登場者プロフィール
鈴木 俊幸(すずき としゆき)
中央大学文学部教授専門は書籍文化誌。近著『蔦屋重三郎』(平凡社新書、2024)他、江戸の出版文化に関する著書多数。2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では考証・指導を担当。
鈴木 俊幸(すずき としゆき)
中央大学文学部教授専門は書籍文化誌。近著『蔦屋重三郎』(平凡社新書、2024)他、江戸の出版文化に関する著書多数。2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」では考証・指導を担当。
石村 将太(いしむら しょうた)
その他 : チーフプロデューサー環境情報学部 卒業政策・メディア研究科 卒業2000年慶應義塾大学環境情報学部卒業、2002年同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。2002年NHK入局。2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」にチーフプロデューサーとして制作に携わる。
石村 将太(いしむら しょうた)
その他 : チーフプロデューサー環境情報学部 卒業政策・メディア研究科 卒業2000年慶應義塾大学環境情報学部卒業、2002年同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。2002年NHK入局。2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」にチーフプロデューサーとして制作に携わる。
津田 眞弓(つだ まゆみ)
経済学部 教授専門は日本古典文学、近世文学。江戸時代後期の戯作者・山東京山を始め、浮世絵、草双紙等を研究。著書に『山東京山──江戸絵本の匠』(新典社、2005)他。
津田 眞弓(つだ まゆみ)
経済学部 教授専門は日本古典文学、近世文学。江戸時代後期の戯作者・山東京山を始め、浮世絵、草双紙等を研究。著書に『山東京山──江戸絵本の匠』(新典社、2005)他。
2025/01/08
蔦屋重三郎の時代をドラマで描く
1月から江戸時代の出版人、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)(1750~1796、以下、蔦重)を主人公にしたNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」が始まりますね。私は蔦重の時代に活躍した浮世絵師で戯作者の山東京伝(さんとうきょうでん)(1761~1816)の弟・山東京山(さんとうきょうざん)(1769~1858)を研究していますので、江戸の出版人が主人公の大河ドラマが始まると聞いてとても楽しみにしています。
「べらぼう」に登場するかはわかりませんが、その京山は、曲亭馬琴(1767~1848)が「伊波伝毛乃記(いわでものき)」で中傷したことで、これまでドラマなどでは悪役として描かれてきました。
そうですね。
京山は初代蔦重の死後、19世紀初頭に戯作者になりました。おそらくドラマで見るであろう草双紙の「黄表紙」に続く「合巻(ごうかん)」という新しいスタイルが定着した頃です。それから90歳まで生涯現役、第一線で作品を出し続け、合巻最多、最長の作者となりました。兄の京伝のようにスターにはなりませんでしたが、統制を含め、時代に寄りそう作柄なので、私は京山の作品を通して、19世紀最初の半世紀の江戸の出版、特に文芸や浮世絵を追っています。
私は蔦重の専門家ぶっていますが、実は研究はもう30年ぐらい前にやめていたのです。それがまた土俵に上がらされることとなりました。蔦重研究に区切りを付けて以後は蔦重も含め、江戸時代に本がどのように作られ流通し、どのような読者が手に取ったのか、こうしたことの意味や地域性、記録性といった小さなところから江戸の本の文化を捉えようとしてきました。
蔦重の研究者と言えば鈴木さんです。本当にずっと学恩ありがたく、感謝している先生です。今日はとても楽しみにしてきました。
江戸の出版文化は全体が見えてこない難しさがあります。細部にこだわるとリアルな部分が見えてきて、こうしたところが面白いのです。
私はNHKでドラマ制作に携わっており、「べらぼう」にチーフプロデューサーの1人として関わっています。大河ドラマは局内のビッグプロジェクトで、最終回の放送まで足かけ複数年かけて取り組みます。鈴木さんには企画を発表した直後の段階から考証でご協力をいただいています。
実は蔦重が生きた江戸中期はおそらく大河ドラマで初めて取り上げる時代です。戦国時代や幕末に慣れている方にも新鮮な目で見ていただけるのではないかなと期待しています。町人文化が栄えた時代の中枢の部分ですので、市井の人たちの喜怒哀楽もドラマで描ければと。
ドラマを楽しみに待っている1人としてお尋ねしたいのですが、ドラマでは蔦重が死ぬあたりまでの時代を扱うのでしょうか。
まだ台本も途中なので最後がどうなるかというのは私たちもわからないのです。蔦屋重三郎の人生を描こうとしているので、彼の人生史を描くつもりで想定しています。
なぜ今蔦重か?
しかし、どうして蔦重をドラマにする気になったのでしょうか。
これは個人的な見解ですが、2025年は日本のラジオ放送開始から100年という節目でもあります。メディアというものをもう一度考えてみると、蔦重さんも本を出版するだけでなく、広告的な手法をミックスさせ、世の中を明るくした人物でした。そうしたメディア史的な観点からも見ていただくと面白いかもしれません。
戦国時代や幕末ものは主人公以外のエピソードも盛り込めてストーリーにボリュームが出せるのですが、江戸中期は本当に扱ったことがない歴史上の人物も多く、とくに町人は資料も少ないので、新鮮な視点でご覧いただけるのではないかと思います。
大河ドラマの制作発表後に私も取材を受ける機会が増え、「なぜ蔦重か?」とよく訊かれるので困っていました。参考にします(笑)。
蔦重が生きた時代とは、一方で田沼意次が幕政改革を進めた時代でもありました。当時と今の日本の社会は、行き詰まった世の中をどう改革していくか、という点で共通するところもある気がします。
そうですね。たしかに蔦屋重三郎が活躍した田沼時代~寛政の改革の時代は、現代に通じるようなネタが豊富にあると思います。例えば、メディアの変革というか。現在、選挙の報道が、オールドメディアとSNSとの対立かと取り沙汰されているように、今までの常識が変わっていくということを実感しています。
こちらにある近刊『蔦屋重三郎』(平凡社新書)などを拝読すると、蔦重という人がいかに当時、それまでにない新しいメディアの使い方をした人だったかがわかります。
もっとも、黄表紙や狂歌など、蔦重が駆け上がっていく時代の戯作は、本当に楽しそうな本ばかりですが、一方で天明3(1783)年頃には浅間山の噴火のような天変地異や大飢饉が起きた時代でもありました。そこをあえて、笑い飛ばす時代でもありました。
出版統制の影響力とは
田沼意次が失脚し松平定信の寛政の改革になると出版に対する規制や自粛が行われています。岡山大学で近世文学を研究されている山本秀樹氏が以前、寛政改革の出版統制は本当に町触(まちぶ)れされたのかという問題提起をされていました。実態はまだわからない部分があるのですが、少なくとも改革後、2年ほどは様々な版元が自粛したと見えます。戯作者の恋川春町(1744~89)に至ってはそれが死因となったかもしれないので、よほど大きな変革だったのだろうと思います。
私の研究対象の京山がデビューする頃、「文化露寇」、ロシアでは「フォヴォストフ事件」と呼ばれるロシアの蝦夷地襲撃が行われました。1806、7年のことです。この事件を受けて南豊(なんぽう)という講談師が実録体小説の『北海異談』を写本で流通させるのですが、政治向きのことに触れてはいけない禁令に触れ、機密文書も利用していたことで獄門になっています。
寛政から後は、天正時代以降の武将を描いてはいけないとか、華美な本はだめだとか江戸の出版が統制されていったので、蔦屋重三郎が駆け上がる頃の黄表紙などは、みんなが好きなことを書いて楽しむ、本当にキラキラしていた時代だったのだろうなと感じます。
そうですね。寛政期以降は統制が強かったのは事実だと思います。ですが、規制の面ばかりを追いかけると縛りが強かった時代、というバイアスがかかってしまうようにも思うんです。
そうですか?
高校で習った日本史が刷り込まれているところはあると思います。「お触れが出た」と聞くと、厳しい時代だったと思ってしまうけれど、幕府と町人の間であらかじめ調整済みの上で出されている部分もあったと思います。
逆に町のほうから願い出てお触れを出してもらうといったこともあり、協調関係が働いていた。そういう意味では、江戸時代の出版はやはり自由だった気がします。
まあ、黄表紙も、お正月の商品で年に1回出版されるぐらいですからね。
そう。草紙類の出版なんて所詮町人の仕業じゃないですか。幕府が本気で取り締まるのは武家社会のほうだったので「お触れ」と言ってもたかが知れていると思うんです。
確かに、江戸時代の出版はお触れで自粛しても、数年するとまた戻りますね。
たくさんお触れが出ているのもむしろ本気で取り締まっていなかった証拠でしょう。幕府は警察的な機構を持っていなかったわけですから。草紙類の取り締まりはあくまでも“風俗”レベルのことだと思います。
政治体制とはあまり関わりのないところで、「町のことは町でちゃんとやりなさい」というのが町触れの目的だったのだろうと私は見ていますけどね。
風俗って、つまるところ倹約・奢侈の自粛が多い気がします。歌舞伎についてもそうではないですか?
お触れの文言はきついですから。ですが、それも決まりきった言い回しなので仕方がないのです。それもたぶん町役人レベルで発案された町触れですよ。気運に乗じて町をピリッと引き締めたい時に奉行所はそういう文言を使ったのではないかなと思います。
なるほど。
寛政3(1791)年の出版統制で山東京伝も蔦重も科(とが)を受けます。これは前年に、今でいう書店組合にあたる地本(ぢほん)問屋仲間が、風紀を乱す違法出版物を根絶するために自主管理の体制を敷こうとして願書を作った動きと連動しています。奉行所はその本気度を確かめるために引き締めを行った。つまり京伝も蔦重も見せしめだったのです。
それほど蔦屋重三郎が地本問屋の中心的な役割を果たしていたということでしょうか。
そう。一番目立っていたのが、版元の蔦重とその作者の1人だった京伝です。その2人を押さえたことで規制強化の効果は絶大でした。
出版統制は当時、社会の規律を高める上で大事だったのですね。
書物というのは国の背骨を成すものと考えられていたので、それを統括しないことには、学問上いろいろな異説が出てきて困ることになる。そこで統制を厳しくするわけですが、地本は町人社会のものですから基本的にそういうことには関わらないはずでした。
ところがその後、天保の改革(1831〜43年)が行われる時代になると、何だかうるさく言われるようになっていく。
天保の改革では、草双紙でも、子どもと女性の教育のためになる本を作りなさいといったことが沙汰されますね。でも、それもまた4年ほど経つと潮目が戻っていくのですが。
好色本はダメだといっても、あんなものがなくなるはずはないんです(笑)。
全国的な狂歌ブーム
蔦重関連のご著書でも書かれていますが、蔦重の周辺では「狂歌」が一大ブームとなりました。所謂天明狂歌(てんめいきょうか)で、一般に社会風刺や皮肉、滑稽を織り込んだなどと言われますが、私には蔦重らが盛り上げたコミュニティとしての華やかさが印象的です。
このブームは、大田南畝(なんぽ)の「四方(よも)」の号を受け継いだ鹿都部真顔(しかつべのまがお)を中心に、19世紀により大きな輪になります。歴史学の分野でも東北大学の高橋章則氏が、19世紀に狂歌のサークルが全国運動として広まっていく諸相を研究していらっしゃいますが、とても興味深い。文学の分野では、名も無き大量な人々が参加したため、歌の質が低下したと、学問的に人気がない時期ですが。
でも、その19世紀。京山の娘が妾奉公していた長州の殿様─幕末の名君毛利敬親の父親は、狂歌界で一般の人と交わって番付に出たり、判者クラスにも昇格したり、地方の狂歌連とも協働しました。福島県で作られた歌碑に大きく名前が出ていたりもします。幕末のことを考えるとなんて平和だろうと。とにかくその人々の狂歌熱、コミュニティがすごいのです。
狂歌は全国区の文化だったのですね。ドラマを作っていると蔦重の時代にばかり目がいくので江戸の中だけでヒットしたものだと思い込んでいました。
蔦重というと、天明狂歌、黄表紙、歌麿に写楽といった浮世絵が注目を浴びますが、こちらの『蔦屋重三郎』の第3章にある、庶民教化や全国展開に向けた蔦重の動向、とても胸が熱いです。
天明狂歌も優れた歌が多いのですが、津田さんの言うように全国に裾野が広がって、誰もが狂歌を詠む時代が訪れ、各地で狂歌連ができました。これはこれで、私は江戸時代の達成だろうと思うんです。
この動きの背景には、寛政の終わり頃から本を読める人が増えたことが大きいのです。つまり新しいマーケットが地方に誕生した。「江戸の人たちが格好いいことをやっている!」という感じで狂歌は広がっていきました。
そういう文芸が広がる素地にはリテラシーの向上がありますし、生活上のゆとりが生まれたこともあるでしょう。とくに農村部に文化的な底上げが起こったことは本のマーケットにとって大きかったと思います。
なるほど。
そういう読者にとって京山の草双紙はちょうどよかった。とんがった笑いは何もないけれど、安心して読める(笑)。それを受容する層が全国に増えていくことで新しい文化が生まれたのが江戸時代だと思いますよ。
南畝でも松尾芭蕉でもよいのですが、われわれはビッグネームだけで歴史を語ってはいけないと思うんです。むしろ下手くそな作品でも受容する層がいたこと、これこそが文学史を編む肝です。だからこそ誰でも作者になり得るような知の底上げが忽然と起こったと見るべきなのです。
和算、算額の文化もそうですね。お嬢さんたちも一生懸命問題を解いては、額にして神社や仏閣に奉納したりしていました。
蔦重が広げた出版マーケット
全国の農村の人たちが読めるような出版マーケットの拡大は誰が担い手だったのでしょうか。
先鞭を付けたのが蔦重だと私は見ています。寛政の改革によって武家の人たちが皆勉強を始めるようになり、地方でもそれに倣って真面目志向になっていきます。教訓的な本の需要が高まる時代がきます。
そこで蔦重は京伝に教訓的な黄表紙をどんどん作らせました。そういう本はもちろん江戸ではウケない。ですが、蔦重は新たに立ち上がりかけているそのマーケットを耕すべく全国にそれを撒いていきます。
一九も馬琴も天明期のセンスに照らすとやはりつまらない。それでも一九が今も名を残すのはわかりやすかったからです。馬琴に至ってはひたすら堅いだけ。それでも蔦重は彼らを抱えて黄表紙を作らせるんですね。
一九はもう少し評価してあげてほしいです(笑)。
実際、そうなんです(笑)。
弁護するようですが、尾籠でも一九はちゃんとしているんです。なにしろ、文章が書けて、筆耕(版下書き)も絵も描けた。武士だったので相応に知識もあり、様々なオファーを引き受けられる人でした。
そうですね。一九は注文仕事を何でもこなせました。
そう。ですが、彼は吉原で遊びすぎたり、狂歌にのめり込みすぎたりして、経済的な保障として婿養子に入った婚家から追い出されます。その後、筆一本で生計を立てるべくいろいろな本を一生懸命書き、『東海道中膝栗毛』のヒットが生まれました。
その『膝栗毛』も狂歌仲間の支えがあってビッグヒットにつながりました。これにより、今で言う朝ドラの舞台誘致みたいなことがあちこちで起こるんですね。
それは、うちの地域にも弥次さん喜多さんを旅させてくれ、みたいなことですか。
そうです。こういうお題で、この金額を支払うと著名な師匠たちが判定しますというチラシが、地域の狂歌連によって全国的に配布されました。それに対して皆が、本に載りたい、番付に載りたいと応募していた。このシステムはおそらくもともと俳諧や川柳の文化で作られものだと思いますが。
そして弥次さん喜多さんは、おばか(・・・)(笑)な振る舞いをして歩くわけですが、けれど、宿場で必ず何かくだらないことをやっては狂歌で締める。そういう小咄を狂歌で締める構造は、江戸の初期からある仮名草子の『竹斎』や『東海道道中記』などに使われる文学的伝統です。もっと言えば、『奥の細道』『伊勢物語』にも通じる型です。おばかだけど、文学性が保持されています。
いみじくも馬琴が『作者部類』の中で、一九の『膝栗毛』を「村農野嬢」にもわかりやすく滑稽を楽しめると称しています。つまり村の農民やお嬢さんたちが新たな読者として立ち上がってきたことで全国的なヒットになった。これはその20年前では起こりえなかった現象でしょう。それまでのとんがった笑いを江戸だけで享受する閉じた文化が変わっていくのを、仕掛け人だった蔦重は捉えていました。
蔦重の先見の明
蔦重が晩年、松阪に本居宣長を訪ねますが、彼はほとんど江戸から出なかったようなのです。「江戸から動かない人だね」と話していました。実際、ずっと江戸にいた人だったのでしょうか。
本居宣長を訪ねる前に日光に行っているはずですが、確認できるのはその2カ所くらいですね。
そんな人がどうして全国に販売網を獲得する発想ができたのか不思議です。
出版物の動きや流通を見ていて何か感じていたんでしょうかね。その前の時代に京都の版元は流通網を持っていました。それがどこまで広げていたのかわかりませんが、蔦屋重三郎が世に出ていく時代と出版業の拡大期が重なったのではないでしょうか。天明の黄表紙が持っていたとんがった笑いは全国で売れるようなものではなく、そういう面白さが次第に維持できなくなっていったのだと思います。
近世文芸研究の先達が評価をしなかった、寛政改革以降の京伝が書いた、教訓的な黄表紙も秀逸ですよ。とくに絵が良いのです。表現模倣形式と言われる既存の出版物のパロディをこれでもかとやっています。京伝は視覚的に面白く見せる工夫をたくさんしていたのです。
それは今で言うとEテレ的かもしれません。昔からNHKのEテレは結構攻めた番組作りをしていますよね。
そうですね。確かに京伝の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』の艶二郎や『心学早染草(しんがくはやぞめぐざ)』の善玉・悪玉など、面白いですね。
たぶんそれまで黄表紙などで作られたキャラクターとしてヒットした例はあまりないと思うのです。善玉・悪玉の形式はその後、近代まで生き続けることになります。
応用も利きますしね。
そもそも黄表紙があれほど自由な書き方をしていたのは出版統制のあり方が大きいのでしょうか。当初は草双紙や、舞台で上演された浄瑠璃の本は、検閲からお目こぼしにあっていたとも聞きます。
これは現代にSNSが炎上するのとも似ていますが、人気が出て注目が集まるとかえって縛りが強くなるのは昔からそうだったのだなという感じがします。
草双紙には商いにおける障壁がないんです。同じものを出しても海賊版だと言って咎め立てするほどのものではなかったと思います。
そもそも立派な「物之本」と性質が違うということでしょうか。
そうですね。一過性のものでしたから。黄表紙が出るのも1年のうち正月だけ。そんなものを真似しただの何だのと言うのはナンセンスだったのでしょうね。
むしろ皆でわざわざ同じものを作っていたという感じがして面白いですよね。作り手同士もよく知った間柄だったりするわけですから。
江戸時代の出版ビジネス
19世紀になると、草双紙では2時間ドラマみたいな物語が流行り始めます。所謂敵討ちものです。そういうストーリーは誰にでも面白く読めるものでした。
ストーリーを追えば理解できる作品は書くのも楽なんだよね。かつて大映や東映が「プログラムピクチャー」という長編映画を量産していましたが、これらも物語のパターンは同じでしょう。観ているほうも安心できる。一九や京山が人気を博したのは安心できるものが書けたからでしょう。
そうですね。
ドリフターズ的と言ってもよいかな(笑)。
いや、今思えばドリフターズはとがっていましたよ(笑)。それで、草双紙の分量も、黄表紙時代から合巻となって増えた。そして、出版部数も。天明期の頃の黄表紙や草双紙の出版部数は250部ぐらいだったと言われますが。
そうですね。200部売れればトントンだったようです。
それが文政の終わり頃、1830年代に入る頃は、京山の談では、馬琴・柳亭・京山は5000部は当たり前、当たれば7000部になったと。草双紙の発行部数の桁が変わっていきます。
そう。読本より合巻の方がよっぽど儲かると馬琴もぼやいていますね。
京山が越後の鈴木牧之(ぼくし)に送った手紙によれば、「合巻の作は金子(きんす)膝の上に在るがごとく」だったそうです。即座に原稿料を引き換えられ、手紙1本で版元から金も調達できたとか。京山は忙しすぎて、兄のように戯作に集中できなかったのですが。
ですが、当時読む人がいっぱいいたわけでしょう。
そうです。京山はもともと丹波篠山(たんばささやま)藩の老公に仕える近習(きんじゅう)だったので、大名家時代の学びで茶道や書道、篆刻(てんこく)でも専門家として活動していましたし、お兄さんのタレントショップ「京伝店」の立て直しにも忙しかった。娘が奉公すれば、狂歌好きの殿様に呼ばれ……。たぶん一番気合いが入ったのは、天保改革直後の数年です。草双紙市場にスターがいなくなり、ベテランの彼が支えなくてはならなくなって。
『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』の件で、旗本の柳亭種彦(りゅうていたねひこ)が筆を折らざるを得なくなって死んでしまい、馬琴も目が悪くなって書けなくなっていました。次世代の作者たちが揃うまで、80歳を前に大車輪で仕事をした時代、天保改革の影響と合わせて、興味深いです。
作者が執筆料をとるようになったのは、そのころですね。
作者がちゃんとお金がもらえるようになったのは京伝の時代からとされています。
そうですね。それ以前の本の作者は商売の1つであっても、職業と呼べるほどではありませんでした。
他の仕事との掛け持ちで受けていたということですか?
一九以外はそうですね。
一九は筆でしか食っていけなかったから仕方がない。
そういう事情もあって一九の執筆量は尋常ならざるレベルですよね。ジャンルも多岐に渡っています。
一九の名前は出ておらず、筆耕だけやっている本もあります。たぶんバイトで受けていたのでしょうね(笑)。一九の字は見ればすぐわかりますから。「べらぼう」ではどなたが一九を演じるのか楽しみです。
そうですね。今はまだお伝えできませんが(笑)。
江戸の版元は本屋のことだった
大河ドラマでは平秩東作(へづつとうさく)や、田沼意次の家臣で、松平定信に糾弾されて非業な最期を遂げる土山宗次郎はどうだろう、といったことも個人的に気になっています。東作は蝦夷に行くわ、平賀源内の遺体は始末するわ、土山様の逃亡に加担するわ……。
曲者ですよね。
平秩東作の配役はもう発表されていて、木村了さんが演じます。今後も戯作者や絵師のキャスティングも発表していきます。
西村まさ彦さんが同じ名字の西村屋与八を演じるのも面白い。
そうですね。NHKで以前放映した、『眩(くらら)~北斎の娘~』というドラマでも西村屋を演じています。
今回もそのご縁で?
どうでしょうか。西村屋は蔦重と完全なライバル関係ですよね。
本当はそれほどドラマになるようなバチバチの関係ではなかったのです。大河ドラマでは誇張されて描かれるのかもしれませんが。
今の時代は逆に、そんなバチバチよりも、皆仲良くのほうが、視聴者にウケそうですけどね。
同じ江戸の地本問屋ではありますから、ライバル同士でも底にあるものは一緒だったのではないかと思います。例えば、上方の本屋には負けたくないとか、江戸を盛り上げたいといった志は同じだったのではないかと。
それは西村屋だけでなく、鶴屋喜右衛門にしても、鱗形屋孫兵衛(うろこがたやまごべえ)にしてもそうだったのではないでしょうか。
今の時代は出版と言えば、出版社が本を作り、取次がそれを小売りに運ぶ、という感じで分業体制になっていますが、江戸時代は出版も卸しも小売もすべて本屋がやっていました。このうちのどれが一番大切かというと卸しと小売り、つまり流通なんですね。そのために出版物を作っていたようなものです。
「江戸の版元」と言う場合、現代のイメージに近いのは本屋なんです。本屋は他の本屋から仕入れて、店の在庫を充実させる。互いにそういう協調関係がありました。
地方に出版物を出荷する時には協力し合って同包して送ったり、1社が代表して両替商に為替を組んでもらったりといったことも行われていたようです。だから仲良くしないとやっていけないというのがまず基本にある。
自分の店で出版しているのだから、別の店には置かないでほしいみたいなことはなかったのですか?
ないですね。むしろ相手の邪魔をしないようにいろいろな企画を立てながら、向こうに足りないものを引き受けたりして補完し合っていたように思います。鶴屋と蔦屋は同じ作者に依頼しているけれど、企画の趣向を変えたりしていますし。
それらをお互いの店で仕入れ合ったりすれば、全体的にいい感じの店づくりになるじゃないですか。実際は持ちつ持たれつだったと思いますよ。
流通で言うと「本替(ほんがえ)」のシステムにも触れておきたいです。江戸の本屋には自分の店で作った本と他所の本を等価交換する仕組みがありました。草双紙がいい例で、似たような作りの本が一斉に出ています。
19世紀になると多くの版元で似たような形の本を出版するようになり、本屋もジャンルごとに品揃えをするようになる。出版点数が増えて支払いが煩雑になるのを避けるために実物の本で取引きする、そのために本そのものの形式が統一されていくといったことが起こりました。
普通、他の店の本を仕入れる時には現金で7掛け、8掛けで卸してもらい、それで2割、3割の儲けを得るのが基本でした。本替にどういうメリットがあったかと言うと、基準価格同士で交換し合えたこと。一見損をするように見えるけれども、本の制作費は高くても売値の3割ほどでした。
等価交換できれば、8掛けで仕入れるものが3掛けで仕入れられる。自分の店の品揃えを充実させるために、出版して本替えし店の品揃えを増やしていっていたのです。
なるほど。
草双紙の綴じ分けは、寛文期から寛延期に出版された赤本の頃から5丁(10ページ)が基本とされてきました。これはまさに等価交換を旨とする本替を前提とした本作りです。その作り方が引き継がれていくのですが、刷りが凝ったものが増えてくると等価交換が成り立たなくなっていく。京山の時代になるともめごとになったりします。
江戸の本を再現するのは難しい
本屋の商売はさまざまなことをやっていたので、一口に「版元」と言っても出版物だけで評価するわけにはいかないのです。その本屋はどこに店を構えてどのように商いをやっていたのかという全体を総合して判断しなければいけないのですね。
その上、出版物を作るには本の作者だけでなく、絵師や彫師、摺師の存在も欠かせませんよね。「べらぼう」にも喜多川歌麿や礒田湖龍斎(いそだこりゅうさい)、北尾重政ら多くの絵師が登場します。そういう人々をなくしては蔦重の作品は語れません。
彼らのことはドラマの中でも描いていきますし、本作りのプロセスも見せられたらなと思っています。多くの視聴者の方々は、この時代の本や錦絵がどのように作られるのかを、おそらく詳細に知っている人はあまりいないのでは、という前提に立って、その部分は丁寧に描いていきたいと思っています。
ドラマ制作のために版木を作ったりするのでしょうか。
そうですね。もちろん本作りのプロセスをドラマで毎回すべて再現することは難しいですが、歌麿や写楽も登場しますので(笑)。蔦重が初期に手掛けた錦絵などは実際に再現してみたりしています。
摺物も難しいですが、本はもっと難しいですよね。私も考証でお手伝いしているので、助監督の方からは「表紙の色はこれで正しいか」などとしょっちゅう訊かれていますが、「これでいい」と言えないんだよね(笑)。
実際に当時の色を見ているわけではありませんからね(笑)。
黄表紙や青本などはとくに困りませんか?
困りましたよ。
以前、東京藝術大学にいた頃の大和あすか氏にご協力をお願いし、慶應義塾が所蔵する青本・黄表紙の色を機械で測定していただいたのですが、どのような材料を使っているか、まったくわからなかった。
青本は萌黄(もえぎ)だったろうというのが定説ですが、草双紙の泰斗、木村八重子氏はご著書で、青本の表紙は露草の青だったのではないかと書かれています。植物性の絵の具は退色するので、今でも謎のままです。ドラマでもそのあたりのご苦心があるのだろうと思います。
難しいですよね。ドラマでは考証の先生方のアドバイスをいただきながら作ってはいますが。
なるべく本来に寄せようとはしていますので、津田さんもクレームを寄せないでくださいね(笑)。
私がクレームを言うとしたら、18世紀後半に流行った本多髷(ほんだまげ)が忠実に再現されているかどうかかもしれません(笑)。あの鼠の尻尾みたいな独特のちょんまげ。ドラマ制作にはそういう江戸の風俗を考証する人もおられるのですよね。
そうですね。それぞれの専門の分野の方に考証してもらっています。
江戸時代を扱った時代劇でも前期と後期では風俗がずいぶん違うので、予算の面からも実際には使えないでしょうね。例えば、枕の使い方や髪型も変わるし、着物の幅や帯も全然違います。
元禄時代の風俗を忠実に再現したとしても、視聴者にはおそらくピンと来ないですよね。
大映や松竹がかつて作っていた時代劇、江戸時代の文化や生活習慣が残っていた時代の制作陣が作るものは、やっぱり19世紀風です。
ところで「べらぼう」は登場人物の数で言うと、どれくらいの規模になるのでしょう? 版元だけでなく作者や絵師、彫師、摺師、吉原の花魁や忘八(遊郭の楼主)、幕府側の人間もいるでしょうし、それこそ狂歌師だけでも名だたる人を並べると相当な人数です。
ドラマでは全員はおそらく紹介できないので、やはり蔦重のネットワークをベースに、戯作者や絵師が多く登場するドラマになると思います。すでに発表している配役だけでも60人近い出演者の方が決まっています。物語が中盤から終盤に進むにつれてまた新たな登場人物が出てきます。
「べらぼう」は徳川幕府の政治と町人文化の2つの軸でストーリーを展開していくので、通常の大河に比べても役者さんの人数は割と多めだと思います。本を作っていく過程も専門の方々に助けていただきながら実際に作っているので、そこも見どころの1つとして期待していただければと。
絵師が絵を描くシーンも注目です。何よりエンターテインメントの力で世を変える蔦重の物語に注目してください。
ますます待ち遠しくなりました。放映開始を楽しみにしています。
(2024年11月25日、オンラインにて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。