登場者プロフィール
井上 毅(いのうえ たけし)
明石市立天文科学館館長名古屋大学大学院理学研究科大気水圏科学専攻修了。1997年明石市立天文科学館学芸員、2017年より現職。山口大学時間学研究所客員教授。著書に『星空をつくる機械』。
井上 毅(いのうえ たけし)
明石市立天文科学館館長名古屋大学大学院理学研究科大気水圏科学専攻修了。1997年明石市立天文科学館学芸員、2017年より現職。山口大学時間学研究所客員教授。著書に『星空をつくる機械』。
五藤 信隆(ごとう のぶたか)
その他 : 株式会社五藤光学研究所代表取締役理工学部 卒業1989年慶應義塾大学理工学部機械工学科卒業。1926年創業のプラネタリウムメーカー代表として、国内外にて数多くのプラネタリウム製造を手掛ける。
五藤 信隆(ごとう のぶたか)
その他 : 株式会社五藤光学研究所代表取締役理工学部 卒業1989年慶應義塾大学理工学部機械工学科卒業。1926年創業のプラネタリウムメーカー代表として、国内外にて数多くのプラネタリウム製造を手掛ける。
松本 直記(まつもと なおき)
一貫教育校 高等学校教諭1997年横浜国立大学大学院教育学研究科修士課程修了。専門は地学教育。慶應義塾高校プラネタリウムを理科教育に活用。著書に『はじめて学ぶ大学教養地学』。
松本 直記(まつもと なおき)
一貫教育校 高等学校教諭1997年横浜国立大学大学院教育学研究科修士課程修了。専門は地学教育。慶應義塾高校プラネタリウムを理科教育に活用。著書に『はじめて学ぶ大学教養地学』。
プラネタリウム100年を迎えて
2023年は、ドイツ博物館でのツァイス社製プラネタリウム試験公開から100年という節目の年でした。この3年間、国内外の各地で記念イベントが行われ、5月24日には井上さんが館長を務める明石市立天文科学館でフィナーレイベントが行われますね。ドイツ博物館ではいつからプラネタリウムの一般公開が始まったのでしょうか。
1925年5月7日です。この日はドイツ博物館創設者で、"地上に星空を展示する"アイデアを発案した土木技術者オスカル・フォン・ミラー(1855-1934)の誕生日でした。プラネタリウムがドイツ博物館新館で一般公開されたのはミラーの70歳の誕生日でした。
プラネタリウム発案者の誕生日を公開日としたのですね。
その日のミラーはとてもテンションが高かったそうです。
井上さんのご著書『星空をつくる機械──プラネタリウム100年史』は、プラネタリウムの歴史を知る上でとても貴重な資料ですね。
本を書くためにいろいろ調べました。おかげで面白いこぼれ話にもたくさん出合えましたよ。
五藤光学研究所にもプラネタリウムの歴史にくわしい社員がいます。彼も日本はもとより世界中のプラネタリウムについて熱心に調べています。
児玉光義さんですね。私もとてもお世話になりました。五藤光学研究所に何度も通い、たくさんお話を聞かせてもらいました。中でも創業者の五藤齊三(せいぞう)(1891-1982)さんのエピソードが熱かった! 齊三さんは五藤さんの曾祖父にあたる方ですね。
そうです。五藤家は望遠鏡の製造販売を家業としていました。曾祖父はもともと日本光学工業(現ニコン)で技術者として働いており、ドイツ人技師のもとでレンズ、天体望遠鏡の技術を習得しました。
国立天文台がまだなかった時代、帝国大学附属東京天文台の望遠鏡等の観測装置はほとんどが舶来品か、日本光学工業製の高価な製品でした。そうした中で、曾祖父は「天文教育を広めるために安価で質の良い装置が必要だ」と考え、望遠鏡を作り始めました。五藤光学研究所が最初に作った天体望遠鏡は口径が1インチ(2.5センチ)のものです。
曾祖父は朝日新聞社と皆既日食の共同観測を行っています。自社の望遠鏡を使って北海道の興部(おこっぺ)で観測したそうです。
北海道での観測というと、1936年ですね。
この時の観測の成果はすぐに米国『アマチュア・アストロノミー』誌に掲載されました。
国産プラネタリウム誕生前夜
1948年に行われた礼文島での全環皆既日食の観測では、米国の観測隊が観測装置を持ち込むにはあまりにも大がかりになるからと、日本側に協力を呼びかけたそうですね。日本で作った機械はそのまま日本に残される約束でしたが、五藤光学製の装置がとても高性能だったため、米国の観測隊が持ち帰りました。五藤光学研究所の名が米国内で知られるようになった出来事でした。
当時の記録写真がすべて当社に残っています。
五藤齊三さんが天文の世界に入っていく話は日本のプラネタリウムにとって前史にあたる部分です。五藤光学研究所は2026年に創業100年を迎えるのですよね。
そのとおりです。会社の歴史を今、一生懸命活字にしています。
私が「齊三さん、熱い!」と思ったのは、天文に目覚めたきっかけがハレー彗星だったことです。
最近では1986年に、ハレー彗星が日本に最接近し各地で観測されましたが、曾祖父が見たのはその前のハレー彗星でした。
1910年のことです。当時は地球が彗星の尾を経過するほど接近し、世界中が大騒ぎになりました。齊三さんは19歳の時にトイレの窓からハレー彗星が空に長大な尾を引いている様子を見て驚き、天文に目覚めたという絵に描いたようなエピソードがあります。
私よりくわしい(笑)。曾祖父が書いた『天文夜話』によると、海外のいろいろな場所に視察に行き、北京天文館で見たプラネタリウムの機械に感動したそうです。そして「天文教育にはこういう機械が必要だ」と感じ、プラネタリウムの国産化を目指し始めました。
「モリソン型」の先見性
しかし、反対もあったようです。帰国後に天文学を研究していた国立大学の先生方に相談したところ、「やめたほうがいい」と言われています。頑固だった曾祖父はそれでも作るんだと、1950年代に製造に着手し、見本市にテスト機を出品しました。
1959年の「東京見本市」ですね。齊三さんがこの時に発表したのはM - 1型と呼ばれる装置でした。
ちなみに、1925年にドイツ博物館で一般公開されたプラネタリウムは、ドイツの空しか映せない機械だったのです。その後登場した世界中の星を映し出せる機械は、北半球と南半球2つの恒星球を持つ"ダンベル型"、通称「ツァイス型」と呼ばれる投影機でした。
ダンベル型は世界中に広がりますが、第二次世界大戦でドイツが敗戦国となったことでツァイス社はプラネタリウムを生産できない状況になります。その一方で、スプートニクが打ち上がり、宇宙への関心は高まっていきました。
国産プラネタリウムの機運が高まったのはそうした中でのことです。五藤光学研究所が1959年に発表したM - 1型は、「モリソン型」と呼ばれる形です。現代のプラネタリウムに通じる設計に、私は齊三さんの大変な先見の明を感じます。
モリソン型はカリフォルニア科学アカデミーが開発した装置ですが、曾祖父が独自にこの形に辿り着いたのは、恒星球を映す重い球体が両極に分かれると駆動が大変だからです。重いものは中心に集める、という発想でこの形になりました。
ツァイスII型に代表される最初期はダンベル型が主流でしたね。
ミノルタ(現コニカミノルタ)はダンベル型を採用し、五藤光学はモリソン型を採用しました。このモリソン型はかなり古いタイプの装置も残っており、現役で活躍しているものもあります。
惑星はその名のごとく不思議な動きをしますが、プラネタリウムの装置は惑星ごとに異なるパラメータの機構を搭載し、それぞれの動きを再現できるようになっています。
昔の機械は惑星の動きを歯車の数と歯車の角度で再現していました。今や骨董品かもしれませんが。
今の仕組みは違うのですか?
今はすべてコンピュータで計算して動かせる機械が出てきています。これにともない、機械もどんどん小型化しています。
曾祖父・五藤齊三
五藤さんの知る齊三さんはどんな方だったのでしょうか。
うちは大家族でしたので、曾祖父は僕が高校生まで一緒に住んでいました。小学生の頃、曾祖父と家の中を散歩するのが僕の役目だったんです。いろいろな話を聞かせてくれましたよ。
我が家は戦中期に戦艦等に使うレンズを作ったり磨いたりしていたので、戻ってきたものが戦後も家の地下に大量に残っていました。たぶん不良在庫なのですが、実にさまざまな形状のガラスが置かれていました。曾祖父は「これは○○のレンズだ」と言ってそれらを一つひとつ説明してくれるんです。
歴史的な場面ですね。
そういう環境で育ったので、小学1年生の時には「お前も星のことを勉強せえ」と言われ、1957年に開館した渋谷東急の天文博物館五島プラネタリウムに連れて行かれていました。毎週日曜日8時からの子ども向けプログラムに通いました。
英才教育ですね。
曾祖父が亡くなったのは僕が慶應高校1年生だった時です。よく覚えていますが、修学旅行先の北海道に到着したその日でした。急いで東京に戻りましたよ。
それが1983年。3年後にハレー彗星が観測されるのをもう一度見たいと仰っていた、と齊三さんの奥様からお聞きしました。
コメットハンター関勉さん
かつて住んでいた家は屋上に天文台があり、新しく開発した望遠鏡ができ上がると星の見え方をテストしていました。レンズや望遠鏡関係の技術者がうちによく寝泊まりしていて、曾祖父にダメ出しされていました。
コメットハンターとして知られる関勉さんが泊まり込んでいたこともあります。曾祖父は「この人は有名な彗星を発見する方だぞ」と教えてくれて、関さんも小学生の僕に色紙を書いてくれたのですが、そこには「忍耐努力」とありました。まさに新彗星を発見するというのはその一言に尽きます。
齊三さんと関さんはどのようなご関係だったのでしょう。
関さんは高知のご出身で、五藤家のルーツも高知にあり、同郷ということで曾祖父は関さんをかわいがっていたそうです。交流のきっかけとなったのは、関さんが1965年に池谷・関彗星を自作の望遠鏡で発見した時、曾祖父が「探求心のあるアマチュア天文家がいる」と言って60センチの天体望遠鏡を寄贈したことです。
この時に贈られた天体望遠鏡は、高知県立芸西天文学習館内の芸西天文台で使われていましたね。
関さんはその天体望遠鏡を使い、その後も多くの彗星や小惑星を発見しました。その星のいくつかに曾祖父や曾祖母、父の名前を付けてくださいました。昨年は関さんが発見し、まだ名前が付いていない最後の星に私の名前も付けていただきました。
実は、明石市立天文科学館のオリジナルキャラクター「軌道星隊シゴセンジャー」の名前も、関さんが発見された小惑星の一つに命名していただきました。関さんは観測者としても偉大ですが、天文の文化を育てようという思いがとても強いですよね。そして高知への思い入れも強い。
そうですね。1950年に高知で南国博(南国高知産業大博覧会)が開催された時に、関さんがご友人とともに作ったプラネタリウムが展示されています。
ドリルで5000個近いピンホールをあけたという鋳物の装置ですね。
そうです。
大変な作業だったのに、高知県は星がきれいでプラネタリウムが普及しなかったと関さんご自身が書かれています。ジョークだろうと思って安芸市立歴史民俗資料館の職員の方に訊いたところ、どうやら本当らしい。
高知は太平洋岸がほとんど南斜面なので、高いところにのぼると素晴らしい星夜が見られるのです。
なるほど。たしかに室戸岬の夜空は素晴らしかったです。
慶應高校のプラネタリウム
今日はせっかくだからと、慶應高校にある五藤光学研究所製のプラネタリウムを前にお話ししています。1973年に作られたGS-8-S型ですが、普段は授業等でどのように活用されていますか?
3年生に必修科目の地学基礎があるので、授業では日周運動や緯度による変化、天体の位置の表し方等の話をしています。"惑星の不思議な動き"もここで再現して説明するのですが、プラネタリウムが素晴らしいのは、平面で説明してもわからないことが即座に伝わるところです。天球が回ると、場所の違いや、時間ごと季節ごとの違いが簡単に伝わります。
プラネタリウムを一番使っているのは地学研究会の生徒たちですね。自分たちで番組を作り、自ら操作して上映しています。私も上映前にチェックし、間違いがあれば指摘したりしています。自分たちで操作したり議論したりしている様子は生き生きとしています。
そういう環境があるのは素晴らしいですね。プラネタリウム室はちょうど1クラスが入るくらいの大きさでしょうか。よいサイズ感です。
70席あります。最近のドームは全天映像を上映するために傾斜のある空間が増えていますが、この部屋は同心円で床がフラットです。
傾斜が付いているのは映画館と同じで、皆が同じ方向に集中できるようにするための仕組みなのです。同心円は星空を学ぶために考えられた座席配置で、昔のプラネタリウムはこれが主流でした。この空間はほっとします(笑)。
地学研究会では時々、他の高校の天文部をこの部屋に招いてプラネタリウム交流会を開いています。それぞれに番組を作り上映し合うのですが、地学研究会の生徒が操作卓の使い方を指導することもあります。
いいですね。明石市立天文科学館でも、高校生が実際にプラネタリウムを解説する取り組みを行っています。やはり皆、喋るほうが楽しいらしくとても盛り上がります。
横浜の「はまぎんこども科学館」で行われていた高校生による「青春☆プラネタリウム」も人気でした。各校の生徒たちが実際に番組を上映する企画で、以前、地学研究会も参加させてもらいました。
プラネタリウムのある学校
かつては国内各地にプラネタリウムのある学校がありましたが、今はだいぶ減っているのでしょうか。
そうかもしれません。明石に近い神戸女学院中学部・高等学部には五藤光学研究所製のE-5型があります。今では珍しいピンホール式ですが、まだまだ現役です。
ピンホール式はかつてたくさん作られたので今も残っていれば結構な数になるかもしれません。交換用の電球が見つからないのが難点ですが。
ピンホール式が多く作られた時代があったのですね。
安価に作れる利点があるのです。
慶應高校のプラネタリウムは一般的なレンズ投影式で、装置の内部に光源や原板、レンズが入っており、レンズを使って光を集光し明るい像を映す仕組みです。ピンホール式は球体に穴をあけ、その大きさで1等星、2等星、3等星を区別します。シンプルな作りである分、星のシャープさはレンズ投影式に劣りますが。
天文普及家として知られる金子功さん(1918-2009)が1950年代に発明した「金子式ピンホール」が、神戸北高校に現役で残っています。導入に関わられた方によると、本当は五藤光学研究所製を買いたかったとか。予算の都合でピンホール式が導入された学校は多かったのかもしれません。
実感を形にする技術
慶應高校のプラネタリウムは年2回メンテナンスしており、50年以上経った今もまだまだ現役です。
光学式の投影機は触ったらこう動くという、ダイレクトな感じがいいですよね。
実は最近、ドームの真ん中に光学式投影機を置かず、ビデオプロジェクターだけで投射する施設も増えてきています。また、自発光式のLEDスクリーンは、解像度が高く鮮明ですが、高価になります。米国では数千億円かけて自発光のスフィア(球体式ドーム)も作られています。
一方で、自発光式はスクリーンの光が乱反射する難点もある。巨大なテレビを見ている感じに近く、ドーム内が明るいのです。夜空で星を見ている感じにはならない。
人間の視覚は暗がりの中でもわずかな階調の差を感じ取れるほど繊細です。投影型プラネタリウムのある場所はこれから貴重な空間になっていくのでしょうか。
人間の目のすごさは私たちも日々実感しています。プラネタリウムメーカーとしては、常にリアリティのある星空を目指しており、人間の目がすごいからこそ私たちもここまでやらなきゃいかんという気持ちで開発を続けているのですが。
星図をリアルに近づけるためにはどのような試行錯誤があるのですか。
夜空を見上げてもはっきりとは見えないけれど、「目がそれを見ている」と感じるものがあります。そういう微妙な差は日本の夜空だと感じとりにくいのですが、私の経験ではハワイの山の上やチリなどに行くとわかります。真っ暗なドームの中の「なんとなく感じられる黒の濃淡」程度の違いも、プラネタリウムの開発メンバーは表現しようと格闘しています。
実際の感覚をどのように生かすか、というのは大切ですよね。昨年、ベルリンでついに最初の投影機となったツァイスI型を見ることができました。意外だったのは投影された太陽と月がすごく小さかったことです。
地上から見える寸法に忠実に作られているからなのですが、それでは物足りないんです。今のプラネタリウムは太陽や月を少し大きく映していますよね。
相当大きいと思います。
でもそのほうが心象風景としてはしっくりくる。こうした科学的な裏付けと人間の感覚との間でせめぎ合う工夫が、プラネタリウム開発の醍醐味なのでしょうね。
プラネタリウムはスペクトルのデータや測定コードに合わせれば作れると思いがちですが、実際に映すとどうも違う。この違いは、人がそれぞれに持っている実際の体験があるし、一般の人とベテランとでも感じ方が違います。
天の川の作り込みが特に難しいのです。皆が「自分の中の天の川」を持っており、社内でも侃侃諤諤。方向性がなかなか決まりません。
天の川はどのようなことが議論になりますか?
場所ごとに見え方が違います。日本でも山間部に行くと天の川が見えますが、この見え方は周りの雰囲気との同化の仕方と相俟って印象がさまざまです。その「印象」を皆で方向づけていく時に議論になりますね。
プラネタリウムは歴史的な発明
そもそも天体の動きをドームで表現するという発想が天才的です。実際の夜空を見てもドームには見えないのに、星の動きは弧を描いているように見えるわけですから。
天球の概念は古代ギリシア時代に成立したとされますが、星空をプラネタリウムのようなものに見立て、天体がその中を動くという理解の仕方には、大変な知識の裏付けを感じます。それを体験できるプラネタリウムは重要な装置です。
それほど大きな発明だったのですね。
天球のおかげで人間は宇宙を理解できるようになったわけですから。"天球ベリーマッチ"と言いたいですよね。
良い言葉をいただきました(笑)。
それはともかく(笑)、プラネタリウムの発明の重要な点は、星を映す機械であることとドームであることだと思うのです。
シカゴのアドラー・プラネタリウムには、1913年に作られたアトウッド・プラネタリウムが展示されていますが、これは巨大な球体の中に人間が入り、球体に穿たれた穴からの光で天体の動きを見るという仕組みでした。球体そのものが回転して日周の動きがわかるようになっており、現代のプラネタリウムの原形とも言えますが、当初は人気を博したものの、投影式プラネタリウムの登場であっという間に人気がなくなりました。現在は天文学の歴史的な技術と認められ、整備された後に展示されることとなりました。
ところで現在開催中の大阪・関西万博では、紀元2世紀に作られたとされるファルネーゼの天球儀(アトラス)がイタリア館で展示されていますね。これははるか昔、球体の外側に天体を描いたものです。
約2000年前に球体の外側に描いていたものを、球体の中から眺める発想に転換したのですからすごいことですよね。
さらに球体内部の中央に星を映す機械を置くことで、球体ではなく装置を回すだけで天体の動きが表現できるという、このブレイクスルーもまたすごい。
井上さんは早速万博でファルネーゼのアトラスをご覧になったそうですね。
一生に一度は見たいと思っていましたのですぐに行きました。ファルネーゼの天球が天文学の発展にともなって現代のプラネタリウムとなり、それが今、日本の津々浦々に広まっているのは本当に素晴らしいことです。
この歴史にはもちろん天文学の大衆化に貢献された五藤齊三さんがいます。各地のプラネタリウムを訪れると、齊三さんの願いが実現しているのを実感します。
熟睡できるプラネタリウム
今やプラネタリウムは星空を鑑賞するだけの道具ではなくなっていますよね。
どんどん多様化しています。
最近はカップル向けにヒーリングの番組を上映している施設もあり、お客さんも映画館に行く感覚で訪れます。マタニティの方に音楽を聴きながら星を見てもらうイベントもあれば、アカデミックな解説を聞ける専門的な企画もある。井上さんが手がけられた「熟睡プラ寝たリウム」は素晴らしいと思いました。
プラネタリウムは本当によく眠れるようです。
真っ暗な空間でリクライニングシートにもたれると眠くなる、という声はたくさん聞きます。明石市立天文科学館の企画はそれを逆手に取った、「どうぞ寝てください」という趣向ですね。
「熟睡プラ寝たリウム」は毎回反響が大きく、パジャマを着てくるやる気満々な方もいます。こっちも本気で寝かせよう、という気持ちになりますよね(笑)。
この第1回は十数年前。私が解説の中で「普段は話せないような込み入った話をしますので、きっと皆さんは退屈で寝てしまうはず」とあえて前置きしてみたことに遡ります。この時に「話が面白くて眠れなかった」という方もいれば、「本当によく眠れた」という方もいました。
やってみてわかったのは、眠るかどうかは結局、主役であるお客さんが決めるということです。プラネタリウムには専門的な話を聞きたいという需要もあるし、寝ているお客さんも会場の雰囲気づくりには貢献している。眠らずに聞いた人にも「徹夜した」という満足感もあるようです(笑)。
リラックス効果の需要があったのですね。この企画は全国に広まりました。
年々増えて今では毎年70カ所で行われています。都会の明るいところで生活している人間にとって、真っ暗な空間で星を見てまどろむのは貴重な時間なのでしょう。プラネタリウムは人工的な空間のようで、実はとても自然な場所である気がします。
では、どれくらいリラックスできるのか調べようということで、お客さんに協力してもらい、大学の先生と共同で上映前後の脈拍を測ってみました。予想どおり、リラックスできる効果が確認できたのですが、私も被験者として解説する前後で測定してもらったところ、非常に疲れているという結果が出ました。一生懸命しゃべっていたのでしょうね(笑)。
あるプラネタリウムでは園児の子たちが賑やかにしてもOKなイベントが行われました。プラネタリウムのような場所は普通静かにしなくてはならないのですが、この時は「どうぞ騒いでください」と。
明石でもベビープラネタリウムをやっていて、赤ちゃんたちはいくらでも泣いてよいことになっています。このイベントは小さい子がいることでプラネタリウムにはなかなか行けない若いご夫婦の評判がよく、私たちもこういう場所があってよかったと思って帰ってもらえるような上映メニューを考えました。そこで出会った人たち同士で交流も生まれたりして、ベビープラネタリウムの後は毎回とても良い雰囲気です。
明石市立天文科学館の震災復興
明石市立天文科学館は充実した施設が有名ですね。全国からたくさんのお客さんが集まってくると思いますが、もともと明石を通っている135度子午線の関連施設としてオープンしたのですよね。プラネタリウムも最初からあったのでしょうか。
子午線標識は戦前から立っており、プラネタリウムも1960年のオープン時からあります。阪神淡路大震災の震源が建物の直下にあり、建物がほぼ崩壊したのですが、プラネタリウムは奇跡的に無事でした。
私が科学館に入ったのは震災から2年後の1997年。当時はまだ工事休館中でしたが、プラネタリウムの装置は動かさなければさび付いてしまうので、電気を灯して動かす作業を先輩がずっとやっていました。
1998年のリニューアルオープンが私のプラネタリウム解説者デビューでした。超満員のお客さんの期待感にあふれかえる中でした。
大変なプレッシャーだったでしょう。
緊張のあまりに手が震え、日が沈む途中で誤ってスイッチを押し、地平上のだいぶ上で太陽を消してしまったのを鮮明に覚えています。参加してくださった皆さんにとっては待ち望んでいた瞬間であり、終わった後に割れんばかりの拍手が起こりました。
こうした施設は、震災直後は役に立つ場面は少ないのですが、復興の段階では大きな心の支えになるのを実感しました。皆さんがプラネタリウムの星の光を復興の象徴と受けとめてくれているのを感じました。
仙台市天文台でも東日本大震災の翌年にプラネタリウム番組「星空とともに」が制作されました。今でも3月11日になると全国のプラネタリウムで上映されています。
プラネタリウムは平和な状態だからこそ鑑賞できるものですが、何かあった時には前に向かっていく大きな力にもなる場所ですね。
プラネタリウムを支える人々
プラネタリウムは今、学校では実際の操作を通して生きた知識を学べますし、公共の施設でも番組の上映を通して天体への理解が深められる。井上さんのように解説者が自ら操作して情報を伝える施設もたくさんあり、実に多様化していますね。中には、この人の解説が聞きたくて行くというリピーターの方も大勢いるのではないでしょうか。
そういう方々に支えられています。
解説者それぞれに味があるのもプラネタリウムの楽しみですね。仙台市天文台ではこの4月に、50年間解説を担当されてきた高橋博子さんの最後の上映が行われました。
私も駆けつけました。高橋さんは仙台市天文台が現在の場所に移る前、仙台市内の西公園にあった頃から長年解説を担当されてきた方です。
この日は日本中からファンが集まりましたね。
仙台市天文台も素晴らしい歴史があります。初代台長を務めた加藤愛雄さんと2代目を務めた小坂由須人さんの影響は大きく、小坂さんは東北地方の天文家にとって先生のような存在でしょう。私も今、明石市立天文科学館館長として小坂さんの偉大さを感じています。
小坂さんが台長になるまであれほどオープンな天文台はありませんでした。若い人たちに「機械にもっと触りなさい」と呼びかけ、プラネタリウムを"鑑賞する場所"から"使う場所"に変えてしまいました。
仙台市天文台の7代目台長を務め、現在は名誉台長の土佐誠さんも、小坂さんに誘われて天文学の道に入った一人です。土佐さんも天文台が現在の場所に移転してからずっと「トワイライトサロン」という講演を続けています。通算で800回を超えるほど長い間続けておられます。
プラネタリウム大国日本
仙台市は高校生の合宿も受け入れていますね。以前は国立天文台に宿泊でき、教育用の50センチ天体望遠鏡で高校生が観測・研究を行っていました。その後、仙台市天文台が引き継ぎ、大学院生が指導しながら、仙台市天文台の望遠鏡を使って泊まり込みで発表資料を作る、といった取り組みが続けられています。
「君天(君が天文学者になる3日間・4日間)」ですね。
今は「もし天(もし君が杜の都で天文学者になったら)」という名前になっています。イベントの運営は本当に大変だと思います。天文台職員の方々の情熱を感じます。
こうした活動の甲斐あってか、宇宙や天文を志す若い人たちは増えているように感じます。
慶應高校にも宇宙関係や天文に関わる仕事をしている卒業生が大勢います。最近同窓会誌で特集を組むために調べたところ、「こんなにいるのか」とびっくりしました。
若い人たちの間で天文への関心が高まっているのは、はやぶさブームも大きいかもしれません。天文と宇宙開発の両方に興味をもつ子ども向けに、各地で体験イベントが行われています。プラネタリウムの入館者数も増えているのではないですか?
国内の総計では数百万人以上の来館者があります。プラネタリウム100周年の記念イベントも日本プラネタリウム協議会が呼びかけ、この2年ほどの間に各地で公認企画が行われました。その参加者だけでも100万人を超えています。
すごい人数ですね。日本はプラネタリウム密度が世界一とも言われます。
施設数は米国のほうが多いのですが、単位面積当たりの密度では日本が一番です。ちなみに米国は、州ごとに大きな科学施設があるのですが、アクセスが大変なので、ほとんどの高校やカレッジがプラネタリウムを持っています。米国にプラネタリウムが多いのはそういう事情もあります。
プラネタリウムで宇宙飛行訓練
全国のカールツァイス・プラネタリウムを巡るスタンプラリーなんて企画もありましたよね。
プラネタリウム生誕90周年を迎えた2013年に、「全国カールツァイス、プラネタリウム巡り」を開催しました。明石市立天文科学館を含む国内のカールツァイス社製プラネタリウム7施設9機をすべて巡ろうという企画でした。
現役で活躍しているカールツァイス社製の装置は今、国内にどれくらいありますか。
古い機械で現役なのは明石だけですね。大阪、渋谷にあったものは引退しました。旭川市や高松市、名古屋市、宗像市には、新しい機械が設置されています。
レンズ投影式は天体の動きがメカニカルに再現されていますからね。文化財としても貴重でしょう。
プラネタリウムの装置は無駄がなく、見た目の美しさがあります。明石にも機械を見るために来られる方がおられます。
最近の機械はどんどん小型化していますが、明石の装置はとりわけシンボリックに空間の中心を占領していて、大きさにも圧倒されます。
実はツァイス巡りイベントの後、国内の珍しいプラネタリウムを「プラ『レア』リウム」と呼び、「全国プラ『レア』リウム33箇所巡り」というイベントもやっています。北海道から沖縄までの施設を3年間で巡る企画で、50人の方が踏破しました。イベント期間の終盤には、当時国立天文台副台長だった渡部潤一先生もご夫婦でいらして、「全部回ってきたよ」と。
さすがの行動力ですね。
天文学や宇宙開発の分野は、プラネタリウムに特別な思いを持っている方が大勢います。最近もプラネタリウム100周年にちなんだオンラインの国際イベントが開かれた際に、日本から渡部先生と、はやぶさ開発者のJAXAの吉川真先生、宇宙飛行士の山崎直子さんがメッセージを寄せてくださいました。
山崎さんは、NASAでは宇宙飛行士の訓練に、プラネタリウムを使うという、面白い話をしてくれました。宇宙船が航行中にシステムが壊れると、宇宙飛行士は窓から星を見て宇宙船の向きを把握するのだとか。山崎さんはその訓練が楽しかったと言うのですが、実は彼女が乗ったスペースシャトルは宇宙ステーションにドッキングする前に、本当にシステムが故障したらしい。
プラネタリウムでの訓練がこの時役に立ったということで、ご本人は良い思い出になっていると言うのですが、すごい話だなと思いました。
スペースシャトルも壊れるのですね。
そんな山崎さんも松戸のプラネタリウムで育ちました。プラネタリウムは本当にいろいろな広がりがあります。子どもたちが天文学に触れる最初の場所として、私たちも一層可能性を探求していきたいと思います。
(2025年5月19日、慶應義塾高等学校プラネタリウム室にて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。