学」(『近代日本研究』14巻)所収のものを引用・現代語訳した。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

福澤諭吉をめぐる人々

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