登場者プロフィール
河合 望(かわい のぞむ)
筑波大学人文社会系教授早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、米国ジョンズ・ホプキンス大学大学院にてPh.D.を取得。35年以上にわたり、現地での発掘調査に従事。専門はエジプト学、考古学。
河合 望(かわい のぞむ)
筑波大学人文社会系教授早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、米国ジョンズ・ホプキンス大学大学院にてPh.D.を取得。35年以上にわたり、現地での発掘調査に従事。専門はエジプト学、考古学。
田澤 恵子(たざわ けいこ)
その他 : 公益財団法人古代オリエント博物館研究部部長研究所・センター 言語文化研究所講師(非常勤)英国リヴァプール大学大学院にてMA、Ph.D.を取得。専門は古代エジプトの宗教と神話。
田澤 恵子(たざわ けいこ)
その他 : 公益財団法人古代オリエント博物館研究部部長研究所・センター 言語文化研究所講師(非常勤)英国リヴァプール大学大学院にてMA、Ph.D.を取得。専門は古代エジプトの宗教と神話。
山花 京子(やまはな きょうこ)
その他 : 東海大学文化社会学部教授文学部 講師(非常勤)シカゴ大学人文学部MA、東海大学論文博士(文学)。専門は古代エジプト考古学。特に美術工芸史やガラス質物質を専門とする。
山花 京子(やまはな きょうこ)
その他 : 東海大学文化社会学部教授文学部 講師(非常勤)シカゴ大学人文学部MA、東海大学論文博士(文学)。専門は古代エジプト考古学。特に美術工芸史やガラス質物質を専門とする。
2025/06/25
古代エジプト文化との出会い
今年はツタンカーメンのマスクが1925年に発見されてから100年という記念すべき年ということもあり、今日は楽しくお話しができればと思います。山花さんはいつからエジプトにご関心が?
16歳の時にアメリカに行ったことが1つのきっかけです。現地の学校へ通ったのですが、当時はまったく英語が話せなかったので、補習クラスに入れられたんです。そこで、図書館の中で何か1冊だけ好きな本を選んで、その感想を書きなさいという課題があって。その時、最初にパッと目に入ったのがツタンカーメンの本だったんです。
そこからエジプトに興味を持たれたのですね。
その時は関心はありましたが、のめり込むほどでもなかったんです。ただ、しばらくしてオハイオ州立大学のサマーコースを受講することになりました。すると西洋史のコースの中に「アクティウムの海戦」というタイトルのものがあって。それはツタンカーメンとは関係はないのですが、クレオパトラとマーク・アントニーとオクタビアヌスの三者の最後の決定的な海戦だったんですね。
そのコースの西洋史の先生が、何千年も前の話なのに、まるで昨日のことのようにお話をする。非常に話術が巧みで、それで一挙にクレオパトラの時代、古代エジプトに引き込まれたんです。
まさに運命の出会いだったのですね。
それから日本に戻ってくる前に、シカゴで大学院生活を送りました。その時は、クレオパトラの研究に携わっている専門家が周りにはいなかったんですが、やはりエジプトに関わることをやりたいなと思って、古代エジプトの研究を始め、現在に至ります。今は考古学、中でもガラスなどの美術工芸のほうに重点を置いた研究をしています。
私は古代エジプトと出会ったのは小学1年生の時です。当時、NHKの「未来への遺産」というドキュメンタリー番組で、ピラミッドやツタンカーメンなどのエジプトの特集があって、それを見たことが1つのきっかけでした。
また、私はヒーロー番組も好きで、ウルトラマンや仮面ライダー、ジャイアントロボなども見ていたのですが、ツタンカーメンも私にはヒーローに見えたんですかね。ジャイアントロボって、もう顔がツタンカーメンじゃないですか(笑)。
そっくりですよね。
これ、いったい何なんだろうって。僕は子どもだから勘違いして、古代文明にヒーローがいたんじゃないか。そう思って興味を持ちました。
ヒーローへの思いが、古代エジプトに繋がったのですね。
その後、たまたま家の近くの本屋さんで、講談社の青い鳥文庫『ツタンカーメン王のひみつ』という本を父親に買ってもらったんです。すごくはまってしまって、何回も読み返しました。
ちょうどその頃、私の恩師となる吉村作治先生がテレビに出始めて。日本テレビの木曜スペシャルで10分の1の大きさのピラミッドを作るというのをシリーズで毎週やっていたんです。それもくぎ付けになって、友達と石にロープを結び付けて引っ張るまねをしたり。そういうバカなことをやっていた少年が、そのまま成長が止まって、ずっとエジプトを追いかけ続けた結果、こうなったという感じです(笑)。
お2人の話を聞いて、私も自分の記憶を探っていたのですが、1つ、きっかけとなったのは小学校6年生の時に流行っていた旺文社の『ハイトップ』という参考書です。そこの古代エジプトに関するページに出てきたのがクフ王のピラミッドで、それを見た瞬間に「これだ!」と思ったのが、エジプトに興味を持ったきっかけです。
ピラミッドがきっかけだったんですね。
でも、そこに行くまでの前段階があるんです。小学校の図書館に「あなたの知らない死後の世界」というコーナーがあって、心霊写真の本などを置いていたんです。そこから「人の想い」というものに興味を持ち、それが6年生の時に花開いた感じです。
人の想いというものに、強い興味があったということですか。
別にネガティブな意味ではなくて、この世に想いを残すとか、誰かを良くも悪くも思う気持ちって何だろうという疑問がずっとあったんです。そんな時、『ハイトップ』でクフ王のピラミッドを見て、人の想いが凝縮したものと感じたんです。それで一気にエジプトに惹かれるようになりました。
私の専門はエジプトの神話と宗教になるのですが、授業でも学生たちに話すのはエジプト人のアイデンティティについてなんです。エジプトの神話には、様々な要素が詰まっていて、メソポタミアや、日本と似たものも含まれている。そうして比較してみると、エジプト人のアイデンティティや、彼らが自分たちをどう思っていたのか、ということがわかってくる。
それにエジプトには工芸品や遺跡・遺物、建築物などの資料が数多く残っているんです。そこに込められている彼らの想いを解き明かしたい、それが今の自分のモチベーションになっていますね。
古代エジプト文化の醍醐味
田澤さんのお話にあったように、古代エジプト文明の魅力として資料が膨大にある点が挙げられます。だから、文字を読むことによって、当時の人々はどのように世界を見たのか、ということがわかる。
エジプト学の場合は、考古学をやる人も文字の習得が必修なんです。他の地域だと、文字を研究する人と物質文化を研究する人は分かれてしまっていることが多い。
エジプト学はその辺り、重複している部分が多いですよね。
エジプトには壁画がたくさんあるのですが、壁面に描かれている文字と図像は互いに補い合って意味を伝える役割を持っていて、彼らの世界観や精神性を理解するためにも、文字がわかっていないといけない。
文字を知らずに、ただ普通の考古学のやり方でやっていたら、意味がわからなくなってしまう。
当時の人々の意図を読み取れないですよね。
そうそう。そこが魅力というか面白みだと思います。
西アジアの研究に携わっている方で、現地に行かない方もおられます。カルチャースクールをやってる知り合いの先生が生徒さんに「先生、何回ぐらい現地に行ってらっしゃるんですか」と聞かれたそうなのですが、「困っちゃったの。私1回も行ったことないんだもん」と言っていたのが印象的で。そういう方は割と多いようです。
だけどエジプトは行かないとわからない。
現地に行くことは本当に重要ですよね。
そうです。エジプトは工芸品の形、遺跡の形、図像の形、すべてが文字なんです。そして、すべてに隠れた記憶がある。だからそれを知るには、やっぱり現地に行って、どんな場所なのか。こういうところで古代人たちはいったい何を考えたのかと、考える必要があるんです。
ツタンカーメンとはどんな王だったのか?
今でこそ有名になりましたが、ツタンカーメンはかなり特殊な王様ですよね。
彼はエジプトの新王国時代、古代エジプト文明の中で最も繁栄した時代の王です。お父さんがアクエンアテンといって、それまでエジプトでは八百万(やおよろず)の神々を信仰していたのを新たな太陽神、アテン神のみを崇拝する一神教へと宗教改革をした王として知られています。
ただ、あくまで王権としては一柱の神だけを信じるということで、庶民は従来の神々を崇拝していたので、完全な一神教とは言えないのですが。
ツタンカーメンは、そういう革命的なことをやったお父さんの後で現れたファラオ(王)ですよね。
ただ、そのこともあって、ツタンカーメンとアクエンアテンの名前は王名表から消されてしまったんです。王の継承順では、ツタンカーメンの祖父に当たるアメンヘテプ3世、次に父のアクエンアテン、そしてツタンカーメン、その後を継いだのがホルエムヘブとなります。
しかし、ツタンカーメンの約110年後に王位に就いた、ラムセス2世時代の王名表ではアメンヘテプ3世からホルエムヘブの間の王名が消されてしまっているんです。そのためツタンカーメンも、長らく無名の王様だったんです。
記録から抹殺されてしまったんですよね。
ただ、ツタンカーメンの名前を記した遺物は19世紀、20世紀の発掘で見つかっていました。例えば指輪のカルトゥーシュ(王名枠)内にはツタンカーメンの名があって、王名表にはないけれど、そういう王がいた、ということはわかっていたんです。
王墓が見つかってからですよね、有名になったのは。
王墓が見つかったことで、一番有名なファラオになってしまった。今ではツタンカーメンを取り巻く関係者についても、色々とわかってきています。
ツタンカーメンにまつわる謎
ツタンカーメンの死因は色々と言われていますよね。血液の病気になったとか。
マラリアにかかっていたんじゃないかとも言われています。ただあの当時、マラリアは普通にかかるので珍しくないんですよ。
ミイラから内反足があったことはわかっていますが、あれは遺伝ですよね。
遺伝ですね。最近は、チャリオット(戦車)に乗って落ちたのではないかと。それで足の傷が化膿して、状態が悪くなってしまったんじゃないかとも言われていますよね。
あと、ミイラの心臓がなかったんでしたっけ。
そうなんですよ。普通は残すんですが。
特に王家なら厳格なしきたりに従ってミイラを作っているはずなので、間違って取ってしまったということはあり得ないですよね。
ただ、亡くなったのが19歳と早かったじゃないですか。だから、それで急いでしまったのかなと。そのあたりはどうなのでしょうか。
ツタンカーメンの墓の平面図を見ると、どうやらお墓も彼のために作られたものではないのではないかと。というのも、墓は明らかに拡張された跡があるんです。
つまり、元々は別の貴族のために用意されたものをツタンカーメンの埋葬にあわせて改造したと考えるほうがしっくりきます。
急死だったからこそ、お墓も突貫工事になった。
すごく急いで作ったというのはわかっていて、壁画にたくさん斑点が残っていたんです。これは彩色した時、乾き切る前に壁を封鎖してしまったため、湿度がものすごく高くなったから斑点のようなカビが発生したと言われています。
お風呂と同じですよね。水分があるうちに蓋をしてしまったせいで、カビが生えてしまった。
だから、ツタンカーメンもそうですが、王のお墓は時期によっては閉められて観光客が入れないようにしてあります。観光客の呼気や汗で中が湿気ってしまって、カビが生えてしまったり、バクテリアが繁殖してしまうからです。
こんなふうに急いでいたから、ミイラの制作も慌ただしくなってしまった可能性もあります。心臓も急いでいたせいで、間違えて取ってしまったのかもしれない。でもそれはあり得ないでしょう。
なぜ心臓を残すかというと、当時のエジプト人は頭じゃなくて、心臓がものを考えたり、言葉を言わせたりしていると考えていたからなんです。今の私たちは体が動くのも、脳が全部司っていると知っていますが、エジプト人は心臓が司っていると考えていたので、残さなくちゃいけなかった。
それがないというのは、大いなる謎ですよね。
ハワード・カーターの功績
ツタンカーメンを語る上で、発見者であるハワード・カーターの話は欠かせないですよね。
もちろんです。ツタンカーメンに関しては、小さな遺物などで、その存在は知られていましたが、ちょうどカーターが王家の谷にやって来た頃、セオドア・デイビスというアメリカの実業家が発掘権を持っていたので入れなかったんです。
ただ、第一次世界大戦がちょうど始まる頃、お金が尽きてきたこともあり、デイビスは王家の谷は掘り尽くされたと言って去っていったんです。
デイビスの掘ったお墓に、先程お話ししたホルエムヘブ王のお墓があるのです。デイビスはこの墓の発掘報告書と一緒に、ツタンカーメンの墓の報告書を合冊した『ホルエムヘブとツタンカーメンの墓』という本を出版します。
この本の中で彼が言及したツタンカーメンの墓というのは、王の遺物の他に、彼の側近であるアイの物も入っている、それはとても小さな、墓とは言えないような竪穴だったんです。
でも、カーターの考えは違っていた。
はい。王墓から少し離れた所にツタンカーメンのミイラを制作した道具や、葬式に使われた物が埋納された竪穴、専門用語でエンバーミング・カッシェといいますが、それが見つかる。
つまりちゃんと葬儀の証拠が見つかったんだから、もっと立派な墓があって当然だろうと、彼は考えたんですね。そして出資者のカーナボン卿からいただける資金が底を尽きる寸前、目を付けたのがラムセス6世の墓だったんです。
本当に奇跡的なタイミングですよね。
ええ。ラムセス6世の墓の前には職人たちが休憩をしていた小屋があったのですが、まさか墓の上に小屋を建てるなんてありえないと、その下の空間は見逃されていた。けれどカーターはそこにこそツタンカーメンの墓があると思った。そして王墓を見つけたのです。
本当によく見つけましたよね。元々、彼は考古学者ではなかったんですよね。
彼は画家だったんです。お父さんが画家で、お父さんから絵の描き方を習い、たまたまリヴァプール大学のパーシー・ニューベリー教授に声を掛けられて、17歳の時にエジプトに連れて行ってもらった。
当時は、今のような写真技術が発達しているわけではないので、模写をする専門の画工を連れて行くんです。エジプトを調査すると壁画をはじめ、色々な遺物が出てくるので、それをきれいに記録することがすごく重要だったんです。
画家でもあり、記録係でもあった。
カーターの記録はものすごく精密です。私たちは発掘現場で、どこに何があって、どんな形状をしているかというのを必ずフィールドノートに残すのですが、私には絶対に描けないなと思うぐらい精密な図面を描くんです。あれは驚きます。
本当に精密ですよね。
考古学のトレーニングだけやっていても絶対に無理です。画家としての目を持って描いている。それだけではなく、全部を写真にも記録するし、1つ1つ取り上げて丹念にメモを残してくれたおかげで、今、私たちがすごくたくさんの遺物を研究できるようになっています。
魅惑のツタンカーメンマスク
ツタンカーメン自体もミステリアスな存在ですが、彼のマスクもまた謎が多いですよね。
そうですね。特にマスクに使用されているガラスに関してはものすごく謎が多いんです。エジプトにガラスが初めて来たのは、ツタンカーメンより6代前ぐらいの王の時で、それまでガラスは西アジア、メソポタミア周辺にはあっても、エジプトにはなかったんです。
ガラスについてエジプトは後進国だったので、どうやって作っていいかわからない。ただ、エジプトは金を産出する国ですから、他の地域に金を輸出して、それと引き換えにガラスを得ていた。
それだけガラスが重要だったんですね。
黄金のマスクというのは、エジプトの歴史の中でいくつかあるんですが、その中でもツタンカーメンのマスクの工芸は最も水準が高いんです。
作り方は鍛金といって、金を叩いて延ばしているのですが、厚みは1.5から3ミリありました。今日流通している10グラムの純金のインゴットの厚みが約1.8ミリですから、比較してイメージできますね。その分厚い金の板の上に色々な装飾を施しているんです。
ガラスは頭巾の部分や、襟飾りなどに使用されているのですが、科学分析をしたところ、青色着色剤を添加したガラスとされています。
マスク1つ作るのに、様々な技術が結集しているんですね。
そうなんです。あと、顔の部分と他の部分で金の純度が違うんです。それも、どうやら表面だけ違うんですよ。顔の部分は18.4から23.2金と純度が一様ではなく、頭巾の部分は23.5金、つまりほぼ純金だということです。
今、映像などで見るマスクは非常にきれいですが、発見当初は大変だったんです。黄金のマスクはミイラに付けられていたのですが、その外側には110キロぐらいの純金の棺があって、マスクと棺の間には黒色の樹脂が固まっていたのです。
カーターがそれをメスみたいな物を使って一生懸命きれいに取り除き、それがトータルでバケツ2杯分あったと。
気が遠くなる作業ですよね。あと元々マスクが発見された時についていた大きなネックレスや王笏(おうしゃく)などは現在、取れてしまっています。
だから、今見るマスクと、発掘された当時のマスクでは、見た時の印象が大分違います。発掘当時のマスクは王があの世に旅立つために必要なすべての持ち物を身に着けていましたが、現在のマスクは王としての象徴的な飾りが取り去られています。
20世紀に作られたアイコンみたいな感じですよね。発掘されて展示されると、本来の文脈から切り離されて、それが新たなイメージとして一人歩きしてしまって、人々の中では黄金のマスク=ツタンカーメンとなってしまう。
そうですよね。一度、イメージが定着してしまうとなかなか変わらない。
それから、ツタンカーメンのマスクは内側から見ると構造がよくわかるんです。表と裏の部分をちょうど真ん中で継いでいる構造をしています。ロウ付けというのですが、金と金を付ける時に若干銅を混ぜて熔着するんです。他の時代にも黄金のマスクはありますが、それらは1枚の金板から顔と頭の前面部分を叩き出しただけです。だからツタンカーメンのマスクは古代エジプト史上最も手の込んだ金工芸だと思います。
本当に複雑な作りですよね。
制作工程についてですが、まず金の板からマスクの前と後ろの部分を叩き出し、そしてロウ付けをして熔着します。その後、表面の装飾を施すのですが、現代でも作り方がよくわからないのが頭巾の縞模様の青ガラスの部分です。頭巾はとても複雑な形状をしていて、鋭角的に折れ曲がっているところもある。しかし、青ガラスは角の部分で切れることなく繋がっています。
いくつか仮説はありますが、そのうちの1つは黄金のマスクの頭巾の溝部分にガラスの粉を充填して窯に入れ温度を上げる。ただし、ここには問題があって……金の融解温度よりもガラスが熔ける温度の方が高いので、ガラスが完全に熔ける前に金が熔けてしまう。ガラスに混ぜ物をして熔ける温度を低くしても、ドロドロになったガラスは重力に従って垂れてしまって、ガラスは一定の厚みにはならない。しかしマスクの青ガラスは8ミリ前後で均等な厚みです。
もう1つ考えられるのは、マスクと同じサイズで石膏の合わせ鋳型を作り、頭巾の溝部分に粉ガラスを充填して窯に入れ温度を上げて熔かすのですが、ガラスはゆっくりと熱を冷まさないと割れてしまうので、出来上がるまでに数週間はかかります。
そんなにかかるのですか。
石膏型の中のガラスを十分に冷ました後は石膏型を壊して中のガラスを掘り出すのですが、掘り出した後のガラスは表面がザラザラしているので、それをピカピカになるまで研磨して、出来上がったガラス装飾を黄金のマスクに貼り付ける、という説もあります。しかし、これも現実には不可能です。
日本におけるツタンカーメン人気
これだけミステリアスな存在のツタンカーメンですが、日本でも人気は高いですよね。1965年には東京・福岡・京都の3会場でツタンカーメン展が開催されましたが、総入場者数が約293万人。2012年に上野の森美術館、大阪・天保山特設ギャラリーで開催されたツタンカーメン展も約208万人が訪れています。
今、横浜みなとみらいで開催されている「MYSTERY OF TUTANKHAMEN」展(12月25日まで)も人気ですよね。すごく精巧なレプリカが展示されている。あれはよくできていますし、1つ欲しいなと思う(笑)。
日本に限らず世界的に人気ですょね。だって、こんなお墓、普通ありえないですよ。5000点以上の副葬品が収められているだけでも驚きなのに、それがほぼ未盗掘で残っていたなんて。今から3400年ぐらい前のものがですよ。そして、使われている技術もすごく高い。信じられないような物がたくさんあるというのはやっぱり興味が尽きないんじゃないですか。
私はヒエログリフの研究をしていることもあって、漢字文化と実はすごく近いところがあると感じますが、一般の人はあまりにも自分たちの日常から離れ過ぎているから、遠過ぎて知りたくなるんじゃないですか。
また、時代を比較した時、この時期の日本は縄文時代ですから、あの時代にこんな物が作れる人たちってすごいね、という気持ちもあるかもしれないですね。
ある種の敬意もあるかもしれませんね。
メソポタミアだってこれぐらいすごい出土品が出てきたら、たぶん同じぐらい人気だったと思うんです。でも、出てきた物はそうそうないですよね。まず色があまりない。やっぱりエジプトは壁画にしても何にしても華やかですよね。
やっぱり金には惹かれますからね。
人間の本能といいますか。
装身具とか、ジュエリーの類いでも、今、ジュエリーショップに置いてあってもおかしくないぐらいの物じゃないですか。
進化する展示
最新の展示は本当にすごいですよね。見ていて飽きないというか。
それはエジプトだけではなく現在の博物館の潮流もあると思います。一番は包摂性(インクルーシブ)です。
いわゆるユニバーサルミュージアムということで、目や耳が不自由な方にもわかるような展示の仕方を心掛けているんです。
より幅広い方々に楽しんでいただけるようになっていますね。
UDトークというアプリがあるのですが、これを使うと音声を自動で文字起こししてくれたり、書き起こした文字を読み上げてくれたりするんです。非常に便利で、最近はワークショップをやると、UDトークを使って私の解説を聞いて下さる方もいらっしゃいます。
あと、よくあるのは3Dプリンターで遺物のレプリカを作って、目の不自由な方にも触っていただく。先程のマスクの話ではないですが、ここは継ぎ目がないとか、そういうことも触ってわかるようになっているんです。そういった点もすべて再現されているので、今まで発信されていたものをさらに深く実感してもらえるように、今後発信することはできると思います。
より色々な展示を楽しめそうですね。
それに遺物がたくさんあるというのは、大きいんです。ツタンカーメンは特に5000点あるので、エジプトの展示は将来性がものすごくあると思います。
3Dの話でいいますと、私はツタンカーメンのチャリオットを研究させていただく機会があったんです。JICAが技術協力し、今、エジプト・ギザのピラミッド近くに、「大エジプト博物館」という世界最大級の博物館が建設されているのですが(2024年10月16日より、常設展示を一部オープン)、その作業の一環で、チャリオットを研究させてもらえることになったんです。
すごく貴重な体験ですね。
元々は古い考古学博物館から移送するために保存・修復をする診断を行うということだったんです。一応、ツタンカーメンの専門家ということで実物を検証する時に一緒にやらせていただきました。
実はこのチャリオットには不思議なところがあって、ボディーの表面を見ると、何か装着されていた痕跡みたいなものがあったんです。しかも痕だけではなく、穴も空いている部分がある。
気になりますね。
実はチャリオットとともに日よけが見つかっていたのですが、発掘したカーターはツタンカーメンがどこかで休憩するときに日よけとして使われていた物で、チャリオットとは関係ないと言っていました。
ただ、気になったのは、この日よけが真上から見た際に台形だったことです。休憩用の日よけだったら、台形である必要はない。
確かに。
なんでこれは台形なんだと。この謎を証明するべく、オックスフォード大学のグリフィス研究所へ行って、カーターが描いた実際のオリジナルの図面を見せてもらったんです。細かく色々メモ書きしてあり、確認したところ、やはりチャリオットと日よけの関連性は非常に高いということがわかりました。
チャリオットと日よけのボディーを合わせて、上から俯瞰で見た場合、ちょうど穴の位置に、日よけに付いていたポールがはまることがわかりました。これを基にエジプトの考古省の大エジプト博物館の責任者に説明して、ようやくガラスケースの中に入らせていただいて、精査して証明できたんです。
すごいやり取りですね。
ただ、チャリオットの状態の問題もあって、実際に元の場所に付けることはできなかった。
それで何をしたかというと、東大生産技術研究所のコンピュータビジョンを専門とする大石岳史先生のチームにお力を借りて、3Dスキャニングをしたんです。そのデータを基にバーチャル・リアリティーで接合していただきました。その結果、両者がピッタリと付くことがわかりました。つまり、日よけだと思っていたものは、チャリオットの天蓋だったんです。
とても面白いですね。
大エジプト博物館はツタンカーメンのギャラリーがオープンして、本当の開館になるんですが、それは今年の7月3日に予定されていて、中にモニターのある部屋があるので、そこで今回の発見についても上映していただく予定です。ぜひ多くの方に見ていただきたいですね。
古代エジプト文化の魅力をどう伝えるか
展示物もそうですが、やはり当時の物や技術を残す、復元するということは非常に意義があると思うんです。
技術はいったん失われると、取り戻すのは本当に大変なんです。私は自分の研究を通して、失われかけている工芸技術はどうにかして残す。例えば、後継者がいなければ、色々な記録媒体で残しておくことはとても大事なことだと思います。
本当にそうですね。一見、古代エジプトのことは色々なことがわかっているような感じがありますが、実際はまだまだわかっていないんですね。
今、世界遺産の一部のサッカラという遺跡で調査をしているんですが、人工衛星の画像で見ても、ピラミッドや大型のマスタバ(墳墓)など、ごく一部しか調査はされていないんです。日本の学問は他分野もそうですが、戦後のある時期ぐらいまでは、欧米からの色々な情報を我々が吸収して学ぶということだった。でもこれからはそうではなく、自ら現地に行って、あるいは博物館に収蔵品があれば、実際に自分で手を動かしてよく観察して、今まで埋まっていなかったピースを埋めていくことをやりたい。
それは別に自分の関心だけじゃなくて、若い世代の人に古代エジプトの謎は解き明かすことができるんだということを実際に体験してもらいたいんです。
田澤さんと私は同い年で、日本には同世代のエジプト学者はたくさんいるんですが、やっぱりこの面白みを次の世代にも引き継いでもらいたい。現実にはなかなか大変ですが、研究を続けながら、次世代に啓蒙していく。そのきっかけになるような、色々な活動をやっていきたいと思っています。
私は大学ではなくて博物館という機関にいます。今後に向けた博物館人としての目標と、一研究者としての希望があります。
博物館人としては、とにかくエジプト学の裾野を広げたい。博物館でエジプトのワークショップをやると、本当にたくさんのお申し込みがあります。だから、ツタンカーメンじゃなくても、興味を持っている人は大勢いるし、特にヒエログリフは今、色々な教材があって、子どもたちも来てくれます。
ワークショップには大人向けと子ども向けの2種類のコースがあるのですが、今は大人のコースに入れる子どももいるくらいです。
それはすごいですね。
そうやって興味を広げていくうちに、中学生や高校生も来る。その子たちがさらに興味を広げると、必ず「日本でエジプト学をやるのはどこがいいですか」と聞かれるんです。昔、我々が学生だったころはどちらかというと、考古学一辺倒なところがあったのですが、今は様々な分野に精通した方々がいます。
そこに1人でも多くの子どもたちを案内して、後進を育てられたらと思うんです。
新しい世代がいないと、研究も発展しないですしね。
研究者としては、日本文化を身に付けた人間として古代エジプト人の世界を解釈したい。河合さんがおっしゃったように、特に我々が学生だったころは、エジプト学は輸入学問だったんです。
誤解を恐れずに言うと、ある種、クリスチャニティーが入った中での学問になっていた。でも、古代エジプトはクリスチャニティーの前なんですね。だから1つクリスチャニティーのバイアスを外したところで、例えば日本人の八百万の神とか、『古事記』の世界、神道の世界というところから考えてもいいわけです。
確かに。その通りですね。
私が印象に残っているのは、イギリスのリヴァプールに留学した時、ある授業で祖先崇拝のことを扱ったんです。実は古代エジプトにも祖先崇拝があって、デル・エル・メディナという世界最古の社宅とも呼べるような職人たちの集合住宅では玄関を入ると、祖先の胸像を置いていたそうなんです。
そのことをリヴァプールの授業で先生が解説した時、現地の人にとっては新鮮だったらしいんです。イギリス人からすると、人は死んだらそれで終わりという感覚で、もちろん自分の親や兄弟を恋しく思う気持ちはあるけれども、崇拝ではないと。
面白いですね。まさしく文化的な違い。
どちらがいい、悪いではないのですが、輸入学問から脱出して日本人の感覚で解釈をしたい。日本人の感覚で古代エジプト文化を解釈してみたいなというのが研究者としての目標です。
今の環境なら、それも可能かもしれませんね。昔は本当に手探りで、独学でやるしかなかったので。
私もヒエログリフについてのスタートは独学でした。昔はヒエログリフの授業も誰かが手書きで写したものをみんな使っていたんですが、今だったら、なるべく高解像度の写真を見つけて「これだよ」と見ることができる。本当によい時代だと思います。
今のほうが年齢問わず、むしろ勉強するチャンスが広がります。この座談会がきっかけの1つになってくれると嬉しいですね。
(2025年4月11日、慶應義塾大学三田キャンパス内で収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。