慶應義塾

忍者とはなんじゃ?

登場者プロフィール

  • 高尾 善希(たかお よしき)

    三重大学人文学部文化学科准教授、同学国際忍者研究センター担当教員

    専門は忍者学、日本近世史。博士(文学)。研究活動の他、マスメディアや各種講座を通じて忍者・忍術研究を広めている。

    高尾 善希(たかお よしき)

    三重大学人文学部文化学科准教授、同学国際忍者研究センター担当教員

    専門は忍者学、日本近世史。博士(文学)。研究活動の他、マスメディアや各種講座を通じて忍者・忍術研究を広めている。

  • 原 淳一郎(はら じゅんいちろう)

    その他 : 山形県立米沢女子短期大学日本史学科教授文学部 卒業

    1998年慶應義塾大学文学部卒業、2006年同大学院後期博士課程修了。博士(史学)。日本近世史(山岳信仰史、寺社参詣史)、旅行史を専門に研究。

    原 淳一郎(はら じゅんいちろう)

    その他 : 山形県立米沢女子短期大学日本史学科教授文学部 卒業

    1998年慶應義塾大学文学部卒業、2006年同大学院後期博士課程修了。博士(史学)。日本近世史(山岳信仰史、寺社参詣史)、旅行史を専門に研究。

  • 凛(りん)

    その他 : 徳川家康と服部半蔵忍者隊メンバー総合政策学部 卒業

    2014年慶應義塾大学総合政策学部卒業、2024年三重大学大学院人文社会科学研究科修士課程修了。専門は近世忍者史研究。忍者として愛知県の観光PRに従事する。

    凛(りん)

    その他 : 徳川家康と服部半蔵忍者隊メンバー総合政策学部 卒業

    2014年慶應義塾大学総合政策学部卒業、2024年三重大学大学院人文社会科学研究科修士課程修了。専門は近世忍者史研究。忍者として愛知県の観光PRに従事する。

2024/10/21

黒装束はフィクション?

高尾

私は三重大学で忍者学の研究をしています。凛さんは昨年度、私の研究室で修士論文を書いて大学院を修了しましたので、いわば指導教員と学生の関係ですが、凛さんは今日、現世によみがえった(・・・・・・・・・)忍者として参加するということで。生まれは1566年でしたっけ?

はっ。永禄9年生まれで今年458歳になり申す。普段は「徳川家康と服部半蔵忍者隊(以下、忍者隊)」の一員として、名古屋城にて活動し、平日はお客人と写し絵(写真のこと)を撮ったり、週末は立ち回り( 殺陣(たて))を交えた忍者ショーなどを行っており申す。

出身大学は慶應義塾大学でござる。……が、これは拙者の器と申すか、肉体が慶應義塾大学卒業ということになり申すな。

高尾

依代(よりしろ)が慶應卒ということですね。三重大学大学院には忍者・忍術学コースがあり、これができたのは2018年です。凛さんはその翌年に入ってこられました。

さよう。その後、5年かけて『鳥取藩御忍(おしのび)の基礎的研究』を題目とし、修士論文を書き申した。おもに鳥取藩を代々支配した池田家の文書「鳥取藩政資料」から、「控帳(ひかえちょう)(家老日記)」、御忍の家の歴史のことについて書かれた「藩士家譜」、御忍ら家臣の名前や禄高も書かれた「御支配帳」などを使いながら、原稿用紙687枚分の論文を毎日書き続け申した。

随分書きましたね。

焦燥に駆られて書いて、気づけばこんな枚数になっておった。というのも、忍者隊の任務は「虚業」と申すか、……例えば、拙者が今着ておるこの黒装束は、歌舞伎や小説などが発展するにつれ広まった、創作としての忍者の姿じゃ。故に、拙者がよみがえった時代に、忍者がこのような恰好をしておったわけではござらん。

これを知った時、拙者は拙者自身を、どのように本物であると証明すればよいのか、わからなくなってしまった。その不安から、史実の忍者を研究し始めたのじゃ。研究によって、拙者が何者であるかを知り、これを証明したいと思ったわけじゃな。

高尾

慶應の総合政策学部にいた時には日本史を専攻していたわけではなかったのですね。

さよう。このような恰好をしておる身でいうのはなんなのじゃが、拙者は歴史に興味がなければ、忍者にも興味がなく……。ただ、忍者が人間であることには興味がござった。これも、拙者が史実の忍者を研究し始めた理由の1つにござる。

高尾

指導教員としてのコメントになりますが、論文を書くにあたり、日本史やくずし字、鳥取藩の基礎的な勉強をしてから執筆を始め、苦節5年かけて書き上げましたよね。学内の賞までもらいました。

学長賞と研究科長賞をいただき申した。「虚像」としての自分が、どうすれば説得力のある忍者になれるのか、拙者は日々悩んでおった。そして、地に足着いた忍者になるためには、研究をし続けることが必要じゃと思い、一から勉強致し申した。

高尾

原さんは宗教史や旅行史がご専門ですが、忍者もまた宗教者に姿を変えて情報探索したという話があります。

私は小学生の頃から日本史の研究者になろうと決めていました。大河ドラマなどの影響もあって戦国時代や幕末、源平の時代が好きで、『水滸伝』や『三国志』といった中国史も大好きでした。『水滸伝』には、凛さんのようにいろいろな特技を持っている人が出てきます。

大学で慶應に入り、何を研究しようかと考え、小さい頃から祖父とよく登っていた神奈川県の大山を調べてみようと思ったのが宗教史や修験道を研究する発端です。大山は神奈川県でも西部に住んでいる人くらいにしか知られていない山ですが、意外にも江戸時代は江戸や関東全域から人が訪れていたことがわかりました。史料も豊富にあり、そこで初めて山岳信仰の研究に入っていった形です。それからは伊勢参りを研究したり、大学に近い東北の山の研究をしたりしています。

身近な存在だった修験者

慶應在学時には修験道の大家の宮家準(ひとし)先生がおられました。修験道は宮家先生の講義と著書で勉強しました。宮家先生は「宗教社会学」という授業で1年間、修験道のことを教えておられたんです。私はそういう研究がしたかったこともあり、すべての講義をとても面白く拝聴しました。

高尾

原さんは米沢におられますが、米沢藩にも忍者やそれに近い活動をしていた藩士がいたのでしょうか。

例えば、伊勢などの有名な寺社では、御師(おし)(特定の寺社に属する神職)が夏頃に「檀家回り」をします。それぞれの檀家を訪ねて御初穂料をもらい、お札を配って「来年うちに参詣に来てくださいね」と約束します。実証は難しいのですが、「檀家回り」は全国を回るのでかなり情報通になります。

これは修験者も同じで、山形県の出羽三山の羽黒修験などは、関東や東北をしょっちゅう回りますから、彼らも情報源だったのではないかと思います。おそらく各地の地理や習俗にも精通していた人たちです。

高尾

忍者がいろいろな宗教者に化けて情報を取ってくるということは文書にも残っていますが、そういう人たちもいろいろな村や町に行き、地域社会からも受け入れられていたのですね。

そうですね。山形県などでも、明治・大正期くらいまでは村に修験者や元修験者が結構いました。家を建てたり、雨乞いをしたり、病人に調伏(ちょうぶく)をしたりと、いろいろな場面で修験者が出てきます。一般人の生活に関わりが深い存在でした。

しかし、明治以降、政策によって修験者は次第にいなくなりました。社会の中で修験者が縁遠い存在になったのは大きな変化だと思います。

現世の者の感覚じゃと、修験道にはどうしても神秘的なイメージなるものがござり申すな。拙者はその道に明るくござりませぬが、修験者とはそもそもどういう存在で、どういうふうに大事にされておったのじゃろうか。

まず、自分のために山の中でさまざまな修行をするんですね。断食や滝行、あるいは山中を走り回ったりといったことです。そういう生活をしているので誰も知らないような道もよく知っていました。

彼らの修行には自分自身を高めるのともう1つ、山の気を自分の体内に取り入れて、それを他の人々にも使うという大きな側面がありました。そういうことをしていたので一般の人々にとって身近な存在だったのです。そんな人がお坊さんや神主さんのように普通に村に住んでいた。村人が病気になった時に呼ばれ、医者のような役回りも果たしました。江戸時代まではこれが普通でした。

故に断食であったり、一生懸命に鍛錬したりしておる者は、人を治すことができると思われておったということでござり申すか。

そうです。いろいろなお祈りをしてくれる存在でした。

昔は悪霊が病気の原因とされていたということは聞き申すが、お祈りを致して効果があったということが史料に出てくるのでござろうか?

そう信じられていた、と言うのがいいですかね。中には多くの信者が付く人もいました。

高尾

米沢には今でもやっている方はいらっしゃるのですか?

はい。米沢では「法印(ほういん)さん」と呼ばれ、家を建てる時のお祓いなどに出張していらっしゃいます。さすがに病気の祈祷まではしませんが、年配の方に聞くと、大正期頃まではそこら中にいたと言います。

修験者のそのような人知を超えた能力は、評判で伝わるのじゃろうか? 何をもってその者が修験の道を歩んでおると認識されるのじゃろう。

難しいですが、それは修行の回数などによると思います。彼らの役割は、今「新新宗教」と呼ばれる宗教がある程度担っていると言えるかもしれません。例えば、宗教者のカリスマ性だったり、弁舌の巧みさだったりですね。祈祷の力は、科学的に言ってしまうと「ない」と判断せざるを得ないんですが。

忍術書でも「吉凶を占う」という表現がよう出てきますな。

高尾

昔の人はそういう宗教的なことで心を安心させていたところはありますね。「九字(くじ)護身法」というのも修験がやります。「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と言ってね。僕も三重大学に就職した時に「九字印(両手を組んで作るハンドサイン)」を覚えました。

確かにやり申すな。

いろいろやり方がありますよね。

実は今、拙者のように、全国各地で忍者がよみがえっておるようなのじゃ。いつも名古屋城に遊びに来てくれるわっぱ(・・・)(子どものこと)がいずこかに遊びに行った時も、そのような忍者に会うたと。普段我らが「これが九字印じゃよ」とやって見せるもんじゃから、忍者は皆九字印ができると思っておったらしく、その忍者ができないのを見て、「もう行かない」と(笑)。

忍者ならできないとまずいというのはありますよね(笑)。

九字印は、今や代表的と申すか、現世でもわりと皆がよう知るものになっておると思い申すが、わっぱがこれを、忍者を見極めるための基準の1つにしておるのも面白い。

高尾

九字護身法は忍術書に出てきます。ですが、村に住んでいる普通の人たちも、自分の身を守るためにどのように印を結んでお守りするのかを書き残しています。だから、忍者や武士だけのものとは限らない。

「忍者」はあたかも1つの分野として存在しているように思われるやもしれぬが、忍者にかかわらず、その時代の者が皆やっておった生活の知恵のようなものがあり、その一部が忍術書にも記されておると。じゃから、超人的な存在と言われる一方で、一般人とつながった実体を伴う像である。その両面を兼ね備えておるのが、忍者の面白いところじゃと思い申す。

大学で忍者・忍術を学ぶ

三重大学大学院の忍者・忍術学コースにはどんな人が入ってくるんですか?

高尾

凛さんのように忍者関係の仕事をしている人もいますし、観光業の人もいます。個人的な興味で忍者学を研究したいという忍者オタクもいます。「忍者文化論特講」や「忍者文化史料論演習」といった講義をするのですが、皆先入観が強いので「一旦忍者を忘れましょう!」と言っていますね。

忍者・忍術学コースではまず、「検地帳」や「名寄帳」、「宗門人別帳」、「年貢割付状」といった古文書を30くらい、1年かけて読みます。くずし字や近世社会の基本的な成り立ちを勉強します。忍術書というものが風俗や民俗のことがよくわかる史料だからです。

今のように簡単に情報が手に入らなかった時代は、人間がわざわざ動いて情報のやりとりをしていました。そういう中では、宗教者や娯楽を媒介にして情報のやりとりをしていました。例えば、情報探索をする時に人を集めなければならない。では、どういう手段で人を集めるか。

「当流奪口忍之巻(とうりゅうだっこうしのびのまき)註」という忍術書では、「浄瑠璃(じょうるり)・小謡(こうたい)」という手法が紹介されています。これは芸能でもって人を集める手法です。他にも「太平記読み」というものもあります。往来で太平記を読むと、人が「なんだ、なんだ?」と寄ってくるので、そこで人を集めるのですね。

私はもともと徳川幕府の伊賀者の史料から忍者学に入ったクチですが、とくに忍者が好きだったわけではありません。忍者が書いた忍術書が社会の中でどのように成り立っていたのかがわかる史料として見ています。

中でも「当流奪口忍之巻註」に「太平記読み」が出てくるのは面白い。太平記読みが出てくるのは割と古い時代で、江戸中期から後期になると違うものになっていきます。「当流奪口」には明暦の大火の記録もあるので、17世紀中頃の成立だろうと考えられています。それなら太平記読みが出てきてもおかしくない。そうして忍術書を生活史の史料として読み直すこともできるんです。

いや、ほんにそれは大事なことじゃと思い申す。現世の皆に親しみやすく、呼び水としての役割を果たしやすいのは、創作としての忍者の姿。しかし、じゃからこそ、実際に生活をしておった一人間である忍者が、どのような存在であったのかも理解する必要があると思い申す。

とくに江戸時代は参勤交代で生活が苦しくなり、鳥取藩の忍者の中にも、具足を貸し出してもらえるよう藩に願い出た者がおり申した。そのような人間臭く、超人的な印象からはちと外れる忍者の姿も理解することで、はじめて「虚像」であるこの黒装束に、本物の忍者としての重みが加わるのじゃと、拙者は考えており申す。

人間らしい忍者の一面

高尾

凛さんが研究対象にした鳥取藩は史料が多く残っていますよね。忍びのことを史料では「御忍(おしのび)」とされていますが、近世初期は「夜盗(やとう)」という役職名でした。家譜類や、上司に当たる御目付の日記が膨大にあって、今おっしゃったような人間的な側面がよく分かる。ドジな忍者も出てきますよね。

さようですな。藩主が風呂に入る時に火の番をする御入湯御供(ごにゅうとうおとも)という職務では、番の間に簀子(すのこ)に火が移ってぼやが出た。しかし、御忍はそれに気づかず、他の者が見つけたことが発覚して、その忍者は藩外追放となり申した。

拙者の研究では、御忍が「御内御用(おうちごよう)」という奥の御用を通じて藩主と関係があったことにも触れておる。御内御用を通じて情報探索などを勤め、藩主から直々にお言葉のご褒美を頂戴したという記録がござり申す。拙者が調べた中で最も出世したと思われる御忍は、倅の世代になった時に10年の江戸詰(えどづめ)を勤めきれず、没落していくといったこともあり申した。そういう人間模様が知れることも研究の面白さじゃと思い申す。

高尾

江戸時代の忍者は幕府や藩の中で主君のそばに仕えることが多いですね。時々、他の身分や生業の人に扮して情報を取りに行くこともありますが、言ってしまえば普段はガードマンでしょう。

戦闘に関わった記録や史料はあるのでしょうか。

高尾

もともと忍者は情報探索や軍事偵察、それから奇襲作戦ですね。予想もしないような時間と場所から攻撃を仕掛けることもしていました。奇襲の専門家ということは守る専門家でもあるので、陣地や館、城を守る守衛の役割も果たしていました。

忍者が最も活躍した戦国時代はそういう感じでしたが、江戸時代は戦争がなかったので、次第に情報探索と守衛が残り、幕府の御庭番や伊賀者、鳥取藩の御忍はそのような任務をしていました。

ひと言で言うと、忍び働きが専門の足軽です。このような特殊な足軽身分の人たちが忍びと呼ばれ、後に忍者という呼び名になったということです。

忍者の情報探索

情報探索をするには、諸国を練り歩く必要がありますよね。江戸時代は、そのために往来証文が必要でした。そういう文書を作ってもらうための許可が出やすいのは、お参りに行くとか、修行するとか、商人もそうですね。そういう全国を渡り歩いてもおかしくない職業がありました。

おそらく忍者と目されるような人が修験者に化けるのは、隠れみのとして最適だったからです。諸国を回る六十六部(ろくじゅうろくぶ)というお仕事もありました。

高尾

旅をする宗教者の中にはちょっと怪しげな人もいて、いわゆるドロップアウトした人たちですが、忍者はその中に混じっていました。廻国するのに好都合だったのですね。

修験者は修験者で、山林の中で一定期間修行するので山道をよく知っていました。今のように登山道が整備されていないので専門職になり得たのですね。走ること、歩くことに特化して訓練すれば、20キロを1時間で移動することもできました。

高尾

体力的にもそうだし、安全な道を知っているということもありますよね。ちなみに米沢藩に忍者はいなかったのでしょうか。

謙信に関わる軍記物には、「夜盗組」「伏齅(ふしかぎ)」という忍者が出てきますが、実態はよく分かりません。米沢藩の職制にかかわる文書に、「伏嗅組又夜盗組トモ云」と出てきて、大坂冬の陣で結成され、夜に忍んで探索したことは間違いありませんが、その後は火事の火元や祭礼の喧嘩口論を調べたり、便利屋の側面が強く、形骸化したのかもしれません。

高尾

これは忍者の定義の問題になるのですが、所謂(いわゆる)御目付も情報を取りに行くことがありました。御目付はもちろん忍者ではないのですが、忍者学では「情報探索」という概念も研究テーマになります。米沢藩も情報は要らないということはなかったはずなので、そういう役割はいろいろな職に散っているはずなんです。

先ほど夜盗組の名前が出ましたが、文書レベルでは伊達氏や上杉氏の家臣の中にもいたとはされているんです。例えば、宮島誠一郎文書にも「周旋方(しゅうせんがた)」が出てきます。幕末はいろいろな藩で情報収集する者がいたと思うのですが、史料でそれを証明するのは難しい。

中條政恒という安積(あさか)疏水を造った人がいますが、彼らも周旋方としていろいろな藩を訪ねては人と会い、情報を聞いたり、交渉事を担ったりしていました。それは忍びとは違い、顔と顔を突き合わせて情報を取ってくる役目だったようです。こうした役目は江戸の藩邸にも普通にいました。

高尾

なるほど。情報を取るために専任の者を雇うかどうかであって、いろいろな職にある人がそれぞれに情報を取りに行っていたのですね。もちろん、組織である以上は情報を取らないと成り立たないわけですが。

おそらく専門の役目は米沢藩になかったと思います。ですが、米沢藩では宗教者にせよ芸能者にせよ、外から入ってくる者には1泊しか滞在を許さなかったんですよ。

高尾・凛

へえー。

それはもう徹底されていました。該当する職業も法令で細かく定められていました。鉱山を掘る人とか、芸能者とか、「こういう者は1泊までしか許さない」と。それは情報探索対策だったのかもしれません。

高尾

忍者に伝わっていた情報探索の方法を繙くとさまざまな工夫が見えてきます。例えば、敵方の屋敷に忍び込む時は腹痛を装って担ぎ込まれろとか、その土地のなまりを学んでそのとおりに話しかけてみろといったことがいろいろ残されています。

歴史を見る上で大事だと思うのは、ヨーロッパでも日本でも中国でも、政権が最初にやることの1つとして道を造るじゃないですか。これは人馬の移動も大事ですけど、情報伝達を一番大事にしているためですよね。江戸時代で言えば東海道になりますが、宿場町の大きな役目はやはり情報伝達ですよね。

あいまいな忍者という存在

拙者は民俗学に明るいわけではないのじゃが、宮本常一殿の『忘れられた日本人』を読んで、その最初のほうに出てきた話がほんに印象に残っており申す。何でも、村での話し合いは何日もかけて行うとあるのじゃが、その話し合いは「はい、いいえ」で結論を出すのではなく、皆が納得するまでなんとなく話してその場が盛り上がるという。そして、とくに結論付けないまま話題が流れて、次の話題でまた盛り上がってというようなことを繰り返すそうな。

そういう場を設けることで、村の者たち同士の濃密な人間関係を育む。現世ではそういう話し合いの仕方がなくなってきておると思う。じゃが、そういうやり方でしか解決できない問題というのはあると思うんじゃな。

高尾

今の人間関係は、昔に比べるととてもそっけないですからね。

ただ、日本社会で結論を決めないのは、あまり変わっていないんじゃないですかね。最終的には結論を出さなければいけないのかもしれないけれど、とりあえずいろいろな人に話してもらい、皆がひととおり意見を出せば、それでなんとなくまとまるところは日本の文化かなとは思います。

高尾さんが先ほど忍者の概念みたいな話をされましたが、この概念も近世まではいい加減というか、はっきりと白黒付けるものではなかったと思うんです。例えば修験では、真言宗の僧侶でありながら修験者であったり、あるいは他の仕事もしていたりという人はたくさんいます。だから、武士でもあり、忍者的な側面もあり、もしかしたら修験者かもしれないということは結構あったんじゃないでしょうか。

私たちは明治以降の西洋的な学問で白黒はっきり付けることを教わりましたが、そういう曖昧な部分があることは江戸時代までは当たり前だったかもしれません。神主であり、僧侶であり、修験者であるように、はっきりとこれが忍者だ、忍術だと定義付けるほうがむしろ間違いかなと。当時の考え方に寄り添うと、そんなふうにも見えてきます。

高尾

そうですね。実は「忍者」は、高度経済成長期以降に広まった呼び方で、史料上は「忍び」です。一般社会においては、「忍者」と言うと、「フィクション忍者」のイメージに留まっています。歴史的に実在した伊賀者、甲賀者とは直接的には結びつきません。

もちろん、そういう人たちがモデルになって、今もフィクションとして受容されている面もありますが、違うところはだいぶあります。「忍者学」と言う場合も、“忍者”が今の概念なので、研究ではもっと昔の社会の実態に照らして考えなければならないんですよね。

例えば、津藩の初代藩主だった藤堂高虎(とうどうたかとら)は、武将でありながら自分で情報探索していました。彼は「敵方の城の堀の深さを測る」と言って自分で測りに行くんですよ。忍者に任せればいいのにとも思いますが、たぶん石に紐でも付けて堀に落とし、濡れている部分の長さを見たんでしょうね。

それで、言わんこっちゃない、お城から鉄砲を撃たれてひっくり返るんです。心配して付いていった家臣の服部竹助が安全な場所まで抱きかかえて運ぶのですが、そこでパッと目を覚まして照れ隠しに頰を殴ったと言います。それで服部竹助の奥歯が2本折れたと書いてあるんです。

それはさておき、藤堂高虎のような武士でも情報探索はしていた。それも忍者学の1つの研究対象です。

確かに。大事な視点ですな。

高尾

情報対策や忍者の行動は、別に忍者だけが行っていたわけではないので、当時の生活や社会を大きく広げて捉えて見なければいけないんですよね。

忍者×学問=地域創生

三重大学にはどういう経緯で忍者・忍術学コースができたのですか。

高尾

大学の執行部が各教員に「忍者の研究をやらないか」と声を掛けたと聞きました。国立大学の役割の1つに地域貢献大学という枠組みがあり、「三重大学では忍者と海女で盛り上げていきたい」と。そこで最初に、中世史がご専門で宗教史や怨霊の研究もしておられる山田雄司先生に働きかけたそうです。

山田先生を説得するために、伊賀上野の伊賀流忍者博物館が所蔵する古文書を紹介したらしいのです。「では、時間を見つけてやってみます」という感じになり、山田先生の忍者の研究が始まりました。すると、それまで研究書があまりなかったことで研究がどんどん進み、評判が高まっていきました。

そこに国文学の吉丸雄哉先生も加わり、2017年には国際忍者研究センターを設立する計画が持ち上がりました。私はその時に偶然忍者の史料を見つけ、専任教員の公募で今の職に就きました。

これまでの歴史学は、観光のために研究するのはタブーとされてきましたよね。でも、おそらく今後はそうしたことも考えていかなければいけないのでしょうね。

高尾

そうですね。研究が世の中の実利に引っ張られるのは論外でしょう。とは言え、無関係でいいかというとそういうわけでもない。人文系や社会科学系の学問は、フィールドワークや事例研究が研究の質を支えているところもあります。現地に出向いて人の話を聞き、地域の実情を把握する。そういう活動が、今風に言うと地域創生のきっかけになる可能性も含んでいますね。

東北六県の国立大学は人文系の研究職の定員が減り、理系に取って代わられている現状があります。研究の価値が示せないと生き残っていくのが難しくなっています。

高尾

忍者・忍術学コースでは理系の研究者とも一緒に研究しています。忍術書には我々古文書読みにはよく分からないことが書いてあります。例えば食品や火薬、あるいは天気といったことです。そういうことに精通している理系の先生たちと研究できるのは歴史研究にとって大きな利点です。

修験者の研究は人文系の人しかやっていない領域ですが、忍術と同じように天文学や火術、薬草のことも関わってきます。ですが、こういうものはおそらくほとんど研究されていません。

薬草と言うと、各地に伝統薬があります。伊勢・朝熊の「萬金丹」や、木曽の御岳の「百草丸」、奈良の「陀羅尼助丸(だらにすけがん)」などですが、実はこれらの成分はほとんど似ています。こうした薬は交流があったからこそ、薬草の知識が共有されて生まれたものと考えられます。

高尾

あれは何に効くんですか?

すべて胃腸薬です。

高尾

では、漢方的には効く薬なのですね。そういうものの成立を医学と歴史学の両面から研究するのは面白いかもしれませんね。

忍者として、ガチの研究者として

凛さんは今、忍者隊の活動とともに、忍者学の研究も続けておられれるのですか?

さようですな。研究者のデータベースresearchmapも「凛」で載せており申す。

高尾

苗字がないresearchmapは見たことないのですが、つまり凛さんは、こういうペルソナで世の中とつながっているということですよね。学内の修士論文も「凛」として忍者の装束で発表されました。

やはり常(つね)の形(かた)(普段の姿)ではちいと……。

高尾

それで2つも賞をもらえたのだから、三重大学も懐が深いよね。

ほんにそう思い申した。

高尾

国際忍者学会でも「凛」として発表されましたよね。

さようですな。それこそ忍者隊のもう1つの拠点にセントレア(中部国際空港)がござり申して、そこで学会が開かれた際に拙者も「鳥取藩御忍の成立と展開」という題で登壇致し申した。実はその発表直後のプログラムなるものが忍者隊のショーになっており申して……。

高尾

偶然そうなったんですよね。

拙者の発表が終わって演壇をタタタッと降り、その後すぐ舞台に上がって、音楽が鳴ったと思うと忍者ショーが始まる……。わけが分からんのじゃが(笑)。

高尾

新しい研究者の形でしょう(笑)。研究職の一般的なキャリアは学会で発表して、その後、大学などに就職する道があるわけですが、凛さんは観光PRの人がその手段としてガチの研究をしている。今は査読論文を書いているんですよね。

さよう。書いており申す。

高尾

原さんも僕も大学院を出てわりと一般的な研究者のステップを踏んできたけれど、これからはいろいろな人が出てきそうですね。慶應のSFCも人材豊富ですよね。

さようですな。やはりそれだけの向上心と申すか、何かをしたいという気持ちがある者はぎょうさんおると思い申す。

高尾

SFCにもぜひ凛さんを呼んでいただいて、「こういう生き方もある」と伝えてほしいと思いますよ。現世のペルソナから離れて、今は「凛という忍者」として生まれ変わった。近世の忍者がよみがえり、458歳の霊魂が乗り移って新しく生き直そうとしている。人気商売ではあるけれど、いわゆる起業家精神を養うSFCの学生さんにとって生き方の参考になるんじゃないでしょうか。

ブレイクする日本のNINJA

凛さんは、他の地域の忍者の方々とも交流があるのですか。

さようですな。我が隊は忍者隊にござり申すが、現世にはなぜか、各地でよみがえられた武将様方もいらっしゃり申す。例えば肥後国、熊本であれば「熊本城おもてなし武将隊」、我が隊と同じく名古屋城を拠点とする「名古屋おもてなし武将隊」、名古屋城を出てすぐ、金シャチ横丁で活動する「あいち戦国姫隊」や「忍者隠密隊」、そういう全国的な動きがあり申す。我らのようによみがえった武将や忍者が、年に1回、愛知県は大高緑地で「サムライ・ニンジャ フェスティバル」なる催しで一堂に会して、殺陣あり歌あり舞ありの演武を披露致し申す。

そこにはわっぱがよう遊びに来る。忍者が好きなわっぱは多いようで、拙者はよみがえって8年目になり申すが、忍び装束で遊びに来るわっぱがほんに増えた。軽業(アクロバット)を真似したい! と。やはりエンタテインメントなるものとしての忍者になりたいのでしょうな。故に、そういう催しは各地で開催され、増えており申す。おそらく、この10年くらいですかのう。

高尾

新しい観光PRの形ですよね。先駆けとなったのは「名古屋おもてなし武将隊」の大ブレイクで、その後、他の地域でも結成されました。

東北には「奥州・仙台 おもてなし集団 伊達武将隊」がござり申すな。

米沢にも「やまがた愛の武将隊」があります。

高尾

忍者はインバウンドにも人気ですよね。

異国の者はほんに「忍者、忍者」と言ってくれ申すな。名古屋城は今ほとんどのお客人が異国の者であるが故に、「本物の忍者か?」とよく訊かれ申す。「さよう。写し絵を撮るか?」と言って、一緒に写ると割と喜んでくれ申すな。

高尾

ステレオタイプかもしれないけれども、日本のことを知ってもらう良いきっかけにはなりますね。

さようですな。我が隊も異国に遠征に行っており申して、英国やタイ王国、韓国などに出陣して忍者ショーも致し申した。どこで知って来るのか分からないほど、皆、「忍者」という言葉を知っており申す。

一大推しカルチャーへ

高尾

こうした観光の新しい動きを、三重大学の国際忍者研究センターでも追いかけています。例えば、名古屋おもてなし武将隊を追いかけるファンは「家臣」と呼ばれます。その界隈で交わされる俗語ですね。忍者隊のファンは「お客人」?

いや、決まってはおらぬ。自然発生的なもの故に……。お客人から「忍者隊を推しておる我々を何と称せばよいか」と訊かれることはあり申す。共同体意識があるからこそ言ってくれるとは思うのじゃが……。

愛知の岡崎には「グレート家康公『葵』武将隊」がござり申して、そこではファンを「譜代(ふだい)」と呼んでおり申す。しかし、我ら忍者は近世においては下級武士であったが故に、お客人を「家臣」や「譜代」と名付けるのもどうも気が引ける。我らは武将様方が通る時、かしずかねばならぬような下級身分。我らを推してくれるのはうれしいのじゃが、やはりこのような身分で、客人の呼び名を決めるのはちいと……。

高尾

そういうスラングが飛び交うほど、忍者は今“推し活文化”に取り込まれつつあるということですよね。最初に観光PR隊ができた当時は画期的でしたが、お客さんが訪れ、“推し活文化”が生まれ、スラングが飛び交うようになり、海外の方も入ってきた、という流れですね。

さようですな。ありがたくも昔から拙者を推してくれていたわっぱが、今はもう高校生になり申した。その者も歴史に興味がなかったそうじゃが、最近は拙者がやっておる学問的なことも気になってくれておるみたいで、「忍者に興味が出てきたから勉学したい」と言ってくれ申す。

高尾

凛さんにはすごく熱いファンが多くて、YouTubeを見て彼女を知り、新幹線に乗って名古屋まで会いに来た人もいるんです。

ほんに皆催しなどがあるたび、「高速の鉄籠」(新幹線のこと)に乗って、全国各地からよう来てくれる。

高尾

観光するというよりも、観光PRをしている武将隊や忍者隊の人たちに会いに来るんですよ。

われらが遠征すると、遠征先にも別の地域の者がわざわざやってくることがあり申すな。

高尾

なかなか想像がつかないかもしれませんが、ほぼアイドルなんですよ。ファンの規模も大きい。だから、新しい動きが起こっているんでしょうね。観光PRをしている武将隊と忍者隊そのものが観光資源になってしまっているという部分もあるということですね。

(2024年8月14日、オンラインにて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。